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おくむらなをし

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サスペンス

匿名の

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 旅行の日の朝だというのに、寝坊した冴子さえこはまだスーツケースに服を詰めていた。
 アパートの部屋の中、ひとりつぶやく。

「まずいマズイ。間に合うかしら」

 新幹線の予約は指定席だから、ちゃんと決まった時間に乗る必要がある。さらに自分ひとりで行くのではないから、遅れることは許されない。
 タクシーを呼ぶしかないと思い、スマホの画面を開く。

「えっ……」

 ちょうどその時、電話がかかってきた。画面には「不明」の2文字が大きく表示されている。
 ……不明……?

 着信を拒否するのも怖くてしばらく画面を凝視していると、着信音が鳴り止んだ。
 今のが何だったのか気にしてる場合ではないと、ホーム画面内、電話アプリをタップしてタクシーを呼んだ。

 タクシーがアパートの前の道路に到着するタイミングで、冴子は部屋を飛び出した。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「あっ、来た来た。もう! あと3分しかないよ!」

 親友の光莉ひかりから手渡された切符を改札機に入れて進み、階段を駆け上がる。ギリギリになったがなんとか新幹線に乗り込むことが出来た。

「ごめんね。昨日あんまり眠れなくて……今日の夕食はおごるよ」
「夕食はフェリーの船内レストランね。遅い時間になるから軽いもので済ますと思うけど。まあ、それで手打ちにしますか」
「うん。そんなのでいならありがたい。タクシーで結構かかったから」

 光莉はふたり分の駅弁をビニール袋から取り出して、それぞれのテーブルに置く。フタを開けると焼肉の匂いが広がった。2列席側だから、周囲にそれほど迷惑をかけてないはず、と思いたい。

「とりあえず食べましょ。もうお腹ペコペコ」

 1時間前には駅弁を買って改札口付近にいたらしく、光莉はようやくありつけた弁当に舌鼓したつづみを打つ。

 今日は大阪の港から夜に出るフェリーで四国へ向かう。四国で紅葉とうどんを楽しむために、ふたりとも2か月前から3日間の有給休暇を取っていた。
 職場は違うけれど高校の頃からの親友だ。社会人になってから5年経っても、しょっちゅう会っているし、1年に2回ほどはこうして国内を旅行している。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 大阪駅から乗り継ぎ、さらに乗り継ぎでフェリー乗り場へ。フェリーの出航は夜遅い時間だから余裕があった。

 待つこと1時間、ようやく乗船の時刻になった。乗り込んで割り当てられた部屋に荷物を置き、ラウンジでくつろいでいると、フェリーは夜間の航行を始めた。ふたりは予定通り船内のレストランへ赴く。冴子はシラス丼、光莉は鯛だしラーメンを注文した。

「夜遅くに食べるラーメンって、なんか背徳感があるよねぇ。これ、美味おいしいよ」

 光莉が笑顔で顔を上げると、冴子はしきりに後ろを気にしていた。

「……どうしたの? 冴子」
「今日さ、ずっと誰かから見られてる気がするの。多分、新幹線を降りてからかな」

 光莉も周りを確認する。レストランにはカップルや老夫婦、独りで食べている中年男性など、旅行客にしか見えない人たちがテーブルを埋めていた。みな会話か食事に夢中で、こちらを向いている人物はいない。

「あと、これ見てよ。朝かかってきた電話」
「不明……? 非通知じゃなくて、そんなのあるんだ」
「分かんない。後で調べてみるよ」

 話して少し落ち着いたのか、冴子は食事を続けた。

 夕食後は大浴場でさっぱりして、ベッドが上下に用意された2人用の部屋へ戻る。昔は姉妹で2段ベッドの上を使っていたという光莉が、上のベッドに横たわって、すぐにその長髪を垂らしながら下のベッドを覗き込んだ。

「明日は5時半起き。アラームはセットしといたからね」
「ありがと。結構小刻みに揺れてるから、すぐには寝付けないかも。起きそうになかったら叩いてでも起こして」
「フフ、がってんでい」

 消灯して、冴子は目を閉じる。
 静かな部屋の中、ゆっくりと揺れ続ける世界。

 しばらくすると、まぶたの裏がフワッと明るくなった。

「ん……?」

 目をける。
 部屋の入り口の扉から、スッとひとすじの光が差し込んでいる。

 ……いてる?

 冴子は静かに体を起こして、扉にそっと近付く。
 隙間から廊下が見える。そして。

 人影が通り過ぎて行った。

 驚いて扉を閉めると、ベッドの上のスマホがブルブルと振動した。
 恐る恐る画面を確認すると、「不明」の2文字。

「冴子! 朝だよ起きて!」

 光莉に体を揺すられて目を覚ました。
 冴子はティッシュでよだれを拭いて、思い切り伸びをする。

 ……なんだ、さっきのは夢か。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「アハハッ。ちゃんと部屋の鍵かけて寝たんだもの。廊下からけるなんて無理だよ」
「分かってるんだけどね。なんだかすごくリアルで、怖かったんだ」

 朝早く愛媛に到着して、移動しながらうどん屋をはしごしている。今日の午後は紅葉狩り、そのあと旅館にチェックインする予定だ。

「着信履歴も昨日の朝の分しか残ってないし、やっぱり夢、だよね。うん」
「疲れてるんじゃない? 朝だって爆睡してたしさ」
「そういえば結局、不明っての調べてないや。何だったんだろう」

 光莉は冴子のスマホを取り上げて電源をオフにした。

「とりあえず、旅を楽しもうよ。地図は私のスマホで見るから、ね」
「……そう、そうだよね。ずっと前から計画してたんだもの。楽しまないと」

 冴子は苦笑いしながら、電源の切れたスマホをショルダーバッグにしまった。
 気を取り直し電車に乗り、紅葉が美しいといわれる低山を歩く。遊歩道から見える木々は鮮やかな赤、黄、緑の色に染まっていた。

「写真は私が撮って、冴子に送るよ。どうせおんなじ風景なんだからいいでしょ」
「うん……。でも、やっぱり誰かに見られてるような気がする」

 何度も振り返りながら、冴子は生気を失ったような表情をする。

「大丈夫? もう切り上げて旅館に行こうか」
「でも、まだチェックインまで時間があるでしょ」
「そんなの、旅館の近くでコーヒーでも飲んでればいいよ。ここ撮ったら街に戻ろう」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 旅館に着いて、道路を挟んで反対側のコーヒーチェーン店で時間を潰した。

「ごめん。ホントに……」
「だから大丈夫だって。今も変な視線、感じる?」
「今は……別に何も感じない。わたし、疲れてるのかなぁ……」

 溜息をいた冴子に、光莉は笑いかける。

「ねぇ、そろそろ時間。チェックインしよ」

 ふたりは旅館に入り、受付で部屋と温泉、アメニティの説明を受けてツインルームへ。
 荷物を置いて浴衣に着替え、部屋を出る。

 突然、目出し帽をかぶった筋肉質の男が冴子の目の前に現れた。
 荒い呼吸、目が血走っている。冴子より頭ひとつ分背の高いそいつは、無言で手を前に出してくる。

「がァっ!!」

 喉をとんでもない力でつかまれ、呼吸が出来なくなった冴子は細かく震える。

「なんなのよアンタ!」

 光莉は男の右腕を引っ張ろうとするが腰を膝蹴りされ、よろめいて倒れる。
 徐々に冴子の体が宙に浮き始める。息が出来なくて、冴子の意識は薄らいでいく。

「ア……ゥ……」

 助けを呼ぼうとしても声が出ない。視界のふちで、起き上がった光莉が離れていく。
 ……助けて……光莉……。

 口から泡が噴き出す。もう限界だ。
 冴子は天井を仰ぐ。

 目の前が闇に閉ざされそうになった時、ふっと男の力が弱まった。

 息を吸い、冴子は意識を取り戻した。
 男の右腕を必死に振り払うと、冴子の体は壁に沿って崩れ落ちた。

 倒れたまま男をにらむ。手を前に出したまま制止しているようだ。冴子は咳をしながら手足をバタバタさせて男から離れる。

 男はその姿勢のまま前のめりに倒れた。

 光莉が両腕で消火器を抱えながら、肩を上下させて息をしている。どうやら消火器で男の後頭部を殴ったようだ。

「冴子! 大丈夫?!」
「ゲホッ……。う、うん。首が痛いけど、多分……」

 物音に気付いて他の部屋から客が出て来た。光莉は大きな声で助けを呼ぶ。

「スタッフと……警察を呼んでください。すぐに!」

 言いつけられた男性は慌てて、パタパタとフロントへ駆けて行く。

「こいつ、冴子の知り合い?」
「分かんない。目しか見えなかったから」
「……顔、見てみる?」

 そう言って光莉が目出し帽を剥がす。体が細かく震えたままの冴子も、近付いて男の顔をのぞく。

「え、誰……? っていうか鼻が……、無い」
「私も知らないやつだ。なんでこんなとこで……」
「こんな、とこ?」
「いや、もしこいつがずっと冴子を襲う気で見てたなら、独りになるタイミングを待ちそうなもんだけどね、って思って」
「そう、かな……」

 旅館のスタッフに介抱されて冴子はエントランスへ。光莉は他のスタッフと一緒に、倒れたままの男を監視していた。
 すぐにパトカーが到着。刑事風の男と数人の警官が冴子の前を通り過ぎて行った。

 冴子がほうけて待っていると、光莉だけ階段を下りてきた。

「冴子、あいつが下りてくる。見つからない所に隠れよう」

 大きな柱の後ろに隠れて、様子を見る。
 両手に手錠をかけられた大男がフラフラと階段を下りてきた。両脇をがっちりと警官たちが固めている。
 エントランスから表に出る寸前に一瞬立ち止まり、男がこちらを向いたように見えた。

 男はおとなしく旅館を出て行く。それを横目に、刑事っぽいコートを着た背の低い男が近寄って来た。
 警察手帳を広げて見せつけてくる。

楠瀬くすせと申します。事情聴取をしたいのですが」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 楠瀬によると、あの大男の後頭部に消火器で殴った時の陥没が見受けられたため、過剰防衛の可能性があるということだった。

「でも、やらなきゃ冴子は殺されてましたよ」
「殺されたかどうかは……。どちらにせよ一度、署までご同行願えますか」

 エントランスの中、革張りの椅子に腰掛けていた冴子は立ち上がった。

「あの、わたしはあいつから殺意を感じました。目が血走ってて、まばたきもせずにわたしをにらんでたんです。それに、光莉が助けてくれるまでわたしは呼吸が出来ませんでした。そのままだったら多分、死んでたと思います」

 楠瀬はひとつ息を吐いて、コートの内側をまさぐった。そしてタバコの箱を取り出すも、館内禁煙の張り紙を見つけて引っ込めた。

「それを証明出来る目撃者がいな……」

 言葉の途中で楠瀬のスマホが鳴った。コートのポケットから取り出すと、すぐに電話に出る。

「はい。……うん? 冗談だろ……」

 スマホの通話を終了させて、楠瀬はふたりを見る。表情に先ほどまでの余裕が無い。

「あの男がパトカー内で暴れて、走行中の車内からドアをけて飛び出したらしい。今、ウチのやつらが行方を追ってる。ここに戻ってくるとは思えないが……あなたたちは念のため一旦、部屋に退避しようか」

 楠瀬に促され、部屋へ戻るために階段を上がる。
 光莉と冴子が同時に小さな悲鳴を漏らした。

 廊下の奥、はめごろしの窓が割れていて、大男がゆっくりと立ち上がるところだった。

「ここは2階だぜ……? どうやって飛び込んで……」

 楠瀬が震える声でつぶやいた瞬間、男は猛然と廊下を走り、ものすごいスピードで近付いてきた。
 止めに入った楠瀬の体を右腕でぎ払い、冴子目がけて突っ込んでくる。

「冴子!」

 光莉が冴子を思い切り突き飛ばすと、男は誰にも当たらず勢いあまって廊下のオブジェに激突した。丸い陶器のオブジェが床に落ち、破片となって飛び散る。

 男は欠片のひとつを掴むとすぐに立ち上がり、転んだままの冴子の上で馬乗りになった。
 恐怖で手足が硬直して、冴子は動けない。

 男が振りかぶる。右手に持った陶器の欠片の先端は、鋭く尖っている。

 腕を振りおろそうとした時、火薬のはじける音が廊下に鳴り響いた。
 男の動きが途端に鈍くなる。

 馬乗りの姿勢のまま、男の手の中にあった陶器の欠片は床に落ちた。
 そして、男は倒れた。両耳から血が噴き出し床を濡らす。

 冴子は楠瀬を見やる。両手で拳銃を持っており、その手は小刻みに震えていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「駅まで送ってもらって、すいませんでした」

 冴子が深々と頭を下げると、楠瀬は頭をポリポリと掻いた。視線は光莉のほうに向いている。

「いや、こっちの不手際で怖い思いをさせてしまって……。あと、過剰防衛の疑いも、……本当に申し訳ございませんでしたッ!」

 バッと頭を下げた楠瀬に、光莉は笑顔で答える。

「だからそれはもういいですって。でも結局、あの男は何者だったんだろう」
「これから被疑者死亡で捜査が始まります。形式としてなので検察で不起訴処分になるでしょうが、男の身元は判明するかと」

 冴子は記憶を辿たどってみたが、やはりあの男のことは知らないし、今となってはもう、どうでもいいとさえ思えた。

「じゃあ、わたしたちは行きます。光莉、もう電車の時間だよ」
「あっ、ホントだ。えっと、楠瀬さん。捜査頑張ってください」
「はい! おふたりとも、お気をつけて!」

 楠瀬に見送られ、ふたりは改札口に向かう。

 冴子のスマホから着信音が鳴る。

「え……? わたし、電源入れてたっけ」

 ショルダーバッグからスマホを出し、画面を見る。
 冴子は驚いてスマホを落とした。

 割れた画面に、「不明」の2文字。
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