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第2章 花鳥風月

第18話 はじける

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 昨夜から今朝にかけて、伍香いつかとひとつも言葉を交わさなかった。おそらく窪田くぼたさんの軽々しく放った断末魔が影響しているものと考えられる。まったくとんでもねぇ事をしてくれたもんだぜ。そんなわけで、あいつがランドセルを背負って学校へ向かったあと独り台所でモソモソ朝食を取りながら、今後の活動方針について考えを巡らせ巡らせしていた。

「おーい、たけし。病院行ってくるから留守番頼むぞ」
「へぃへぃ。……あれ、そんな不格好でいいのかよ。スーツでバシッと決めてったらどうだ」
「どこの世界にリハビリをスーツでやる奴がいるんだ。このヨレヨレジャージで十分。じゃ、よろしくな」
「お気をつけてー」

 うーむ、木野きのさんに対して本当に気が無いのか、意識的にルーズ感を装ってるのか。タクシーが来たらしく、兄貴はそそくさと玄関へ向かう。まだ右足に力を入れられないらしく、その足取りは細かく鈍重だ。ダイニングチェアに座ったまま見送り、俺はもう一度自分の意識の中を泳ぐ。

 仕事辞めたのをバラしたのは窪田さんのヘンテコな気遣いから生まれた行動だろう。いつまでも意志をハッキリ表明しない俺への発破ともいえる。そういう意味では、あの人は悠希ゆきの依頼を完遂したんだな畜生め。……ハァ。とにかく伍香に自分の口からもう一度、今の状況を伝えなくちゃいけない。タイミングとしてはあいつが帰ってきてすぐかな。朝の態度だと俺からの説明待ちな感じもするし、自分にとってもこの悶々とした状態は早めに解消したいところだ。結果がどうであれ……、ハァ。

「たのもー、たのもォー」

 古風な呼び声に引っ張られ縁側へ出ると、レイが珍しく中学校の制服を着て、パンパンなリュックのストラップを両肩に食い込ませ棒立ちしていた。その表情は珍しく憂いを帯びており、明らかに何やら言いたそう。というか間違いなく伍香の話だよな。

「学校の時間だろ」
「てんし……伍香お嬢がひどい顔して歩いてたから、どったのって訊いても首ふるだけで元気ないんだ。これは絶対にパパさんとなんかあったなと思いやして参上したわけですヨ」
「ちょっとアレだよアレ、行き違いってやつ。今日あいつが帰ってすぐ話し合うから、お前は俺たちのことなんか気にせずソフトの練習に集中してくれ。もうすぐ試合なんだろ」
「試合は次の日曜日ッス。でもあの子が元気に笑っててくれないと練習に身が入らないのでス。パパさん、伍香ちゃんを泣かさないで。もう天使の泣き顔は見たくないの」
「俺だって、……見たかねぇ。でも大人には色々事情ってモンがあんだ。ひとりで持てる荷物には限界があって、自分で持てる分以上持ったら潰れちまうんだよ」
「パパさん。伍香お嬢は、荷物じゃ……、……ないよぉ……」

 そう小さく呟いて、レイは元気なく垂れた左眼から水滴を零した。

「いやさ、あの……ものの例えだって。お荷物なんて思っちゃいねぇよ。お荷物っていえば、むしろ俺自身がこの家のでっかいお荷物なんだから」
「伍香ちゃんを悲しませないで。アタイ伍香ちゃんの気持ちすっごくね、良く分かるの。アタイにも、いないから……」

 レイは涙を拭くことなく、踵を返して門の方向へタタタと走って行く。奴が立っていたトコに残された幾つかの小さな点は、ジッと傍観しているうちに土中へ吸い込まれて消えていった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 とはいえ突然やる事が発生するわけでもなく。スマホでポチポチ、ゲームのログボを獲得したり日課をこなしたりして母さんが朝の買い物から帰るのを待つ。11時頃ようやく帰って来た本来の家人へ留守番を引き継いで、家着であるジャージのままランニングに出た。今年の夏は猛暑になるとテレビで気象予報士が言ってた通り、まだ5月中旬なのにもかかわらずクソ暑くて、走り出して5分も経てば俺の周りだけ大雨が降ったんですかってくらい上から下まで汗でビショビショ。爽やかに運動できる季節が待ち遠しいぜ。

 つまらない、昔から何度も通った景色を楽しむことなく、走りながら俺は頭の中で緊急会議を開催している。出席者は全員同じ人物つまり俺だが、それぞれの立場から意見を発する。ヒトとして、社会人モドキとして、誰かの恋人として、誰かの子として、誰かの親として。世界ってのは残酷だ。何も決めなくても時間はドンドン過ぎていき、やがてタイムオーバー。その時点での答えをもって未来へと進まなければならない。とどまることも戻ることも許してくれないんだ。

 4年前、伍香をひとりで育てられないとさとりココへ預けた後、俺は心療内科で鬱病と診断された。それで当時の職場へ診断書を提出し、2週間後に辞めた。傷病手当は手続きのためのやり取りが面倒くさかったのと、鬱病を舐めていたので貰わなかった。医者センセェからはゆっくり治していきましょうと言われていたのに、どうせ薬を飲んでちょっと休めば治るだろうと勝手に思っていたのだ。止められていた酒も飲んだ。酒を飲んでると少しだけ症状を忘れることができたから。最初はアパートで缶ビールや缶チューハイを飲むだけ。次第にその量を増やしていき、最終的には出費を少しでも抑えるため飲み放題の店へ通うようになってしまった。ある日ベロベロに酔って裏通りを気持ち良く闊歩していたら、同じ匂いのする酔っ払いに絡まれている女に出くわした。通り過ぎようとしたはずなのに、気付けば数人の酔っ払いに囲まれて俺だけボコボコにされてたな。情けない姿で倒れている俺を笑いながらも、その女は介抱してくれた。そういえば悠希は年下のくせに出会った時から偉そうな態度だった。

 悠希と伍香を天秤にかけてるつもりなんてない。ただ元に戻るだけ。兄貴が倒れてなきゃ、俺は今ここにいないはず。そう、元の世界線に戻るだけだ。大嫌いなこの世界は伍香をとてつもなく良い子に育ててくれた。俺は安心して長野に帰るそれでいい。それでいいんだ。

 脳内会議をしながら町をグルンと一周し12時過ぎ、野月家へと舞い戻った。さっさとTシャツと半ズボンに着替え、汗を吸ってズシッと重くなっているジャージや下着は2台ある洗濯機のうち1台、軒下でほぼ雨曝しになっている二槽式の方に入れた。そんで粉の洗濯用洗剤を投入した後、タイマーをひねり洗濯開始。さぁ昼飯は何かな。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 昼食の海老天うどんを食べたあとは、特に何もせず自室でゴロゴロしていた。魔が差してほんの5分ほどネット上のハローワークで求人検索をしてみたりなんかしちゃったけど、やっぱり次の仕事のことは長野に帰ってから考えようと思い直しブラウザの閲覧履歴すら消去してしまった。そんで代わりにゲームのイベント情報を閲覧するという。うーん、俺はホント駄目なやつ。

「ただいまぁ」

 伍香の声に心臓が高鳴る。ここ最近でおそらく多分、一番緊張しているかもしれない。どんな反応になるのか伝えてみるまで分からないという不安と、案外素直に提案を聞き入れてくれるんじゃないかという期待が混ざり合いぶつかり合って、結果的に俺の血圧を乱高下させていた。

 ランドセルを置きに来た伍香へ声をかけてみる。

「なぁ、ちょっと話が……」
「アイス! 食べてからでもいい?」
「あぁハイどうぞ。全然あとでも……」

 にっこり笑って娘は学習机の側面にランドセルを引っ掛け、一目散に去る。いきなり虚をつかれて胡坐をかいた姿勢から前につんのめり、俺はぺしんと自分の左膝を叩いた。しっかりしろよ。お前は今からメチャクチャ大事な話をするんだぞ。

 伍香が台所から戻って来た。その顔はさっきと打って変わってへのへのもへじみたいだ。つまりは若干口端が下がっていて緊張感を漂わせている。アイスが口に合わなかったわけではなく、俺からの言葉に対し予め構えているつもりなのだろう。

「話って、昨日怪しいおじさんが言ってたこと?」
「まぁ、そうだな。そこから派生して、極めて誠実に今の気持ちをお伝えしたく。最後までちゃんと聴いてくれるとありがたい」
「……うん、わかった」

 伍香が俺の前に正座したので、俺も同じ姿勢を取り真摯に向き合う。目の前にはじっと睨みつけてくる娘の顔。少しの嘘も許されない雰囲気に、また少し鼓動が高鳴る。

「主文から。俺は長野に戻る。ここには居られない。たまたま俺の退職と兄貴の病気のタイミングが重なっただけで長居しちまったけど、最初の状態に戻るだけだ。俺は長野で暮らしてて、お前はここに居る。これから先もずっと。そのまま何も変わらない」

 伍香は俺から目を逸らすことなく僅かに頷いた。心なしか瞳に反射する光が強まる。

「これから、時々は悠希と一緒に遊びに来るよ。お前だって会いたいだろ」
「……ちがうよ。パパわかってない。ぜんぜん、わかってない!」
「え?」

 目の前の娘は眉間に一層の力を込める。上瞼を下げることにより押し出された涙が伍香の頬をツツっと伝う。そのまま畳にふたつ、滴が落ちてはじける。

「あたしは、パパと……、ずっと、ずっと一緒にいたいって、ずっとそう思ってた。だからお料理だって覚えたし、お洗濯もできるようになった。パパと一緒に暮らせるように。あたしがパパを助けてあげられるように。悠希さんは好きだけどちがうの。あたしはパパが、パパが……」

 伍香はぼたぼた涙を落とし、畳を濡らす。俺から目を離さず、グーにした両手に力を込めて、身体を小刻みに震わせて。震える唇を一度きゅっと引き結び、そして開いた。

「パパなんて、大っ嫌い!!」

 立ち上がり伍香は駆け出す。開かれていた障子戸の縁に右腕をぶつけ、その衝撃でヨレながらも体勢を立て直しまた廊下を駆けて行く。追いかけようと崩した足が、滞っていた血流を一気に解放したせいで痺れてしまい使い物にならなくなる。俺は両腕の力だけで這って廊下を進み、ようやく足の感覚を取り戻し四つん這いのまま玄関まで辿り着いた。そこに伍香はいない。あいつのよく履いてたサンダルが見当たらないから、着の身着のままで飛び出して行ったのだろう。

「伍香ぁ!」

 靴を急いで履き、まだ痺れの残る左足を引き摺りつつ前へ、前へと進み、外に出る。

 影が伸びる。吸い込む空気に潮の匂い。空は橙色に染まりかけていた。
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