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三題噺 8月

【三題噺】三ヶ月の恋人 〜ノマドワーカーな俺と彼女と、彼女の話〜

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妻子持ちでノマドワーカーな俺。
妻とはセックスレスになって長い。
三ヶ月前、自分の理想をそのまま形にしたような女に出会い関係を持つ。
仕事の合間に呼び出し、デートをしているとメールの着信音が鳴り……。


お題は「神」「リス」「メール」




 コーヒーに口をつけた瞬間、テーブルに置いたスマホが震えた。

「デートの最中もスマホから目を離さないんだ。テーブルに置いておくなんて、目の前の相手をないがしろにしてるとは思わない?」

 目を細め、彼女は針のような視線を送った。

「仕事道具だからさ……」
「ノマドワーカーってやつか。それって自由に見えて一番不自由よね。オンとオフがはっきりしなくなって。おかげであんたはいつだって仕事中。デートの時もね」

 尖った口から溢れ出すのは、盛大なため息と嫌味。
 腕を組むと胸が押されてふっくらと盛り上がった。
 シースルーのブラウスが張り付き、下着の刺繍が透けて見える。

「他に対応してくれる人間がいないんだから、仕方ないだろ」

 “デートの時も仕事”なんじゃない。
 仕事の合間を縫ってデートしてるんだ。
 休日は家族サービスで仕事の合間でもなきゃデートになど及べない。

 サービスとは言っても休日は疲れて昼まで眠っている。
 それでも父親が家に居られるのは休日だけ。
 休んでいても家族と過ごす選択をするのは、家族を大事に思っているからに他ならない。
 家族のためにちゃんと休日を確保しておかなければ、変に疑いの目を向けられても堪らないし。

「平日もバリバリなのに土日もない仕事? 自由どころかマックス不自由じゃん! やんなっちゃうね」

 彼女には土日こそ忙しい仕事で、平日だからこそ会う時間が取れるのだと言ってある。
 それについて彼女から不信の目を向けられたことはない。
 薄々わかっているのかもしれないが。

 待ち合わせに喫茶でコーヒー……なんて過程すっ飛ばして、さっさとホテルに連れ込みたい。
 あの柔らかな胸に顔を埋めて、猫のように喘ぐ彼女の声を聞きたい。
 ソファーに踏ん反り返り、真面目な顔でスマホに目を落としてみせる俺の頭の中は、いやらしい妄想でいっぱいだ。

 親指で通知からメーラーを立ち上げると、彼女は身を乗り出してスマホを覗き込んだ。

「誰から?」

 スマホの上部を掴み、自分の側へと傾ける。
 そのまま彼女は俺の手から勝手にスマホを引き抜いた。

「仕事だよ。いい加減にしろ。マナー違反だぞ」
「だったらスマホなんかやめて私を見て」

 いたずらな小動物のような瞳で見下ろしてくるのも色っぽい。 

「つまんないこと言うなよ」
「見られちゃまずいメールなわけ?」

 取り上げようとするも彼女はヒョイっとかわしてしまう。

「……勝手にしろ」

 必死で追って腹を探られるのも面倒だ。
 ため息をついて腕を組み、鷹揚なふりをする。
 着信音で仕事用のアドレスに届いたメールだってことはわかっているんだ。
 大したことにはなるまい。

 どれどれと唇を舐める彼女の大きな瞳にスマホの明かりが映る。
 その表情が少しだけ妻に似ている、と思い目を逸らした。


 初対面で、彼女はリスだと思った。
 名前も知らないキャラクターだけどディズニーランドにいた、やたら色気を振りまくメスのリス。
 有名な二人組のリスのキャラクターを振り回す悪女だ。
 盛り過ぎなくらいまつ毛が長くて、上目遣いでこっちを見るのにそそられた。
 美人じゃないけど、どこか愛玩動物みたいなギュンと胸の奥をひっつかまれるような魅力があった。
 出会ったその日に口説いてホテルへ連れ込み、こうして今でも暇をみては逢瀬を重ねている。


 ルックスだけで言えば一般的に見ても妻の方がずっとウケがいいとは思う。
 賢しげなクールビューティで肉感的な彼女とは正反対のタイプと言っていい。

 子供のこと、家のこと……妻とは話していても面白いと感じられるものがなく、随分前から触れることも欲望を感じることもなくなっていた。
 向こうからのアプローチも重荷だった。
 もう俺たちはそういう時期じゃないだろとか、十分綺麗な体型なのに色気が感じられない努力が足りないんじゃないかなどと突き放した。
 変わろうとする姿に追い立てられるようで、逃げ出したくて、もうよそで処理してくれて構わないとまで言った。
 性欲がないわけじゃない。
 でもその気になれないものはなれないのだ。

 ようやく理解したのか妻は何も言ってこなくなった。
 男女のやりとりを諦めた妻の、俺に対する態度はなぜか軟化した。
 なんだかわからないがホッとしている。
 妻が嫌になったわけじゃない。
 家族は、日常はこれでいいのだ。


 彼女とはそんな時に出会った。
 マシュマロみたいに柔らかく甘い匂いを残して、離れた後も彼女は強烈に俺を誘った。
 性欲がないわけじゃないとわかってはいたが、迫られても乗り気になれない自分はどこか変なんじゃないかという気にもなっていて、だから彼女の登場は自信になった。

 やはり妻に応えられないのは俺が悪いんじゃない。
 そもそも家族に性は不向きなのだ。
 妻には自由にして良いと言ってあるし、俺が彼女と何をしようと問題はない。
 お互い自由なのだから、これでいいのだ。


 その妻と彼女の姿が重なるなんて。


「あはは。神様だって。どんな仕事してんのよ」

 彼女は声を上げて笑ってスマホを差し出した。

「はぁ?」

 眉を寄せスマホを手に取る。



ーーよそで処理してくれて構わない。
 あなたの言葉に絶望していた私の前に、神は現れたのーー


「なんだこれ。迷惑メールだろ」

 生ぬるい汗が背中を走る。
 書かれた言葉に覚えがあった。

「随分込み入った迷惑メールだね。最後まで読んだけど、なかなかドラマチックな大作だよ?」

 彼女はコーヒーカップにふうっと息を吹きかけ、
「あんたも読んでみ」
と促した。



ーー私が変われば、きっとあなたも大切にしてくれる。
 向き合ってくれる。
 そう信じて惨めな気持ちに蓋をして笑い、バカ正直に綺麗にならなきゃなんて思った自分はなんて間抜けなんだろう。

 あなたのいう通り好きにしてやる。
 三十半ばで家庭という箱の中に囲い込まれ、このまま死ぬまで女として扱ってもらえない一生を送るのかと思うと、あまりに自分がかわいそうで勿体無いから。
 そう拳を握ってすぐ、できっこないと乾いた笑いがこみ上げた。

 私は母親で、家族に背を向けて生きていきたいわけじゃない。
 私が感じていたいのは、相手を家族を大切に感じているという気持ち。
 確かにここにいるという温度。

 このままずっとしないなんて私は嫌なの。
訴えても平気でスルーし、他の誰かに応えてもらえばいいじゃないかとなんて言うのが悲しかった。
 あなたは最初、気が向かないのは私の努力不足と言った。
なのに、次には家族になっても性を求める私がおかしいという視線を向ける。
 ひらひらと言動を翻し、私を避ける。
 して欲しいんじゃない、ちゃんと気持ちのやりとりがしたい。
 あの言葉で私が辛い思いをしていてもこの人は平気で、自分が手を差し伸べようとは思えないのだと心底思い知った。

 性のことさえなかったことにすれば穏やかな日々。
 潔癖なんかじゃない。
 性的な冗談を平気で言ってくるくせに、あなたは私には触れない。
 求め、波風立てる私がいけないことをしているような空気。
 性を抜きにした関係で一生を終えるんだと決めて、さっさと年老いてしまいたいと願った。

 そうして死んだように生きていこう。
 そう決意した時、私の前に神様が現れて、こう提案された。


 別人になる気はないか? 
 そのまま腐りたくはないのだろう?
 ならばいっそ別人として、もう一度外へ出てみればどうだ、と。


 息子の顔が浮かんですぐに断った。
 だけどその言葉は芯まで深く私を抉った。 

 案ずることはない、仮初めのことだ。
 深入りせずに済むよう三ヶ月の期限を設けよう。
 その間だけ、家族のいない昼間お前を別の女にしてやる。
 お前とは全く違う魅力を備えた、そう、ちょうど奴の好きそうな女の姿に。


 そうして私は別人となった。
 ぽっちゃりとして小柄な、胸の大きい女。
 大きな腰がみっともなくてどこか田舎臭くて垢抜けない女。
 
 けれども駅ですれ違った時、あなたの目は私に釘付けだった。
 呼び止められ、口説かれ、あっさりと求められる。
 私だとも知らずに、熱い視線を送り何度も体を重ねる。
 これまでチラリとも見せてくれなかった、あなたの奥底に秘めた性的なファンタジーを差し出され、いとも簡単に共有できた。
 同じ私なのに、どうしてこうなれなかったのか。
 愛されれば愛されるほど、私が拒否されているのだと思い知る。

 期限の三カ月が迫り、私はこれからこの姿を失う。
 なのに残りの人生をどうしていいか、どう強くなればいいかわからなかった。
 家では変わらず平和で、温度のない暮らしが続く。
 性にさえ、触れなければいい。
 主張してこなくなった私を見て、あなたがホッとしているのが手に取るようにわかって。

 私が私でない私になれば、全て解決する。
 だから私は神様に……ーー
 


 顔をあげると彼女は靄のようにうっすらとした姿で俺を見下ろしていた。

「まさか君が……」
「ふふ。夢みたいな話だったでしょ?」

 彼女の姿が上手く捉えられない。
 霧吹きで吹いたように、ちいさな雨粒の集まりになってしまったように、ぼやけて、にじんで。

「冗談だろ?」
「この後に及んで冗談なんか言うと思うの? さよなら。あの子のことは空気みたいにしないで、ちゃんと見てあげ……」
「何を? ちょっと待て、おい!」

 彼女は……妻はふわりと笑い、最後まで言い終えぬまま空気に溶けて消えてしまった。



……もう私を消してと願ったーー


 スマホに残った最後の言葉も妻が消えるのと一緒に真っ白になった。


 


 妻が蒸発し息子と二人暮らしになってから、発見したことは幾つもある。

 ナスが嫌いなこと。
 信じられないくらいトイレが近いこと。
 動物に触れると白い肌がパンと膨れあがること。
 耳たぶに触れていないと眠れないこと。
 ママがいないと……。

 それを困ったねと分かち合う相手はもういない。
 そんなことも知らなかったの? と責めてくれてもよかった。

 顔が見たい。
 声が聞きたい。
 体温を感じたい。

 胸の上で眠る息子の頭を撫でながら、目の前に相手がいるのに孤独でなくてはならなかった妻を思った。

 妻を孤独にしたのは俺だった。
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