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第1章 小さな世界
第6話 のぼせ
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『弘、起きてるのがまだしんどいそうだ。連休中はごく簡単な検査だけらしいから、しっかり休ませてやろう』
「そっか。昼から伍香と一緒に行こうと思ってたけど、やめとくよ。……兄貴、俺のこと何か言ってた?」
『お前の話なんぞしてない。弘が大事をとって1か月くらい会社を休むことと、あとは伍香の学校の行事くらいか。だったよな母さん』
スマホのスピーカーが小さく母さんの声を伝えてくる。なんの話をしたっけネェと、いつもながらの天然節で返しているようだ。こちらは野月家の広縁で俺と悠希、横に並び座布団の上で寛ぎの姿勢を取っていたりして。雲に隠れていた昼過ぎの太陽がチラチラと顔を出しても、眩しいはずの光線は軒に遮られるためここまで届いてこず、庭景色の明度だけをやたらと高くしている。
『おい聞いてるか毅、多分そんなもんだ。夜の分の買い物をしたら帰る。朝来てたお前宛ての客らは帰ったのか?』
「一人は帰って、もう一人は俺の部屋に泊まる。別にいいよな?」
『構わん。母さんまた一人増えたらしいぞ』
「じゃあ気をつ……。だからブツ切りすんなっつーの」
スマホを空き座布団の上に放りなげる。小さな放物線を目で追ったあと、悠希は氷に乗せたひやむぎみたいな冷たい表情で俺を睨んできた。
「リフレッシュだなんてその場しのぎの嘘ついちゃってぇ。伍香ちゃんアンタがタダの休暇だって信じてるよ。これからどうするつもり?」
「まぁ、そのうちちゃんと言うさ。気丈な態度だけど兄貴のこと心配でたまらないだろうし、今は余計な不安与えたくない」
「まるで娘のことを想う父親面……」
「スイカ~。スイカはいらんかねぇ~」
伍香が大きな盆を両手で持ち、細く切ったスイカを大皿に乗せて歩いてきた。
「はい! 私スイカ大好き! わぁ、久しぶりのスイカだ」
「ハイお塩もどうぞ。パパも食べるよね?」
「えっと。ま、まぁ、もらおうかな」
伍香が小さな白い陶器の皿にスイカを一切れずつ乗せ、俺と悠希の間に置いた。右手で塩の瓶を受け取った悠希が、もう片方の腕を伸ばして伍香の頭をわっしわっし撫で回す。
「ホント良くできた子ね! 私のお嫁さんにしちゃおうかな?!」
「パパ、あたしまだ結婚できないよね」
「そうだな。でも冗談だから気にしなくていいぞ」
突然飛び出した悠希の鉄拳をひらりと躱し、古めかしい草履を素早く履いて縁側から離れる。そこに忌まわしきあの男の声が聞こえてきた。
「こんにちはァ! 伍香さん、いますかぁ?」
勝手に表門を開けて入ってきたのは、2日前俺をイラつかせたアイツだ。ええと、なんつったっけ。関係性は知らないが、なぜか本能が娘に会わせるべきではないと囁いてくるのだ。なんとなく理由に察しはついている。
「いねぇよ。そんなやつはこの家に存在しねぇ」
「あっ、ニゲ……」
言って奴はハッとして、体を捻り走り出そうとする。瞬時に逃げ遅れた左腕を掴み、グッと引きつけてもう逃げられないよう、両腕を使い羽交い締めにしてやった。
「すいませんすいません! ホラ謝ったでしょ離してくださいよ!」
「そうはいくか! お前に用事があんだよ!」
俺を振り解こうと必死にもがいていた奴の動きがピタッと止まる。
「……用事?」
「そうだ。お前に聞きたいことがある。ちょっと面、貸してくれや」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
──カポーン……。
レンタルした白タオルにボディソープをつけ、潤沢に生み出される泡で身体の汚れをわっしわっしと取り除きながら、隣の若い男は怪訝な表情で何度も俺の様子を窺う。
「なんで銭湯? ハッもしかして。自分、残念ながら男には興味ないです」
「俺にだってその気はねぇよ。ただ話がしたかっただけでな。男同士が本音を語るならやっぱ熱い風呂の中だろ」
「ハァ、そうなんですか」
「とりあえず俺は毅ってんだ。妙な名で呼ぶんじゃねぇぞ」
「……わかりました。自分は早坂真流です。伍香さんからはマルちゃんって呼ばれてます」
「うどんかよ」
「?!」
地球の自転が止まってしまったかのように、マルはこちらを凝視したまま静止する。重力に負けた泡のかたまりが表皮をボタボタ滑り落ちていく。
「マサルをマルって「サ」ぬきだろ。讃岐うどん」
「……。あれぇ、シャワー浴びてるのになんだか寒いなァ。これじゃいけませんね、さっさとお風呂に浸かりましょう」
繰り出した会心ギャグは不発のまま散った。仕方なく泡に包まれ浮かされた全身の汚れや垢をシャワーで流し落として、綺麗に洗体を終えた身体で20人くらい同時収容できそうな大風呂へとドボンする。大型連休のはじめかつ本日はファミリーイベントと称した家族割なんてやってるらしく、小学校低学年の男子を連れた男親がたくさん。皆が猿みたいな赤ら顔でハァ~だのフゥ~だのロングトーンで鳴きながら熱い湯に浸かっている。その表情といい湯の中で丸まった姿勢といい、人間ってのが本当に猿から進化した動物なんだと再確認できる学術的にも貴重な瞬間を目撃しているんだなって。
「うぁぁ、アッツぅ!」
「これくらいで熱がってたら、ウチの風呂には足の先すら浸けられないな」
「野月家の?」
「昔から母さんがスッゲェ熱く入れんだよ。一番風呂なんて、なんかの罰ゲームですかッてくらい熱いんだぞ」
「……い、伍香さんも、その熱湯に入るんですか?」
「いや冷めてきた頃に入るみたいだ。ってかお前今、何を想像してる?」
「えっ。な、な、なんにもだのでごじゃりましゅ」
「分かりやすっ! やっぱお前、伍香のこと好きなんだろ」
「しょ、しょんなこつありましぇん!」
ダメだこいつ。素直というか馬鹿正直というか。きっと嘘のない清廉さに包まれた世界で生きてきたんだろうな。さて、一応戸籍上は伍香の父親である俺からの忠告をひとつ。
「別に好きになるのは勝手だけど、手は出すなよ」
「そんなの当たり前、まだ小学5年生ですよ。犯罪じゃないですか」
犯罪という言葉に反応して一瞬だけ、心臓が高鳴った。なにしてんだ忘れろもう終わったことだぞ。そう、終わったことなんだから気にするんじゃない。
「ならいい。それだけ確認したかったんだ」
「あのスイマセンお父さん」
「なんだよ。……お父さん?!」
「自分もうノボせそうなんで、出ても……いい……で……ブクブクブク」
「おい、おい沈むなマル! ダメだ死ぬぞ!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
番頭から借りた大きな和紙団扇で仰いでいると、畳の上に寝かされているマルがふっと目を開けた。目も口も半開きのまま瞳だけを左右に送り、そのあとゆっくり口を動かす。
「……ここは?」
「脱衣所だよ。男5人がかりでお前を風呂から引き上げてココに置いたんだ。まだ顔が赤いけど大丈夫か?」
「ちょっと頭が痛いですけど、動けそうな気がします多分」
「ホレ、水置いとくぞ。ちょっと熱いくらいですぐノボせやがって、よく今まで生きてこられたもんだぜ」
「必須スキルじゃ、ないですからね」
「野月家じゃ必須なんだよ。やっぱお前に伍香はやれねぇな」
「……他のことで挽回するんで。自分、伍香さんに勉強を教えてるんです。知ってますか今、あの子5教科全部100点満点とってくるんですよ」
「マジ?」
「はい。絶対パパみたいにならないって、いっぱい勉強して大きな会社に入って同じ所でずっと働くんだって、いつも言ってます。それが伍香さんのエネルギー源なんでしょうね」
「そっか。じゃあ俺は偉大な反面教師ってわけだ」
「なんですか、それ」
マルは体を僅かに揺らして、弱々しく笑った。
その後もしばらく見守りを続け、やがて大復活した彼と帰路に就く。マルは歩きながらずっと伍香の長所を並べたてていた。その殆どは俺の知らないことで、さらに初めて聞くエピソードがポンポン飛び出してくる。マルのへんてこフィルターがかかっていたとしても、この土地で娘が元気に過ごしていたという証明としては十分。心の底に溜まっていた澱の一部が剥がされていく、そんな気分だった。
遠くに野月家の全貌が見えたあたりで、マルはペコリと頭を下げた。
「自分はここで。また明日、ばあちゃんの畑作業を手伝ったあと来ます」
「あれ? お前って郵便局員じゃねぇの?」
「あれはアルバイト、週3だけです。長期でやるつもりないんで。あとは畑作業したり、伍香さんに勉強を教えたり、あとちょっとした副業もしてたり色々やってますね」
「そっか、要するにフリーターだ」
「新卒で東京のIT企業に就職して、激務に耐えられなくてすぐ荷物まとめて逃げ帰ってきた間抜けですよ。そっか、そうなんだ。お父さんのこと悪く言う資格ありませんでした」
「いや、マルは偉いよ。俺も……」
「俺も?」
「なんでもねぇ。じゃ、また明日な」
マルは笑顔で、手を振って帰って行く。小さくなり風景に溶け込む様子を眺めていると不意に小突かれ、驚き声をあげてしまった。
「おい、ビックリさせんなよ」
「随分と仲良しになったじゃないの」
「聞いてたのか。お前のライバル出現だぞ」
「なにそれ。そんなのいいから早く行こ、夕飯の用意出来てるみたい。一応自己紹介してみたんだけど、あとで毅からも私のことちゃんと紹介してね。珍獣が一匹紛れ込んだみたいな雰囲気で居辛くってしょうがないよ」
「あ、そうだった。ウチめちゃくちゃ保守的でさ。赤の他人が家の中に存在することに対して異常反応するんだよな。何者かを説明しとかねぇと」
「やっぱりそうなんだ。ちなみになんて説明するつもり?」
並び、ゆっくり歩きながら天を仰いで考える。悠希は俺にとって何者なんだろう。同居人? 恋人? 友達、は違うか。4年前、俺を救ってくれた。そうだ昨日、確か兄貴に……。
「よし決めた。俺にとって一番大切な人。これだな」
悠希の足が止まった。2歩、3歩と行き過ぎてしまい振り返る。彼女は俯いており、垂れた前髪のせいでその表情を確認できない。
「どした?」
「……ダメ。今、顔見ないで」
見ないでと言われると気になる。だから興味津々でその顔を覗いてやる。
「え、お前まさか泣いてんのか?」
ボフッ!!
悠希の拳が鳩尾に食い込んだ。俺は庭に撒かれた砂利の上にドドッと倒れ伏せ、呻きながら腹を押さえ左へ右へ、のたうち回るのだった。
「そっか。昼から伍香と一緒に行こうと思ってたけど、やめとくよ。……兄貴、俺のこと何か言ってた?」
『お前の話なんぞしてない。弘が大事をとって1か月くらい会社を休むことと、あとは伍香の学校の行事くらいか。だったよな母さん』
スマホのスピーカーが小さく母さんの声を伝えてくる。なんの話をしたっけネェと、いつもながらの天然節で返しているようだ。こちらは野月家の広縁で俺と悠希、横に並び座布団の上で寛ぎの姿勢を取っていたりして。雲に隠れていた昼過ぎの太陽がチラチラと顔を出しても、眩しいはずの光線は軒に遮られるためここまで届いてこず、庭景色の明度だけをやたらと高くしている。
『おい聞いてるか毅、多分そんなもんだ。夜の分の買い物をしたら帰る。朝来てたお前宛ての客らは帰ったのか?』
「一人は帰って、もう一人は俺の部屋に泊まる。別にいいよな?」
『構わん。母さんまた一人増えたらしいぞ』
「じゃあ気をつ……。だからブツ切りすんなっつーの」
スマホを空き座布団の上に放りなげる。小さな放物線を目で追ったあと、悠希は氷に乗せたひやむぎみたいな冷たい表情で俺を睨んできた。
「リフレッシュだなんてその場しのぎの嘘ついちゃってぇ。伍香ちゃんアンタがタダの休暇だって信じてるよ。これからどうするつもり?」
「まぁ、そのうちちゃんと言うさ。気丈な態度だけど兄貴のこと心配でたまらないだろうし、今は余計な不安与えたくない」
「まるで娘のことを想う父親面……」
「スイカ~。スイカはいらんかねぇ~」
伍香が大きな盆を両手で持ち、細く切ったスイカを大皿に乗せて歩いてきた。
「はい! 私スイカ大好き! わぁ、久しぶりのスイカだ」
「ハイお塩もどうぞ。パパも食べるよね?」
「えっと。ま、まぁ、もらおうかな」
伍香が小さな白い陶器の皿にスイカを一切れずつ乗せ、俺と悠希の間に置いた。右手で塩の瓶を受け取った悠希が、もう片方の腕を伸ばして伍香の頭をわっしわっし撫で回す。
「ホント良くできた子ね! 私のお嫁さんにしちゃおうかな?!」
「パパ、あたしまだ結婚できないよね」
「そうだな。でも冗談だから気にしなくていいぞ」
突然飛び出した悠希の鉄拳をひらりと躱し、古めかしい草履を素早く履いて縁側から離れる。そこに忌まわしきあの男の声が聞こえてきた。
「こんにちはァ! 伍香さん、いますかぁ?」
勝手に表門を開けて入ってきたのは、2日前俺をイラつかせたアイツだ。ええと、なんつったっけ。関係性は知らないが、なぜか本能が娘に会わせるべきではないと囁いてくるのだ。なんとなく理由に察しはついている。
「いねぇよ。そんなやつはこの家に存在しねぇ」
「あっ、ニゲ……」
言って奴はハッとして、体を捻り走り出そうとする。瞬時に逃げ遅れた左腕を掴み、グッと引きつけてもう逃げられないよう、両腕を使い羽交い締めにしてやった。
「すいませんすいません! ホラ謝ったでしょ離してくださいよ!」
「そうはいくか! お前に用事があんだよ!」
俺を振り解こうと必死にもがいていた奴の動きがピタッと止まる。
「……用事?」
「そうだ。お前に聞きたいことがある。ちょっと面、貸してくれや」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
──カポーン……。
レンタルした白タオルにボディソープをつけ、潤沢に生み出される泡で身体の汚れをわっしわっしと取り除きながら、隣の若い男は怪訝な表情で何度も俺の様子を窺う。
「なんで銭湯? ハッもしかして。自分、残念ながら男には興味ないです」
「俺にだってその気はねぇよ。ただ話がしたかっただけでな。男同士が本音を語るならやっぱ熱い風呂の中だろ」
「ハァ、そうなんですか」
「とりあえず俺は毅ってんだ。妙な名で呼ぶんじゃねぇぞ」
「……わかりました。自分は早坂真流です。伍香さんからはマルちゃんって呼ばれてます」
「うどんかよ」
「?!」
地球の自転が止まってしまったかのように、マルはこちらを凝視したまま静止する。重力に負けた泡のかたまりが表皮をボタボタ滑り落ちていく。
「マサルをマルって「サ」ぬきだろ。讃岐うどん」
「……。あれぇ、シャワー浴びてるのになんだか寒いなァ。これじゃいけませんね、さっさとお風呂に浸かりましょう」
繰り出した会心ギャグは不発のまま散った。仕方なく泡に包まれ浮かされた全身の汚れや垢をシャワーで流し落として、綺麗に洗体を終えた身体で20人くらい同時収容できそうな大風呂へとドボンする。大型連休のはじめかつ本日はファミリーイベントと称した家族割なんてやってるらしく、小学校低学年の男子を連れた男親がたくさん。皆が猿みたいな赤ら顔でハァ~だのフゥ~だのロングトーンで鳴きながら熱い湯に浸かっている。その表情といい湯の中で丸まった姿勢といい、人間ってのが本当に猿から進化した動物なんだと再確認できる学術的にも貴重な瞬間を目撃しているんだなって。
「うぁぁ、アッツぅ!」
「これくらいで熱がってたら、ウチの風呂には足の先すら浸けられないな」
「野月家の?」
「昔から母さんがスッゲェ熱く入れんだよ。一番風呂なんて、なんかの罰ゲームですかッてくらい熱いんだぞ」
「……い、伍香さんも、その熱湯に入るんですか?」
「いや冷めてきた頃に入るみたいだ。ってかお前今、何を想像してる?」
「えっ。な、な、なんにもだのでごじゃりましゅ」
「分かりやすっ! やっぱお前、伍香のこと好きなんだろ」
「しょ、しょんなこつありましぇん!」
ダメだこいつ。素直というか馬鹿正直というか。きっと嘘のない清廉さに包まれた世界で生きてきたんだろうな。さて、一応戸籍上は伍香の父親である俺からの忠告をひとつ。
「別に好きになるのは勝手だけど、手は出すなよ」
「そんなの当たり前、まだ小学5年生ですよ。犯罪じゃないですか」
犯罪という言葉に反応して一瞬だけ、心臓が高鳴った。なにしてんだ忘れろもう終わったことだぞ。そう、終わったことなんだから気にするんじゃない。
「ならいい。それだけ確認したかったんだ」
「あのスイマセンお父さん」
「なんだよ。……お父さん?!」
「自分もうノボせそうなんで、出ても……いい……で……ブクブクブク」
「おい、おい沈むなマル! ダメだ死ぬぞ!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
番頭から借りた大きな和紙団扇で仰いでいると、畳の上に寝かされているマルがふっと目を開けた。目も口も半開きのまま瞳だけを左右に送り、そのあとゆっくり口を動かす。
「……ここは?」
「脱衣所だよ。男5人がかりでお前を風呂から引き上げてココに置いたんだ。まだ顔が赤いけど大丈夫か?」
「ちょっと頭が痛いですけど、動けそうな気がします多分」
「ホレ、水置いとくぞ。ちょっと熱いくらいですぐノボせやがって、よく今まで生きてこられたもんだぜ」
「必須スキルじゃ、ないですからね」
「野月家じゃ必須なんだよ。やっぱお前に伍香はやれねぇな」
「……他のことで挽回するんで。自分、伍香さんに勉強を教えてるんです。知ってますか今、あの子5教科全部100点満点とってくるんですよ」
「マジ?」
「はい。絶対パパみたいにならないって、いっぱい勉強して大きな会社に入って同じ所でずっと働くんだって、いつも言ってます。それが伍香さんのエネルギー源なんでしょうね」
「そっか。じゃあ俺は偉大な反面教師ってわけだ」
「なんですか、それ」
マルは体を僅かに揺らして、弱々しく笑った。
その後もしばらく見守りを続け、やがて大復活した彼と帰路に就く。マルは歩きながらずっと伍香の長所を並べたてていた。その殆どは俺の知らないことで、さらに初めて聞くエピソードがポンポン飛び出してくる。マルのへんてこフィルターがかかっていたとしても、この土地で娘が元気に過ごしていたという証明としては十分。心の底に溜まっていた澱の一部が剥がされていく、そんな気分だった。
遠くに野月家の全貌が見えたあたりで、マルはペコリと頭を下げた。
「自分はここで。また明日、ばあちゃんの畑作業を手伝ったあと来ます」
「あれ? お前って郵便局員じゃねぇの?」
「あれはアルバイト、週3だけです。長期でやるつもりないんで。あとは畑作業したり、伍香さんに勉強を教えたり、あとちょっとした副業もしてたり色々やってますね」
「そっか、要するにフリーターだ」
「新卒で東京のIT企業に就職して、激務に耐えられなくてすぐ荷物まとめて逃げ帰ってきた間抜けですよ。そっか、そうなんだ。お父さんのこと悪く言う資格ありませんでした」
「いや、マルは偉いよ。俺も……」
「俺も?」
「なんでもねぇ。じゃ、また明日な」
マルは笑顔で、手を振って帰って行く。小さくなり風景に溶け込む様子を眺めていると不意に小突かれ、驚き声をあげてしまった。
「おい、ビックリさせんなよ」
「随分と仲良しになったじゃないの」
「聞いてたのか。お前のライバル出現だぞ」
「なにそれ。そんなのいいから早く行こ、夕飯の用意出来てるみたい。一応自己紹介してみたんだけど、あとで毅からも私のことちゃんと紹介してね。珍獣が一匹紛れ込んだみたいな雰囲気で居辛くってしょうがないよ」
「あ、そうだった。ウチめちゃくちゃ保守的でさ。赤の他人が家の中に存在することに対して異常反応するんだよな。何者かを説明しとかねぇと」
「やっぱりそうなんだ。ちなみになんて説明するつもり?」
並び、ゆっくり歩きながら天を仰いで考える。悠希は俺にとって何者なんだろう。同居人? 恋人? 友達、は違うか。4年前、俺を救ってくれた。そうだ昨日、確か兄貴に……。
「よし決めた。俺にとって一番大切な人。これだな」
悠希の足が止まった。2歩、3歩と行き過ぎてしまい振り返る。彼女は俯いており、垂れた前髪のせいでその表情を確認できない。
「どした?」
「……ダメ。今、顔見ないで」
見ないでと言われると気になる。だから興味津々でその顔を覗いてやる。
「え、お前まさか泣いてんのか?」
ボフッ!!
悠希の拳が鳩尾に食い込んだ。俺は庭に撒かれた砂利の上にドドッと倒れ伏せ、呻きながら腹を押さえ左へ右へ、のたうち回るのだった。
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