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鬼になった日

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 信濃国、海津城。
 その凶報を森長可が聞いたのは、天正十年六月七日のことであった。
 金山城にいる森家の家臣の一人が早馬に乗って持ってきたものは、まさしく凶報と呼ぶしかない情報であった。

「京都本能寺にて織田信長死す。嫡男信忠も妙覚寺において討たれる。下手人は惟任日向守光秀」

 織田軍団の中でも信忠配下の長可にとって、同時に二人の主がいなくなってしまったということである。
 それだけではない。
 信長の傍には小姓として、彼の弟である蘭丸、坊丸、力丸という三人の弟たちがいたのであるが、それも主君と共に戦死したということだった。
 さすがの長可も動転した。
 報せを聞いてから一刻あまり。
 すぐにでも対応するべき火急の事態であるというのに、これからどうするべきか、まったく考えがまとまらないのだ。
 重臣である岩沢四郎次郎俊三と額を突き合わせて色々と話し合いをしていたが、なかなか決められなかった。
 なぜなら、今、森の部隊が駐留している信濃はつい数か月前まで敵地であった場所だからである。

「俊三、どうすればいい?」
「明智どのが上様を討たれたとなると、その後がどうなったかが問題となるでしょうな」
「それはわからん。とりあえず、留守居の宗兵衛としては上様が討たれたということだけでも伝えようとしたのだろう」

 長可は天を仰いだ。
 彼にとって主君信長は親にも等しい相手だった。
 十五の時、父である可成の跡を継ぐために後見になってくれて、さらには現在の鬼武蔵という異名を得るまで寵愛してくれたのは信長である。
 つまり森長可という武将を育てたのは信長なのだ。
 喪ったことは胸にぽっかりと大きな風穴が空いたにも等しい衝撃であった。
 それだけではなく、戦死した三人の弟たちのことでも深く打ちのめされていた。
特に七歳年下の蘭丸のことを彼は誰よりも愛していた。
 容貌が美しいだけでなく、才気に満ち、打てば響くような聡明さを持つ弟は、長可にとって将来の森家を背負って立つ希望と考えており、それを亡くすということは絶望のどん底に落とされたようにも感じてしまうのだ。
 上諏訪において、自分が信濃に、蘭丸が美濃の金山城―――しかも森家の本貫地を継ぐと信長から言い渡された。
 器の小さなものならば、小さくない不満を抱くところである。
 だが、長可は違った。

「蘭丸に森武蔵守の美濃を与える」

 という一言を聞いた時、

「謹んで拝領いたす」

 間髪入れずに答えた。
 石高で十万石を越える領地を拝領したということだけでなく、わざわざ武蔵守と呼んだのは将来的に東の北条領にある武蔵国を与えるという意味でもある。
 つまり、信長はこの後に控えている対北条に備えよと長可に命じたと同意なのである。
 信長の天下布武が進めば森家の領地はほぼ安泰である。
 故郷が平和になるのならばその経営は才気に満ちた弟に任せたほうがいい。
 しょせん、長可は武辺者。
 いくさにこそ本懐がある。
 
(わしらの故郷ふるさとは蘭丸に任せればいい。わしの役目は別にある)

 いくさ場で武功を挙げた訳でもない弟に城を明け渡さなければならないという、負の考えなど抱くこともなかった。
 自分の代わりに先祖からの城である美濃金山城主になることを喜んで認めるほどに、長可は蘭丸を大切に思っていたのである。
 その蘭丸が死んでしまった。
 坊丸も力丸も死んだ。
 長可の愛した故郷はまた戦乱に巻き込まれることになるだろう。
 そのとき、彼の領地を守れるものはもういないのだ。

「……殿、お気持ちはわかりまするが、我らのいるこの信濃はいわば敵地。織田家の大樹が倒れ後ろ盾がなくなったとわかれば、ついさっきまでへつらっていた者どもがすぐにでも牙を剥くことでしょう。急いで決断をせねば」
「わかっている」

 もともとは武田領であり、現在は織田の勢力下にあるとしても完全な領地になった土地ではない。
 自分たちは侵略者の側にいる。
 この地の領民たちは虎視眈々とこちらの弱味を探っているはずだ。
 信長が死んだということが伝わる前に行動を起こさなければならないだろう。
 だから選択肢はない。
 しかし、長可にはその肢を選ぶための精神的な支えが失われてしまっていた。

(上様……)

 長可はかつてのことを思い出していた。
信長が京都の内裏の修理をした際に、近江の瀬田橋に通過する大名を記憶するために番所をもうけたことがあった。
 瀬田橋といえば平安の世に俵藤太の大ムカデ退治でも有名な日本の三古橋の一つである。
 京都という地を守るためには是非とも押さえておきたい場所でもあった。
 そこに長可が家中のものたちを連れて通りかかった。
 番所につめていた役人たちは当然のこととして、

「下馬して名乗られたい」

 と居丈高に命じてきた。
 番所を通るものに対しては例外なく吟味せよという主君からの命令があったからだ。
だが、信長は大名たちの家名・実名は記録するように命じていたが、下馬させることまでは要求していなかった。
 馬を下りるという行為は貴人に対する礼のためのものであり、大名たちに強制することではなかったからである。
 下馬については単に役人たちが無断で行っていたことであり、信長という虎を背景にしたことで驕っていたのである。
 命じられた長可は、

「おれは森勝蔵、濃州の住人である」

 とぶっきらぼうに言い捨てるとその場を立ち去ろうとした。
 長可にとって、たかだか名前を控えておけば足りるというだけのことであり、わざわざ下馬をする必要など微塵も感じなかったからだった。
 だからそれでいいと思っていた。
 だいたい馬から下りるということは、いざという時に騎乗で戦うことができるという利を失うことである。
 合理的に考えれば無意味であり、害しかなさない。
 長可にとっては当然の思考の結果であり、疑問に思う余地さえもない話であった。
 だが、そんな彼の前を役人たちは遮った。
 彼のことを、言うことを聞かぬ狼藉ものとみて、鋭い槍を突き付けてきたのである。
 
「……なんのつもりだ?」
「馬に乗ったままでこの先に行かせるわけにはいかぬ。下馬せい」
「おまえたちのような木っ端が、おれにむかって下馬せよだと? 殿ご自身のお言葉ならばともかく、この勝蔵がおまえたちの指図を受けるゆえんはないわ!」

 長可は腰に佩いた刀でもって抜き打ちでまたたくまに番所の役人を切り伏せた。
 返す刀で槍の穂先を叩き切り、それだけでなく持ち主までも突き殺す。
 槍持にもたせていた愛槍人間無骨を使うまでもない。

「ゆくぞ、おまえら」

 主人のいつもの乱暴者ぶりに対して黙ったままの家臣たちに告げて、そのまま橋を突き進んだ。
 すわ番所破りであると、役人たちは武器を手にしてわらわらと集まってくる。
 長可たちが馬に騎乗したまま、強引に橋を通り抜けようとしていると悟ると、大津・膳所ぜぜの木戸をぴたりと閉じた。
 狼藉ものを通すまいということと、閉じ込めてしまおうという考えによるものだった。
 その動きを察知すると、長可は家臣たちに怒鳴り散らした。

「血迷いおって。ええい、もうどうでもいいわ。町に火をかけよ! ことごとく焼いてしまえば木戸を閉められようがどうにでもなる!」
「承知!」

 主人の命を聞いて、家臣たちはそれぞれ松明に火をつけた。
 おそろしいほどに手際がいい。
 火付の類に慣れているとしか思えない手際のよさであった。
 もっとも血迷っているのはどちらであろうかという無法ぶりである。
 それを見ていた役人たちはさすがに仰天した。
 まさか、下馬を命じただけで役人を切り捨て、町を焼き払おうとする乱暴者が存在するなど考えられなかったからだ。
 たちまち役人たちは日和り、木戸をもう一度開けて、長可たちの一行を通してしまうことにしたのである。
 一行は休むことなく駆け抜け、そのまま信長のところまで行って仔細を説明した。
 京都を防衛するための瀬田橋を無理やりに突破したのである。
 居合わせた重臣や大名たちは、長可が切腹を命じられるだろうものと予想していた。
 織田信長という人物の癇癪の強さを十分に理解していたからだ。
 こんな勝手気ままにことをやる家臣など、そのまま首をはねられても当然と誰しもが思っていた。
 だが、信長はにやりと笑い、

「さすがは勝蔵よ。わしの威を借りて偉そうに振舞う世迷どもを成敗してみせよったか。ようやったぞ」

 と称賛の言葉を与えたのである。
 主の手放しの称賛を受けた側の長可はそれを当然のことのように受け取った。

「ははあ」

 平伏するだけで、特に命を拾ったという風にも見えない落ち着きようであった。
 あまりの抜け抜けとした態度に思わず重臣たちが腰を抜かしそうになるほどに。
 まるで許してもらえるのが当たり前とでも思っていなければこんな態度は信長の前では決してとれるものではないからだ。

「勝蔵よ。かつて瀬田の大橋で大ムカデを退治したという藤原秀郷は弓を使ったそうだが、おまえは刀で武蔵坊弁慶のように人を切ったようだな」
「さようで」
「では、わしはおまえのことを武蔵と呼ぶことにしよう。かつて、わしがおまえに鬼になれと伝えたことも踏まえ、今日からおまえは〈鬼武蔵〉だ」
「ありがたきしあわせでござる」

 終始ご機嫌のまま、信長による長可への裁定は終わった。
 咎めだてどころか、お褒めの言葉を賜ったうえで、主から名まで頂戴したのである。
 この席に居合わせたものは、長可のことを、

「実に忠のある武士である」

 と羨んだという。
 これが、森勝蔵長可が織田信長より直々に〈鬼武蔵〉の異名をもつことになった経緯である。
もっとも、彼亡きあとの庶人の小唄に曰く、

今の浮世は結構ずくし 森の武蔵に池田がなくば 諸国諸大名は長袴

などと戦死したことを、喝采をもって迎えられた厄介な狼藉ものであることを考えると、不自然なまでに信長の寵愛を受けた波乱に満ちた武将であったともいえる。
勇猛などという言葉が足りぬほどに、戦国を蹂躙した武将であったのである。
 では、どうして信長ほど短気で臣下のわがままを許さぬ男が、ここまで一人の若者を寵愛したのであろうか。
 それは、かつて長可が戦死した父より若くして家督を継いだとき、信長と対面したことに遡る。
 信長に対面した長可は型通りの挨拶を終えた。
 父の後を襲ったことについて、信長がとくに口添えをしたことを知っていたからだ。
 だが、信長は最後まで挨拶を聞くことなく大きな声で言った。

「おまえ、わしが鬼と呼ばれていることを知っておるか」
「……」
「当然、知ってはおるか。では、わしがその忌み名を好んでおるということはどうだ?」

 さすがに十五歳の小僧では、一代の英傑信長を相手にすると思う様に口がきけなかった。
 答えられないのを見越して、信長は語った。

「鬼、と呼ばれるのがわしは嬉しいのよ。便利に使い倒せば、これほど周りを怖れさせることができる忌み名はないからだ。わしは鬼と呼ばれることにより、敵どもだけでなく臣下や民草でさえ震え上がらせることで、ここまでうまくやってきた。素直に考えれば鬼とまともにやろうというものは怖気づいていないのだから当然だな。そのあたり、まったくもって良いあざだ」
「……そうなのでございまするか」
「そうだ。ただな、勝臓。織田の家中だけならばともかく、天下の隅々まで手に入れようとするには、少々威が足りぬ。どれだけわしだけが恐れられていたとしても、わしの眼の届かないところでは軍が舐められることになる。それは困る」

 信長はとんと扇子で自分の肩を叩いた。

「加えて、わしのせがれの信忠もだ。あやつはわしの後継ぎとしては瑕一つないが、どうにも鬼と呼ばれるにはまっとうすぎてな。歯向かうものなどまとめて根切りしてしまえばよいといっても、なかなか踏み切れぬところがある」

 とはいえ嫡男のことを語る信長には父親らしいひいき目というものがあるようで、父を亡くしたばかりの長可は少し羨ましくなった。
 このときから、長可は信長のことを父とも慕うようになる。

「そこでだ、わしは以前より、わしのかわりの〈鬼〉を求めておったのだ。―――どうだ、勝蔵。
「鬼に……おれが、でございますか」
「おお、そうだ。―――癇が強く、おのれの思い通りにならねば他人の臣下ですら切り捨て、敵に対しては一片の情ももたぬ、鬼の化身よ。心の赴くままに動く厄介極まりないもの。家中にそのようなものが一人でもおれば、どれほど織田という樹が育とうと枝葉より腐ることはそうはなかろう」
「その役目をおれが……」
「ただとはいわん。おまえにはまだ年端もいかぬ弟がおるであろう。そのうちの三人はわしの下で小姓とする。わしが教育し、育ち切ったのならば信忠の側近にしよう。森家は安泰のはずだ」

 君命を受けるだけではなく、弟たちが信長の小姓となり、しかも嫡男信忠の直属の家臣になるということは、父親がいなくなり存続も怪しい森家にとっては盤石の後ろ盾ができることになる。
 ていのいい人質という考え方もできなくもないが、長可はそうはとらなかった。
 信長という男の意外なお人好しの側面を信じたのだ。
 長可は決断した。

「わかりもうした。この勝蔵、御屋形様のお指図のまま、織田軍団の中の〈鬼〉となりましょう」
「よう言うた。さすがは長勝のせがれよ」
「して、まずは何をすればよろしいのでしょうか」
「簡単だ。―――
「好きに……でございますか」
「おう。おまえの望むままに邪魔をする敵を蹂躙し、勝手な道理を押し付けるものどもを切り捨て、ことごとくわしの名を唱えろ。たとえそれが主君の威を借る狐と呼ばれようが、一切気にすることはない。唯我独尊、好きなだけ暴れまくれ。それだけでおまえは鬼と呼ばれるようになる。わしの望む通りにな」
「承知いたしました」

 信長はあり得ないぐらいの大きな声で呵々大笑した。
 楽しくてたまらなかったのだろう。
 長可も口角を大きく吊り上げた。
 虎のような笑いの形であった……

 ―――こうして、森長可は鬼となったのである。

 

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