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第2章 花鳥風月

第20話 リノベ

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 朝早く親父に起こされ、連れられて家をぐるっと周らされる。どこに行くのやらと怪しんで歩いていたら、なんと遠征先は裏庭の片隅で時が止まったままのボロボロ小屋だった。監禁するつもりですかって冗談で言おうとしたけど通じないだろうからやめておく。身勝手にも親父は俺を放置して、小屋の外側を彷徨きながら朽ちた外壁や剥がれたトタンなんかをしげしげと見つめている。

「なあ、何用だよ」
たけしがこの小屋を修理して、使ったらどうかと思ってな。材料費は出すし電気工事は知り合いの業者に頼んでやる」
「はぁ? ……ハッハァーンそうか分かったぞ。親父疲れてんだ。なんだかんだ土曜日も出勤してたりするもんな。忙しすぎておかしくなっちまったんだろ」
「失礼なことを言うな。父さんは正常だ。この前の健康診断でも肝臓以外はなんの問題も無かった。ストレスチェックも引っかかったけれど、産業医には役職持ちだと皆大体ストレス過多だから気にするなって言われてるぞ」
「やっぱちょっとダメじゃねぇか。狂ってもいない人が、なんでいきなしこんなデケェもん直せって言い始めるんだよ」
「毅お前、ずっとここに居るつもりだそうじゃないか。そうなるともうこの家の部屋はいっぱいだし、無職じゃアパートを借りられないだろ。この小屋を修繕して、住め」

 いやいや、住め。キリッじゃねぇんだよ。どうして俺がずっと……。あれもしかして。

 ポケットの中がブルブル震える。掴んで抜き出し凝視するスマホの画面にはよく見る4文字。

「ほい」
『ほいじゃないでしょ。昨日の夜、トドブレのメッセージでしらされてビックリしたわよォ。アンタずっとそこにいるんだって? 荷物全部送りつけてあげようか?』
「要らねぇし。ってかオイ、伍香いつかがそんなことを……」

 その時、黄帽をかぶった小さな影つまり主犯が横切って行く。

「伍香ァ! お前みんなに何吹き込んでんだ?!」
「パパがここにいるって! ずっといるみたいって言っといたよ、あたし親切でしょ! ヘヘッ」

 遠ざかりながらもしくは逃げながらの返答にグヌヌとなる。昨日伝えたちっちゃな言の葉を二百年物のクスノキくらいまで成長させて触れ込みやがった。

 そうして勘違いの小さな伝道師は、開け放たれている黒い正門から出て行った。スマホの画面には通話終了のデカ文字。猫背になって項垂れる俺の肩をポンと叩くのは……兄貴だ。もしやこいつもなんか変なこと吹き込まれてんのか。

「聞いたよ。良い心掛けじゃないか毅。まさか残るとは思わなかったけど、これで伍香も幸せに暮らせそうでなによりなにより」
「うっせぇ。ここにいるのがちょっと伸びただけだ。兄貴のリハビリが終わったら……」
「なんだ、結局帰るのか、長野に」
「分からん。それをこれから考えようとしていた矢先にあいつのせいでとことん邪魔されてるところだよっ」

 ……いやぁしっかし、見れば見るほど本当にボロい小屋だ。一部はびっしりツタに覆われているし、内見するまでもなく崩落した屋根の穴からじゃんじゃん雨が入って床も朽ち果てていそうだ。ひと息吐いて俺は親父へ近寄り、静かぁに進言する。

「開かずの小屋のまま取り壊して、建て直したほうが早くね? 基礎もヤバそうだけど」
「そうしたいのならそうすればいい。とにかくこの小屋はお前にやる。あとは自分で考えろ」

 冷酷な父上様は、踵を返して家の中へ入っていった。

「でも懐かしいな。昔はよく毅と隠れんぼしたり夜に肝試しをしたり、存分に活用してた」
「そういや屋根に登って怒られたっけ。あれは小3の花火大会の時だった……お、およ?」

 俺、小学生の頃の記憶戻ってるじゃん。頭痛に襲われることもない。なんぞこれ、何がきっかけなんだろうか。洲本すもと家で香織の手紙を読んだこと? もしくは伍香と気持ちをぶつけ合ったこと? いずれにしろ間違いなく俺は小学生だった時期がある。ずっと封印していた当たり前のことを、今ありありと憶い出すことができているのだ。

 そして、ついでみたいに蘇る香織とのやり取りの続き。そうだ俺たちは……。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 昼下りに洲本のお屋敷を訪れていた。縁側、ルイさんの横で、膝から下をぶらんと庭へはみ出すようにして行儀悪く座っている。小学生の頃と同じ、くつろいでいるような悪びれているような姿勢。ここからの景色も……そう今、俺はあの思い出と変わらない景色の中にいる。

「俺はここで香織と、大人になったら結婚しようって約束してたんです。結婚してこの町で暮らそう、そしたら俺がずっと香織を守るからって。俺にはもうそんな資格ないけど、それでもやっぱり香織はここにいるべきだったんだと思うんです。いや、いるべきだと思うんです」
「だから香織と会う、あわよくば連れて帰る、か。玲我れいがも実は母親を望んでいると言ったね、そう確信した根拠を聞かせてくれるかい?」
「昨日の朝あいつは、伍香の気持ちが分かると言って泣きました。伍香を守ってくれてたのは、親のいない寂しさに対して同情したからなんじゃないかと思います。もしかするとレイはこれまでも、人目につかない所で隠れてメソメソ泣いてたんじゃないですかね」
「そうだとしても毅さんあんた、レイの為なんて言いながら現実逃避しているだけなのでは? 自分の問題を香織とレイにすり替えていないかい」

 違う。違うけど、上手く伝えられない。でも俺はもう逃げない。まずはこの小さな世界に蔓延はびこるいくつものわだかまりを消し去りたい。それが終わったら俺はきっと、きっと前に進んでいけるはず。

「レイには大きな借りがあります。理由はどうあれ、あいつはずっと伍香のことを守ってくれてた。こんな離れたトコから兄貴のアパートや野月家に毎日毎日やって来て。今でもずっと守ってくれてるんです。俺が高熱出してしんどかった時にも、バカでっかい氷嚢を勝手に乗せてって熱を下げてくれた。その借りを返したいんです。感謝の言葉とかじゃ足りないんです」

 ルイさんは木盆の上の煎茶を静かに飲む。それからゆっくり湯呑茶碗を元の位置へ戻して俯きかげんになった。なんかブツブツ言ってるぞぉ。なんだよ怖いな呪文か?

「……ちょいとお待ちを。渡したいモンがあるんだ」

 スッ、スッと音も立てずに遠ざかる。まるでそこに存在していないかのごとく無音で動き、ルイさんは廊下を曲がっていった。視線を庭園に戻してみると、再び懐かしさ溢れる緑の景色。香織を助けるために何度も同級生と喧嘩した。相手は3人とか4人で、俺はいつだって孤軍奮闘。最後は一方的に殴られ蹴られ、負けて眺める空は全然清々すがすがしくなくて、海から漂ってくる潮風に自分から出た血の匂いが混じって不快そのものだった。ああ、だから嫌いなんだな。

「毅さん、こちらに来なさい」

 ルイさんの声に反応して立ち上がる。応接間の障子戸を静かに横へ動かして、人ひとり分だけ開けて入り、ピッチリ閉めた。6尺ほどのデカイ座敷机をはさんで無表情の老婆と相対あいたいし、足が痺れるに違いないから予防のため胡座をかく。

 目の前には、四角い漆塗りアンド金箔貼りの高級そうな盆が置かれている。その高級盆に乗せられているのは、一枚の名刺と茶封筒がふたつ。真ん中の茶封筒は少し膨らんで見える。うーむ、そこはかとなく現金っぽいな。とりあえず名刺に視線を移して読んでみる。

数寄かずより探偵事務所……。前に仰ってた、名古屋の探偵さんですか」
「昔からの馴染みでね。今その事務所には娘さんと、まぁガードマンみたいな荒くれ者の相棒がいる。封筒は娘さんに渡しとくれ。あんたのことを知っているから喜んで協力してくれるはずだよ」
「どうして俺を知ってるんです?」
「あんたの名が香織からの手紙に書いてあったからね、玲我を引き取った頃にまずわしが自分で調べたんじゃ。そしたらあんたは高校卒業と同時にこの町から出ていた。だから数寄に香織の居所を突き止めてもらうついで、毅さんのことも調査してもらった」
「それは、いつのことですか」
「最初の調査は14年ほど前になるかな。まだ伍香ちゃんは生まれてなかったね。それから一番近しい時期だと4年前、玲我のおいたで学校に呼び出されていた頃か。伍香ちゃんだけがこの町にやって来たことを知って、気になったから数寄の娘さんにもう一度調査を依頼した。玲我は玲我で勝手に色々調べ上げて、それで同じような境遇の伍香ちゃんに同情したのかもねぇ」
「……あの、えっと。突然ウチを出て行ったトモエのことも?」
「うむ、わしは聞いてしまった。申し訳ないけどね。だけどそれを知っている数寄の娘さんは、あんたに悪いようにはしないはずだよ」

 決して同情されたいわけじゃない。けど理由はどうあれその探偵さんが味方になってくれるのなら、同情でも何でも利用すべきだろう。多分チャンスは一度きりだろうから。

「俺、やります。香織に会ってきます」
「わしは今の香織がどんな人格なのかまでは知らされてない。毅さんの中にいる香織と、現実の香織は全然違う人間かもしれないが、それでもいいのかい?」
「構いません。もしもレイに会わせるべきじゃないと思えば、……でも俺は信じます。きっと香織はあのまま、手紙に書いた気持ちのまま暮らしてるって、俺はそう信じたいです」
「根拠もないのによく言うねぇ。まるで小学生と話してるみたいだよ」

 ルイさんは目を逸らすことなく、俺の瞳孔から真意を抜き取ろうとする。しかし俺は本心でものを言っているのだ。もう嘘はつかない。失うものもない。俺はここからもう一度始めるんだ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 翌日朝。伍香が野月のづき家を出て小学校へ向かったあと、俺は単身で最寄り駅のホームに立っていた。兄貴には、友達と会うため名古屋へ出て1泊2日で帰る予定と伝えておいた。空の色が穏やかでない。西南からゆっくりと雨雲が近付いてきているようだ。予定の時間になっても現れない電車をソワソワした心持ちで待ち続ける。もしかすると何駅か前ではもう降り始めているのかも。雨が降るとあっさり遅延するからな。

 イライラして待っているうち、ひと粒、ふた粒。やべぇ傘持ってきてねぇやと焦り始めた頃、ようやく遠くに赤い車両のおでましだ。「遅ぇんだよ、ったく」と吐き出して、ふと何か視線の様なものを感じ振り返る。

──あれ? 今ゼッタイなんかいたよな。猫とかヌートリアか?

 などとキョロキョロする間にも電車はホームへ滑り込んできていた。プシュゥゥという動作音とともに電動扉が開かれる。雨から逃れるように颯爽と乗り込んで車内を見渡す。平日午前遅めの時間帯ということもあってか乗客はまばら。空いている長椅子に座ってリュックサックを置き、安堵の息を漏らしながら顔を上げるとそこには。

「オイオイなんでお前がここにいるんだよ」
「エヘヘ、来ちゃった」

 軽々しい口調、一切悪びれることのない素朴な笑顔。今朝、家を出る時に背負っていたはずのランドセルが見当たらない。黄帽もない。向かいの長椅子にはミニポシェットひとつだけ肩からぶら下げ、ハーフパンツにショート丈ワンピースという出で立ちの伍香がいた。

〈第2章 花鳥風月:終〉
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