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第1章 小さな世界

第2話 ニゲオヤジ

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「お前、学校はどうした」
「今日は午前だけ。体育館で大人がなんかやるんだって」

 なんかってなんだよと言おうとしたが、別に小学校の行事に興味は無い。伍香いつかはこちらを一瞥すらせずに家の中へ。おそらく、ついて来いということなんだろう。距離感が分からず少し遅れて歩く。狭い中庭ではチューリップやネモフィラ、紫陽花なんかが緑の上に色彩を重ねていた。

「パパの部屋、あたしも使ってるからね」
「俺、別に泊まるつもりじゃ……」

 ない、と言いかけて伍香の視線に気付き言い淀んでしまった。この鋭い眼光は誰から承継したんだろう。少なくともこちらの家系ではなさそうな気がする。

「えっと。じゃ、じゃあとりあえず荷物を置いてこようかなぁー」

 なんで俺、娘に気ぃ遣ってんだ。納得いかず首を捻りながら、かつて自室だった8畳間へ向かう。足を踏み出す度に床がキシッ、キシッと軋み音を立てる。随分前にリフォームやらリノベーションやらをするとか言ってたはずだけど、結局何もしなかったらしい。

 壁はくすんだ板張りや今にも剥がれ落ちそうな土壁のままで、照明もLEDではなく暗ぁい蛍光灯だ。トイレだけは俺が実家にいる間に、ぼっとん便所から洋式へ変えられていた。全体的にいわゆる昭和テイストってやつ。きっと親父の代でこの家を潰すつもりなんだろうな。

 部屋に入ると、確かに誰かが使用しているような空気感があった。俺がほとんど使ったことのない木製のがっしりした勉強机は、今や伍香の教科書やノートに支配されている様子。机の左サイドには赤いランドセルがかかっている。小1の頃のあいつには大きすぎたそれも、今なら丁度良いサイズか。

 着替えや歯ブラシなど日用品の入ったショルダーバッグをボンっと畳に投げ下ろすと同時に、玄関の方でチャイムが鳴った。

「パパ出て! お味噌汁が吹きこぼれそうだから!」

 味噌汁? あの何にもできなかった伍香が味噌汁を……じゃなかったハイハイ行きます行きます。玄関の引き戸を開け、小さな黒門を片側だけ押して外に出る。若い郵便配達員が怪訝そうに、だらしない表情でこちらを見ていた。

「あの、……野月のづき伍香いつかさん宛てのお荷物です」
「ああはい、渡しときますよ」

 配達員が両手で抱えている横幅50cm程度の段ボール箱を持とうとするも、素直に渡してくれそうな気配を感じない。なんだか奪い合いのようなかたちになり、俺と彼はきっと睨み合う。

「失礼ですけどあなた、どなたですかッ?!」
「伍香の父ですが! ここは俺の実家なんだよ!」

 ようやく荷物を持つ力を緩めてくれたので引き取ることができた。目の前の頼りなさそうな男は若干息を切らしながら、ポンと両手を合わせる。

「あぁ、あなたがあのニゲオヤジ……」
「はァ?!」
「な、なんでもございましぇんです!」

 若い配達員は、慌てて郵便バイクに跨り道路交通法ガン無視のもの凄いスピードで逃げていく。警察サツにパクられちまえ。

 ズッシリ重い段ボール箱を抱えて玄関から家の中へ入る。伍香が不安そうな色を浮かべてパタパタ廊下を歩いてきた。

「ねぇ、なんか大声出してたけど大丈夫?」
「お前宛ての荷物。……それより『ニゲオヤジ』って何なんだ」
「パパの渾名あだなだけど。ハゲオヤジよりマシでしょ」
「あのな……」
「これ、あたしの誕生日プレゼント! ヒロくんこっちに送ったんだ」

 伍香は俺の腕から箱を引ったくって、また小走りで去っていく。その後ろ姿を眺めながら、俺は自分の頭頂部をひと撫でした。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 丸い壁掛けアナログ時計の針は午後2時10分を指していた。格子柄もののテーブルクロスが敷かれた四人掛けのダイニングテーブルには、白いご飯と味噌汁、パサパサの焼き鮭を乗せた横長の白皿。今しがた、氷と麦茶が入ったコップも静かに置かれた。

「これ、俺の?」
「おばあちゃんがね、パパはどうせ何にも食べずに来るだろうから用意しといてやれってさ。図星でしょ」
「まぁ……昔から昼はあんま食べなかったからな」

 中学の頃は給食をバクバク食べていたが、高校では学食のあまりの混みように面倒くさくなって、昼休み中ずっと図書館で時間を潰していた。本を読んでいたわけではなく、ただテーブルに突っ伏して眠っていたのだ。それで昼なんて食べなくても生きていけるという考えが芽生えてしまい、これまでその精神を貫いてきた。しかし今、腹が減っているのは事実。

「いただきます」
「お代わりはお味噌汁だけだよ。ご飯は今新しく炊いてるから」

 ひと口味噌汁を啜る。……母さんの作る味と少し違う。

「味噌汁はお前が作ったのか」
「うん。だってヒロくんじゃ、あたしが作らないと天ぷらとかカツとかの重~い惣菜ばっかになるんだもん」
「ああ、アイツは食事なんて作らない……そういえば兄貴の容態は?」
「おばあちゃんが聞きに行ってるよ。おじいちゃんは、大事な会議があるから休めなかったみたい。偉い人が来るんだって」
「そっか」

 それなら母さんが帰ってくるのを待つしかない。納得したからか腹が正直にうなり声を上げる。右手には味噌汁の椀を持ち、左手に持った箸で焼き鮭とご飯を交互に口へ運ぶ。やっぱり人間は三食取るべきなんだよな。

 ふと視線を上げると、伍香が不思議そうな顔で俺を眺めていた。

「なんだよ」
「本当にパパだよね。実はあんまりパパの顔を覚えてないの」
「免許証、見せようか?」
「いい。あたしの顔に似てるから、多分パパだよ」
「それ逆じゃね?」

 伍香はフッと笑って、冷蔵庫からネギを取り出し、まな板の上で右手に持った包丁を落とし始める。トン、トン、トンとリズミカルに音を立てるその動きは、随分と慣れた手つきに見えた。

 夕食は何だ、と訊くか迷った。迷ったが、母さんと話したらすぐ帰るかもしれないのでやめておいた。伍香の気持ちは分からない。でも変に期待させたくもなかった。俺は帰ってきたわけじゃない。

 突然ゴゥッと轟音が響いてきた。伍香と俺は同時に天井を見上げ、そのあと目を合わせる。雨か、それとも猛獣の群れが屋根の上を走っているのか。

「ただいまぁ!」

 母さんの声に反応して、中身の少なくなった味噌汁の椀と箸を持ったまま玄関へと向かった。ずぶ濡れの母さんがひどく顔を顰めて突っ立っている。

「急に土砂降りよ。たけしのせいかねぇ」
「なんでそうなるんだ。言っとくが俺は……」
「どいてパパ! おばあちゃん、はいタオル!」

 伍香が持ってきたバスタオルをもらい受け、母さんは自分の頭にかけた。肩まで伸びた髪と出掛け用の白いワンピースの裾から滴り落ちる水分が、玄関の御影石を黒く染めていく。

「ええと、伍香。俺にできることはあるか?」
「ない! テレビでも観てて!」

 その剣幕に返す言葉もなく、しょんぼり台所へ向かう。こういう時、親父なら一人で煙草をふかして天井を見上げるんだ。そんな光景をこの家でよく見てきた。ここは代々、女の方がはるかに強いのだ。伍香もだんだん野月家に染まってきているということで。

 煙草は嫌いだし、今は節約のために酒もやらず。ストレスの発散方法はスマホゲームのガチャかコーヒーを飲むことくらい。以前は仲の良かった悠希ゆきもここ1年ほどはストレス源になっていたりする。って俺は独りで何を考えてんだ。

 やっぱり手伝おうと座っていたダイニングチェアから立ち上がった時、Tシャツとジョガーパンツに着替えた母さんが神妙な面持ちで台所に入ってきた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 風呂から上がり、持参した下着やジャージに着替えた。かつて自室だった場所の押し入れから古めかしい紋様の入った敷き布団を取り出し、畳の上へ広げる。ちゃんと定期的に干してくれていたのか、カビ臭さはほとんど感じない。使われていた様相でもない。

 その上に白いシーツを広げ、ふちを軽く布団の下に潜らせる。スコールのような雨のせいで蒸し暑くなっており、今夜は掛け布団なしでも全然いけそうだ。決して探したけれど見つからなかったことに対する強がりではなく。

「あっ。パパもっと端っこに寄って」
「なんでだよ」
「あたしもここで寝るからに決まってんじゃん」
「兄貴が使ってた部屋があるだろ」

 自分用の敷き布団その他を降ろした伍香が近寄ってきて、耳打ちする。

「……今はおばあちゃんが使ってる。あのふたり、一緒に寝てないの」

 あれま、そういうことか。それならまぁ仕方ないかな。言われた通り敷き布団の位置をずらして横になる。途端、顔にタオルケットが降ってきた。

「うあっ! ビックリしたぁ」
「へへっ。可愛いキャラに囲まれてお眠りなさい」

 言われて見ると、5年くらい前に買ってやったキャラクターもののタオルケットだ。描かれているのは女の子が魔法のステッキで変身して、いかにもな悪の敵を倒す大人気アニメのキャラ。このタオルケット、まだ使ってんのか。

「ねぇパパ、帰ってきたの?」

 その声に寝返りを打つ。伍香もいつの間にか自分の敷き布団で横になっていて、こちらにクリッとした目を向けている。そのいたって真面目な表情からは、どんな回答を期待しているのかサッパリ分からない。

「明日病院に行く。母さんは気が動転してちゃんと話を聴いてこなかったみたいだから、俺がもういっぺん先生と話すんだ。そのあとは分からない」
「ふーん。あっそ……」

 伍香は左に体を回し、そっぽ向いた。別にこいつの機嫌を取ってもしょうがない。俺も右へ転がり、目を閉じた。

 そういえば歯を磨いてないけど。ま、今日だけだしいっか。親父は会合で遅くなるって言ってたな。仕事をバックレたこと、正直に話すべきなんだろうか。いや、こんな時に余計な心配をさせるべきではないな。またニゲオヤジが逃げたよぉなんて笑われるのも癪だし。

 ……ウトウト意識を失いかけた時ふと、小さな声を聞いた気がした。

「……ずっと……」
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