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第一話 「くじら侍と青碕伯之進」
斬り込み
しおりを挟む夜の海を月の光だけを頼りに進んでいるというのに、漕ぎ手には迷いがない。
まるで海を知り尽くした主人のようであった。
立ち膝で舳先にいる伯之進は、なんともいえない安心感を抱いていた。
これまでこんな風に海に漕ぎだしたことはない。
しかも、これは捕り物なのだ。
彼らが向かう先には盗賊が群れをなして巣くっている。
本来、命がけの覚悟の出航のはずだった。
それなのに、妙に落ち着いてしまっている。
小規模なりとはいえいくさに赴くという高揚もあるが、それとは別に心の奥に妙に冷静になっている部分があった。
「―――漁にでるときはこん風に懐に凪ができるものよ」
漕ぎ手がのんびりと言った。
言葉の内容だけはなんとなく理解できた。
権藤伊佐馬である。
慣れた手つきでほとんど揺らすことなく小舟を漕いでいる。
この小舟は伊佐馬が、眠っていた顔見知りの漁師を叩き起こして借り出したものだ。
明日の漁のために早々に床に入っていた漁師は最初は目を丸くしたものの、伊佐馬が「頼むよ」というだけで簡単に首を縦に振った。
漁師というものは本来気が荒いものである。
しかも、舟は漁師にとっては大切な飯の種であるし、命の次に大切にしているものだ。
いくら武士が貸せと言ってもそう簡単に認めるものではない。相手が公儀の役人であったとしても同様だろう。
なのに、伊佐馬が陽に焼けたごつい顔で「頼むよ」とすまなさそうに言うだけで、「しょうがねえなあ、旦那は」とすぐに承諾するのだ。
伯之進は不思議だった。
根っからの旗本御家人である彼からすると、お上の御用のためであったとしても庶民がこんなに容易く武士の頼みを聞くということは常識的にみて考えられないことであるからだ。
しかも、今の元禄の世は武士よりも民の力が強くなっている時代である。
二本差しだからといってすべてにおいて睨みがきくわけではない。
だから、就寝中を叩き起こされて不愉快であろう漁師が、迷惑そうな顔もせずに伊佐馬の頼みを引き受けたことが不思議なのだ。
「網も借りていいか」
「何を獲るんだい、旦那方は」
「いや、沖の廻船に乗り込むつもりだ。捕り物なんだよ」
「―――だったら、あっちの隅に漁にはもうつかえねえ破れ網があるからそれを使ってくんな。鉤をつけるのは別に手伝わなくてもいいよな」
「んー、あ、鉤ならわしでもつけられるから、ゆがらの手は借りなくてもいい」
「そっか。じゃな。できたら、朝までには返してくれよ。漁は休みたくねえから」
「すまんな」
漁師は眠そうに大きなあくびをしながら家の中へと戻っていった。
すぐに屋内からいびきの音が聞こえてくる。
伊佐馬は振り向くと、さっさと歩きだした。
それから漁師の言っていた古ぼけた網を回収して借りた小舟に積みこむと、二人は揃って沖へと漕ぎだしたのである。
「……よく貸してくれましたね。漁師にとって舟というものはもっと大事なものだと思ってました」
「大事なものだよ。わしも海で暮らしていた身だからな、それはよく承知しておる。まあ、わしのことを同胞だと思うてくれているのだろう」
「なるほど。―――しかし、それだけでは気の荒い連中が赤心をおくとは思えません。いったい、どんな手管を使ったのですが」
「なに、わしは故郷で勇魚を獲っておったので、ちぃとばかり盛り上げてくれるだけよ」
勇魚とは、くじらのことだ。
伯之進にはよくわからない。
くじらを獲っていただけで民からの畏敬を集められるものなのだろうか、と。
だが、さっきの漁師の態度を目の当たりにすると信じざるを得ない。
「―――鯨を獲るというのは、それほど凄いことなのですか」
伊佐馬は肩をすくめた。
「慣れればたまに死ぬだけですむ」
まったく問いに対する答えになっていない。
しかし、想像以上に命をかけるものなのだと想像できた。
「あれだ」
伊佐馬が船首の前一点を指さす。
「青碕さん。ついたよ、あれが古西屋の船だろ」
「そうですね」
雑談は終わり、二人は月明かりで見られる範囲に廻船が泊っているのを見た。
伯之進の予想よりも大きい。
船体が一間半はある巨大な船だった。樽廻船にしてはやや大きいか。十人前後が泊りこむだけでなく、もう二倍が生活できそうだ。
甲板に灯りはなく、静まり返っている。
波の音しか聞こえない。
岡っ引きの源三がくるまで目立つことがないように、わざと消しているか、それとも全員が寝入っているのか。
少なくとも奇襲は可能そうだった。
「どうやって昇るんですか」
小舟は誰にも見咎められずに樽廻船の真下に辿り着いたが、縄梯子が垂らされている訳でもなく甲板まで上がることは難しく思われた。
ただの木登り程度ならばともかく、体捌きに自信がある伯之進でも、少なくとも船の縁から垂れ下がって昇るための縄の一本でもないと上にまでいけないだろう。
伊佐馬は平然とした顔で小舟に乗せておいた網を手にとった。
その先には金属製の鉤がついている。
「それは……?」
「網の先につける鉤だ―――普通は大物をあげるときに使うが、水軍では別の用途で使うこともある。ところで青碕さん、わいつは投網は得意か?」
「いえ、そういう漁法があることは知っていますが」
「そうか。なら覚えておくがいい。こうやって使うのさ」
背中を丸めると、全身の筋肉と遠心力を駆使して、伊佐馬は全身を発条のように回して手にした網を上に向けて放り投げた。
小舟の上という揺れる足場での動きとは思えない抜群の安定感をもって、投げた網は天を飛ぶ。
伯之進は眼を剥いてその光景を見つめた。
そして、投げられた網は落ちてこなかった。
まるで蜘蛛の巣のように三角形に船の側面にこびりついていた。
じっと先端を凝視すると先ほどの鉤が見事にひっかかって支点となり、網を支えているのだ。
「あれは……」
「青碕さんは鉤縄の一本程度では船の上まで行けんだろう。コツと練習がいるからな。だが、こういう網ならばつま先をひっかけられるし、慎重に上がれば、敵に気取られずに斬りこめるはずだ」
「なんと」
「戦国の世の水軍が使っておった手よ。でかい船に乗り込むのならば、このやり方が一番手っ取り早い」
伊佐馬は腰に差していた刀を背負って両手を空けると、そのまま黙々と網を手繰って昇り始めた。
目方があるためやや時間はかかるが、操船同様手慣れた動きだった。
滝を昇る鯉のようであった。
「先に行く。わいつが来るまで待つが、船のやがらに気づかれたらわしだけで斬りこむ」
「……私を待っていてくれるのですか」
「そもそも、これはわいつのいくさだろう」
「ですね」
舟を借りることになったあたりからこの海の男に振り回されているせいか、どうもこの一件が自分のお役目だということを忘れかけていた。
伊佐馬が船の縁に指をかけて、体格に似合わぬ敏捷さで船に乗り込んだのを確認すると同じように刀を背負って網につま先をひっかけた。
想像以上にふらふらとして登りにくい。
焦れば焦るほど網の不安定さに足を囚われてなかなか進まない。
伊佐馬の半分以下の速度で苦心しながら昇っていくと、
「ん!?」
すぐわきを大きなものが落ちていき、海に飛沫をあげさせた。
悲鳴も聞こえたのでおそらく人だろう。
権藤どのかと一瞬だけ思ったが、すぐに打ち消した。
あの大きな鯨めいた男がこれほど呆気なく討ち取られてしまうとはとうてい考えられない。
つまり、答えは一つだ。
伊佐馬と船の中に潜んでいた盗賊どもが交戦を開始したということだ。
確かに乗り込むのにこんなに時間をかけていたら気が付かれてもおかしくない。
むしろ、当たり前だろう。
(急がなければ)
いったん冷静になると、伯之進は路地裏での斬り合いと同様に落ち着きはらい、これまでよりも容易に網昇りができるようになった。
盗賊だろう男が落下してから数呼吸の間に指が縁にかかる。
その手首が逞しい指に握られた。
「ほら、すぐに他の奴らが上がってくるぞ。手伝ってくれよ」
少年めいているとはいえ大の男の伯之進が片手で楽々引っ張り上げられた。
伊佐馬の片手は例の刀を握っている。
通常のもののように反りのある片刃ではなく、広両刃の槍のごときまっすぐな切っ先は、むしろ古き時代の鉾と呼ぶべきものであった。
ただし、柄と鍔がついているので「剣」が最も相応しいかもしれない。
「変わった得物をお持ちですね」
「このぐらいでないと肥えた鯨は仕留められんのよ」
「捕鯨用の道具なのですか」
「そうだ」
甲板に上がった伯之進が、愛刀を腰に差し替えると、樽廻船の中から血走った眼をした荒くれものたちが次々に湧いてきた。
その数は十数人。
おそらく盗賊団のものすべてであろう。
中に一人だけ見た目は商人風のものがいた。
あれが古西屋だろうか。
「わいつの考え通りに、朝には上方に逃げ出すつもりだったようだぞ。出航の準備がしてある。―――お手柄だな」
「気が早いです。こいつらすべてひっ捕らえなければ手柄にはなりません」
「やれやれ、それは面倒な作業だ。海の上はいつも血腥いことばかりと、せっかく陸に上がった甲斐がないのお」
呑気に会話をする二人とは裏腹に、古西屋を初めとする船を使った盗賊一味は焦っていた。
源三という岡っ引きを金で殺し、奉行所に尻尾を掴まれないように巧妙に行ってきた舟を使った盗みと、その隠れ家として選んだ樽廻船に同心らしきものたちが乗り込んできたのだから。
みたところ、まだ二人しかいないが、捕り方に完全に囲まれてしまったら逃げることはできない。
古西屋はこの二人が功を焦って飛びこんで来た間抜けだと判断して、ここで始末してすぐに出航することに決めた。
陸にいる源三などもう見捨てる。
どうせ金で殺した岡っ引き。
くたばろうと生きようと知ったことではない。
問題はこの二人だけだ。
「……やっちめえ」
もともと商人などではなく、大阪周辺を荒らし回っていた盗賊の頭であった古西屋六兵衛は、凶悪な漢であり、腕に自信もある乱暴者だ。
揺れる船の上ではあるが十二人もの子分がいる。
たかだか二人の同心風情、始末してしまえばいい。
その命令のもと、盗賊たちは刃物を手に手に襲い掛かった。
生粋の水夫ではないが、長い間船の住人をしてここでの立ち回りにも慣れているので動きは軽快であった。
だが―――
「神妙にお縄を頂戴いたせ」
と言いつつ、抜き打ちの一刀で一人の手首を叩き切り、逆袈裟でとどめを刺す柳生新陰流の剣士・青碕伯之進。
新陰流の技、三学圓之太刀―――圓は円転して滞らず、すべてが良く調和して、千変万化の変化に対応していく柔軟性を誇る刀は、限りなく無駄を省く「転」であり、最も得意とする技を使い、馴れない船上でも動きによどみがない。
一人の拳を刃物ごと割り、もう一人を一刀両断する。
すでに立ち会う前に「心の下作」という、場の状況を知り、細心に充分に計る大事はできていた。
心の下作ができていないものは負けるべくして負けるというが、ならば伯之進は勝つべくして勝つのである。
ゆえに不断に揺れる海上であったとしても、新陰流の剣を十二分に振るえれば、賊どもがかなうはずもない。
「わしは、斬り合いは得手ではないのだがのお」
と、無造作に、しかし、まるで薪を割る斧のような轟音とともに振り下ろされた「剣」で盗賊の頭蓋をかち割る釣り侍の権藤伊佐馬。
力任せに乱暴に剣を振り回しているとしか思えないのに、その太刀筋は容赦なく賊の正中線を襲い、かろうじて避けるなり防ぐなりしても、腰を回して引いた構えから繰り出される鋭く速い突きに貫かれて絶命する。
本来、伊佐馬のそれは鯨の分厚い脂肪層を突き破り、腹腔に達する傷を負わせるための突きであって、人間相手に使うものではないのだから、どれほど必殺の「突き」なのかは明白だろう。
むしろ、盗賊どもはあんな恐ろしく機械的に人の背中まで貫通させる突きを、からくりのようにやってのける伊佐馬に対して恐怖を覚えていた。
この両者はただの同心の範疇に納まるものたちではなかったのだ。
古西屋六兵衛はあっというまに八人の子分たちが血祭りにあげられたのを見て、恐慌状態に陥った。
押し入った店のものたちを幼子まで皆殺しにする畜生働きさえできる惨酷非道な盗賊であった彼も、ここまでおそるべき凄絶な剣を振るうものどもを見るのは初めての経験であった。
しかもそれが同心だという。
これでは捕縛されて獄門に掛けられる前に殺されてしまう。
もう逃げるしかない。
古西屋は船から飛び降りて泳いで江戸まで逃げることにした。
距離はある。
かなりの年齢であるから力尽きて溺れ死ぬかもしれないが、それでもこんな連中を相手にするよりははるかにましだ。
わずかな隙をついて、古西屋は身をひるがえして飛び降りようとしたが、その瞬間、背中に熱い衝撃が走った。
伊佐馬の投げた剣が背中から腹までを貫いたのだ。
どれほどの力が込められていたのか、剣の先端は船板に突き刺さり、盗賊の親玉はまさに死体となって縫い付けられることになる。
それを見て、伯之進が言った。
「―――お上手ですね」
すると、投げた大男は少しだけ嬉しそうに、
「いったであろう。わしは刃刺になりたかった男なんだ。剣を振るよりも、銛を投げるのが一番うまいのさ」
にっこりと無邪気に微笑んだ。
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