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鬼と兄

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 丹羽氏次は、上諏訪の織田信長の本陣を歩いていた。
 そもそも丹羽家といえば信長の直下の武士であったのだが、とある出来ごとがもとでこのときの彼は嫡男信忠の軍団に所属している。
 ゆえに直接信長との対面の機会を得られるのはこの日しかなかった。
 だが、昨日—―三月二十九日に父である信長に面会に来た信忠とその部下だけでなく、他の武将たちが我先にと挨拶にいくのをかき分けて進むことはできない。
 しかも、ついさっき今回の甲州征伐の論功行賞が発されたせいで武将たちはにわかに活気づいていた。
 自分たちのたてた手柄がどのように評価されたのか、そのことによってどのような地位と名誉にありつけたのか、それが信長から自分ひいては家の価値に繋がるからだ。
 多大な恩賞をもらったものはさらなら忠誠を誓い、思ったよりも足りないと感じたものは信長の気を引こうとさらに近付き、氏次程度では強引に傍に近づくことすらできなかった。
 しかし、ここで引き下がるわけにいかない。
 氏次としては何としてでも信長と面会しなくてはならないのだから。

「親父殿のためにも……氏重のためにも……」

 ちょうど美濃出身の武将たちが面会を終えて、信長の陣屋からぞろぞろと戻ってくるところだった。
 美濃は信忠の勢力圏である。
 岐阜の岩崎城の城主でもある氏次にも知った顔がちらほらと散見された。
 次の集団がやってくる前に誰か知り合いを見つけて、とりなしをしてもらおうかと人定めをしていると、

「おい、丹羽勘助ではないか」

 周囲に取り巻きもつけず悠然と現れた男に声をかけられた。
 年のころは二十四か五。
 居並ぶ武将の中でもとびきり若い。
 氏次はこのときは三十二歳。
 丹羽の跡目を継いでいるとはいえ、他の骨の太い戦国の現役武将からは若輩といわれてもおかしくない年齢である。
 それよりもさらに一回りは若いのだ。
 だが、若さからくるひ弱さというものは感じられない。
 一つの軍を率いるための貫録も充分に持ち合わせている。
 なにより、氏次のことを勘助と呼ぶのは織田の配下でそれなりに長く勤めていたものに限られるのだから、織田の家中の同輩でも相当な古株ということになる。

「森殿か」

 氏次は舌打ちをしたい気分だった。
 若者の名は森長可。
 親しいものには勝蔵とも呼ばれている。
 美濃の金山城を領地とする武将であった。
 
「そんなところで何をしている。貴様には用がないはずだろう」
「森殿には関係のないことだ」
「ふむ」

 考えるふりをしながら、森長可はにやりと笑った。

「親父の命乞いか、勘助」

 氏次の目が光る。
 これで見抜かれてしまったといってもいい。
 できることなら無反応で済ませたかったところだが、誰よりも尊敬する父親を唐突に侮辱されたと感じてしまったため、思わず怒気を一瞬だけ面に上げてしまったのだ。
 らしからぬ失態といえた。
 もっとも長可の口調にいらついていたということもある。
 あちらは明らかな挑発をしてきていたのだから。

「そのようなことはない」
「どうだか」

 森長可は口調も態度も粗野だが、決して愚かな男ではない。
 武将として並外れているということは同時に優れた心理学者でもあるということだ。
 氏次の既知の情報とふるまいから推測をしたのだろう。
 実際、氏次の真の目的を見抜いているのだからたいした目利きだと思わなくもない。
 だが、それとこれとは話は別だ。
 眼光が鋭く尖る。

「林秀貞、安藤守就とともに織田家中を追われた親父のためにわざわざこんなところまで、若殿についてきたのか。聞いたところでは鳥居峠でもたいした手柄をたてていないのに欲深なことだな」
「口が過ぎるな、森殿。おれは鳥居峠で他の誰よりも勇敢に戦ったと自負している」

 もっとも武田家臣団は内部分裂のためにほとんど戦わずして壊滅状態であったため、甲斐攻めでまともに槍を振るったことなど数えるほどしかなかったのだが。

「なに、若殿の陣中ではわしの方が貴様より先達だ。ゆえの忠告だと思えばいいさ。もっとも、わしとしては貴様にやや含むところがあるのだがな」
「……」
「貴様の岩突く槍の働き。あれはわしの目に焼き付いておる」

 氏次は長可を正面から見た。
 まだ二十四でありながら、すでに十年近く森家の頭領として戦場に出ている経験を積んだ武人だ。
 なにしろ初陣があの伊勢長島の皆殺し戦であり、そこから踏んだ場数はもしかしたら氏次より上かもしれない。
 当時、父親に連れられて同じ伊勢長島の戦いに参加していた氏次はこの若者のいくさっぷりを間近で目撃していたこともある。

(初陣であの恐ろしい槍を振るえる胆力。凄まじいものがあった)

 伊勢長島の血と泥にまみれた戦場の印象よりも、もしかしたらこの若者の戦いぶりの方が記憶にはっきりと残っていたかもしれない。
 決して忘れえぬ記憶というものだ。
 だが、実のところ戦いぶりよりも恐ろしいのはその顔だった。
 浅黒い褐色といってもいい焼けた肌をしているくせに、絹のように滑らかな光沢をもち、切れ長の目は流れ、鼻筋は柳の葉のようにすっと整っている。
 美しい、といっていい貌の持ち主であった。
 この美貌で戦国の世を傲然と生き抜いているのだから並大抵ではない。
 これまで戦場では傷一つ受けていないという噂もむべなるかな。

「ぬかしよるわ、勘助。わしにとっては逆だ。貴様が見せた槍の技の方が遥かに尋常ではないぞ。同じ槍の使い手、しかも織田の軍団の同輩でもあるしな。意識せずにいられぬものかよ」
「……何が言いたい?」
「しれたこと」

 森長可はずいっと前に進み出た。
 刀の間合いだ。
 さらに進むと掴み合いができる距離だ。
 明らかに挑発の度を超している。

「わしと貴様。どちらが朱槍か、はっきりさせようではないか」

 氏次は呼吸を停めた。
 長可の言葉に息をのんだのではない。
 一撃を放つために筋肉を固めたのだ。
 ただの一瞬で武士として舐められてはならぬという本能が闘争を選ばせたのだ。
 ぎゅっと拳を握る。
 その瞬間、父のことも、丹羽家のことも、もう一つの大切なことも吹き飛んだ。
 氏次は生粋の侍であり、やると決めたら後先など脳みそから吹っ飛んでいってしまう荒武者であった。
 対面していた長可もそんな氏次の変貌を悟っていた。

(やっぱり、おもしれえな)

 自分の勘とこれまでの集めてきた情報が正解だったと喜ばしく思った。
 安い挑発に対しても決して舐められてはならぬと簡単に噴火する。
 まさしく長可の同類であった。
 ただ氏次と違い、長可は拳を握らず、逆に開いた。
 この距離である。
 殴るよりも掴んだ方が好手だ。

(まずは、ここで手痛くぶちのめしておこう)

 長可の狙いはこの場での決着ではない。
 最終的には槍での雌雄を決することだ。
 だが、その前に是非とも好敵手との因縁をつくっておくのが肝要だった。
 ゆえにわかりやすい挑発を行ったのである。
 すっと腰が落ちる。
 氏次のぶん殴りの拳が飛んでくるよりもわずかに早く間合いに潜り込む。
 体格でいえば丹羽の大将の方がでかいのであるから容易であった。
 身体を沈めて着物の衿を掴む。
 この時代、体系だった投げ技というものは皆無だったが、戦場を往来する武者―――特に織田の家中においては相撲の達者がもてはやされることもあり、長可もその例にもれず素手での組み合いには慣れていた。
 襟を掴み、同時に袖をとってさえしまえばあとは投げ飛ばすだけだ。
 自分よりも小兵に投げられたとなれば、これ以降、氏次は長可を決して無視したりはしまい。
 そうすれば遠くない未来、この男と心置きなく戦えるという長可の望みは叶うことになるだろう。
 しかし、その予想は果たされなかった。
 長可の腰に横合いからしがみついてきたものがいたからだ。
 最初は彼の動きを読んだ氏次が腰を落として膝蹴りをしてきたかと思ったが、それよりも大きいなものが割って入ってきたのだった。
 信忠旗下の二人の武将の言い合いを遠巻きに見ていた同僚たちが止めに入ったのかと思ったが、鼻孔をくすぐるなんともいえない香しい匂いに驚いた。
 投げようとして掴んだ襟は切られ、長可は横にたたらを踏んだ。
 氏次は拳の当たり所がなくなったため、こちらもよたよたと前に進む。
 一触即発はおろか、完全に私闘に突入していたはずの二人の武将はすかされた形で交錯して終わった。

「なんだ!!」

 この時には長可は自分たちの間に割り込んで来たものが、小柄な少年だとわかっていた。
 どこにいたかはわからないが、いきなりやってきて長可の腰に飛びついてきたのだ。
 痛みはなかったし、私闘を止めるためだけにしがみついてきたということだけはすぐにわかった。
 誰かしらの小姓のようだった。
 頭頂から見下ろしたところではまだ元服も終わっていない。
 童子髪が残っていることが明白だったからだ。
 この陣中で長可の動きについてこられるような小姓と言えば……

「お蘭か!?」

 長可にとっては三人の弟の一人であり、主君信長に仕える森成利―――蘭丸しか考えられなかった。
 だが、不審でもある。
 先ほど信長の眼前に上がったときに見た実弟にしてはやや小さすぎる。
 それにこの香しい匂いは……

「おやめください、武蔵守様!! 兄はあなた様と相争うような方ではありませぬ!!」
「兄だと?」

 自分にしがみついて上目遣いで見てくる小姓を長可は睨みつける。
 体格差もあり、戦場で鍛え上げられた長可を強引に押し倒すこともできない程度の小柄な肉体の、まさに小姓を見て驚く。

「お蘭……ではないのか」

 しけじけ眺めると違うのがわかる。
 だが、長可はこの小姓のあまりに儚い可憐ともいえる顔だちに陶然とした。
 自分が男とは思えぬ美しい顔をしていることは承知している。
 しかし、彼よりも数倍は美しく―――絶世の美女、傾城でさえもかくやという色気を放ち、今でも信長のもとに仕えている実弟蘭丸と同等、いやわずかに稚い分だけ庇護欲をそそらずにはいられない顔貌であった。
 思わずこのまま押し倒してしまいたくなるような、まさに絶世の美少年といえた。

 ……蘭丸以外にこんな生き物がいたのか。

 長可は氏次のことを忘れそうになった。
 いや、この場がどんな場所なのかということすら忘れかけた。
 その酩酊にも似た空気をぶち壊したのはやはり決まっている。

「氏重、そこをどけ!! 邪魔をするな!!」
「いいえ、退きません!! 兄上、頭を冷やしてください!!」

 長可にしがみついたまま、まだ声変わりもしていない少年が叫んだ。
 氏次を兄と呼ぶ以上、丹羽一族のものだとわかる。

「武蔵守様も、でございまする。ここは安土城よりは遠き信濃とはいっても殿中でございます!! 臣たるものが無闇な争い事を起こしていい場所ではございません!!」

 なるほど、正論だった。
 もっとも、一度自らで起こした無体を諫められたからといってすぐに制止してしまうのは長可の柄ではない。
 いつもの彼であったのならば止めに入ったものともども斬り捨ててでも続けたはずだ。
 しかし、長可は少年をじっと睨みつけると言った。

「……いいだろう。確かに貴様の言う通り、ここは信長さまにとっての殿中だ。臣下が争っては上様の御威光に関わる」
「わかっていただけましたか!!」
「だから離すがいい。約束しよう、ここでは貴様にも、貴様の兄にももう何もせぬ。それともわしの言葉が信じられぬか」
「い、いいえ、失礼仕りました!!」

 少年は強くしがみついていた長可の腰から離れた。
 長可の言を信じ切っているのか隙だらけになる。
 いっそ本気で騙すつもりならばあっけなく仕留められそうなほどに無邪気さだった。

(わしの言葉を疑いもしないのか。とんでもないバカか、それとも子供なだけか。まあ、いい)

 長可はめくれた袖を直していった。
 ちらりと少年を見やり、

「貴様、そこの勘介の弟というのに間違いはないか」
「はい、私は丹羽次郎助氏重と申します」
「ふん。―――勘介」
「なんだ」

 氏重を挟んで対峙していた氏次が今にも噛みついて殺さんばかりの怒気を放ちながら応えた。
 その触れたら神経を焼かれそうな怒気をそよ風のごとく受け流して、長可は鷹揚に言った。

「今回は、この小姓に免じて見逃してやろう。だが、朱槍の件、いつかははっきりさせようぞ」
「くだらん。おぬしが何を思おうがおれの知ったことではない。見逃してもらう覚えなどないわ」
「―――今回は、だ。忘れるなよ、丹羽よ」

 そういうと、騒がしくなってきた周囲のやじ馬をかきわけて森長可は去っていった。
 織田家の有力な家臣同士が殴り合いの結果になる寸前の事態を引き起こしたというのに悪びれた様子はまるでない。
 殿さまからのお咎めすら意に介していないというような傍若無人な足取りであった。
 その背中を見つめていた氏重の隣に兄が並んだ。

「鬼武蔵。……厄介な奴だ。あれで上様のお気に入りだというのが不思議でならんわ」
「そうですね。だけれど……」

 憎々しげに吐き捨てる氏次とは違い、氏重は感情の入らぬ声で言った。

「丹羽と口にしたとき、あの方はなぜか私の方を見ていたような気がします」

 弟の疑問を氏次はまともには取り合わなかった。
 それよりも彼らにはなんとしてでも今日中になしとげねばならないことがあったからだ。
 心中にわずかばかり棘のような違和感を感じ取っていたが、それを強引に無視する。
 
「そんなことよりも、おまえには大事なお役目があることを忘れるな」
「は、はい、兄上。まことにすみませぬ」

 先ほど、目上の兄を叱りつけた迫力は失せ、二人はいつも通りの兄弟に戻った。

「おまえはこれから上様に御目通りをして、上様の小姓にとりたててもらわねばならんのだ。噂では森蘭丸殿が先ほどの鬼武蔵の金山城を継いだそうだから、近いうちに小姓の座がいくつか空くことだろう。おまえほどの器量ならば、蘭丸殿の跡を襲うことも難しくないはずだ。だから、今しかないのだぞ」
「わかっています、兄上」

 氏次は噛んで含めるように言った。

「いいな。上様のお怒りを受けた父上を織田軍に呼び戻すためには、おれの力だけでは足りん。どうしてもおまえが上様のおそばに侍り、誠心誠意お仕えすることによって、ひいては丹羽家そのものの忠義を示さねばならんのだ。いいな、おれとおまえで父上をお助けするのだぞ」

 こくんと頷く齢十五の氏重のいじらしさに氏次は目頭が熱くなるものを感じた。
 まだ元服もすませていない少年ではあるが、氏重は武士の魂をもって立派にすくすくと育っている。
 我ら二人でならば丹羽家の―――ひいては父親である氏勝の苦境を救うことができるに違いない。
 去っていったばかりの森家の厄介者のことなど、氏次の脳裏からは綺麗さっぱりと消えていった。
 それが氏次にとって痛恨事だったと悟るのは、それからもう少し時間が経ってからのことである。


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