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第3章 いつかの旅

第25話 あふれる

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「あっ、パパもう始まりそうだよ早く早く!」
「まだ守備練じゃねぇか。別にプレイボールの瞬間を観に来たわけじゃなし、焦って歩いてると転ぶぞ」
「そんなマヌケじゃないもん。わぁッ!」

 ほら見ろ、やっぱけた。砂地の上を前転してワンピースもレギンスも砂まみれになる伍香いつか。盛大に上がった砂煙を見て、投球の練習中だったレイが右手にソフトボールを握ったまま走り来る。緑と白のツートンカラー、昭和かと思うような渋いユニフォーム姿のレイは、普段とは少しだけ違う緊張の色を湛えている。

「伍香殿、大丈夫でござるか!」
「時代を間違えてんぞ。どっからタイムリープしてきたんだよ」
「あたしは大丈夫。それよりレイちゃん、がんばってね。トーナメントだからこの試合に負けるとそこで終わりだよっ」
「ぐ、グゥ……」
「おい伍香。それは励ましてんのか、追い込んでんのかどっちだ」

 伍香は腕組みエッヘンして、したり顔でご高説を垂れ流し始める。

「ほどよいキンチョウカンとカワイイ友だちの応援。これがレイちゃんの力を、えっと、ばい、バイゾウさせるのであった」
「お前、こんな時に難しい言葉使う練習してんじゃねーよ」
「アハハ、伍香殿は面白いでござるな」
「だからぁ、今は令和だぞ。ござるとか使わないから!」
「まぁ見ておいておくんなまし。拙者、四番でエースのレイが大活躍する様をね!」

 そう言って笑顔をふり撒き散らかし、レイはダッシュで戻って行った。キャッチャーの子から「勝手にどっか行くんじゃない」なんて怒られているが、本人はいいのいいのと気怠く手を振り気にもしていない。あのレイとバッテリーを組むのは至極大変そうだ。

「どうだった? レイはあんな感じ……オイ、俺のシャツで鼻をかむな!」
「ずびっ……。らってぇ、あんな大きくなって、可愛らしくて……。性格もすごく良さそうで……。嬉しくて、さぁ」

 俺の後ろに隠れていた香織かおりのマスカラとかファンデとかが俺の背中にビッシリこびりついた。どうして自分のハンカチで拭わないんだ。

「おっと……、わたしちょっと化粧直してくるわ」
「あたしもトイレ」

 好き放題して、奴らは歩いて行った。フェンスの向こう、公園併設のグラウンドでは今にも試合が開始されようとしている。レイの中学校の相手は俺の母校だ。部活に力を入れてない学校だし、レイならノーヒットノーランでも……。

──カッキーン!

 レイが緊張の面持ちでほおった初球は、先頭打者の金属バットに跳ね返されて即席外野フェンスをギリギリ超えていった。おそらく最初から1球目はフルスイングしようと決めていたのだろう。で、たまたまドンピシャのタイミングで芯に当たっちまった、と。レイの球がヘッポコじゃなければ。

 いきなり1点を失ったレイの表情は、しかし晴れやかだ。取られたら取り返せばいいと思ってそうな感じ。さぁ仕切り直しだとでも言わんばかりにぐるぐる肩を回している。

 次の打者は3球三振。その後もショートゴロ、ショートゴロと軽々打たせて取った。1回裏の攻撃が始まるところで、伍香と香織が戻ってきた。

「あれ、1点取られてる。ねぇパパ、なにがあったの?」
「初球をホームランされたんだ。出会い頭の一発ってやつだな」
「ええっ。じゃあ、玲我れいがのチームが負けってこと?」
「まだ1回裏。ソフトはコールドでもなきゃ7回まであるんだから、まだ勝負は決まっちゃいねぇよ」

 ホッと香織は肩の力を抜く。相手ピッチャーの調子が良いのか、ポンポンとストライクを先行され、追い込まれた末ボール球に手を出し三振やら内野ゴロやらで。1回裏の攻撃は3者凡退で終わってしまい、レイに打順が回ることはなかった。流れが悪いというか、少し嫌な展開に見える。

 本調子を取り戻したらしいレイの投球は、鋭くキャッチャーミットへ突き刺さっていく。さすが毎日毎日朝ランニングしただけのことはあり足腰が安定している。ライズ気味の速球に打者はことごとく振り遅れるかボールの下を叩いて打ち上げ、凡退していった。

 ただし相手の投手も調子の良さでは負けていない。レイのチームは毎回のようにヒットが出るも後続を断たれて3アウトチェンジ、3塁まで到達できず回をドンドン消費していく。

たけしくん。玲我、このまま負けちゃうのかなぁ」
「次の回に1人でもランナーが出ればレイまで回る。今日はヒット打ててないけど、当たればいきそうなスイングしてるんだよな」

 そしてレイは7回表を3者三振で締めた。1対0のまま裏の攻撃へ。これで無得点だと伍香の予言通りレイの夏が終わる。

 一番バッターはあえなくサード強襲ライナー。真正面で勢いのあるボールを、サードが顔を背けずによく捕ったというべきか。そういや我が母校なんだから本来俺はあっちを応援すべきなんだな。いや、どうなんだろ。あの学校に良い思い出なんてないから、やっぱ負けてもらって結構。すまんな後輩たち。

 次のバッターがすくい上げるように当てただけの打球は、内野と外野の間にポテンと落ちた。最終回のおそらくラストチャンスとあって、ずっと静観していた保護者たちが勢いづきワァワァ騒ぎ始める。

 そして三番バッターは初球をバントした。一塁線に沿って転がるボールをファーストが慌てて捕球し、ベースカバーのピッチャーに向かって無理な姿勢のまま投げる。バッターがオレンジのベースを踏むのとピッチャーのキャッチは同時に見えたが、アウトの判定だった。ブゥ垂れる保護者たちへ、審判員が大げさに手を振って黙れと嗜める。

 シーン……と静まり返ったグラウンドの中で、四番のレイが打席に立つ。獲物を狙うライオンのような眼。今まで見たことのない眼つきをしている。金属バットを大きく一回転させ、頭の横で真っ直ぐに立てて構えた。

「だめだよ毅くん。もう見てられない……」
「まーた泣いてんのか。ちゃんと見てやれよ。娘の大事な試合だぞ。これで終わりかも知んねぇぞ」
「だってぇ……」

 パァン、パァンと2回、キャッチャーミットが鳴った。2球続けて大きく振ったレイの軌道は、ボールに当たらず空を切った。とその時、間近で生まれた大声に俺の鼓膜が震える。

「玲我ぁぁぁ! がんばれぇぇぇぇ!!」

 グラウンドに響き渡る香織の叫び。レイは驚いた顔をしてこちらをチラリと見、軽く頷くとピッチャーの方へ向き直った。表情は相変わらず真剣そのもの。普段のおちゃらけたレイは、そこにいない。

 ピッチャーが腕を回転させる。遠心力をつけて放たれた速球に対し、レイはまたもやフルスイングで応える。芯で捉えたような、金属バットの甲高い音が響く。真っ直ぐライナーで外野へ飛んでいったボールを、センターが追いかけて走る。

 そして──

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 グラウンドの整備をしているソフトボール部員たちを眺めていると、さっきまで散々泣きじゃくっていたレイが、瞼を真っ赤に腫らしたままこちらへ駆けて来た。

「いやァ、ダメだったッス。せっかく伍香嬢が応援に来てくれたのに、良いトコ見せられなかったでやんす」
「またキャラ変わってんぞ。お前は普通に話せないのか」
「レイちゃんはカッコ良かったよ。今日は運がなかったね。イチゴイチエの勝負では一番ジュウヨウなヨウソなのに」
「うぐっ……」
「もうそんなに責めてやるなよ。あんだけ泣いたんだからみそぎは十分だろ。ちゃんとヨシヨシしてやれ。大体お前は何目線……」

 レイが、横にギギギと辿々しく視線を移していく。なんとなく誰なのか分かっているんだろうが。当の香織は黙ったまま、少し肩を震わせながらレイの姿を下から上まで舐めるように見つめている。

「パパさん、あの……。こちらは、えっと……」
「写真で知ってると思うけど、母親の香織だよ。ここに戻ってきたんだ」

 レイの瞳が大きなしずくを生み出す。それらはとめどなく溢れ、地面をポタポタと濡らしていく。レイは俯きかけて、でも目を離したくなくて、涙でいっぱいの眼を香織へ向け続ける。

「今までごめんね玲我。わたし、戻ってきたよ。あなたが望んでいるかは分からないけど、もう一度ここで生きていこうと思……」
「お母さん! お母さぁぁぁん!!」

 人の話を最後まで聞かず、レイは香織に抱きついていった。懐に飛び込んで来た小さな体躯を受け止め、その背に腕を回し、香織は強く、強く抱きしめる。

「もうどこにも行かないで! ずっとそばにいて! アタイ、いい子でいるから! お母さんと……ずっと、ずっと……」
「うん、うん。わたし、ここで生きていくね。ずっと、一緒にいようね」

 ふたりの抱擁に触発されたのか、伍香が俺にしがみついてくる。その細い腕にありったけの力を込めて、いつまでもくっ付いたまま離れない。俺が逃げないように。俺を逃さないように。そんな気持ちが柔らかな体温を通じてふわりと伝わってくる。鼻を啜る音が聴こえる。

 オイだから俺の服はハンカチじゃねーっての。
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