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森蘭丸成利

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 この日、信長が引見したものは、穴山梅雪、木曾義昌といった元武田方の武将や進上品を送ってきた北条氏政の使者、また天皇の宸翰を賜るためにきた勅使など多彩な顔ぶれであった。
 甲斐攻略をいったん引き返してきた嫡子信忠に対しては、

「比類なき働きであったな」

 と褒めたたえ、それだけでなく、

「いずれ天下の儀もおまえに譲ってやろう」

 はじめて公の場で後継者としてはっきりと認めるということまでしてみせた。
 織田の諸将、なかでも明智日向守光秀はこの言質の証人としてわざわざ呼ばれてきたという事情があるほどである。
 未だ、羽柴秀吉の毛利に対する西国攻めが終わっていない状況では早すぎると思うものもいたであろうが、大敵武田の滅亡とそれを指揮したのが嫡男であるという二つの喜びが信長らしくもなく口を軽くしたのだろう。
 もっとも信忠旗下の軍団にとっては、自分たちの大将がそのまま織田になるという良い報せであった。
 丹羽氏次はこのあと、逃げ出した武田勝頼のあとを追うことになっていた信忠に甲州に随軍することになっていた。
 弟である氏重は殿様からの許しを得たため、上諏訪で別れていったん岐阜に戻ることになった。
 昨日、騒ぎを起こした森長可は信濃にある新領地の海津城へと早々に発っていた。
 下手に長居されるとまた面倒ごとになるのではないかと危惧していた丹羽兄弟にとって、胸をなでおろすような呆気なさであった。

「では、兄上。私は先に岩崎に戻ります。流離っておられる父上の居場所をつきとめてお迎えしないと」

 織田家を追放された二人の父氏勝は、主君を怖れてゆかりの地を転々としているはずである。
 信長の許しがでたというのならば一刻も早く領地に戻るように伝えないとならない。
 氏重は一度、美濃に帰還する他の武将の隊についていくことにしていた。

「わかった。おまえはそののち、上様のお小姓になるための準備をしておけよ。三職推任はすぐだ」
「わかりました。しかし、私などに務まりましょうか」
「できる。まあ、蘭丸どのほどうまくは行かぬかもしれぬが……」
「蘭丸どの……。あの鬼武蔵どのの弟君なのですね」

 氏重の頭には昨日の長可の無体な乱暴狼藉がこびりついて離れなかった。
 あの猛禽のような男と兄の後ろから見た絶世の美青年が兄弟とは到底信じられない。

(ただ―――鬼武蔵どのも、はっとするほど美しいおのこでしたね。その意味では兄弟というのも腑に落ちます)

 それだけ印象的な初対面だったということである。
 氏重にとっては言葉を交わしたこともない相手であったが、奇妙なほどに気になってもいた。

「丹羽どの」

 呼びかけられて振り向いた氏次は驚いた。
 氏重に至っては身を強張らせた。
 それもそうだろう。
 背後から声をかけてきたのはたった今話題にしていた人物だったからだ。

「これは―――森どの」

 森蘭丸であった。
 信長の傍にいる時とは違い、柔らかい人の善さそうな笑みを浮かべていた。
 稀有な美貌と才覚を有するものとは思えぬ微笑みであった。
 森蘭丸成利なりとし―――永禄六年の生まれで、この年十八歳。
 十三歳の時に信長の小姓に加えられ、「信長公記」においては「森乱」と呼ばれいくつもの逸話が伝えられている存在である。
 信長があるとき、

「障子を開けたまま来てしまったから閉めてまいれ」

 と言うので、蘭丸がいくと障子はきちんと閉まっていた。
 蘭丸は少し考えたのち、一度障子を開けてからもう一度わざと音をたてて閉めなおし、それから信長の元に戻った。
 信長が「障子は開いていたのではないか」と問うと、蘭丸は「閉まっておりました」と素直に答える。
 さらに信長が、

「なら、なぜ閉めた音がしたのだ」

 と重ねて問うたのに対して、蘭丸は、

「上様が開けたまま来てしまったので私に閉めて来いと命じられたにもかかわらず、閉まっていたと報告したとなると、上様が粗忽ものであったかのように思われてしまいます。家臣としては上様に恥をかかすわけにはいきませんので、一度開けてから皆に聞こえるように閉めなおしたのでございます」

 と答えたという。
 これは蘭丸が信長という人物の短気さを理解して、なおかつ、怒らせぬように振る舞う才覚を持っていたことを象徴する逸話である。
 稀に見る美貌のみならず秀でた知性を有していたことは確かといえた。
 その蘭丸が突然やってきたのだ。
 丹羽兄弟からすると、昨日の森長可からの挑発以上に緊張したといってもいい。

「何か御用ですか」
「いえ、特にこれといっては。ただ、そちらの氏重どのが岐阜に発たれると聞いたので見送りに参りました」
「ああ、それはわざわざ……」
「ありがとうございます」

 安土城で氏重は蘭丸の教えを受けることになっていたのだから、一言二言言葉を交わしておこうというのは当たり前のことといえた。
 蘭丸としても新しい同僚の品定めもしなければならないのだ。
 わざわざ足を運ぶ理由もある。
 二人はほっと胸をなでおろした。

「それと、過日はうちの兄上が丹羽どのにご無体を働いたとのこと。森家のものとしてお詫びの一つもしないと気が済まないというのもあります」

 微笑みが消え、やや気まずそうな顔になる。
 困ると整った柳の如き眉が八の字になるようで、男とは思えぬ色気を醸し出す。
 三人の間にやや扱いに困る空気が漂い始めた。
 
「なにとぞ、ご容赦願いたい。兄はときおりあのような礼儀を弁えぬ武辺一筋のものとなることがございます。いくさ場であってもなくてもあまり振る舞いが変わらぬお人なので……」

 信長の小姓に頭を下げられて困るのは丹羽兄弟も同様である。

「森どの、そのようなことはなされませぬように。我ら兄弟、逆に勝蔵どのの逆鱗に触れるような落ち度があったのかもしれぬと思うておりまする。むしろ、こちらの不徳の致すところでございます」

 兄弟とはいえ、森長可に仕出かしたことを蘭丸が責任を取るものでもない。
 特にあの乱暴者の鬼武蔵のやることに一々頭を下げていたら、蘭丸は何もできなくなってしまう。

「いえいえ。兄については、上様がなにをやってもよいと認めてしまっていることもありまして、それが原因で丹羽どのにまでご迷惑をおかけしてしまいました。―――なんでも、兄は槍の武勇について、丹羽どのと競い合いたいと以前から家臣たちによくもらしておったらしく、その想いが募った挙句に場所をわきまえずに迫ったということです。我が兄ながら、まったく困ったお人でして……」
「―――槍、でございますか?」
「はい」

 そう言えば、昨日の森長可はそのようなことを言っていた。
 朱槍がどうのこうの、とか……

「兄は森家の家督を継いだときに、家と共に父の形見である人間無骨という十文字槍の業物も譲られておりまして、それを大層誇りに思っております。加えて、自分は織田家中でも随一の槍の腕前だ、という自信も」
「……世間では、そう言われていますね」
「ですが、丹羽どの。あなたもまた家中では音に聞こえた槍の使い手ではございませぬか。兄は伊勢長島であなたと同じ攻め手におりまして、そのときにあなたのいくさぶりを見たことを忘れずにいられないそうなのです」
「なんと」

 そういうことか。
 氏次にとっては奇行としか思えない行動ではあったが、狂人には狂人なりの理屈があるということなのだろう。
 ただ、そうであったとしても同じ陣営の、しかも一介の武辺者ではなく諸将の一人があのような振る舞いをするのはいかがなものかと、氏次は思った。
 むしろ、狂った兄貴の尻拭いをしている目の前の美青年を不憫に感じた。

「勝蔵どのの事情は把握いたした。とはいえ、我らは同じ織田の家臣でござる。いかに無体なことを申されても実際にやりあったりはいたしません。ご安心ください」
「いえ、私の方こそ丹羽どのを兄の愚行につきあわせたりはいたしませぬ。こちらこそ、お赦しください」

 森蘭丸は誠実な少年であった。
 ふと、氏重をみるとどうも同じ気持ちらしく、蘭丸に対してとても好意的な目をしていた。
 二人とも雰囲気が似通っているし、どうやら気に入ったのだろう。
 警戒を完全に解いている。

「私は、安土城で蘭丸どのに教えを乞うのが楽しみになりました」

 蘭丸も柔和な笑みを浮かべ、

「安土城に来られたのならぜひ歓迎いたします、氏重どの」

 二人の美少年は互いにいい印象を抱いたらしい。
 父氏勝のことを抜きにしたとしても、この二人の関係が良好のままいけば丹羽家にも森家にも、なにより織田家にとってよい未来があるだろう。
 氏次は少しだけ将来のことが楽しみになった。


        ◇◆◇


 こうして、上諏訪において丹羽氏次、氏重兄弟は、森長可と蘭丸の兄弟に出会った。
 真逆のようで非常に酷似したこの二組の兄弟が、二か月後に日本人ならば誰もが知っている歴史上の大事件を境にして交錯し、狂いの果てにおぞましく変容していくだろうことを、まだ誰も知りえなかったのである……


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