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サスペンス
匿名の
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旅行の日の朝だというのに、寝坊した冴子はまだスーツケースに服を詰めていた。
アパートの部屋の中、ひとり呟く。
「まずいマズイ。間に合うかしら」
新幹線の予約は指定席だから、ちゃんと決まった時間に乗る必要がある。さらに自分ひとりで行くのではないから、遅れることは許されない。
タクシーを呼ぶしかないと思い、スマホの画面を開く。
「えっ……」
ちょうどその時、電話がかかってきた。画面には「不明」の2文字が大きく表示されている。
……不明……?
着信を拒否するのも怖くてしばらく画面を凝視していると、着信音が鳴り止んだ。
今のが何だったのか気にしてる場合ではないと、ホーム画面内、電話アプリをタップしてタクシーを呼んだ。
タクシーがアパートの前の道路に到着するタイミングで、冴子は部屋を飛び出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あっ、来た来た。もう! あと3分しかないよ!」
親友の光莉から手渡された切符を改札機に入れて進み、階段を駆け上がる。ギリギリになったがなんとか新幹線に乗り込むことが出来た。
「ごめんね。昨日あんまり眠れなくて……今日の夕食は奢るよ」
「夕食はフェリーの船内レストランね。遅い時間になるから軽いもので済ますと思うけど。まあ、それで手打ちにしますか」
「うん。そんなので良いならありがたい。タクシーで結構かかったから」
光莉はふたり分の駅弁をビニール袋から取り出して、それぞれのテーブルに置く。フタを開けると焼肉の匂いが広がった。2列席側だから、周囲にそれほど迷惑をかけてないはず、と思いたい。
「とりあえず食べましょ。もうお腹ペコペコ」
1時間前には駅弁を買って改札口付近にいたらしく、光莉はようやくありつけた弁当に舌鼓を打つ。
今日は大阪の港から夜に出るフェリーで四国へ向かう。四国で紅葉とうどんを楽しむために、ふたりとも2か月前から3日間の有給休暇を取っていた。
職場は違うけれど高校の頃からの親友だ。社会人になってから5年経っても、しょっちゅう会っているし、1年に2回ほどはこうして国内を旅行している。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大阪駅から乗り継ぎ、さらに乗り継ぎでフェリー乗り場へ。フェリーの出航は夜遅い時間だから余裕があった。
待つこと1時間、ようやく乗船の時刻になった。乗り込んで割り当てられた部屋に荷物を置き、ラウンジでくつろいでいると、フェリーは夜間の航行を始めた。ふたりは予定通り船内のレストランへ赴く。冴子はシラス丼、光莉は鯛だしラーメンを注文した。
「夜遅くに食べるラーメンって、なんか背徳感があるよねぇ。これ、美味しいよ」
光莉が笑顔で顔を上げると、冴子はしきりに後ろを気にしていた。
「……どうしたの? 冴子」
「今日さ、ずっと誰かから見られてる気がするの。多分、新幹線を降りてからかな」
光莉も周りを確認する。レストランにはカップルや老夫婦、独りで食べている中年男性など、旅行客にしか見えない人たちがテーブルを埋めていた。皆会話か食事に夢中で、こちらを向いている人物はいない。
「あと、これ見てよ。朝かかってきた電話」
「不明……? 非通知じゃなくて、そんなのあるんだ」
「分かんない。後で調べてみるよ」
話して少し落ち着いたのか、冴子は食事を続けた。
夕食後は大浴場でさっぱりして、ベッドが上下に用意された2人用の部屋へ戻る。昔は姉妹で2段ベッドの上を使っていたという光莉が、上のベッドに横たわって、すぐにその長髪を垂らしながら下のベッドを覗き込んだ。
「明日は5時半起き。アラームはセットしといたからね」
「ありがと。結構小刻みに揺れてるから、すぐには寝付けないかも。起きそうになかったら叩いてでも起こして」
「フフ、がってんでい」
消灯して、冴子は目を閉じる。
静かな部屋の中、ゆっくりと揺れ続ける世界。
しばらくすると、瞼の裏がフワッと明るくなった。
「ん……?」
目を開ける。
部屋の入り口の扉から、スッとひとすじの光が差し込んでいる。
……開いてる?
冴子は静かに体を起こして、扉にそっと近付く。
隙間から廊下が見える。そして。
人影が通り過ぎて行った。
驚いて扉を閉めると、ベッドの上のスマホがブルブルと振動した。
恐る恐る画面を確認すると、「不明」の2文字。
「冴子! 朝だよ起きて!」
光莉に体を揺すられて目を覚ました。
冴子はティッシュで涎を拭いて、思い切り伸びをする。
……なんだ、さっきのは夢か。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「アハハッ。ちゃんと部屋の鍵かけて寝たんだもの。廊下から開けるなんて無理だよ」
「分かってるんだけどね。なんだかすごくリアルで、怖かったんだ」
朝早く愛媛に到着して、移動しながらうどん屋をはしごしている。今日の午後は紅葉狩り、その後旅館にチェックインする予定だ。
「着信履歴も昨日の朝の分しか残ってないし、やっぱり夢、だよね。うん」
「疲れてるんじゃない? 朝だって爆睡してたしさ」
「そういえば結局、不明っての調べてないや。何だったんだろう」
光莉は冴子のスマホを取り上げて電源をオフにした。
「とりあえず、旅を楽しもうよ。地図は私のスマホで見るから、ね」
「……そう、そうだよね。ずっと前から計画してたんだもの。楽しまないと」
冴子は苦笑いしながら、電源の切れたスマホをショルダーバッグにしまった。
気を取り直し電車に乗り、紅葉が美しいといわれる低山を歩く。遊歩道から見える木々は鮮やかな赤、黄、緑の色に染まっていた。
「写真は私が撮って、冴子に送るよ。どうせおんなじ風景なんだからいいでしょ」
「うん……。でも、やっぱり誰かに見られてるような気がする」
何度も振り返りながら、冴子は生気を失ったような表情をする。
「大丈夫? もう切り上げて旅館に行こうか」
「でも、まだチェックインまで時間があるでしょ」
「そんなの、旅館の近くでコーヒーでも飲んでればいいよ。ここ撮ったら街に戻ろう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
旅館に着いて、道路を挟んで反対側のコーヒーチェーン店で時間を潰した。
「ごめん。ホントに……」
「だから大丈夫だって。今も変な視線、感じる?」
「今は……別に何も感じない。わたし、疲れてるのかなぁ……」
溜息を吐いた冴子に、光莉は笑いかける。
「ねぇ、そろそろ時間。チェックインしよ」
ふたりは旅館に入り、受付で部屋と温泉、アメニティの説明を受けてツインルームへ。
荷物を置いて浴衣に着替え、部屋を出る。
突然、目出し帽をかぶった筋肉質の男が冴子の目の前に現れた。
荒い呼吸、目が血走っている。冴子より頭ひとつ分背の高いそいつは、無言で手を前に出してくる。
「がァっ!!」
喉をとんでもない力で掴まれ、呼吸が出来なくなった冴子は細かく震える。
「なんなのよアンタ!」
光莉は男の右腕を引っ張ろうとするが腰を膝蹴りされ、よろめいて倒れる。
徐々に冴子の体が宙に浮き始める。息が出来なくて、冴子の意識は薄らいでいく。
「ア……ゥ……」
助けを呼ぼうとしても声が出ない。視界の縁で、起き上がった光莉が離れていく。
……助けて……光莉……。
口から泡が噴き出す。もう限界だ。
冴子は天井を仰ぐ。
目の前が闇に閉ざされそうになった時、ふっと男の力が弱まった。
息を吸い、冴子は意識を取り戻した。
男の右腕を必死に振り払うと、冴子の体は壁に沿って崩れ落ちた。
倒れたまま男を睨む。手を前に出したまま制止しているようだ。冴子は咳をしながら手足をバタバタさせて男から離れる。
男はその姿勢のまま前のめりに倒れた。
光莉が両腕で消火器を抱えながら、肩を上下させて息をしている。どうやら消火器で男の後頭部を殴ったようだ。
「冴子! 大丈夫?!」
「ゲホッ……。う、うん。首が痛いけど、多分……」
物音に気付いて他の部屋から客が出て来た。光莉は大きな声で助けを呼ぶ。
「スタッフと……警察を呼んでください。すぐに!」
言いつけられた男性は慌てて、パタパタとフロントへ駆けて行く。
「こいつ、冴子の知り合い?」
「分かんない。目しか見えなかったから」
「……顔、見てみる?」
そう言って光莉が目出し帽を剥がす。体が細かく震えたままの冴子も、近付いて男の顔を覗く。
「え、誰……? っていうか鼻が……、無い」
「私も知らないやつだ。なんでこんなとこで……」
「こんな、とこ?」
「いや、もしこいつがずっと冴子を襲う気で見てたなら、独りになるタイミングを待ちそうなもんだけどね、って思って」
「そう、かな……」
旅館のスタッフに介抱されて冴子はエントランスへ。光莉は他のスタッフと一緒に、倒れたままの男を監視していた。
すぐにパトカーが到着。刑事風の男と数人の警官が冴子の前を通り過ぎて行った。
冴子が呆けて待っていると、光莉だけ階段を下りてきた。
「冴子、あいつが下りてくる。見つからない所に隠れよう」
大きな柱の後ろに隠れて、様子を見る。
両手に手錠をかけられた大男がフラフラと階段を下りてきた。両脇をがっちりと警官たちが固めている。
エントランスから表に出る寸前に一瞬立ち止まり、男がこちらを向いたように見えた。
男はおとなしく旅館を出て行く。それを横目に、刑事っぽいコートを着た背の低い男が近寄って来た。
警察手帳を広げて見せつけてくる。
「楠瀬と申します。事情聴取をしたいのですが」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
楠瀬によると、あの大男の後頭部に消火器で殴った時の陥没が見受けられたため、過剰防衛の可能性があるということだった。
「でも、やらなきゃ冴子は殺されてましたよ」
「殺されたかどうかは……。どちらにせよ一度、署までご同行願えますか」
エントランスの中、革張りの椅子に腰掛けていた冴子は立ち上がった。
「あの、わたしはあいつから殺意を感じました。目が血走ってて、まばたきもせずにわたしを睨んでたんです。それに、光莉が助けてくれるまでわたしは呼吸が出来ませんでした。そのままだったら多分、死んでたと思います」
楠瀬はひとつ息を吐いて、コートの内側をまさぐった。そしてタバコの箱を取り出すも、館内禁煙の張り紙を見つけて引っ込めた。
「それを証明出来る目撃者がいな……」
言葉の途中で楠瀬のスマホが鳴った。コートのポケットから取り出すと、すぐに電話に出る。
「はい。……うん? 冗談だろ……」
スマホの通話を終了させて、楠瀬はふたりを見る。表情に先ほどまでの余裕が無い。
「あの男がパトカー内で暴れて、走行中の車内からドアを開けて飛び出したらしい。今、ウチのやつらが行方を追ってる。ここに戻ってくるとは思えないが……あなたたちは念のため一旦、部屋に退避しようか」
楠瀬に促され、部屋へ戻るために階段を上がる。
光莉と冴子が同時に小さな悲鳴を漏らした。
廊下の奥、はめごろしの窓が割れていて、大男がゆっくりと立ち上がるところだった。
「ここは2階だぜ……? どうやって飛び込んで……」
楠瀬が震える声で呟いた瞬間、男は猛然と廊下を走り、ものすごいスピードで近付いてきた。
止めに入った楠瀬の体を右腕で薙ぎ払い、冴子目がけて突っ込んでくる。
「冴子!」
光莉が冴子を思い切り突き飛ばすと、男は誰にも当たらず勢いあまって廊下のオブジェに激突した。丸い陶器のオブジェが床に落ち、破片となって飛び散る。
男は欠片のひとつを掴むとすぐに立ち上がり、転んだままの冴子の上で馬乗りになった。
恐怖で手足が硬直して、冴子は動けない。
男が振りかぶる。右手に持った陶器の欠片の先端は、鋭く尖っている。
腕を振りおろそうとした時、火薬のはじける音が廊下に鳴り響いた。
男の動きが途端に鈍くなる。
馬乗りの姿勢のまま、男の手の中にあった陶器の欠片は床に落ちた。
そして、男は倒れた。両耳から血が噴き出し床を濡らす。
冴子は楠瀬を見やる。両手で拳銃を持っており、その手は小刻みに震えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「駅まで送ってもらって、すいませんでした」
冴子が深々と頭を下げると、楠瀬は頭をポリポリと掻いた。視線は光莉の方に向いている。
「いや、こっちの不手際で怖い思いをさせてしまって……。あと、過剰防衛の疑いも、……本当に申し訳ございませんでしたッ!」
バッと頭を下げた楠瀬に、光莉は笑顔で答える。
「だからそれはもういいですって。でも結局、あの男は何者だったんだろう」
「これから被疑者死亡で捜査が始まります。形式としてなので検察で不起訴処分になるでしょうが、男の身元は判明するかと」
冴子は記憶を辿ってみたが、やはりあの男のことは知らないし、今となってはもう、どうでもいいとさえ思えた。
「じゃあ、わたしたちは行きます。光莉、もう電車の時間だよ」
「あっ、ホントだ。えっと、楠瀬さん。捜査頑張ってください」
「はい! おふたりとも、お気をつけて!」
楠瀬に見送られ、ふたりは改札口に向かう。
冴子のスマホから着信音が鳴る。
「え……? わたし、電源入れてたっけ」
ショルダーバッグからスマホを出し、画面を見る。
冴子は驚いてスマホを落とした。
割れた画面に、「不明」の2文字。
アパートの部屋の中、ひとり呟く。
「まずいマズイ。間に合うかしら」
新幹線の予約は指定席だから、ちゃんと決まった時間に乗る必要がある。さらに自分ひとりで行くのではないから、遅れることは許されない。
タクシーを呼ぶしかないと思い、スマホの画面を開く。
「えっ……」
ちょうどその時、電話がかかってきた。画面には「不明」の2文字が大きく表示されている。
……不明……?
着信を拒否するのも怖くてしばらく画面を凝視していると、着信音が鳴り止んだ。
今のが何だったのか気にしてる場合ではないと、ホーム画面内、電話アプリをタップしてタクシーを呼んだ。
タクシーがアパートの前の道路に到着するタイミングで、冴子は部屋を飛び出した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あっ、来た来た。もう! あと3分しかないよ!」
親友の光莉から手渡された切符を改札機に入れて進み、階段を駆け上がる。ギリギリになったがなんとか新幹線に乗り込むことが出来た。
「ごめんね。昨日あんまり眠れなくて……今日の夕食は奢るよ」
「夕食はフェリーの船内レストランね。遅い時間になるから軽いもので済ますと思うけど。まあ、それで手打ちにしますか」
「うん。そんなので良いならありがたい。タクシーで結構かかったから」
光莉はふたり分の駅弁をビニール袋から取り出して、それぞれのテーブルに置く。フタを開けると焼肉の匂いが広がった。2列席側だから、周囲にそれほど迷惑をかけてないはず、と思いたい。
「とりあえず食べましょ。もうお腹ペコペコ」
1時間前には駅弁を買って改札口付近にいたらしく、光莉はようやくありつけた弁当に舌鼓を打つ。
今日は大阪の港から夜に出るフェリーで四国へ向かう。四国で紅葉とうどんを楽しむために、ふたりとも2か月前から3日間の有給休暇を取っていた。
職場は違うけれど高校の頃からの親友だ。社会人になってから5年経っても、しょっちゅう会っているし、1年に2回ほどはこうして国内を旅行している。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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待つこと1時間、ようやく乗船の時刻になった。乗り込んで割り当てられた部屋に荷物を置き、ラウンジでくつろいでいると、フェリーは夜間の航行を始めた。ふたりは予定通り船内のレストランへ赴く。冴子はシラス丼、光莉は鯛だしラーメンを注文した。
「夜遅くに食べるラーメンって、なんか背徳感があるよねぇ。これ、美味しいよ」
光莉が笑顔で顔を上げると、冴子はしきりに後ろを気にしていた。
「……どうしたの? 冴子」
「今日さ、ずっと誰かから見られてる気がするの。多分、新幹線を降りてからかな」
光莉も周りを確認する。レストランにはカップルや老夫婦、独りで食べている中年男性など、旅行客にしか見えない人たちがテーブルを埋めていた。皆会話か食事に夢中で、こちらを向いている人物はいない。
「あと、これ見てよ。朝かかってきた電話」
「不明……? 非通知じゃなくて、そんなのあるんだ」
「分かんない。後で調べてみるよ」
話して少し落ち着いたのか、冴子は食事を続けた。
夕食後は大浴場でさっぱりして、ベッドが上下に用意された2人用の部屋へ戻る。昔は姉妹で2段ベッドの上を使っていたという光莉が、上のベッドに横たわって、すぐにその長髪を垂らしながら下のベッドを覗き込んだ。
「明日は5時半起き。アラームはセットしといたからね」
「ありがと。結構小刻みに揺れてるから、すぐには寝付けないかも。起きそうになかったら叩いてでも起こして」
「フフ、がってんでい」
消灯して、冴子は目を閉じる。
静かな部屋の中、ゆっくりと揺れ続ける世界。
しばらくすると、瞼の裏がフワッと明るくなった。
「ん……?」
目を開ける。
部屋の入り口の扉から、スッとひとすじの光が差し込んでいる。
……開いてる?
冴子は静かに体を起こして、扉にそっと近付く。
隙間から廊下が見える。そして。
人影が通り過ぎて行った。
驚いて扉を閉めると、ベッドの上のスマホがブルブルと振動した。
恐る恐る画面を確認すると、「不明」の2文字。
「冴子! 朝だよ起きて!」
光莉に体を揺すられて目を覚ました。
冴子はティッシュで涎を拭いて、思い切り伸びをする。
……なんだ、さっきのは夢か。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「アハハッ。ちゃんと部屋の鍵かけて寝たんだもの。廊下から開けるなんて無理だよ」
「分かってるんだけどね。なんだかすごくリアルで、怖かったんだ」
朝早く愛媛に到着して、移動しながらうどん屋をはしごしている。今日の午後は紅葉狩り、その後旅館にチェックインする予定だ。
「着信履歴も昨日の朝の分しか残ってないし、やっぱり夢、だよね。うん」
「疲れてるんじゃない? 朝だって爆睡してたしさ」
「そういえば結局、不明っての調べてないや。何だったんだろう」
光莉は冴子のスマホを取り上げて電源をオフにした。
「とりあえず、旅を楽しもうよ。地図は私のスマホで見るから、ね」
「……そう、そうだよね。ずっと前から計画してたんだもの。楽しまないと」
冴子は苦笑いしながら、電源の切れたスマホをショルダーバッグにしまった。
気を取り直し電車に乗り、紅葉が美しいといわれる低山を歩く。遊歩道から見える木々は鮮やかな赤、黄、緑の色に染まっていた。
「写真は私が撮って、冴子に送るよ。どうせおんなじ風景なんだからいいでしょ」
「うん……。でも、やっぱり誰かに見られてるような気がする」
何度も振り返りながら、冴子は生気を失ったような表情をする。
「大丈夫? もう切り上げて旅館に行こうか」
「でも、まだチェックインまで時間があるでしょ」
「そんなの、旅館の近くでコーヒーでも飲んでればいいよ。ここ撮ったら街に戻ろう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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「ごめん。ホントに……」
「だから大丈夫だって。今も変な視線、感じる?」
「今は……別に何も感じない。わたし、疲れてるのかなぁ……」
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「ねぇ、そろそろ時間。チェックインしよ」
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荒い呼吸、目が血走っている。冴子より頭ひとつ分背の高いそいつは、無言で手を前に出してくる。
「がァっ!!」
喉をとんでもない力で掴まれ、呼吸が出来なくなった冴子は細かく震える。
「なんなのよアンタ!」
光莉は男の右腕を引っ張ろうとするが腰を膝蹴りされ、よろめいて倒れる。
徐々に冴子の体が宙に浮き始める。息が出来なくて、冴子の意識は薄らいでいく。
「ア……ゥ……」
助けを呼ぼうとしても声が出ない。視界の縁で、起き上がった光莉が離れていく。
……助けて……光莉……。
口から泡が噴き出す。もう限界だ。
冴子は天井を仰ぐ。
目の前が闇に閉ざされそうになった時、ふっと男の力が弱まった。
息を吸い、冴子は意識を取り戻した。
男の右腕を必死に振り払うと、冴子の体は壁に沿って崩れ落ちた。
倒れたまま男を睨む。手を前に出したまま制止しているようだ。冴子は咳をしながら手足をバタバタさせて男から離れる。
男はその姿勢のまま前のめりに倒れた。
光莉が両腕で消火器を抱えながら、肩を上下させて息をしている。どうやら消火器で男の後頭部を殴ったようだ。
「冴子! 大丈夫?!」
「ゲホッ……。う、うん。首が痛いけど、多分……」
物音に気付いて他の部屋から客が出て来た。光莉は大きな声で助けを呼ぶ。
「スタッフと……警察を呼んでください。すぐに!」
言いつけられた男性は慌てて、パタパタとフロントへ駆けて行く。
「こいつ、冴子の知り合い?」
「分かんない。目しか見えなかったから」
「……顔、見てみる?」
そう言って光莉が目出し帽を剥がす。体が細かく震えたままの冴子も、近付いて男の顔を覗く。
「え、誰……? っていうか鼻が……、無い」
「私も知らないやつだ。なんでこんなとこで……」
「こんな、とこ?」
「いや、もしこいつがずっと冴子を襲う気で見てたなら、独りになるタイミングを待ちそうなもんだけどね、って思って」
「そう、かな……」
旅館のスタッフに介抱されて冴子はエントランスへ。光莉は他のスタッフと一緒に、倒れたままの男を監視していた。
すぐにパトカーが到着。刑事風の男と数人の警官が冴子の前を通り過ぎて行った。
冴子が呆けて待っていると、光莉だけ階段を下りてきた。
「冴子、あいつが下りてくる。見つからない所に隠れよう」
大きな柱の後ろに隠れて、様子を見る。
両手に手錠をかけられた大男がフラフラと階段を下りてきた。両脇をがっちりと警官たちが固めている。
エントランスから表に出る寸前に一瞬立ち止まり、男がこちらを向いたように見えた。
男はおとなしく旅館を出て行く。それを横目に、刑事っぽいコートを着た背の低い男が近寄って来た。
警察手帳を広げて見せつけてくる。
「楠瀬と申します。事情聴取をしたいのですが」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
楠瀬によると、あの大男の後頭部に消火器で殴った時の陥没が見受けられたため、過剰防衛の可能性があるということだった。
「でも、やらなきゃ冴子は殺されてましたよ」
「殺されたかどうかは……。どちらにせよ一度、署までご同行願えますか」
エントランスの中、革張りの椅子に腰掛けていた冴子は立ち上がった。
「あの、わたしはあいつから殺意を感じました。目が血走ってて、まばたきもせずにわたしを睨んでたんです。それに、光莉が助けてくれるまでわたしは呼吸が出来ませんでした。そのままだったら多分、死んでたと思います」
楠瀬はひとつ息を吐いて、コートの内側をまさぐった。そしてタバコの箱を取り出すも、館内禁煙の張り紙を見つけて引っ込めた。
「それを証明出来る目撃者がいな……」
言葉の途中で楠瀬のスマホが鳴った。コートのポケットから取り出すと、すぐに電話に出る。
「はい。……うん? 冗談だろ……」
スマホの通話を終了させて、楠瀬はふたりを見る。表情に先ほどまでの余裕が無い。
「あの男がパトカー内で暴れて、走行中の車内からドアを開けて飛び出したらしい。今、ウチのやつらが行方を追ってる。ここに戻ってくるとは思えないが……あなたたちは念のため一旦、部屋に退避しようか」
楠瀬に促され、部屋へ戻るために階段を上がる。
光莉と冴子が同時に小さな悲鳴を漏らした。
廊下の奥、はめごろしの窓が割れていて、大男がゆっくりと立ち上がるところだった。
「ここは2階だぜ……? どうやって飛び込んで……」
楠瀬が震える声で呟いた瞬間、男は猛然と廊下を走り、ものすごいスピードで近付いてきた。
止めに入った楠瀬の体を右腕で薙ぎ払い、冴子目がけて突っ込んでくる。
「冴子!」
光莉が冴子を思い切り突き飛ばすと、男は誰にも当たらず勢いあまって廊下のオブジェに激突した。丸い陶器のオブジェが床に落ち、破片となって飛び散る。
男は欠片のひとつを掴むとすぐに立ち上がり、転んだままの冴子の上で馬乗りになった。
恐怖で手足が硬直して、冴子は動けない。
男が振りかぶる。右手に持った陶器の欠片の先端は、鋭く尖っている。
腕を振りおろそうとした時、火薬のはじける音が廊下に鳴り響いた。
男の動きが途端に鈍くなる。
馬乗りの姿勢のまま、男の手の中にあった陶器の欠片は床に落ちた。
そして、男は倒れた。両耳から血が噴き出し床を濡らす。
冴子は楠瀬を見やる。両手で拳銃を持っており、その手は小刻みに震えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「駅まで送ってもらって、すいませんでした」
冴子が深々と頭を下げると、楠瀬は頭をポリポリと掻いた。視線は光莉の方に向いている。
「いや、こっちの不手際で怖い思いをさせてしまって……。あと、過剰防衛の疑いも、……本当に申し訳ございませんでしたッ!」
バッと頭を下げた楠瀬に、光莉は笑顔で答える。
「だからそれはもういいですって。でも結局、あの男は何者だったんだろう」
「これから被疑者死亡で捜査が始まります。形式としてなので検察で不起訴処分になるでしょうが、男の身元は判明するかと」
冴子は記憶を辿ってみたが、やはりあの男のことは知らないし、今となってはもう、どうでもいいとさえ思えた。
「じゃあ、わたしたちは行きます。光莉、もう電車の時間だよ」
「あっ、ホントだ。えっと、楠瀬さん。捜査頑張ってください」
「はい! おふたりとも、お気をつけて!」
楠瀬に見送られ、ふたりは改札口に向かう。
冴子のスマホから着信音が鳴る。
「え……? わたし、電源入れてたっけ」
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人間関係、親族関係、金銭トラブル、借金の肩代わりで人生も精神も崩壊、心の病に苦しむ私は、体も弱る。
無理はやめてほしいと祈っていた妹も疲れ果て、心療内科に通うことになる。
完璧主義で、人に仕事を押し付けられ、嫌と言えない性格だったのでそのまま地獄にまっしぐら……。
泣きながら私は日々を過ごす。
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