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一文字
【漢字一文字】あかり 〜ひと時の灯火と潰れた殻〜
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ヒメボタル、ゲンジボタルの浮遊の時期は五月中旬から梅雨時です
「文章力向上委員会」に掲載していた短編より。
お題は「明」
2007年1月
2016.9改稿
車は湿った音をたてて止まった。
「飛び出すなよ」
先生が後ろ髪を結わえながら振り返った。夕闇に白い顔が火を灯したように浮かんで見える。
いつ日は沈んでしまったのだろう? ころころと音がして諒輔は窓の外に目をやった。
黒く見えるのは川の流れだろうか。水のにおいがする。
「こ、ここはどこなんですか?」
諒輔が蛙のような平たい声を出した。隣で哲生が口真似をしてからかう。
三つ年上の諒輔が声変わりの時期を迎えた。哲生はそのことがなんだか気に入らないようだ。
諒輔は目を細め哲生を見下ろした。
「……いいところだよ」
先生は車から出てドアを閉めると、ぐんと両手を天に伸ばした。
ついて外へ出ると山際の空が薄赤く染まり、雲が白く光っているのが目に入る。
昼間は夏のように暑いのに日が落ちると急に肌寒くなる、と諒輔は二の腕をさする。
うわぁ、と哲生の目が輝く。哲生はもうとらわれてしまったんだなと諒輔はうれしくなる。
足元ではキロロロロと甲高い音が蛙の声がする。あちらこちらで呼応がはじまり瞬く間に大合唱だ。
水田にはこれから根付こうとしている時期の苗が、背筋を伸ばしたバレエダンサーのように決まりよく並んで影を落としている。
諒輔には哲生の体の中に押し寄せる波のように衝動が高まっていくのがわかった。それは尊いものだ。
例え誰にも理解されなくても。
哲生は諒輔の脇を抜け、道を渡り水田の横を脇目も振らず駆け抜けた。クラクションが鳴り、一瞬車のライトに照らされた哲生の影が映る。
「ごめんなさい」
先生が大きな声を放ち、哲生の代わりに諒輔が運転手に向かって頭を下げた。哲生はとうに暗闇の向こう側だ。
諒輔と先生は慌てて哲生の後を追う。
ちかっ。
傍の竹林が季節外れのクリスマスツリーのように一度にわっと灯り、はじけるような萌黄色の点滅がふわあと山間を舞った。
「すごい、ほらみて! 蛍!」
哲生は両手を伸ばしくるくる光を追いかけていた。犬みたいにはしゃぐ哲生の周りには初々しい新芽のような緑がいくつも灯る。
光は浮遊するタンポポの綿毛のようにゆったりと空を泳いだ。
「林の中のはヒメボタル。それからこっちはゲンジボタルだ」
先生が興奮してくるくる旋回している哲生を抱きとめる。哲生はキラキラした目で蛍を追うとうん、と大きな返事をした。
今日は哲生と過ごす最後の日になるかもしれない。
哲生も諒輔も公立学校から吐き出されるようにして学園に通うようになった子供だった。
一時的な逃げ込み場所だったはずなのにこのまま学校に戻れなくなったのでは困る、と哲生の家族は哲生を学校へ戻す手続きをしたらしい。
諒輔は、きれいきれいと跳ね回った末、あぜ道にねっころがってしまう哲生をとても素敵だと思う。
でもきっとみんなはそう思わない。髪も背中も泥だらけにして平気で道に寝っ転がる哲生のような子供を学校は受けつけないだろう。
「なにしてるの」
尖った声にツキンと胸が跳ねた。哲生は飛び起きて尻の泥をあわてて払う。
どうやって追いかけてきたのか、気がつくと哲生の母がそばで荒い息を吐いていた。
泣き出しそうに震える手で哲生を引き寄せる。
「うちの子に勝手なことをしないでくれますか」
哲生の母親が先生に詰め寄った。
近くで何かのつぶれるいやな音がした。
哲生が足を上げると殻の刺さったカタツムリが身をよじっていた。
「文章力向上委員会」に掲載していた短編より。
お題は「明」
2007年1月
2016.9改稿
車は湿った音をたてて止まった。
「飛び出すなよ」
先生が後ろ髪を結わえながら振り返った。夕闇に白い顔が火を灯したように浮かんで見える。
いつ日は沈んでしまったのだろう? ころころと音がして諒輔は窓の外に目をやった。
黒く見えるのは川の流れだろうか。水のにおいがする。
「こ、ここはどこなんですか?」
諒輔が蛙のような平たい声を出した。隣で哲生が口真似をしてからかう。
三つ年上の諒輔が声変わりの時期を迎えた。哲生はそのことがなんだか気に入らないようだ。
諒輔は目を細め哲生を見下ろした。
「……いいところだよ」
先生は車から出てドアを閉めると、ぐんと両手を天に伸ばした。
ついて外へ出ると山際の空が薄赤く染まり、雲が白く光っているのが目に入る。
昼間は夏のように暑いのに日が落ちると急に肌寒くなる、と諒輔は二の腕をさする。
うわぁ、と哲生の目が輝く。哲生はもうとらわれてしまったんだなと諒輔はうれしくなる。
足元ではキロロロロと甲高い音が蛙の声がする。あちらこちらで呼応がはじまり瞬く間に大合唱だ。
水田にはこれから根付こうとしている時期の苗が、背筋を伸ばしたバレエダンサーのように決まりよく並んで影を落としている。
諒輔には哲生の体の中に押し寄せる波のように衝動が高まっていくのがわかった。それは尊いものだ。
例え誰にも理解されなくても。
哲生は諒輔の脇を抜け、道を渡り水田の横を脇目も振らず駆け抜けた。クラクションが鳴り、一瞬車のライトに照らされた哲生の影が映る。
「ごめんなさい」
先生が大きな声を放ち、哲生の代わりに諒輔が運転手に向かって頭を下げた。哲生はとうに暗闇の向こう側だ。
諒輔と先生は慌てて哲生の後を追う。
ちかっ。
傍の竹林が季節外れのクリスマスツリーのように一度にわっと灯り、はじけるような萌黄色の点滅がふわあと山間を舞った。
「すごい、ほらみて! 蛍!」
哲生は両手を伸ばしくるくる光を追いかけていた。犬みたいにはしゃぐ哲生の周りには初々しい新芽のような緑がいくつも灯る。
光は浮遊するタンポポの綿毛のようにゆったりと空を泳いだ。
「林の中のはヒメボタル。それからこっちはゲンジボタルだ」
先生が興奮してくるくる旋回している哲生を抱きとめる。哲生はキラキラした目で蛍を追うとうん、と大きな返事をした。
今日は哲生と過ごす最後の日になるかもしれない。
哲生も諒輔も公立学校から吐き出されるようにして学園に通うようになった子供だった。
一時的な逃げ込み場所だったはずなのにこのまま学校に戻れなくなったのでは困る、と哲生の家族は哲生を学校へ戻す手続きをしたらしい。
諒輔は、きれいきれいと跳ね回った末、あぜ道にねっころがってしまう哲生をとても素敵だと思う。
でもきっとみんなはそう思わない。髪も背中も泥だらけにして平気で道に寝っ転がる哲生のような子供を学校は受けつけないだろう。
「なにしてるの」
尖った声にツキンと胸が跳ねた。哲生は飛び起きて尻の泥をあわてて払う。
どうやって追いかけてきたのか、気がつくと哲生の母がそばで荒い息を吐いていた。
泣き出しそうに震える手で哲生を引き寄せる。
「うちの子に勝手なことをしないでくれますか」
哲生の母親が先生に詰め寄った。
近くで何かのつぶれるいやな音がした。
哲生が足を上げると殻の刺さったカタツムリが身をよじっていた。
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