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第1章 またね
第5話 レジと宣言
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「それはね……」
おっ、この人もそれは恋とかいうつもりか? そうなのか?
「僕にはよく分からん感情だな」
平日の大学での勤務を終えてから、近くのショッピングモールの服飾雑貨コーナーのレジと売り場の整頓の仕事に入っている。18時から21時までの3時間。俺とフロア長の2人で、まばらなお客さんのレジを捌いていく。珍しく客足が途絶えたので、レジに立ったまま、フロア長の奥薗さんに最近の俺の四方山話を聞いてもらっている。
栗谷さんのバンドの、前のボーカルが辞めたことと、彼女の別れ際の「またね」という言葉が、根底で繋がっている気がすると話すと、奥薗さんは目を閉じて長考した末に、彼なりの答えを話し始めた。
「僕はね、今の奥さんが初恋で、今も仲が良いし、大学を出てこの仕事に就いて、かれこれ12年。初めて買った車にまだ乗り続けているし、学生の頃からやってる野球は、草野球クラブに入って続けてる。だから、何かをやめる人の気持ちは分からないんだ」
「甲斐性お化けじゃないですか。俺とは対極の存在ですね。」
「フフ……。でも、取り残される方の気持ちは分かるよ。同期はほとんど辞めていったし、家を買ってから飼った犬は、病気で亡くしてしまった。祖父も祖母も、僕が大学に入る頃に亡くなった。何かを失うたびに、自分の一部が剥がれたような気分になるのは、きっと、他の人と変わらないと思う」
自分の一部か……。俺は、何かを失う前に、自分から身を引いて、逃げてきたんだよな。だから何も失ってないけど、何も手に入れてない。自分ってもんは、きっとどこかに置き忘れてきた。
「そのバンドのボーカルが辞めたってのは、別の人から聞いたんだろ。ちゃんとその子から聞いて、それからだろうね。今、吉田くんがあれこれ想像するのは、一体、誰のためなんだろう」
奥薗さんは、お客さんに呼ばれて裾上げの対応に行った。俺、裾上げの長さを測る作業が苦手だ。細かく指示してくれるお客さんなら従えばいいけど、ざっくりした希望だったり、お任せなんて言われると、どこまで上げていいのやら、パニックになってしまう。だから奥薗さんがいる時は任せる。仕事でも、俺はすぐに面倒くさいことから逃げてしまうんだ。
裾上げの対応が終わり奥薗さんが戻って来ると、俺は明日から始まる夏物最終処分セールの垂れ幕を付ける作業を命ぜられた。フォークリフトくらいの大きさの昇降機を運転して通路をゆっくりと走り、天井近くまでリフトと一緒に上がり、フックに紐を通し、垂れ幕を吊り下げていく。フックが無い所にはホッチキスで幕を天井に打ち付けて垂らしていく。
「吉田くん。それ終わったらあがり。もう閉店の時間だ」
作業に夢中になっていて、時間を忘れていた。俺は昇降機をバックヤードに返し、締めの作業を手伝って、全て終わるとタイムカードを切って店を出た。猫背でポケットに手を突っ込んで歩いていると、奥薗さんが走って追いついて来た。
「さっきの話だけど、途中で話を切ったから、言いそびれたことがあるんだ」
「わざわざ、その話のために走って来てくれたんですか?」
「大事なことだからね。……吉田くん、君は色んなことが続かないっていつも言うけど、それでもいいんだよ。そんな君だからこそ出来ることがあるんだ。だけど、そろそろ逃げるのはやめた方がいい。人の気持ちが自分に向いているなら、ちゃんとそれに向き合っていくべきなんだ」
真面目な顔で、ゆっくりと吐き出すように言葉を放つ奥薗さんに、俺はただ、その言葉を胸に刻みつける。こんな真剣に自分のことを考えてくれる人の言葉を、軽く受け流すほど俺の心は荒んではいない。
「ありがとうございます。俺、ちゃんと向き合ってみます」
「そうだね。僕は君を応援してるよ。君は弱さの中に強さを持っている男だ。また迷ったら、僕に相談しな」
俺は深々と頭を下げて、背筋を少し伸ばして歩き出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
駅を降りてアパートへの帰り道。いまいちパッとしない夜空を眺めながら歩いていると、スマホが鳴動した。ポケットからスマホを取り、通知バーに映る栗谷さんの名前をタップする。
「もしもし、吉田です」
「栗谷です。こんばんは」
俺は周りを見回す。小さな公園のベンチが目に入った。話しながら公園に入り、ベンチが汚れていないのを確認して座る。
「この前、本当に私たちの演奏を観に来てくれたの? ついでじゃなくて」
「うん。栗谷さんのバンドがフェスに出ることは知ってたから。観れるかどうかは分からなかったけど、行って、観れて良かったですよ」
「そっか。なら大西さんに感謝だね」
「実行委員長の大西くん? そういえば、彼が頼んだって言ってたけど、知り合いなんですか?」
「そう。……私っていうよりも、辞めた人の」
この流れで前のボーカルの人の話が出てくるのか。さて、どうやって訊いたもんかな。
「……好奇心じゃなくてさ、すごく大事なことだと思うから、聞きたいんだ。その人のこと」
遠くに車のロードノイズと、古い街灯の小さく唸る音が聞こえる。スマホからの声はしばらく途絶えた。言葉を選んでいるのか、俺に打ち明けるのを躊躇っているのか。次の言葉を待つ間、冴えない夜空を見上げる。相変わらず晴れているのに星はまばらで、一つ一つがやたらと離れて見える。
「私の彼氏だった人。とても歌が上手かった人。身勝手だったけど、優しかった人。私にギターを教えてくれた人」
言葉が途切れる。その人は今、なんで栗谷さんの傍にいないんだろう。
「……声が枯れるようになって、病院で診てもらったら癌が見つかって、声帯の一部を取ったの。それで、前みたいな声が出なくなって、突然いなくなっちゃった。何も言わずに、故郷に帰っちゃった。電話も解約して、いなくなっちゃったんだ」
彼女の声が震え出す。俺は、どうやってその言葉を受け止めたらいいのか考えていた。逃げずに向き合う、か。奥薗さん、それって相当な覚悟がいるんだな。
「それでね、一回会いに行ったの。新幹線に乗って。彼の家は酒屋さんで、楽しそうに仕事してた。それでね、私の顔を見てると、自分が思い通りに歌えてた頃のことを思い出して辛いんだって言われた。私、帰りに大泣きしちゃった。私は悪魔じゃないって。なんで私のせいみたいに言われなきゃならないのって。それで……」
声が詰まり、鼻をすする音が聞こえる。俺は空に向かって息を大きく吐いて、それから声を出す。
「今でも、それでもその人のことが好き?」
「……分かんない。あの人といた時の私は幸せだった。4人で音を奏でて、色んな話をして、私は彼の一部なんだって、勝手に思ってた。でも、今は違う。私は自分がどこにいるか分からないの。どこへ行けばいいのか分からないの」
彼女が「またね」って言う理由は分かった。今でもきっと、その人のことが好きなんだろうと思う。前の俺なら、ここでさっさと逃げ出してたんだろう。でも、向き合うべきなんだ。
「俺は……。また栗谷さんの歌を聴きたい。毎日でも、栗谷さんと話したい。またねって言わなくても、当たり前のように何回でも、栗谷さんと会いたい。俺じゃダメですか」
スマホを耳に当てたまま、目を閉じる。心臓の鼓動が嫌味なくらい大きく響く。時間が過ぎていくのがやたらと遅く感じる。多分俺、すごく怖い顔をしてる。
「それって告白?」
栗谷さんの声が安定した。俺の決死の言葉に対して、キョトンとしているような声。
「告白っていうか……。えと、励ましっていうか、宣言というのか……」
スマホから笑い声が聞こえる。
「ありがと。もっと器用な人だと思ってたから、意外で可笑しくて笑っちゃった」
「楽しんでもらえて何よりです。でも、色々話してくれて嬉しかった。さっき言ったことは俺の本心。でも、まだ答えなくていいよ」
「いいの? 気にならない?」
「いいんだ。もっと俺のことを知ってほしいし、栗谷さんのことも知りたい。答えはそのあとでいい」
「分かった。じゃあいったん保留で」
俺も、彼女も笑う。俺は腰を上げ、ゆっくりとアパートへ歩きながら、15分ほど好きな音楽の話をした。彼女は流石、邦楽から洋楽、クラシックに演歌、様々なジャンルの音楽を広く知っていた。おすすめの曲を幾つか教えてもらって、スマホのメモアプリに入力しておいた。
「……それで思い出したんだけど、今度の土曜日ってまだ仕事入れてない? もしよかったら、付き合って欲しいんだけど」
「まだだけど、どこに?」
「まあ、ボランティアみたいな感じかな。おばあちゃんが入ってる施設で、演歌を演るの。お手伝いしてくれると嬉しいな」
「分かった。土曜日は空けときます。集合場所はまた連絡してください」
「うん。それじゃ、遅くまで話してごめんね。もうお家に着いた?」
「アパートの前。それじゃ……」
あれ? またねって言った方がいいのか?
「……またね」
彼女の方からの言葉。これは継続か。
「またね」
スマホから通話の終了を告げる通知音が鳴った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「えっ、早くない? 告白」
「告白じゃないよ。宣言だ。逃げずに向き合っていくための宣言」
「いや、それはもう愛でしょ」
「竹内さんが愛を語るのか……」
昼休み。大学の学生食堂で竹内さんに、栗谷さんの前の彼氏のことは抜きで、昨日のことを報告する。俺は前の彼女と一緒に住んでいた時も、竹内さんに愚痴を聞いてもらっていたから、その習慣が抜けておらず、ついつい話をしてしまう。
「それで、私はなにを指南すればいいのさ。もうハッピーエンドでいいじゃない」
「勝手に終わらすなよ。むしろこれからどうするかが重要だと思って、相談してるんだから」
「吉田さんさあ、私にその子とのことペラペラ喋ってるけど、私が実はその子と通じてたらどうするの」
「竹内さんに女友達がいると思ってない」
「いるよ! むしろ男友達があんただけだわ!」
俺、友達だったのか。
「まあ、そん時はそん時。斬首刑でも絞首刑でも受けるよ」
「大罪過ぎんだろ……。まあ、私は口が堅いからいいけど、これからは色んな人に相談して回るの、ちょっと控えた方がいいと思うよ」
「そうするよ。竹内さんを信頼してるから、何でも話しちゃうんだよな」
フンと鼻を鳴らして、竹内さんは食器を片付けて戻って行った。俺は腕組みをして、昨日のことを考える。スタートラインに立っただけのこと。俺は甲斐性無しで、何の特技も無い。栗谷さんはインディーズで活動するプロの音楽家。観客を沸かせる才能を持った綺麗な女性。まあ、釣り合ってないのは分かってる。俺になにが出来るのだろうか……。
まとまらない考え事を引き連れて学生課に戻ると、チアリーダー部主務の西山さんが係長と話していた。係長のデレ顔とか、誰得なんだと思いながら横を通り過ぎようとすると、係長に声を掛けられた。
「吉田くん、書類の受け取りお願いします」
えっ。今、話してたんならそのまま受け取ればいいじゃない。
「はい。確認します」
西山さんからの定期の体育館使用願いを受け取り、記入された内容を読み、体育館のカレンダーが入ったバインダーを取り出して確認していく。
「吉田さん。この前はありがとうございました」
「こちらこそ。明日人が母親に、西山さんのことも話してたらしいよ。いい思い出になったみたいで、ありがとうございました」
「そういえば、お兄ちゃんが家で愚痴ってました。なんか、あの日は2曲目もアップテンポの曲の予定だったらしいんですけど、突然バラードに変わったんですって」
「そうなんだ。機材トラブルとかかな」
「それが、理由は分からないらしくて、ボーカルの栗谷さんが急に曲を変えたいって。トラブルに備えて数曲練習してたけど、お兄ちゃんはもっと盛り上げたかったって言ってました」
「そっか……。あ、使用願いは問題ありません。来月の分は予約しておきました」
「ありがとうございます。今日はトレーニングするんですか」
「今日はバイトないから、やっていくと思うよ」
「私が手を振ったら、ちゃんと振り返して下さいね。じゃ」
なんでか知らないが、また定型のやり取りが増えてしまったみたいだ。
おっ、この人もそれは恋とかいうつもりか? そうなのか?
「僕にはよく分からん感情だな」
平日の大学での勤務を終えてから、近くのショッピングモールの服飾雑貨コーナーのレジと売り場の整頓の仕事に入っている。18時から21時までの3時間。俺とフロア長の2人で、まばらなお客さんのレジを捌いていく。珍しく客足が途絶えたので、レジに立ったまま、フロア長の奥薗さんに最近の俺の四方山話を聞いてもらっている。
栗谷さんのバンドの、前のボーカルが辞めたことと、彼女の別れ際の「またね」という言葉が、根底で繋がっている気がすると話すと、奥薗さんは目を閉じて長考した末に、彼なりの答えを話し始めた。
「僕はね、今の奥さんが初恋で、今も仲が良いし、大学を出てこの仕事に就いて、かれこれ12年。初めて買った車にまだ乗り続けているし、学生の頃からやってる野球は、草野球クラブに入って続けてる。だから、何かをやめる人の気持ちは分からないんだ」
「甲斐性お化けじゃないですか。俺とは対極の存在ですね。」
「フフ……。でも、取り残される方の気持ちは分かるよ。同期はほとんど辞めていったし、家を買ってから飼った犬は、病気で亡くしてしまった。祖父も祖母も、僕が大学に入る頃に亡くなった。何かを失うたびに、自分の一部が剥がれたような気分になるのは、きっと、他の人と変わらないと思う」
自分の一部か……。俺は、何かを失う前に、自分から身を引いて、逃げてきたんだよな。だから何も失ってないけど、何も手に入れてない。自分ってもんは、きっとどこかに置き忘れてきた。
「そのバンドのボーカルが辞めたってのは、別の人から聞いたんだろ。ちゃんとその子から聞いて、それからだろうね。今、吉田くんがあれこれ想像するのは、一体、誰のためなんだろう」
奥薗さんは、お客さんに呼ばれて裾上げの対応に行った。俺、裾上げの長さを測る作業が苦手だ。細かく指示してくれるお客さんなら従えばいいけど、ざっくりした希望だったり、お任せなんて言われると、どこまで上げていいのやら、パニックになってしまう。だから奥薗さんがいる時は任せる。仕事でも、俺はすぐに面倒くさいことから逃げてしまうんだ。
裾上げの対応が終わり奥薗さんが戻って来ると、俺は明日から始まる夏物最終処分セールの垂れ幕を付ける作業を命ぜられた。フォークリフトくらいの大きさの昇降機を運転して通路をゆっくりと走り、天井近くまでリフトと一緒に上がり、フックに紐を通し、垂れ幕を吊り下げていく。フックが無い所にはホッチキスで幕を天井に打ち付けて垂らしていく。
「吉田くん。それ終わったらあがり。もう閉店の時間だ」
作業に夢中になっていて、時間を忘れていた。俺は昇降機をバックヤードに返し、締めの作業を手伝って、全て終わるとタイムカードを切って店を出た。猫背でポケットに手を突っ込んで歩いていると、奥薗さんが走って追いついて来た。
「さっきの話だけど、途中で話を切ったから、言いそびれたことがあるんだ」
「わざわざ、その話のために走って来てくれたんですか?」
「大事なことだからね。……吉田くん、君は色んなことが続かないっていつも言うけど、それでもいいんだよ。そんな君だからこそ出来ることがあるんだ。だけど、そろそろ逃げるのはやめた方がいい。人の気持ちが自分に向いているなら、ちゃんとそれに向き合っていくべきなんだ」
真面目な顔で、ゆっくりと吐き出すように言葉を放つ奥薗さんに、俺はただ、その言葉を胸に刻みつける。こんな真剣に自分のことを考えてくれる人の言葉を、軽く受け流すほど俺の心は荒んではいない。
「ありがとうございます。俺、ちゃんと向き合ってみます」
「そうだね。僕は君を応援してるよ。君は弱さの中に強さを持っている男だ。また迷ったら、僕に相談しな」
俺は深々と頭を下げて、背筋を少し伸ばして歩き出した。
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「もしもし、吉田です」
「栗谷です。こんばんは」
俺は周りを見回す。小さな公園のベンチが目に入った。話しながら公園に入り、ベンチが汚れていないのを確認して座る。
「この前、本当に私たちの演奏を観に来てくれたの? ついでじゃなくて」
「うん。栗谷さんのバンドがフェスに出ることは知ってたから。観れるかどうかは分からなかったけど、行って、観れて良かったですよ」
「そっか。なら大西さんに感謝だね」
「実行委員長の大西くん? そういえば、彼が頼んだって言ってたけど、知り合いなんですか?」
「そう。……私っていうよりも、辞めた人の」
この流れで前のボーカルの人の話が出てくるのか。さて、どうやって訊いたもんかな。
「……好奇心じゃなくてさ、すごく大事なことだと思うから、聞きたいんだ。その人のこと」
遠くに車のロードノイズと、古い街灯の小さく唸る音が聞こえる。スマホからの声はしばらく途絶えた。言葉を選んでいるのか、俺に打ち明けるのを躊躇っているのか。次の言葉を待つ間、冴えない夜空を見上げる。相変わらず晴れているのに星はまばらで、一つ一つがやたらと離れて見える。
「私の彼氏だった人。とても歌が上手かった人。身勝手だったけど、優しかった人。私にギターを教えてくれた人」
言葉が途切れる。その人は今、なんで栗谷さんの傍にいないんだろう。
「……声が枯れるようになって、病院で診てもらったら癌が見つかって、声帯の一部を取ったの。それで、前みたいな声が出なくなって、突然いなくなっちゃった。何も言わずに、故郷に帰っちゃった。電話も解約して、いなくなっちゃったんだ」
彼女の声が震え出す。俺は、どうやってその言葉を受け止めたらいいのか考えていた。逃げずに向き合う、か。奥薗さん、それって相当な覚悟がいるんだな。
「それでね、一回会いに行ったの。新幹線に乗って。彼の家は酒屋さんで、楽しそうに仕事してた。それでね、私の顔を見てると、自分が思い通りに歌えてた頃のことを思い出して辛いんだって言われた。私、帰りに大泣きしちゃった。私は悪魔じゃないって。なんで私のせいみたいに言われなきゃならないのって。それで……」
声が詰まり、鼻をすする音が聞こえる。俺は空に向かって息を大きく吐いて、それから声を出す。
「今でも、それでもその人のことが好き?」
「……分かんない。あの人といた時の私は幸せだった。4人で音を奏でて、色んな話をして、私は彼の一部なんだって、勝手に思ってた。でも、今は違う。私は自分がどこにいるか分からないの。どこへ行けばいいのか分からないの」
彼女が「またね」って言う理由は分かった。今でもきっと、その人のことが好きなんだろうと思う。前の俺なら、ここでさっさと逃げ出してたんだろう。でも、向き合うべきなんだ。
「俺は……。また栗谷さんの歌を聴きたい。毎日でも、栗谷さんと話したい。またねって言わなくても、当たり前のように何回でも、栗谷さんと会いたい。俺じゃダメですか」
スマホを耳に当てたまま、目を閉じる。心臓の鼓動が嫌味なくらい大きく響く。時間が過ぎていくのがやたらと遅く感じる。多分俺、すごく怖い顔をしてる。
「それって告白?」
栗谷さんの声が安定した。俺の決死の言葉に対して、キョトンとしているような声。
「告白っていうか……。えと、励ましっていうか、宣言というのか……」
スマホから笑い声が聞こえる。
「ありがと。もっと器用な人だと思ってたから、意外で可笑しくて笑っちゃった」
「楽しんでもらえて何よりです。でも、色々話してくれて嬉しかった。さっき言ったことは俺の本心。でも、まだ答えなくていいよ」
「いいの? 気にならない?」
「いいんだ。もっと俺のことを知ってほしいし、栗谷さんのことも知りたい。答えはそのあとでいい」
「分かった。じゃあいったん保留で」
俺も、彼女も笑う。俺は腰を上げ、ゆっくりとアパートへ歩きながら、15分ほど好きな音楽の話をした。彼女は流石、邦楽から洋楽、クラシックに演歌、様々なジャンルの音楽を広く知っていた。おすすめの曲を幾つか教えてもらって、スマホのメモアプリに入力しておいた。
「……それで思い出したんだけど、今度の土曜日ってまだ仕事入れてない? もしよかったら、付き合って欲しいんだけど」
「まだだけど、どこに?」
「まあ、ボランティアみたいな感じかな。おばあちゃんが入ってる施設で、演歌を演るの。お手伝いしてくれると嬉しいな」
「分かった。土曜日は空けときます。集合場所はまた連絡してください」
「うん。それじゃ、遅くまで話してごめんね。もうお家に着いた?」
「アパートの前。それじゃ……」
あれ? またねって言った方がいいのか?
「……またね」
彼女の方からの言葉。これは継続か。
「またね」
スマホから通話の終了を告げる通知音が鳴った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「えっ、早くない? 告白」
「告白じゃないよ。宣言だ。逃げずに向き合っていくための宣言」
「いや、それはもう愛でしょ」
「竹内さんが愛を語るのか……」
昼休み。大学の学生食堂で竹内さんに、栗谷さんの前の彼氏のことは抜きで、昨日のことを報告する。俺は前の彼女と一緒に住んでいた時も、竹内さんに愚痴を聞いてもらっていたから、その習慣が抜けておらず、ついつい話をしてしまう。
「それで、私はなにを指南すればいいのさ。もうハッピーエンドでいいじゃない」
「勝手に終わらすなよ。むしろこれからどうするかが重要だと思って、相談してるんだから」
「吉田さんさあ、私にその子とのことペラペラ喋ってるけど、私が実はその子と通じてたらどうするの」
「竹内さんに女友達がいると思ってない」
「いるよ! むしろ男友達があんただけだわ!」
俺、友達だったのか。
「まあ、そん時はそん時。斬首刑でも絞首刑でも受けるよ」
「大罪過ぎんだろ……。まあ、私は口が堅いからいいけど、これからは色んな人に相談して回るの、ちょっと控えた方がいいと思うよ」
「そうするよ。竹内さんを信頼してるから、何でも話しちゃうんだよな」
フンと鼻を鳴らして、竹内さんは食器を片付けて戻って行った。俺は腕組みをして、昨日のことを考える。スタートラインに立っただけのこと。俺は甲斐性無しで、何の特技も無い。栗谷さんはインディーズで活動するプロの音楽家。観客を沸かせる才能を持った綺麗な女性。まあ、釣り合ってないのは分かってる。俺になにが出来るのだろうか……。
まとまらない考え事を引き連れて学生課に戻ると、チアリーダー部主務の西山さんが係長と話していた。係長のデレ顔とか、誰得なんだと思いながら横を通り過ぎようとすると、係長に声を掛けられた。
「吉田くん、書類の受け取りお願いします」
えっ。今、話してたんならそのまま受け取ればいいじゃない。
「はい。確認します」
西山さんからの定期の体育館使用願いを受け取り、記入された内容を読み、体育館のカレンダーが入ったバインダーを取り出して確認していく。
「吉田さん。この前はありがとうございました」
「こちらこそ。明日人が母親に、西山さんのことも話してたらしいよ。いい思い出になったみたいで、ありがとうございました」
「そういえば、お兄ちゃんが家で愚痴ってました。なんか、あの日は2曲目もアップテンポの曲の予定だったらしいんですけど、突然バラードに変わったんですって」
「そうなんだ。機材トラブルとかかな」
「それが、理由は分からないらしくて、ボーカルの栗谷さんが急に曲を変えたいって。トラブルに備えて数曲練習してたけど、お兄ちゃんはもっと盛り上げたかったって言ってました」
「そっか……。あ、使用願いは問題ありません。来月の分は予約しておきました」
「ありがとうございます。今日はトレーニングするんですか」
「今日はバイトないから、やっていくと思うよ」
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