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第1章 またね

第6話 港

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 ボランティアサークルの石井くんと一緒にシーツの交換をしていると、職員から声が掛かった。

「君たち、それ終わったら散歩のお手伝いに行ってもらえるかな」

 こころよく返事をして、シーツの交換を終えた俺たちは、職員一人と共に何人かの入所者を連れて外に出た。俺と石井くんで、それぞれ1台ずつの車椅子を押して歩く。施設を出て緑道をゆっくりと歩き、広めの公園に着いた。

「吉田さん、あっちのベンチが空いてますよ」
「おばあちゃん、あそこでいいですか?」
「はい。ありがとうね」

 ベンチのそばまで車椅子を押し、俺と石井くんは木製のベンチの座面の上の葉っぱなんかを手で払って座る。歩ける人達が職員と一緒に軽く体操をしている光景を眺める。隣では石井くんが、連れてきた車椅子の入所者の一人と楽しそうに話をしている。

 石井くんは俺が平日に勤務する大学のボランティアサークルの代表で、よく学生課の窓口に来るので見知った仲だ。茶髪で黒縁メガネ、童顔の気さくな学生。今日、俺が栗谷くりたにさんの誘いで施設の手伝いのために訪問したら、個人のボランティアとして参加している彼と出くわした。

「あなたは初めて見るわねぇ。石井さんよりとしに見えるけど、お友達?」
「友達……まあ、そんなもんです。石井くんはよくここに来るんですか」
「わたしは物覚えが悪いけど、わたしが名前を知ってるくらいだから、何回も来てるんじゃないかしら」

 なるほど、そういう風に知り合いを見分けてるのか。なら、しばらくしてまた来ても、この人は俺を覚えてないのかもな。俺のばあちゃんは、まだしっかりしてて、俺が遊びに行くといつも、海老の天ぷらを揚げてくれる。いつまでも元気でいて欲しいものだ。

「若い人が来てくれると、みんな元気になるわ。普段はみんな、お食事じゃない時は、お部屋にこもってばかりだもの」

 このおばあちゃんによると、平日も職員は外に連れ出そうとするが、体の調子が悪いとか、天気が良くないとか色々理由をつけて外に出ようとしない人が多いらしい。それでも、土日に若者が来て誘うと、皆なんだかんだで外に出るという。

「刺激が欲しいのよねぇ。とにかく退屈だから」
「俺たちもおんなじですよ。家にひとりで居たって暇なんで、こうやって誰かに会って話をしてる方がいいです」
「あら、若い人はゲームとかするんじゃないの? わたしがおうちにいた頃は、孫はいっつもゲームばかりしてたわよ。ずっと会ってないから名前も忘れちゃったけど」

 そう言って、おばあちゃんはコロコロと笑う。孫よ……。

「俺もこの小さい画面でゲームはしますけど、最近はあんまりやってないですね。忙しいのと、最近色々あって、それどころじゃないというか」
「学生さんは忙しいのね。でも、ちゃんと勉強しなきゃ駄目よ。大人になると分かるけど、学生の時しか勉強する時間なんてないんだから」
「……分かりました。ちゃんと勉強します」

 俺、童顔じゃないけど、おばあちゃんから見たら学生に見えるのかな。公園を見渡すと、公園に遊びに来てる子供も、入所者と一緒に体操しているようだ。その微笑ましい光景に、今日ここに来て良かったと思った。俺は、おばあちゃんの薬指にはまった指輪を見る。

「おばあちゃん、ちょっときたいんだけど。相談」
「なあに? 相談なんてあらたまって」
「いや、その……おばあちゃんはずっと結婚生活を続けてるのかな」
「そうよー。わたしはお見合いで結婚して、旦那が亡くなるまで、ずっと一緒だったわ」
「あの、もし差し支えなかったらだけど、ほんとに言いたくなかったら答えなくてもいいんだけど。旦那さんが亡くなった時、どう思った? どういう……」
「うーん。亡くなった時は結構ドタバタしてて、それからもすごく大変だったから、なにを思ったかって言われてもねぇ。あ、ちょっと待って」

 おばあちゃんはポーチを開けて、古い革の名刺入れのようなものを取り出した。それを開いて、いくつかある小さな写真から1枚選び、俺に手渡した。

「それが旦那。カッコいいでしょう」
「確かに、俳優みたいですね。めちゃくちゃ綺麗な顔の方ですね」
「いやだぁ、褒め過ぎよ。でもね彼、すごくモテたのよ。それでも、わたしが知る限りは浮気なんてしなかったわ。わたしは、ずっとわたしと旦那と息子2人の世界にいたけど、きっと彼には色んなお誘いがあったと思うの。それでも、わたしは愛されてたって、今でも楽しい思い出ばっかり覚えてる。時々ね、その写真を見て彼を思い出すの」

 ここにも甲斐性キングがいたか。すごいよな。俺には何年も何年も同じ環境で飽きずに生活していくことなんて出来るんだろうか。俺はおばあちゃんに丁寧な仕草で写真を返す。おばあちゃんは、宝物を触るように大事に、また名刺入れに写真を戻してポーチにしまった。その表情はとても優しく、柔らかい陽光に照らされたしわは、幸せそうな笑顔の輪郭を作り出していた。

「そろそろ戻りまーす。集合して下さい」

 俺と石井くんはまた車椅子を押して、施設までの道を歩く。

「吉田さんはこの後、何か演奏するんでしたっけ」
「俺じゃなくて栗谷さんがな。俺はみんなと一緒に聴くだけ」
「あの人、前も一回ここで演奏してましたよ。確かその時は、吉田さんじゃない男の人と一緒に来て、その男の人が歌ってました」

 なるほど、前のボーカルさんと来てたのだろう。もしかすると、彼女はひとりで何かするのが苦手な人なのかも知れない。なら今、俺と電話したり、こうして活動に誘うのも、寂しさを感じないようにしてるだけなのかもな。

 施設の玄関の前で車椅子の車輪についた砂を落として、中へ押していく。一緒にエレベーターが降りてくるのを待っていると、おばあちゃんがこちらへ振り向いて微笑む。

「久しぶりに昔のことを思い出して楽しかったわ。あなたも大事な人には、その気持ちをちゃんと伝えるのよ。一回きりの言葉じゃなくて、毎日、それを態度で示すの」
「……分かりました。ありがとうございます」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 食堂のテレビスペースからテレビが取り払われ、簡易なイベントステージみたいになっていた。すでに有志による落語の演目が披露されていた。俺は石井くんに小さい声で聞く。

「あれってもしかして、ウチの落研? あの子、見たことある気がするんだけど」
「そうですよ。1年生だけど一番上手い子です。高校の時から、たまにここでやってるんです。っていうか、僕の彼女です」

 そういう繋がりね。石井くんとこんな話、したことなかったな。そりゃ書類を受け付けてるだけじゃそんな話はしないか。
 途中から聴いたから何の演目なのか分からないけど、入所者はみんな、真剣に聴き入っていた。時々まばらに笑い声が起き、最後の言葉が放たれると、盛大な拍手が食堂に響いた。

「盛り上がったな、流石さすが
「僕はいまだに理解できてませんが、いつも結構、喜ばれてるみたいですね」
「話、ちゃんと理解してやってよ……」

 ステージ横のめくりが変わり、演歌の時間になった。アコースティックギターを携えて栗谷さんがステージに上がる。ステージの近くにベッドごと移動したおばあさんを見て、微笑みかけながらペグを回し、軽く弦を弾いて音を確かめる。栗谷さんのおばあさんは、今日は体調が良くないらしく、この時間だけ彼女の演奏を聴くために部屋から出ているようだ。

 大きく息を吸い込み、栗谷さんの演歌が始まった。しっかりとこぶしを入れて歌っていく。マイクを使わずに、食堂全体にうねるような歌声が響く。やっぱり、すごく上手い。演奏も上手いが、歌声が直接身体を揺らし、体内を風のように通り過ぎていく。それでも前は、別の人に歌を任せていたんだ。どんだけすごい人だったんだろう。

「歌、めっちゃ上手いですね、栗谷さん。僕、大学祭の時は屋台の中で少し聴いてたけど、広場に行けば良かったかも」

 曲間に石井くんが拍手をしながらささやいた。
 栗谷さんは彼女のおばあさんを見ながら3曲弾き語りで歌い、最後の弦の響きが収まると、食堂全体から温かい拍手が送られた。おばあさんは目をつむったままなので表情は分からないが、きっと……。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 栗谷さんが海を見たいと言うので、遠回りをして一駅先まで歩くことにした。俺達は、ウォーターフロントをゆっくりと歩いて行く。空を見上げると、雲の切れ間から月明かりが漏れている。夜の海は、遠くの工場の赤、黄、緑の光を反射しながら、静かに揺らいでいる。

「今日はありがとう。一緒に来てくれて」
「結局、ボラサーの子の手伝いに来たみたいになったんですけどね」
「そんなことないよ。吉田くんがいたから、私はずっとおばあちゃんとお話しできたんだもの。それに、歌も聴いててくれた。それで十分」
「そう、なら良かった」

 栗谷さんは立ち止まり、辺りを見回す。

「ねえ。ミスチル好きなんだよね」
「え、うん。いっつも聴いてるけど」
「今日のお礼に、1曲弾いても、いいかな」
「ここで?」

 俺もぐるっと景色を見回す。俺たちが世界から取り残されているかのように、他の人影は見当たらない。栗谷さんはケースからアコースティックギターを取り出す。俺は少し離れた階段に座る。
 彼女は俺の顔を見ながら、弦を軽く弾いて調整する。そしてうなずくと、コードをかなで始めた。

 『and I love you』だ。

 原曲のキーはけっこう高いけど、流石さすが、しっかりした歌声が港に響き渡る。栗谷さんは俺の目を見ながら、歌い続ける。彼女の口からファルセットが放たれるたびに、俺の胸にその想いが溜まっていく気がする。

 ……ああ、これが、彼女の気持ちか。

 夜の海をバックに、体を揺らしながらギターを弾いて歌う姿に、俺は釘付けになる。なにも考えられず、ただ受けとめることしかできない。この時間が永遠に続けばいいのに、曲は終わりへ近づいていく。

 何度もファルセットを重ね、最後の弦の音が夜闇に溶けていった。俺は拍手をするのも忘れて、彼女の姿を黙って眺めていた。

「……届いたかな」
「うん。届いた。ここまでしっかり響いてきた」

 俺は自分の胸にこぶしを当てる。
 栗谷さんが、絞り出すような声で言う。

「これが、私の答え」

 俺はしばらくうつむいて、言葉を考える。そしてもう一度、栗谷さんを見る。

「あのさ、俺は色んなこと、諦めてきたんだ。何もかも続かなくて、逃げ出してばかりで。なんの才能も無いし、人としての魅力だって無いと思う」

 彼女は俺を見つめたまま、真剣な表情で聞いている。

「だから俺がここで何を言ったって、成績の悪い営業マンが商品を売り込もうとするようなモンだと思うんだ」

 彼女は吹き出し、笑い転げる。ひとしきり笑った後、笑顔で言う。

「ヘタな例え。吉田くんに歌詞を書く才能が無いのは分かったよ」
「だけどさ」

 俺は立ち上がる。

「俺は今、あこがれてる。君の才能にも、君自身にも。あと、君と一緒に、君のそばにいる俺にも、憧れてるんだ」
「……うん」
「色んなこと諦めてきたけど、この憧れは諦めたくない。捨てたくない。叶え続けたいと、思ってるんだ」

 彼女は笑顔を見せる。夜の海のきらめきも、月明かりで照らされたその笑顔も、俺にはまぶしすぎる。それでも、しっかりと見つめ続ける。
 そして、笑顔のままで、答えてくれた。

「ありがと。私にもその憧れ、叶えるの手伝わせてよ」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 俺たちは、もう二駅先まで話をしながら歩いた。音楽の話、漫画の話、小説の話。漫画も小説も、ほとんど同じものを読んでいなかったから、今度、おすすめの本を貸し合うことにした。栗谷さんは、冗談で、一緒に住んだらいつでも読めるのにと言って笑った。そんな風にお喋りをしながら、気付けば駅に着いてしまっていた。

 乗る電車が違うので、改札を通った後、別々のホームに向かう。線路を挟んで反対側のホームに栗谷さんが立つ。ちょうど、彼女の方の電車が駅に近付いてくるところだった。

 彼女は俺を見つけて、両手を頬に当て、大声を出す。

「吉田くんは色々諦めてきたけど、それで良かったんだよ!」

 線路の上の闇を超えて、彼女の声が俺の体を吹き抜けていく。

「だって、私に出逢えたんだから!」

 俺の涙が頬を伝い、ホームに落ちていく。

 電車が彼女の姿を隠す。電車に乗り込んだ彼女は、こちら側の窓に近付き、手を振る。俺も、大きく手を振り返す。

 電車が走り去って行く。俺は、ずっと手を振り続けた。別れじゃなくて、もう一回、いや、何回でも、彼女に会いたいという願いを込めて。

 <第1章 またね:終>
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