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第3章

【3-96】あれが初恋だったなら

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「陛下からの伝言をお伝えいたします。両隣国の使者の方が此方へいらっしゃるそうです。それに伴いまして、ライアン様にはお戻りいただきたいとのことでございますが、如何いたしましょうか」

 隣国との話し合いは終わったのだろう。時計を確認すると、予定していた終了時刻となっていた。

「分かった。私は戻ろう」

 ライアンはそう言って、素直に立ち上がる。元々、彼が地下牢から出る時間には制限があり、隣国からの公式の使者と罪人を引き合わせるわけにはいかないのだから、そうするのが正しいのだろう。それは分かっていても、キリエは物寂しさを感じてしまった。

「ライアン。相談したいことがあるとき、会いに行ってもいいですか?」

 ライアンはキリエを振り向き、僅かに目を瞠る。そして、静かに頷いた。

「ああ、勿論だ。君には優秀な側近がついているのだから、私が出る幕はそうそう無いだろうが、何か助言できることがあるのなら、いくらでも」
「ありがとうございます。地下は寒いでしょう ?お体に気をつけて」
「……君も、気になることは多いだろうが、まずはきちんと療養したまえ。……ジャスミンも、あまり張り切りすぎず、健やかに過ごすといい」
「ありがとう、ライアン。あなたも、元気でね。わたしも、今度、地下まで顔を見に行くわ」

 兄弟たちを穏やかな眼差しで見た後、ライアンは表情を改めてローザの方へ歩き出す。

「すぐに地下へ戻る。供をしてもらえるか」
「はっ! 御意にございます。リリーは御客人の先導役を担うために離れておりますので、私とブルーノが御供いたします」
「うむ。よろしく頼む」

 言葉の響きこそ尊大であるものの、ライアンの声音には相手への感謝や思いやりの気持ちが溶け込んでいる。以前よりも人間らしい雰囲気になったライアンは、しゃんと背を伸ばして退室してゆく。その両隣を固めつつ、ローザとブルーノも一礼して部屋を出て行った。

「……行っちゃったね」

 今までも騒がしかったわけではないのだが、ライアンとブルーノが去ったことで妙に静けさが強調されているような室内を眺めつつ、ジャスミンがぽつりと呟く。

「わたしね、ライアンに会うのがなんとなく怖かったの。だから、これまで地下牢に足を運んだこともないわ」
「……どうして怖かったのかは、訊いても大丈夫ですか?」
「ええ、勿論。ふふっ、やっぱりキリエは優しいね」

 水色の姫君は、つい今しがたまでライアンが座っていた椅子を見つめて微笑んだ。

「わたしはね、もう以前のようにはライアンを好きではないと思うの。前にキリエにわたしは恋をしているのかって尋ねたことがあったでしょ? あの当時のわたしの気持ちが恋だったとしても、今はもう絶対に違うと言い切れるわ。……でもね、わたしはライアンを嫌いになりたくはなかったの。嫌な考え方をする人だなって思うし、キリエやジェイデンを傷つけたことは許しがたいわ。……だけど、幼いわたしを気遣って優しく接してくれたのも事実だもの。そんな人を嫌いになるなんて、嫌だったの」

 複雑な感情に聞こえるが、彼女の言わんとしていることがキリエは理解できたし、共感できるとさえ思った。とはいえ、どう言葉にしたらよいのか分からず、キリエは頷くことしか出来ない。それでもジャスミンは、嬉しそうに笑みを深める。

「ありがとう、キリエ。いつもわたしの話を真剣に聞いてくれて」
「いえ、そんな……、僕は気の利いた言葉を返すことも出来なくて申し訳ないなと思っているのですが……」
「ううん、いいの。ただ聞いてもらうって、すごく幸せなことよ。肯定してほしいわけじゃないけど、否定してほしくもない、ただ聞いてほしい、そう思うことって結構あるけど、それを叶えてくれる人は少ないもの」

 彼女の言葉に一番深く頷いたのは、リアムだった。彼もまた、ぽつりぽつりとキリエに話をしては「聞いてもらえるだけで癒される」と、よく言っている。
 ジャスミンは夜霧の騎士に微笑みかけてから、どこかさっぱりとした顔つきになった。

「あーあ、わたしの初恋がライアンだったらいいのにな」
「えっ、そうなのですか? ……でも、今は確実に恋をしていないのですよね?」
「そうよ。だからこそ、それが初恋なほうがいいんじゃない。初恋は叶わないって言うでしょ? だったら、次に好きになった人とはきっと上手くいくって思えるもの」

 ジャスミンは、にっこりと笑う。どこか悪戯めいていて、強かで、けれど純粋で、せつなさと明るさを共存させた笑顔だった。
 その表情を目の当たりにして、彼女は本当に異母兄に恋していたのかもしれない、とキリエは思った。この笑顔は恋をしていた者が見せるものなのではないか、と。同時に、それは自分には縁の無いものであるとも感じる。恋心が理解できないキリエが、同じような表情を浮かべることはきっと無いのだろう。
 羨ましいというよりも、眩しく思う心地で、キリエは曖昧に微笑んだ。兄弟のそんな顔を見て何か思うところがあったのかジャスミンが唇を開きかけたそのとき、扉がノックされる音が響く。

「失礼いたします! アルス市国ならびにモンス山岳国よりの使者の方々をお連れいたしました」

 リリーの声が聞こえると同時にダリオが近づいていき、そっと扉を開いた。
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