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第一部『帰還』_一、聖者の旅路
4 『別離』
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リツが先に叢へ分け入った。
しかし__想像を超える光景に思わず身を引いてしまった。無意識に鼻と口を抑えようと手が動く。遅れてゲッカがリツの背後からそれを見、は、と短く息を吸い込んだ。
叢の中、地面の上に。十にも満たぬ小さな子供が仰向けに寝そべっていた。赤黒く染め上げられた胸がわずかに上下している。二人が視認したのはその状況のみで、叢の影で子供の仔細な様子はとらえ難かった。
しかし。
「…生きている」
リツはかがみこみ、倒れている子供に手を伸ばした。まだ新しい血肉の臭いとはこれだった。おそらくは、あの魔獣共はこの二人の刺客によって今晩のたのしみを邪魔されたのであろう。肩口から腹にかけて喰い千切られた痕跡がまざまざと残っている。出血は止まらなく、暗い視界の中でも子供の周囲が赤黒く染まっているのがわかった。
「……うう」
子供の口から呻きが漏れる。もとの声音が分からないほどに潰れているが、子供_少年はまだ話すことができるらしい。
「おか……さ…」
一音一音声を絞り出すたびに唇が血汚れた。弱々しく瞼を震わせて、少年は二人を見た。リツと目が合う。
少年は『邪』だった。彼の黒髪は短く切り揃えられており、乱雑に刈られた跡も残されていた。通常なら、夜分、この場所に人の子供がひとりでいるのは不自然だ。しかしその所以は分かりきっていた。
_神聖王国は穢れた人種を許さない。
ゲッカは僅かに目を伏せた。子供が邪の者であり、独りで無法地帯を彷徨い山に入り、魔獣に殺されて死ぬ_いつからかそれは王国にとっての日常に成りかわっていた。
「…っ」
リツは躊躇し、少年に伸ばしかけた片腕を引っ込めた。身体の腐敗が始まっているし、彼の意識はほぼ無に等しい。加えて少年は『邪』。_リツとは真逆の人種である。
リツは知っている。『邪』は忌むべき存在ということを。疎外されるべき者なのだと教えられてきたからだ。記憶こそ無くとも脳には鮮やかにそう刻まれている。故に。リツは本能的に少年を拒んだ。
「お……とう…ん……」
涙が蓄えられた黒の瞳が揺れる。子供の細い腕がぴくりと動き、リツに向かって伸ばしかけた。生気を失いかけた、白く骨張ったそれに対してリツは硬直する。
「たす……け。…」
次いぞリツの肩を叩いて連れ行こうとしたゲッカは改めて微光に照らされた少年の顔を見た。
「…!」
少年が助けを乞うその顔に。しかし生を諦めたような瞳に。彼の中の糸が__何度も結び直したそれが__引張りの力に千切れる音がする。彼の耳には、確かに糸が切れるその音が届いた。…ぶつん、と。彼の体は無意識下に動く。そして動けないリツの背中側にいた彼は血色を変え、少年のそばに膝をついていた。
「ゲッカ」
見上げたリツの声に彼は反応しない。ゲッカは既に少年の顔に自信の顔を近づけて、冷たい頬に手の平を当てた。ひたりと音がする。少年の瞳孔がゲッカを映すのがわかった。リツはそれをただ黙って見ることしか成せなかった。
彼が何をしようとしているのか。その時の彼女には全く見当もつかなかった。
「……」
一筋の涙が頬を伝い、少年は瞳をゆっくりと閉じる。苦しみに耐えかねて震えていた腕や手指は、ゲッカが彼に体温を与えたことにより、緩やかにに地面に沈んでいく。息絶えた少年の顔はおだやかだった。すぐそばにいる彼に甘えすがるように、頬を手に預けて眠っている。ゲッカは掌を、冷えた彼の頬に再度あてがう。少しして、その手を離した。少年の顔を触った手が、膝の上で強く握られる。肌に爪が食い込む音に、リツは我を取り戻された。従者の名前を呼ぶ為に口を開け、しかし呼吸をするにとどまった。
彼女は今度こそ子供の体に触れた。冬の海水のように冷たい。そして岩と等しく硬くなってゆく、小さすぎる体を。リツは少年の首筋に手を当て、それを注視した。鉱石の明かりに照らされた彼の首のそこに、小さな焼印の跡がある。
少年はやはり邪の者であった。_聖と邪は出生当時の見た目などでは判別できない。その後の検査で邪の者だと判明したのだろう。神聖王国の国民は聖者のみ。『邪』であるならば即刻“追放”される。少年の体には生傷が多く判別がつきにくいが、彼の体には魔獣による傷のほかに、それより以前に付けられたものと思われる痣や鞭打ちの傷痕が残っていた。リツはそれらを見て、ついでゲッカに目を向ける。確認して欲しい、という合図だ。ゲッカは何も言わなかった。彼の表情からは何も読み取れず、何を感じているのかは判らぬが。彼は少年の最期をせめて穏やかに看取ろうとしたことは確かである。少年は最期の瞬間だけ、ひとの温もりを感じて人間としての安心を得ることができた。__邪であるゲッカにとってこの少年がどのような存在なのか。リツには少しわかる気がした。と同時に彼女は自分を恥じた。
膝に目を落とす。はっきりと思い出せない記憶の中で、自分がどれだけ『邪』という存在を貶めてきたかを鑑みた。
「……私は愚かだ。
少年は邪だ、でもそれ以前に。一人の小さな子供。…この子供はきっと。両親に会いたかっただけ。普通に暮らしたかっただけ。“人”と何も相違ない。
それなのに。私はこの子供に手を差し伸べることすら躊躇った。邪だから_というだけで…。
…教えてくれ。私はいったいこれまで何を教えられてきて、私の中の正義はなんだった? かつての私は。…皇女の私は、こんなことが正しいと思い込んでいたのか」
リツは打ち震えた。今だ感情を覚えられないその顔面のままで俯いた。
『邪』とは、邪神の血を受け継ぐ者のこと。破壊を好み、人の苦しみを自らの愉楽とし、欲望のままに生きる存在。そういった神話を、人々は信仰している。帝国という巨大国家を中心としてその信仰は広まった。信心深き聖者は神話をそのまま受け入れ、誇張した。長い年月をかけて、人々の“神話”は進化を遂げ、そのたびに邪の存在は悪に染まる。邪は生きる事を許されなくなってゆく。それがリツの、いや、帝国次期皇帝の正義だった、という。
彼女は今になってその醜悪さに気付いた。
「…」
ゲッカは唇を結んだ。
彼は問いには答えず、少年の遺体を抱き上げて林中に入り、ひとり静かに埋葬の準備を始めた。リツはそれを震える足で追いかけ、彼に手を貸す。彼の埋葬の手際はよく、経験があるように見受けられる。対しリツは、少年の惨い傷跡にいまだ見慣れず、土に埋める手がたびたび止まった。途中で見かねたゲッカは視線で彼女を制した。そしてかぶりを振る。リツは手を引っ込め、少年が従者の手によって埋葬されるのを黙って見届けた。やがて後片付けが済むと、ゲッカは短く埋葬場所に手を合わせた。リツはそれに倣い、少年を追悼する。月の傾いた静かな夜に、野鳥が飛び立つ羽音のみが響いた。
「_少年は、安らかに眠れるだろうか」
「…わかりません。そして、先ほどの質問にも答えかねます。前も言った通り__私があなたに仕えたのはここにくる直前。あなたが今までどのような教えを受けてきたか、あなたがどのような人間であったのか、従属者のなかで継承された事実のみを知る私には何も聞かされていないので。ただ」
「ただ?」
「…ただ、リツ様には当時の記憶がない。
その事実が何某かに関与している可能性があります。あなたが記憶を取り戻すことができたなら、自分について何かわかるかもしれません。ひいては、あなたが何者であるかはあなた自身にしか判らない、ということです」
リツは俯いた。静かな空間に残る死臭が鼻腔に入ってくる。
「記憶…。ゲッカ、あの晩のことだ。お前が私を起こしてくれた、あの晩。私は非常に混乱していた。まるで何か、“恐ろしいこと”でも起きたかのように。そのおかげであの晩の記憶も曖昧だが。私はあそこまで来るまでに、何かされたのでは。それが原因で記憶がなくなったのではと思う」
リツの瞳は光なく翳っている。
「………思い出せない。思い出せないが…お前に教えるよう迫ることはしたくない。
自分の記憶は自分で取り戻したい」
「…」
リツは肩掛けを胸に引き寄せた。夜と高所の寒さが訪れている。リツの手に力が籠った。彼女は居た堪れず目を硬く閉じ、素早く膝を伸ばす。
_取り戻すときはいつ来るのか? _そう思い悩んでも仕方がないことだ、と。ここで時間を浪費してはならない。
「取り乱してすまなかった。行こう」
*
二人は夜のうちに山頂までたどり着いた。ゲッカが言い当てた通り、山頂付近に差し掛かると魔獣がとんと姿を現さなくなり、二人は足止めを食うこともなく早々に山を越えることが可能になりそうだった。
「なぜ山頂付近は魔獣が出ないのだろう」
リツは辺りを見回しつつそう尋ねた。変わらず周囲は鬱蒼とした森林に囲まれてはいるものの、魔獣の険悪な気配は全く感じなくなっている。魔獣の縄張りは広大だ。彼らは無法地帯のほぼ全ての領域を占拠している。
「この山は聖神の領域、『神奈備山』です」
ゲッカの声音はしかし暗いままだ。
「…これを」
彼はある場所で足を止めた。彼は靴底で地面の土を払う。すると、盛り上がった土砂の下から石板のような何かが浮かび出てきた。地面の堆積物によって隠されてきたのだろう。石板の様子から察するに、ここに置かれてから幾千年もの時が過ぎているようだ。土埃に塗れた冷たいそれにリツは触れてみた。手で払ってみると汚れはある程度取れ、すると薄らながら文字らしき彫り跡が現れた。
「……聖神…」
「_“慈悲深き聖神、聖者へ神託を授ける”。この先は古代文字です」
リツはさらに汚れを取って石板を見る。確かにそのような文章が彫られており、その下の奇妙な線型文字はまったく解読できなかった。
「…ん。ここに紋章がある。…なんだろう」
「聖者の魂と共鳴する、といわれる聖神の印章です」
「聖者のたましい」
「ええ。…神奈備山は帝国にある総本山を中心に幾つも点在しています。これはその一つ、聖神の魂を祀るとされる山であり、この証が魔獣を寄せ付けさせません」
流暢に語る従者を見上げて頷いたリツは再び石板に目を落とし、考えた。聖者の魂とは、自分とも共鳴するのであろうか。彼女は思案のすえ、目を伏せて立ち上がる。答えは見つからなかった。
「ゲッカはよく物を知っている」
リツは彼に向かってそう言うと、次いで首を傾げた。
「聖ではないが_。聖についても詳しい。そして帝国以外のことも」
「あなたに記憶がないだけで、一般的な常識だと存じます」
慇懃無礼に言い放ったゲッカは再び足で蹴るようにして石板を土砂に埋めた。手際の良い彼にしては些か乱雑に見えるその行為にリツはまた首を曲げる。
「それは神聖なるものではないのか」
「…べつに。すでに穢れたものです」
「……港で王国民が話していたことか。たしか『神奈備の異変』…」
ゲッカは首肯する。彼は石板から顔を背けて不躾に吐き捨てた。
「二百年前の異変で山はその機能を失い、魔獣が蔓延る無法地帯となった。…これは神々の落ち度」
リツは歩き出した彼の背中を追う。結局彼女は、過去存在したという聖神の気配を感じ取ることはできなかった。
リツは再び思いを巡らせる。聖神とはいったい何を司る神なのであろう、と。
「…ゲッカ、訊いても良いか」
「はい」
「お前はさっき、この山を『聖神の領域』と言った。あの石板を見た限りやはりそうらしい。聖神はかつてこの地を治めたという歴史があるのか? …今、神という存在はどのようなものになっている?」
一通りリツの疑問を聞き終えてから、ゲッカは首を振る。否、の合図だった。
「私は神に関しての専門家ではありません。帝国の人間として最低限の教養は身につけておりますが、いくつも神奈備山があるなかの一つについてもお話しできるほどの知識は持ち合わせておりません」
淡々と告げたのち、さっさと踵を返して先を進む。「そうか」彼女は短く返答して、それ以降問いを投げかけることはしなかった。
_彼は“邪”なんだ。
彼が聖神の全てを知っているわけがない。寧ろ彼は女神を憎んでいようともおかしくない存在なのだ。聖神があるから聖者がいる、となると邪の者は間違いなく『聖』そのものを恨んでいるのではないか。
目の前には邪の者である従者がいる。そんな彼に_その質問をぶつけるには些か無礼だろう。たとえ彼に一寸の抵抗なく“憎んでいる”と答えられても。返す言葉などあるはずが無い。
リツは先を行く忠実な従者の背中を見つめた。
「私と行動をしていて嫌ではないのか」
夜明け方。二人は下山の中途だった。林中から朝日の白い筋が道に差し、小鳥が歌う声が聞こえる。日中は魔獣は出没する頻度が大幅に減少する。一部の例外を除き、昨夜二人が遭遇したような虎や狼はほとんど姿を現さなくなる。リツは少しばかり緊張を解きほぐして、そして夜の暗闇から逃れて彼の顔がよく見えるようになり、このような問いをぶつけるに至った。
並んで歩く二人、リツに問いを掛けられるまで無言で歩き続けていたゲッカは急に足を止めた。
「…は?」
それが第一声だった。
彼は問いには答えず、溜息混じりの声を漏らしたまま彼は今日初めてそこでリツを見返した。
「…嫌な気分にはならないのか」
リツはゲッカの瞳を見つめ返し、無頓着に繰り返す。
「……」
彼は口を閉じた。少しばかり取り乱したことを懸念するかのように目を伏せって、しかし直後には平静を取り戻して面を上げた。
「なりません」
彼の顔面には感情らしきものが見当たらない。朝日に照らされた深い蒼眼にさえも感じさせる心情は何も無く、ただ底のない海が湛えられているのみ。彼の主人は_従者のそれには既に慣れた。今まで何が起ころうと、その瞳が何らかの感情を持った試しなどなかった。そしてリツのその疑問への答えも、彼女には予想できたものだった。
しかし何某かを“期待”して。ほぼ無意識にその問いが出された。
リツは俯く。やはりその回答か、と。
「…本当か」
今日《こんにち》は快晴の空にて始まった。朗らかな青空は山の麓にあった闇を揉み消すように地平線の奥まで及んでいる。朝日が、二人の進行方向から昇ってくる。それは眩しく身体を突き刺した。リツらは夜通し休まず山を越えたので、その光が更に痛く感じる。太陽が辺りを照らし始めると、すぐに気温が上がった。目覚めた野生動物が叢中を駆け抜ける音が風に乗って聞こえてくる。
「嘘はつきません」
はっきりそう言い切った彼に、リツはもう一度視線を送る。今度は疑いをかけて彼を見たつもりだった。その視線には応じず、照らす朝日に構わず前だけを見て歩く彼はもう一度口を開いた。
「前方から人がひとり。来るようです」
「人_」
リツはすかさず背中に突き刺さる鞘に手を触れる。人間と彼は言うが、ならば敵ではないとは言えない。賊_一人で行動するはずがないが_である可能性も否めない。とかく、彼女が剣を持つ手には緊張が走った。
と、リツはすぐに柄から手を離した。
二人は歩調を抑え、前方からする気配に感覚を研ぎ澄ませる。
人_にしてはかなり歩行速度が遅いようだ。微かに聞こえる足音から、千鳥足で歩いていると思われた。呼吸が荒く、時々咳き込む声までも聞こえる。…相当。弱りきった人間のようだ。
リツは先を歩くゲッカを通り抜け、前へ駆け寄った。道を少しばかり下った先に一人の人影が見え、リツはさらに足を早める。突然道を飛び出したリツに、ゲッカは止めようと腕を伸ばすが捕まえられない。仕方なく自分も駆け、リツに追いつかんとした。
「大丈夫か!」
ゲッカがリツに追いついた時には、彼女は既にその人影に声を掛けていた。数歩の先には道に座り込む何者かがおり、大きく背中を上下させている。ただならぬ様子だが、リツは躊躇せず人に近寄った。人間は一人の男性に見える。
「ううう……」
男は思い呻き声を出した。喉から搾り出したような掠れた酷い声色だ。彼の顔色も相まって非常事態を思わせる。何かに怯えているのか、リツの声かけには応じなく、彼女が目の前に膝折るとびくりと身体を震わせた。もう一度彼女は声をかけた。男は慄いて衰弱した悲鳴をあげて顔を上げた。そのまま頭上にいた彼女に驚き尻餅をつく。そのまま動かなくなった。
「…何があった」
リツは注意深く男の顔を観察しながら、もう一度ゆっくりと問いただす。男は小刻みに首を振り、そのまま尻を地面に擦るようにして後退った。見開いた目は血走っており、リツの顔を見ているものの見えていないようだ。
初めて男の姿がわかり、リツは次にかぶりを振った。
「傷が深い。あまり動かない方が」
男の衣服には血が染み付いている。その跡は今も広がっていた。男は右手で左脇腹を押さえる格好をしている。リツは怪我を診るためにさらに彼に近寄った。男は尚も後退する。そこで動き出したのはゲッカだった。
「_うわっ!」
幽霊のようにリツの背後に立っていた彼が急に目の前に現れ、男は驚愕し逃げる余地をなくす。ゲッカは容赦するそぶりを微塵も見せぬ様子で男の衣服を捲し上げ、そのままの勢いで男の薄い羽織りを破った。破った布を出血元に押し付ける。男は苦しげに呻き、悶えた。リツは男の右手首を掴んで布を押さえさせた。麻布に血が滲む。
「強く押さえていろ」
男はリツが言うままにする他なく、ただ傷口を抑えて俯いた。
「もう一度問う。何があった?」
「…あんた達。旅の者か。……これからこの山を下るんだったら。今日はやめておいたほうがいいぞ」
リツは昇った朝日を見やった。
「今日は始まったばかりだが」
「今日は奴らの活動日なんだよ! …っう……!」
喚いた後、震えながらうずくまる。そして男は何も口にしない。出血は止まったものの未だ傷が痛むようだ。しかし、当然ながら彼女はそれを気に留めなかった。顔を近づけて詰問する。
「“奴ら”? 活動日とは」
「…っ__」
男は急に瞳孔を開け、両手で傷口を押し込む。彼は前かがみに、倒れる寸前まで半身を折った。
「_助けてくれ、助けてくれ__ッ!!!」
男は唾を飛ばさん勢いで叫ぶ。それが顔間近での恫喝だった為、リツは思わず顔を引っ込め、ゲッカは二人の間に割って入り、男を睨め付けた。男は血の気の多い人物らしい、顔を赤くして、おそらく増している痛みに抗っている。男の爛々と輝く黒眼とリツの暗い眼の光が交差するなか、彼らの正面より_麓から_一陣の風が通り抜けた。
「!」
リツは男から目を離した。彼の背後に視線を送り、じっと目を凝らす。朝日に照らされた土の地面は僅かに埃が立っており、風に乗ってこちらの方向に流れてくる。麓に降りる岩壁から微かに、何らかの気配が生じている。魔獣の可能性がある、リツは臨戦体制に入った。
「…何か来る」
そのぼやきは男の耳に入ったようだ。彼は目に見えて慌てふためき、膝を立てたままのリツに縋った。
「おいっ、今なんと_!」
リツの肩を乱暴に掴みにかかった男だったが、その手は空を切った。ゲッカが彼の襟首の後ろを引っ掴み、怪我人である事を顧みず後ろに投げたからだ。投げたとは言っても軽く尻餅をつかせる程度の剥がし方だったが、男は苦しげにうめいて地面に転がった。そして横に転がり、そのままぐたりと動かなくなった。怪我の程度に見合わない運動で気を失ったようだ、ゲッカは襟首を再び掴んで身体を起こし、太い木の根元に座らせて幹に背中を預けさせた。
「リツ様」
ゲッカは静かに彼女に呼びかけた。返事はなく、反応もない。彼女はきつく、気配のある方角を睨め付ける。ゲッカは彼女の視線の先を辿り、次いで横目でちらと気絶する男を見やった。そして短く息をつく。呆れの色が混じった吐息であったが、リツには気に留める余裕はなかった。
しかし__想像を超える光景に思わず身を引いてしまった。無意識に鼻と口を抑えようと手が動く。遅れてゲッカがリツの背後からそれを見、は、と短く息を吸い込んだ。
叢の中、地面の上に。十にも満たぬ小さな子供が仰向けに寝そべっていた。赤黒く染め上げられた胸がわずかに上下している。二人が視認したのはその状況のみで、叢の影で子供の仔細な様子はとらえ難かった。
しかし。
「…生きている」
リツはかがみこみ、倒れている子供に手を伸ばした。まだ新しい血肉の臭いとはこれだった。おそらくは、あの魔獣共はこの二人の刺客によって今晩のたのしみを邪魔されたのであろう。肩口から腹にかけて喰い千切られた痕跡がまざまざと残っている。出血は止まらなく、暗い視界の中でも子供の周囲が赤黒く染まっているのがわかった。
「……うう」
子供の口から呻きが漏れる。もとの声音が分からないほどに潰れているが、子供_少年はまだ話すことができるらしい。
「おか……さ…」
一音一音声を絞り出すたびに唇が血汚れた。弱々しく瞼を震わせて、少年は二人を見た。リツと目が合う。
少年は『邪』だった。彼の黒髪は短く切り揃えられており、乱雑に刈られた跡も残されていた。通常なら、夜分、この場所に人の子供がひとりでいるのは不自然だ。しかしその所以は分かりきっていた。
_神聖王国は穢れた人種を許さない。
ゲッカは僅かに目を伏せた。子供が邪の者であり、独りで無法地帯を彷徨い山に入り、魔獣に殺されて死ぬ_いつからかそれは王国にとっての日常に成りかわっていた。
「…っ」
リツは躊躇し、少年に伸ばしかけた片腕を引っ込めた。身体の腐敗が始まっているし、彼の意識はほぼ無に等しい。加えて少年は『邪』。_リツとは真逆の人種である。
リツは知っている。『邪』は忌むべき存在ということを。疎外されるべき者なのだと教えられてきたからだ。記憶こそ無くとも脳には鮮やかにそう刻まれている。故に。リツは本能的に少年を拒んだ。
「お……とう…ん……」
涙が蓄えられた黒の瞳が揺れる。子供の細い腕がぴくりと動き、リツに向かって伸ばしかけた。生気を失いかけた、白く骨張ったそれに対してリツは硬直する。
「たす……け。…」
次いぞリツの肩を叩いて連れ行こうとしたゲッカは改めて微光に照らされた少年の顔を見た。
「…!」
少年が助けを乞うその顔に。しかし生を諦めたような瞳に。彼の中の糸が__何度も結び直したそれが__引張りの力に千切れる音がする。彼の耳には、確かに糸が切れるその音が届いた。…ぶつん、と。彼の体は無意識下に動く。そして動けないリツの背中側にいた彼は血色を変え、少年のそばに膝をついていた。
「ゲッカ」
見上げたリツの声に彼は反応しない。ゲッカは既に少年の顔に自信の顔を近づけて、冷たい頬に手の平を当てた。ひたりと音がする。少年の瞳孔がゲッカを映すのがわかった。リツはそれをただ黙って見ることしか成せなかった。
彼が何をしようとしているのか。その時の彼女には全く見当もつかなかった。
「……」
一筋の涙が頬を伝い、少年は瞳をゆっくりと閉じる。苦しみに耐えかねて震えていた腕や手指は、ゲッカが彼に体温を与えたことにより、緩やかにに地面に沈んでいく。息絶えた少年の顔はおだやかだった。すぐそばにいる彼に甘えすがるように、頬を手に預けて眠っている。ゲッカは掌を、冷えた彼の頬に再度あてがう。少しして、その手を離した。少年の顔を触った手が、膝の上で強く握られる。肌に爪が食い込む音に、リツは我を取り戻された。従者の名前を呼ぶ為に口を開け、しかし呼吸をするにとどまった。
彼女は今度こそ子供の体に触れた。冬の海水のように冷たい。そして岩と等しく硬くなってゆく、小さすぎる体を。リツは少年の首筋に手を当て、それを注視した。鉱石の明かりに照らされた彼の首のそこに、小さな焼印の跡がある。
少年はやはり邪の者であった。_聖と邪は出生当時の見た目などでは判別できない。その後の検査で邪の者だと判明したのだろう。神聖王国の国民は聖者のみ。『邪』であるならば即刻“追放”される。少年の体には生傷が多く判別がつきにくいが、彼の体には魔獣による傷のほかに、それより以前に付けられたものと思われる痣や鞭打ちの傷痕が残っていた。リツはそれらを見て、ついでゲッカに目を向ける。確認して欲しい、という合図だ。ゲッカは何も言わなかった。彼の表情からは何も読み取れず、何を感じているのかは判らぬが。彼は少年の最期をせめて穏やかに看取ろうとしたことは確かである。少年は最期の瞬間だけ、ひとの温もりを感じて人間としての安心を得ることができた。__邪であるゲッカにとってこの少年がどのような存在なのか。リツには少しわかる気がした。と同時に彼女は自分を恥じた。
膝に目を落とす。はっきりと思い出せない記憶の中で、自分がどれだけ『邪』という存在を貶めてきたかを鑑みた。
「……私は愚かだ。
少年は邪だ、でもそれ以前に。一人の小さな子供。…この子供はきっと。両親に会いたかっただけ。普通に暮らしたかっただけ。“人”と何も相違ない。
それなのに。私はこの子供に手を差し伸べることすら躊躇った。邪だから_というだけで…。
…教えてくれ。私はいったいこれまで何を教えられてきて、私の中の正義はなんだった? かつての私は。…皇女の私は、こんなことが正しいと思い込んでいたのか」
リツは打ち震えた。今だ感情を覚えられないその顔面のままで俯いた。
『邪』とは、邪神の血を受け継ぐ者のこと。破壊を好み、人の苦しみを自らの愉楽とし、欲望のままに生きる存在。そういった神話を、人々は信仰している。帝国という巨大国家を中心としてその信仰は広まった。信心深き聖者は神話をそのまま受け入れ、誇張した。長い年月をかけて、人々の“神話”は進化を遂げ、そのたびに邪の存在は悪に染まる。邪は生きる事を許されなくなってゆく。それがリツの、いや、帝国次期皇帝の正義だった、という。
彼女は今になってその醜悪さに気付いた。
「…」
ゲッカは唇を結んだ。
彼は問いには答えず、少年の遺体を抱き上げて林中に入り、ひとり静かに埋葬の準備を始めた。リツはそれを震える足で追いかけ、彼に手を貸す。彼の埋葬の手際はよく、経験があるように見受けられる。対しリツは、少年の惨い傷跡にいまだ見慣れず、土に埋める手がたびたび止まった。途中で見かねたゲッカは視線で彼女を制した。そしてかぶりを振る。リツは手を引っ込め、少年が従者の手によって埋葬されるのを黙って見届けた。やがて後片付けが済むと、ゲッカは短く埋葬場所に手を合わせた。リツはそれに倣い、少年を追悼する。月の傾いた静かな夜に、野鳥が飛び立つ羽音のみが響いた。
「_少年は、安らかに眠れるだろうか」
「…わかりません。そして、先ほどの質問にも答えかねます。前も言った通り__私があなたに仕えたのはここにくる直前。あなたが今までどのような教えを受けてきたか、あなたがどのような人間であったのか、従属者のなかで継承された事実のみを知る私には何も聞かされていないので。ただ」
「ただ?」
「…ただ、リツ様には当時の記憶がない。
その事実が何某かに関与している可能性があります。あなたが記憶を取り戻すことができたなら、自分について何かわかるかもしれません。ひいては、あなたが何者であるかはあなた自身にしか判らない、ということです」
リツは俯いた。静かな空間に残る死臭が鼻腔に入ってくる。
「記憶…。ゲッカ、あの晩のことだ。お前が私を起こしてくれた、あの晩。私は非常に混乱していた。まるで何か、“恐ろしいこと”でも起きたかのように。そのおかげであの晩の記憶も曖昧だが。私はあそこまで来るまでに、何かされたのでは。それが原因で記憶がなくなったのではと思う」
リツの瞳は光なく翳っている。
「………思い出せない。思い出せないが…お前に教えるよう迫ることはしたくない。
自分の記憶は自分で取り戻したい」
「…」
リツは肩掛けを胸に引き寄せた。夜と高所の寒さが訪れている。リツの手に力が籠った。彼女は居た堪れず目を硬く閉じ、素早く膝を伸ばす。
_取り戻すときはいつ来るのか? _そう思い悩んでも仕方がないことだ、と。ここで時間を浪費してはならない。
「取り乱してすまなかった。行こう」
*
二人は夜のうちに山頂までたどり着いた。ゲッカが言い当てた通り、山頂付近に差し掛かると魔獣がとんと姿を現さなくなり、二人は足止めを食うこともなく早々に山を越えることが可能になりそうだった。
「なぜ山頂付近は魔獣が出ないのだろう」
リツは辺りを見回しつつそう尋ねた。変わらず周囲は鬱蒼とした森林に囲まれてはいるものの、魔獣の険悪な気配は全く感じなくなっている。魔獣の縄張りは広大だ。彼らは無法地帯のほぼ全ての領域を占拠している。
「この山は聖神の領域、『神奈備山』です」
ゲッカの声音はしかし暗いままだ。
「…これを」
彼はある場所で足を止めた。彼は靴底で地面の土を払う。すると、盛り上がった土砂の下から石板のような何かが浮かび出てきた。地面の堆積物によって隠されてきたのだろう。石板の様子から察するに、ここに置かれてから幾千年もの時が過ぎているようだ。土埃に塗れた冷たいそれにリツは触れてみた。手で払ってみると汚れはある程度取れ、すると薄らながら文字らしき彫り跡が現れた。
「……聖神…」
「_“慈悲深き聖神、聖者へ神託を授ける”。この先は古代文字です」
リツはさらに汚れを取って石板を見る。確かにそのような文章が彫られており、その下の奇妙な線型文字はまったく解読できなかった。
「…ん。ここに紋章がある。…なんだろう」
「聖者の魂と共鳴する、といわれる聖神の印章です」
「聖者のたましい」
「ええ。…神奈備山は帝国にある総本山を中心に幾つも点在しています。これはその一つ、聖神の魂を祀るとされる山であり、この証が魔獣を寄せ付けさせません」
流暢に語る従者を見上げて頷いたリツは再び石板に目を落とし、考えた。聖者の魂とは、自分とも共鳴するのであろうか。彼女は思案のすえ、目を伏せて立ち上がる。答えは見つからなかった。
「ゲッカはよく物を知っている」
リツは彼に向かってそう言うと、次いで首を傾げた。
「聖ではないが_。聖についても詳しい。そして帝国以外のことも」
「あなたに記憶がないだけで、一般的な常識だと存じます」
慇懃無礼に言い放ったゲッカは再び足で蹴るようにして石板を土砂に埋めた。手際の良い彼にしては些か乱雑に見えるその行為にリツはまた首を曲げる。
「それは神聖なるものではないのか」
「…べつに。すでに穢れたものです」
「……港で王国民が話していたことか。たしか『神奈備の異変』…」
ゲッカは首肯する。彼は石板から顔を背けて不躾に吐き捨てた。
「二百年前の異変で山はその機能を失い、魔獣が蔓延る無法地帯となった。…これは神々の落ち度」
リツは歩き出した彼の背中を追う。結局彼女は、過去存在したという聖神の気配を感じ取ることはできなかった。
リツは再び思いを巡らせる。聖神とはいったい何を司る神なのであろう、と。
「…ゲッカ、訊いても良いか」
「はい」
「お前はさっき、この山を『聖神の領域』と言った。あの石板を見た限りやはりそうらしい。聖神はかつてこの地を治めたという歴史があるのか? …今、神という存在はどのようなものになっている?」
一通りリツの疑問を聞き終えてから、ゲッカは首を振る。否、の合図だった。
「私は神に関しての専門家ではありません。帝国の人間として最低限の教養は身につけておりますが、いくつも神奈備山があるなかの一つについてもお話しできるほどの知識は持ち合わせておりません」
淡々と告げたのち、さっさと踵を返して先を進む。「そうか」彼女は短く返答して、それ以降問いを投げかけることはしなかった。
_彼は“邪”なんだ。
彼が聖神の全てを知っているわけがない。寧ろ彼は女神を憎んでいようともおかしくない存在なのだ。聖神があるから聖者がいる、となると邪の者は間違いなく『聖』そのものを恨んでいるのではないか。
目の前には邪の者である従者がいる。そんな彼に_その質問をぶつけるには些か無礼だろう。たとえ彼に一寸の抵抗なく“憎んでいる”と答えられても。返す言葉などあるはずが無い。
リツは先を行く忠実な従者の背中を見つめた。
「私と行動をしていて嫌ではないのか」
夜明け方。二人は下山の中途だった。林中から朝日の白い筋が道に差し、小鳥が歌う声が聞こえる。日中は魔獣は出没する頻度が大幅に減少する。一部の例外を除き、昨夜二人が遭遇したような虎や狼はほとんど姿を現さなくなる。リツは少しばかり緊張を解きほぐして、そして夜の暗闇から逃れて彼の顔がよく見えるようになり、このような問いをぶつけるに至った。
並んで歩く二人、リツに問いを掛けられるまで無言で歩き続けていたゲッカは急に足を止めた。
「…は?」
それが第一声だった。
彼は問いには答えず、溜息混じりの声を漏らしたまま彼は今日初めてそこでリツを見返した。
「…嫌な気分にはならないのか」
リツはゲッカの瞳を見つめ返し、無頓着に繰り返す。
「……」
彼は口を閉じた。少しばかり取り乱したことを懸念するかのように目を伏せって、しかし直後には平静を取り戻して面を上げた。
「なりません」
彼の顔面には感情らしきものが見当たらない。朝日に照らされた深い蒼眼にさえも感じさせる心情は何も無く、ただ底のない海が湛えられているのみ。彼の主人は_従者のそれには既に慣れた。今まで何が起ころうと、その瞳が何らかの感情を持った試しなどなかった。そしてリツのその疑問への答えも、彼女には予想できたものだった。
しかし何某かを“期待”して。ほぼ無意識にその問いが出された。
リツは俯く。やはりその回答か、と。
「…本当か」
今日《こんにち》は快晴の空にて始まった。朗らかな青空は山の麓にあった闇を揉み消すように地平線の奥まで及んでいる。朝日が、二人の進行方向から昇ってくる。それは眩しく身体を突き刺した。リツらは夜通し休まず山を越えたので、その光が更に痛く感じる。太陽が辺りを照らし始めると、すぐに気温が上がった。目覚めた野生動物が叢中を駆け抜ける音が風に乗って聞こえてくる。
「嘘はつきません」
はっきりそう言い切った彼に、リツはもう一度視線を送る。今度は疑いをかけて彼を見たつもりだった。その視線には応じず、照らす朝日に構わず前だけを見て歩く彼はもう一度口を開いた。
「前方から人がひとり。来るようです」
「人_」
リツはすかさず背中に突き刺さる鞘に手を触れる。人間と彼は言うが、ならば敵ではないとは言えない。賊_一人で行動するはずがないが_である可能性も否めない。とかく、彼女が剣を持つ手には緊張が走った。
と、リツはすぐに柄から手を離した。
二人は歩調を抑え、前方からする気配に感覚を研ぎ澄ませる。
人_にしてはかなり歩行速度が遅いようだ。微かに聞こえる足音から、千鳥足で歩いていると思われた。呼吸が荒く、時々咳き込む声までも聞こえる。…相当。弱りきった人間のようだ。
リツは先を歩くゲッカを通り抜け、前へ駆け寄った。道を少しばかり下った先に一人の人影が見え、リツはさらに足を早める。突然道を飛び出したリツに、ゲッカは止めようと腕を伸ばすが捕まえられない。仕方なく自分も駆け、リツに追いつかんとした。
「大丈夫か!」
ゲッカがリツに追いついた時には、彼女は既にその人影に声を掛けていた。数歩の先には道に座り込む何者かがおり、大きく背中を上下させている。ただならぬ様子だが、リツは躊躇せず人に近寄った。人間は一人の男性に見える。
「ううう……」
男は思い呻き声を出した。喉から搾り出したような掠れた酷い声色だ。彼の顔色も相まって非常事態を思わせる。何かに怯えているのか、リツの声かけには応じなく、彼女が目の前に膝折るとびくりと身体を震わせた。もう一度彼女は声をかけた。男は慄いて衰弱した悲鳴をあげて顔を上げた。そのまま頭上にいた彼女に驚き尻餅をつく。そのまま動かなくなった。
「…何があった」
リツは注意深く男の顔を観察しながら、もう一度ゆっくりと問いただす。男は小刻みに首を振り、そのまま尻を地面に擦るようにして後退った。見開いた目は血走っており、リツの顔を見ているものの見えていないようだ。
初めて男の姿がわかり、リツは次にかぶりを振った。
「傷が深い。あまり動かない方が」
男の衣服には血が染み付いている。その跡は今も広がっていた。男は右手で左脇腹を押さえる格好をしている。リツは怪我を診るためにさらに彼に近寄った。男は尚も後退する。そこで動き出したのはゲッカだった。
「_うわっ!」
幽霊のようにリツの背後に立っていた彼が急に目の前に現れ、男は驚愕し逃げる余地をなくす。ゲッカは容赦するそぶりを微塵も見せぬ様子で男の衣服を捲し上げ、そのままの勢いで男の薄い羽織りを破った。破った布を出血元に押し付ける。男は苦しげに呻き、悶えた。リツは男の右手首を掴んで布を押さえさせた。麻布に血が滲む。
「強く押さえていろ」
男はリツが言うままにする他なく、ただ傷口を抑えて俯いた。
「もう一度問う。何があった?」
「…あんた達。旅の者か。……これからこの山を下るんだったら。今日はやめておいたほうがいいぞ」
リツは昇った朝日を見やった。
「今日は始まったばかりだが」
「今日は奴らの活動日なんだよ! …っう……!」
喚いた後、震えながらうずくまる。そして男は何も口にしない。出血は止まったものの未だ傷が痛むようだ。しかし、当然ながら彼女はそれを気に留めなかった。顔を近づけて詰問する。
「“奴ら”? 活動日とは」
「…っ__」
男は急に瞳孔を開け、両手で傷口を押し込む。彼は前かがみに、倒れる寸前まで半身を折った。
「_助けてくれ、助けてくれ__ッ!!!」
男は唾を飛ばさん勢いで叫ぶ。それが顔間近での恫喝だった為、リツは思わず顔を引っ込め、ゲッカは二人の間に割って入り、男を睨め付けた。男は血の気の多い人物らしい、顔を赤くして、おそらく増している痛みに抗っている。男の爛々と輝く黒眼とリツの暗い眼の光が交差するなか、彼らの正面より_麓から_一陣の風が通り抜けた。
「!」
リツは男から目を離した。彼の背後に視線を送り、じっと目を凝らす。朝日に照らされた土の地面は僅かに埃が立っており、風に乗ってこちらの方向に流れてくる。麓に降りる岩壁から微かに、何らかの気配が生じている。魔獣の可能性がある、リツは臨戦体制に入った。
「…何か来る」
そのぼやきは男の耳に入ったようだ。彼は目に見えて慌てふためき、膝を立てたままのリツに縋った。
「おいっ、今なんと_!」
リツの肩を乱暴に掴みにかかった男だったが、その手は空を切った。ゲッカが彼の襟首の後ろを引っ掴み、怪我人である事を顧みず後ろに投げたからだ。投げたとは言っても軽く尻餅をつかせる程度の剥がし方だったが、男は苦しげにうめいて地面に転がった。そして横に転がり、そのままぐたりと動かなくなった。怪我の程度に見合わない運動で気を失ったようだ、ゲッカは襟首を再び掴んで身体を起こし、太い木の根元に座らせて幹に背中を預けさせた。
「リツ様」
ゲッカは静かに彼女に呼びかけた。返事はなく、反応もない。彼女はきつく、気配のある方角を睨め付ける。ゲッカは彼女の視線の先を辿り、次いで横目でちらと気絶する男を見やった。そして短く息をつく。呆れの色が混じった吐息であったが、リツには気に留める余裕はなかった。
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