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飛騨の黑影と安田作兵衛
しおりを挟むいかに月が美しく輝こうとも、夜の鬱蒼とした森の中である。
気配もたてずに忍び寄るものを察知することなど到底できるはずはない。
その日本には珍しい黒人の忍びによる襲撃にぎりぎりで気が付けたのは、須賀四郎衛門が凄腕の狩人でもあったからである。
隻眼であるがゆえに通常よりも研ぎ澄まされた視覚と生活のために獲物を仕留めなければならない環境で培った嗅覚が、ほんのわずかな忍びの気配を捉えたのであった。
ただ、弓で狙いをつける余裕はなかったせいで命中させることだけは叶わなかったとはいえ、おかげで氏重は背後からの一撃を避けることができたといえる。
抜き打ちの刃は空を切った。
勘頼みの抜刀の限界であった。
しかし、おかげで忍びのさらなる仕掛けを防ぐことはできた。
「黒い人……確か信長公が飼っていたという異国の男か」
忍び―――黑影は答えない。
殺し合いの最中に無駄口を叩くのは忍びのすることではないからだ。
やるべきは敵の抹殺。
口を開いて相手に余裕を与えることなどしてはならない。
もっとも闇に紛れての奇襲を躱されて、隠形していた姿を捕捉されたのは想定外の出来事ではあった。
真っ先にこの集団の頭領であるらしい少年の首を掻き切り、安田作兵衛と可児才蔵を救い出すつもりであったのにしくじったのであるから。
しかも、この少年―――記憶にある。
黑影にとってほとんどの日本人、いや亜細亜人は同じに見えるが、この少年の美しさは彼の恩人である森蘭丸を思い出させるからである。
黒人であることからわかる通り、彼はこの国の出身ではないが、それでもとりわけ美しいものは容易く区別できるのだ。。
〈飛騨の黑影〉
その二つ名を持つ忍びはもともと弥助と呼ばれていた。
「切支丹国より、黒坊主参り候」と信長公記に記述され、宣教師のヴァリニヤーノが本能寺において信長に献上した黒人奴隷であった。
年のころは二十六、七歳であり、全身の黒いことは牛のようであり、見るからに逞しく見事な体格をしていたという。
力の強さも十人力以上であり、のちに武術を学ばせたところただならぬ腕前に育ったとも伝えられている。
肌は炭のように黒いため、信長は最初、墨や染料の類いを塗りこめたペテンだろうと考え、家来たちに水を使って洗い落とすように命じた。
しかし、どれほどこすっても肌は黒いままで信長もこれが本物であることを認めざるを得なかったという。
世界の果てから来たという奇妙な男を気に入った信長はヴァリニヤーノに献上させることにした。
こうして、宣教師たちが奴隷として連れてきた黒人はそのまま信長の近習になる。
傍において仕えさせてみると、この黒人、宣教師たちがいうほど愚鈍ではなく、教え込んだことはすぐに呑み込み、力の強さもあってたちまち信長のお気に入りになった。
信長自ら「弥助」という和名を与え、森蘭丸の弟である力丸を教育係とすることで日本のしきたりや習慣についても教え込ませ、なんと扶持を与え士分としてとりたてた。
後の資料によると、信長はこの元黒人奴隷を最終的には一城の主にまでとりたてる予定であったと言われている。
だが、弥助が信長に出会ったのは天正九年六月のことであり、翌年には初対面を果たした本能寺でこの主従は永遠の別れを迎えることになった。
弥助は信長と共にいたが、炎に包まれた本能寺から逃げ出し、主人に起きたことを二条御所にいた嫡子信忠に告げると、彼とともに戦い明智勢に捕らえられる。
明智光秀のもとにひきだされたとき、光秀から、
「このものは畜生であって人間ではないので放してやれ」
という現代では差別的ともとられる理由によって召し放たれ、その後の消息は不明となる。
信長の傍にいた光秀であるから、弥助がどういうものか知らないはずもなく、おそらくは異国に奴隷としてやってきたものに慈悲をかけたのだろうと言われている。
実際のところ、このとき光秀に対して弥助を救うように助け舟を出したのが、可児才蔵とともに魚のように網に捕らわれて転がっている安田作兵衛であった。
本能寺一番槍を果たし、信長を傷つけ、さらには近習筆頭の森蘭丸を討ち果たした作兵衛であったが、さすがに無傷という訳にはいかず、腹に傷を受けていた。
これをつけたのはやはり森蘭丸であった。
蘭丸の使う新当流は剣術だけでなく槍も使う流派であり、十九歳の若さでありながら槍においても優れた武士であったのだ。
赤錆の槍ですでに三人の信長の護衛を仕留めていた作兵衛は、このときの蘭丸との戦いのせいで信長追うことが叶わず、結局、かの第六天魔王は奥の院で自害を果たして今となっても彼の首は発見されていない。
ただ、作兵衛は主人である光秀にも黙っていたことがある。
それは立ちはだかる森蘭丸を必死の思いでなんとか斃した直後、奥の院から布に包まれた何かを持ちさる弥助を目撃したことである。
何かは彼にとっては見慣れた大きさをしていた。
弥助がこちらに気づかずに、警戒の薄い本能寺の塀の一画を乗り越えて京の闇に消えていくのを見送った作兵衛は仕留めたはずの蘭丸が薄く微笑んでいることに気がついた。
まだ息のあった美少年が彼と同じものを見ていたことは違いない。
だからこそ、蘭丸は微笑んだのだ。
そこに作兵衛は漢の美学をみた。
同時に弥助がもっていったものが何であったのかも悟った。
(あれが信長公の首級だ)
明智勢に囲まれていたはずの本能寺から抜け出し、弥助がまず向かった先が二条御所の信忠であったこともその推測を裏付けている。
弥助は主人の首を明智に渡さないように持ち出し、嫡男の信忠に届けたのだ。
それから先はわからない。
二条御所で自害した信忠の首も見つかっていないことから、今度は弥助ではない別の誰かが同じようにして二つの首級をどこかに持ち去ったのだろう。
となると、弥助が事情を知らぬはずがなく、明智としてはこの元黒人奴隷から聞きだす必要があった。
しかし、そのことをわかっていたはずの作兵衛は光秀に告げなかった。
なぜか?
それは蘭丸の笑みのせいであった。
元々蘭丸の兄である長可の幼馴染である作兵衛は、蘭丸のことも知らない仲ではない。
赤子の頃だが会ったこともある。
光秀が裏切り、主人同士が敵に回ったから相打つことになっただけだ。
それでも両者とも武士として堂々と戦い、一方が生き残り、一方は死んだ。
作兵衛は君命で信長を殺そうとし、蘭丸は自害する主君のために時間を稼いだ。
弥助のおかげで主君の首が晒しものにされないことがわかったからこそ、美しい小姓は微笑んだのだ。
武士の忠義の本懐を果たしたのである。
その想いを踏みにじることは作兵衛にはできなかった。
だから、弥助の助命を嘆願したのだ。
もしなんらかの手違いで弥助が口を割ったら、信長と信忠の首の在り処が判明し、蘭丸の死にざまが穢されることになる。
作兵衛はそれを防ぎたかった。
傷のせいでしばらくいくさはできなくなったと言い訳をして、なんとか作兵衛は弥助の身柄を引き取りもとの宣教師のところに送りつけるという任務を光秀から与えられた。
翌日、明智の軍勢の陣から少し離れたところまで弥助を連れていき、作兵衛は言った。
「おい、黒坊主」
弥助は答えない。
僚友であり、親切にしてくれた蘭丸を討った男であることを知っていたのだ。
つまりは敵だ。
口を開くはずがない。
作兵衛もそのことはわかっていたので、無理強いはしなかった。
「てめえ、これをもっていけ」
彼が渡したのは地図だった。
美濃の金山までの道筋が簡単に描かれていた。
ついさっき即興で作兵衛が記したものだった。
「ここはカナヤマといってな、蘭丸の産まれ故郷だ。おれの故郷にも近い」
「……」
ついさっきすべてをなくした黒人の、白目の大きな瞳が疑い深そうに睨む。
作兵衛をまったく信じていない。
「そこには蘭丸の兄貴が帰ってくるはずだ。今は信濃だが、まあ簡単に死ぬような奴じゃねえから、しばらくすれば平気な顔して帰ってくるだろう。―――そいつのところに駆け込め」
「……」
「ついでにいえば、てめえの主人の信長公がバカみてえに信頼していた家来でもある。泣きつけば無碍にはしないだろうよ」
それから弥助の手首の縄を切り、懐からいくばくかの金を路銀として渡した。
「落ち着いたら信長公と信忠さまの首の在り処を教えてやれ。あいつならなんとか見つけ出して葬ってくれるさ」
弥助の顔が驚く。
見抜かれていたとは思ってもいなかったのだろう。
「じゃあな」
作兵衛は明智の陣へと戻っていった。
弥助はしばらく立ち尽くした後、意を決したように振り向いて走り出した。
カナヤマに向けて。
作兵衛のいうことを信じてみる気になったのだ。
そして、慣れない日本を旅して美濃についた弥助は信濃から帰還したばかりの森長可に巡り合い、しばらくしてから明智軍の武士ではなくなっていた安田作兵衛と再会することになる……
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