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第3章 いつかの旅

第30話 おかえり

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 列車のドアが開く。俺は悠希ゆきと手を繋いだまま、ホームへ降り立つ。強めの陽光に目を顰めながらサァ行くぞっと歩き始めようとした瞬間、後ろから右手を思いっきり引っ張られた。

伍香いつかちゃん、本当に私でいいのかな。さっき言ってた香織かおりさんて人の方がいいとかないかな」
「だから、そういうのじゃないって。あとでこじれないように教えただけで、伍香はハッキリお前がイイって言ってた。自信持って、ホラ行くぞ」
「うん……。あー、すっごくドキドキしてきたっ。ゲームでもこんな心臓バクバクしたことないよ。寿命が百年縮みそう」

 弱音を吐きまくる悠希を軽く引っ張り返して、俺たちは改札を抜けた。ゆっくり歩いても10分、今日も暑いなぁくらいの会話しかせず。きっとこの手の温もりの先では熾烈な脳内会議が開かれてんだろう。俯いたまま強張った表情の悠希をなんとかリラックスさせてやりたいけど、どうしたもんか。

「きゃっ。……なに?」

 急に抱きついたので、当たり前のように驚かれた。少し先の角を曲がれば野月のづき家が見える。その前に伝えておきたかった。

「何を言われても、俺は、悠希と一緒になる。お前と、伍香を幸せにする」
「うん。私も、たけしとずっと一緒にいたい。アンタがいない5月は寂しかった。だからね、来年の5月は、毅と伍香ちゃんと同じ場所で過ごしたい。それで、いつかそんな月のひとめぐりもあったねって、このひと月のことを笑い飛ばしたいの」

 しばらく悠希の体温を感じていた。彼女の大き過ぎる鼓動は、徐々に落ち着きを取り戻していった。もう大丈夫、と言われて体を離し、また手を繋いで歩き出した。

 野月家の雑草だらけで手付かずな駐車スペースに、少し道路へはみ出すようにして1台の車が停まっていた。この停め方では親父の車は出られそうにない。海外メーカーのラグジュアリーセダンで、ピカピカワックスが眩しいパールホワイトカラー。うん、金持ちの乗りそうな車だ。一度もこの辺で見たことのない車種に、なんとなく持ち主の想像がついた。そして悠希はもちろん知ってるはずだ。

「悠希の……親御さんの車だな」
「どうして分かったの? っていうか、なんで来てるのぉ?!」
窪田くぼたさんを使って、俺たちの近況を調べてたらしい。俺があの会社に転職した時からずっと。ついでに色々ちょっかいというか手助けというか、余計なこともしてくれてたみたいだ」
「ええ~! じゃあ土下座なんてしなくても良かったってこと? 損したわぁ」
「どんだけ土下座を悔しがってんだよ。土下座なんてたまにするだろ」
「私は生まれて初めての土下座だったの。あぁ、悔しい悔しい、悔しいわ」

 悔しがる悠希を放って……はおけないな。腰に手を回し、押すようにして小さな黒い正門の前に立つ。そして、ふたりで両開きの木扉に手をかけた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「あっ、お父さん。大変なんですよ早く来てください」

 玄関を開けると、郵便配達員の姿をしたマルが出迎えた。まさか実家に戻って最初に会う人間がコイツとは思わなんだ。

「お前バイクはどうした。その格好、仕事中だろ」
「バイクは裏に停めてあります。郵便持ってきたら、外で知らないオジサンと伍香さんが言い合いしてて、それで色々あって今、伍香さんは部屋に篭ってます。オジサンは居間でひろむさんたちと、……深刻そうな話を」
「分かった。すまないな仕事中に。とりあえずマルは伍香を見ててくれ。悠希、まずはリビングに行こう。伍香と話すのはそのあとだ」

 マルが摺り足で伍香のいる部屋へ向かう。俺たちふたりは背筋を伸ばして廊下を突っ切って行く。閉ざされし居間の扉のノブに手をかけ、悠希に向けて一つ頷き、喉を鳴らしたあと、部屋へ押し入った。

「なんでワシがここまでするかって言うとね……」
「お父さん! 勝手に来ないでよ!」

 お父さんと呼ばれた恰幅の良い白髪混じりのポマードベタ塗りっぽいオジサンは、いったん喋るのをやめてこちらへ振り向いた。親父に母さん、兄貴を交えて4人がソファに座って何かの会談をしていたみたいだ。

「おう、悠希。あと毅さん、初めまして。悠希の父、ノブヒコと申します」
「初めまして。悠希さんとは清く正しいお付き合いをしております。野月毅です。今後ともよろしくお願いします。もう窪田さんとの契約は終わりましたか? 俺たちの身辺調査は完了ですか?」

 ノブヒコさんは、親父をチラッと見る。

「……毅さんの、ここ最近の出来事について話していたところだ。もちろん君が内緒にしてた横領についてもね。大事おおごとにならなかっただけであれは犯罪だよ。窪田くんの報告によれば、君は必ず更生できると。だがワシはこの目で、この両目でね、見定めたいと遥々東京からやって来たわけなんだな、これが」
「お母さんひとり幸せにできなかったくせに今更何なのよ。私と伍香ちゃんのために必死で働くって、毅は約束してくれた。いつもふんぞり返って人にあれこれ命令してるだけのあなたとは違う。過ちはあったかもだけど、窪田さんの言う通り、反省してくれてるの。毅は絶対にもう、悪い事なんてしない」

 なんか父娘の口喧嘩が始まってしまい、野月家の面々はあからさまにドン引きしている。互いに表情を見合って少しキョドるような、どぎまぎするような挙動を示す。

「悠希、みんなビビってるからやめてくれ。……俺は確かに、業務上横領をしでかしました。助けていただいて感謝してます。溜まったストレスの捌け口にするにはあまりにも酷いことをしたと、反省してます。言葉だけじゃ信用できないと思います。だから俺たちの未来を見ていてください。俺は必ず悠希を幸せにします。そう約束したんです」
「本当かね。君がその約束ってのを破らないと、誰が保証する。なんとなく家を出て定職にも就かずダラダラ時を過ごしてきただけの君を、一体誰が信じるというんだ」
「僕が保証します」

 兄貴がゆっくりと立ち上がり、左足を引き摺りながら俺の傍まで寄って来た。

「こいつは適当だしちょっと頭が足りないけど、すごく優しいやつなんです。優しくて、全部自分で抱えようとして、壊れてしまったんだと思います。ここに戻ってくるなら僕が支えてやれる。ここには悠希さんだけじゃなくて、こいつの味方がたくさんいるんです。父さんも母さんも、そうだよね?」
「……そうだな」
「母さんね、悠希さんのこと好きよ。戻ってくるならお部屋、空けてあげるからね」

 悠希が両手で自分の口を塞ぎ、嗚咽を誤魔化す。母さんの「好き」って言葉に過剰反応してるみたいだ。さらに強気な口調で兄貴が続ける。

「それより実田さねださん。あなた急にやって来て弟の悪事だの悪評だのペラペラまくし立ててましたけど、それ名誉毀損で訴えられても文句言えませんからね。毅どうする、訴えてみるか」
「いや、俺は別に……」
「そうよ毅。こんな酷い男、訴えちゃえばいい。私が証言台立つ。父親だって容赦しない。私は毅の、一番の味方だよ」
「だから俺は……」

 ノブヒコさんは閉じた口をワナワナ震わせ、猛獣の如き唸り声を上げる。じっと俺たちを睨んで10秒、諦めたようにクソデカ溜息を吐いて項垂れた。

「……味方か。ワシにはそんなモン、おらんかったなぁ」

 勝手にしょげて、力無く立ち上がった。フラフラとした足取りでこちらへ向かってくる。そして居間を出る間際、俺の肩に手を置いた。

「悠希を泣かせたりしたら許さんぞ。たまに様子、見にくるからな」
「俺は悠希を幸せにします。もう以前の俺とは違います」

 そうか、そうか。と放ってノブヒコさんは出ていった。

「お母さんをあれだけ泣かしたくせに。どの口からあんな言葉が生まれるのよまったく。あんなのと血が繋がってるの、ホント人生最大の汚点だわ」

 どんだけ親子仲が悪いんだ。それでも訪問客なんだし悠希の父親でもあるわけで、見送らなきゃいけないなと居間から出てみたところ。

「……伍香。聴いてたのか」

 扉のすぐそばに、困り顔のマルと俯いた伍香、その伍香の肩を抱いているレイの姿があった。悠希は目線を合わせるためにひざまずき、今にも泣き出しそうな伍香の顔を覗き込む。

「伍香ちゃん。私ね、私……。あの男に何言われたか分からないけど、私は毅と一緒に暮らすことにした。毅は変わってくれるって、私と伍香ちゃんを幸せにしてくれるって、約束してくれた。だから私……」

 悠希の言葉が途切れるとともに、伍香は顔を上げた。濡れた瞳で悠希の目をしかと見つめる。笑顔のような表情を作ろうとするが上手くいかない。それでも懸命に笑い顔を見せようとするうち、ついには堪えきれず大粒の涙をこぼす。零しながら、涸れた声を喉の奥から捻り出す。

「おかえり。……おかえり、お母さん!」
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