あの夏に嗤われて

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第4話 喧噪

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「櫂斗」

 昼下がりの駅前では、誰もが真っ赤な顔でふうふうと苦しそうに階段を上り下りしている。御多分に洩れず僕も次から次へと流れ落ちる汗を拭って深呼吸した。本当に酷い汗だ、今すぐ家に帰ってシャワーを浴びたい。
 ひょっとして、目指す場所はプールだろうか。冷たい水の気持ちよさを存分に味わうために、わざわざこんなうだるような暑さの中歩いているのかもしれない。

 そんな僕の前向きな想像は、三歩歩いたところで打ち消された。思い出した、七海はかなづちだ。プールに連れて行かれることは、まずないだろう。

 ぬるりと肺を満たす腐ったような潮の香りが、少しずつ濃く、熱くなっているように感じられる。人混みで小さな彼女を見失わないように手でも繋ぐべきかと思案したけれども、手汗が酷いとまた馬鹿にされるんだろうなと思い、やめにした。


 七海は暑さなどどこ吹く風で、ワクワクした顔で深紅ののぼりを指さした。駅前の賑わいに似合わない、ひっそりと生い茂った木々のなかにある神社に惹かれたみたいだ。

「おみくじ、やろ」
「ここが行きたかったとこ?」
「ううん、違うけど」
「じゃあいいや」
「なんでよーけちー!」
「ああもう、騒ぐなよ!」

 ぎゃあぎゃあと言い争う僕を、通行人がじろじろ怪訝そうな顔で眺めながら通り過ぎていく。少しばつが悪くなって、七海を手招きして神社の前によけた。

 うっそうと茂る林の中を一部分だけ切り取ったように、真っ赤なのぼりが左右に並んで道を作っている。のぼりの終点に立つ色あせた鳥居の奥は、影になっていてうかがい知れない。そこから流れ出してきた生ぬるい風に、こめかみを伝う汗がすうっと冷えた。

「ね、どうしてダメなの?」

 七海が淡々と尋ねる。その何気ない無表情が空恐ろしく感じられて、目をそらした。毒々しい赤をしたのぼりがはたはたと揺れる。鳥居の向こう側に、人の気配はない。

「……なんとなく、嫌な感じがする」
「嫌な感じ?」
「そう。もういいだろ」

 ふうん、と抑揚のない声で七海は相槌を打った。しかし次の瞬間、にやりと笑って僕を嘲った。

「とか言っちゃって、本当はここ心霊スポットだから怖いんでしょ。ヘタレ」
「え、そうなの?」
「とぼけちゃってー。駅の反対側にある祟りの松の木とセットで有名じゃん」
「全然知らなかった」
「何それ、もしかして知らないけど感じちゃいました~って霊感アピール?」

 七海は両手を前に垂らして、ゆらゆらとわざとらしく揺らしてみせる。溜息をつくと、ばーか、と言って彼女が笑った。口を開いた拍子に見えた舌が、のぼりと同じ色で光る。

「幽霊なんて、いるわけないじゃん」

 僕の返事を待たずして、彼女はスタスタと歩き出した。僕も慌てて先を急ぐ。小さなつむじを見ながら、あと何十分歩けばたどり着くのだろうかと、疲労を溜息と一緒に吐き出したときだった。

 
「あの」


 どこかで聞いたような声に振り返ると、先程すれ違った女が立っていた。正面から顔を見ても名前を思い出せなくて難しい顔をする僕に、七海が横から背伸びをして囁く。

「この人……飛鳥あすか、なにちゃんだっけ」


 名字がわかっただけでも御の字だ。

「ええと、飛鳥さん、だっけ」
「櫂斗君」

 追いかけて良かった、と飛鳥さんはホッとした表情で呟いた。

「もう、外に出られるようになったんだ」
「出たくて出たわけじゃないよ。こんな気温で進んで外出するやつの気が知れないね」
「……えっと、そうじゃなくて」

 続く言葉を待ったけれども、飛鳥さんは視線を落として気まずそうに口ごもった。小さく溜息をつく。話しづらいのなら、最初から話しかけなければいいのに。

「あの、櫂斗君、元気になったかなって」
「別に、何か病気を患った記憶はないけど」

 先程までと打って変わって、後ろで七海が、やけに静かだった。沈黙の代わりに、シュワシュワと蝉の声が反響する。

「きょ、今日は、どこに行くの?」
「知らない。七海のやつに連れ回されてるだけだから」
「えっ?」
「だから、七海について行ってるだけで行き先は知らないんだ。もういい加減教えてくれたっていいと思うけど?」

 親指で七海を指してそう言ったけれど、よそいきの笑みを浮かべて首を振るだけで相変わらず行き先を教える気はなさそうだ。

 軽く舌打ちをすると、本当だったんだ、と飛鳥さんは小さく言った。

「え?」
「本当だったんだ、あの噂」
「さっきから何、言いたいことがあるならはっきり」
「櫂斗君が!」

 僕を遮って、飛鳥さんは声を荒らげた。僕を見つめるその目には、はっきりと怯えの色が見て取れた。



「櫂斗君が、おかしくなったって。
 ——七海ちゃんが死んでから」



「……は?」

 蝉の音が、スッと遠のいていく気がした。

「今日もすれ違ったときからずっと一人で喋ってるし、絶対おかしいと思って。ね、こんなこと言うのもなんだけど……病院行こ? このままじゃダメだよ。七海ちゃんのことは本当に辛いと思うけど、でもずっと引きずったままだと七海ちゃんだって浮かばれない——」

「待って」


 思わず、飛鳥さんの二の腕を掴んだ。

「何、言ってるんだよ」
「えっ」

 この人は、何を言ってるんだ?

「何馬鹿なこと言ってんだよ。七海が死んだなんて、そんな」
「櫂斗君、腕、痛い……」
「だって! だって、七海は、ここに」

 さあっと、一陣の風が吹いた。



「いないよ、ばーか」



「えっ……?」



 後ろを振り返ると——そこには、誰もいなかった。


「なん、で」
「櫂斗君、落ち着いて」

 そんなはず、ない。

「なんで、だってさっきまですぐ側に居たのに」
「痛い、離して……」

 強く握りしめると、骨と肉の間に指がめり込んでいくのがわかった。

「お前が、お前があんなこと言うから七海が」
「痛っ……」

 女の顔がますます歪む。

「お前のせいで」
「離してってば!」


 腕を掴んでいた手が振りほどかれる。飛鳥さんは肩で息をしながら、涙目で俺を睨んだ。

「やっぱり、おかしいよ、櫂斗君」
「ご、ごめん」
「私……ごめん、こんなこと言いに来たんじゃ、なかったのに」

 振り払われた手は、行き場をなくしてダラリと垂れ下がった。飛鳥さんが足早に立ち去っていくのを止める力など、どこにも残っていなかった。

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