スニーカーを履いた猫

にゃむ

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スニーカーを履いた猫

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2020年 夏

わたしは、山口 かな、35歳。

この世界的危機の中、数ヶ月の間、仕事を休んでずっと自宅にいた。

そうしてこの土曜日、ようやく外に行こうと思いたった。


長い間、家の中にいたせいで、外の空気に慣れるのに時間が、かかるかと思ったけれど、

着替えて外出してみると案外、例年とおなじ初夏の感じで違和感は少ない。

駅で切符を買い、電車に乗ってしばらくすると、窓から海が見えて来た。

自然と気分が高まってくる。


太陽の日差しがとても強くて、長袖のシャツが疎ましく感じられる。

家にいる間、ろくに買い物にいけなかったのだから仕方ない。


電車の窓から、きらきらと光る、初夏の海を見ながら、暑かった十七年前の夏のことを思い出していた。


十年後もこうして電車に乗るのだろうか。


わたしは、目的の駅で降りた。同じ駅で、数人の親子連れや、若いカップルが降りる。

ホームを端から端まで、見渡して見る。

知っている人間はいない。

自動販売機で、お茶のペットボトルを買い、リュックに入れた。自動改札に切符を通して、改札をでた。

17年前の春、わたしは大学入試に失敗して、一年後の入学試験の準備のために大学予備校に通っていた。

わたしはわざと知り合いの少ない、この町の予備校選んだ。

父親が地元では有名な金持ちで狭い町では、

わたしが大学入試に失敗した事はすぐに近所に知れわたり、

知り合いに出会うたびに気遣われるのでそれが嫌だったのだ。

大抵は子供の頃から病弱だったわたしを心から気遣っての事だったのだが。

わたしは、知り合いのいない環境で、一から自分の人生を始めたいと思った。

予備校で、わたしの担当は、人の良さそうな四十代くらいの、背の低い眼鏡をかけたヤギュウという男性だった。

改札を出て、駅の長い階段を降りた。住宅街だけれども潮の香りがする。海が近いのだ。

わたしは、予備校生の頃よく来た水族館に向かった。

「大人、ひとり」

わたしは言った。

受付の奥から少し年配の女性の声がした。

「はい、大人ひとり、700円です」

わたしは財布の小銭を探す。

100円玉が4枚、五十円玉が三枚、あとは十円玉と五円玉、と一円だ・・。

わたしは不器用な指で小銭を一枚ずつブルーのトレイに並べた。こんな時に限って指がうまく動かない。

100円と五十円を並べ、ようやく10円玉を数えるまでこぎつけた。

「ちょっと、まってください・・今数えるので・・」

わたしは、手に汗をかきながら、小銭を数えた・・。

「かなちゃん、変わらないね。相変わらず小銭しか持ってない。ジーンズの右ポケットも、見てごらん、そこにいく

らか入ってない?」

わたしは、財布の小銭を全部、トレーに乗せて、女性に言われた通り、右のポケットを見た。

切符を買った後の釣り銭が、そのままポケットの中に入っていた。

わたしは、右ポケットの小銭ごと全部、青いトレーに乗せて、受付の女性に渡した。

「100円、五十円、10円・・はい700円いただきます。残りは大事に持っておいてね」

「ありがとう、シノダさん」

わたしは、残った小銭を自分の財布に入れた。小銭で財布が、ぱんぱんに膨れた。

昔から、わたしの財布は小銭で膨れている。

財布を右後ろポケットに入れて、水族館の中に入った。

館内は、まだ人はまばらで、みな顔にマスクをつけている。

それでも、みんな水槽の魚を目を輝かせて見ている。わたしだってそうだ。

この日を待っていたのだ。わたしは、“くろしおの海”という水槽が上から見える場所に行って、水槽を上から眺め

た。
わたしは、水族館にくると必ず此処に行く。

水の下に、魚の黒い背中が見える。

わたしは、マスクをしたまま、手すりに顎を乗せて、黒く波打つ水面をずっと見ていた。

「かなちゃん、もう水槽に飛び込んじゃダメだよ」

わたしが振り返ると、受付のおばちゃん、シノダさんが笑っていた。予備校時代からの知り合いだ。

「もう、二度と飛び込みませんよ」

わたしは笑った。

「かなちゃん仕事は?」

「会社はもう通常通りなんですが・・ちょっと怖くて仕事する気になれなくて・・来週から出勤しようと思っていま

す」
「そう、映画は撮ってないの?」

「撮るどころか、見てもいません。残業しないと毎月の家賃払うのにたいへんで・・。それどころではないです」

水族館のおばちゃん、シノダさんは、わたしの隣に立って一緒に水槽を見た。

「そうか。友達が近くで、ちっちゃな映画館やってるんだ。ジム・ジャームッシュの新作のチケット一枚だけくれた

んだけど、いらない?」

「シノダさんは、行かないのですか?」

「私は、このご時世、どうやってお客さんに安全に水族館に来てもらうか、やる事たくさんあるから、今はいけな

い。かなちゃん、代わりに見て来て」

「そうですか・・」

「あっ、ゾンビ映画らしいよ、大丈夫?」

シノダさんは言った。

「大丈夫ですよ。昔よりかは、空想と現実の区別、つく様になってますよ」

わたしは、シノダさんに、チケットをもらって、水族館をでた。

だいぶ迷ったが、映画館のある隣の街まで、歩いて行くことにした。

久しぶりに少し歩きたかったのと、単にお金を節約したかったからだ。わたしは、まだ飲んでいないお茶を確認して

から、自分の靴の靴紐を結び直した。

隣の町まで、昔歩いた時は三時間くらいだった。

もっとも、その時は、一人で歩いているわけではなかったから、余計時間がかかっていたのかもしれない。

歩き出すと、少し涼しい風が吹いて来た。

日が傾き始めている。隣の町までは、海岸線を歩いていくことになる。この道は自動車の渋滞がよく起こる。

場合によっては歩いて行った方が早いかもしれない。

久しぶりに太陽が沈む時間に、外にいた。

思いのほか良い気分だ。

さっきまでの鬱陶しい気分が嘘みたいだ。

しかし身体が暑さになれていないせいか汗が出ない。マスクもしているので、熱が身体に篭る。

わたしは時々、お茶を飲み、長袖シャツの袖を肘までまくり上げた。





予備校で、わたしは友達を一人も作らないと決めていた。

友達ができたらきっと勉強しなくなると考えたからだ。

予備校の授業が終わったら、すぐに図書館に向かった。

そして午後8時に図書館が閉まるまで机に向かっていた。


しかし、わかっていた。ただ机に向かっていただけだ。

問題集、最初の一行を何度も繰り返し目で追っていただけ。

何も分かってなかった。考えるふりをして、落書きばかりが増えていった。

英文も数学も何度本を睨んでも、意味が分からない。


問題集を睨みながら、全身が固まったまま時間だけが過ぎていただけだ。

右手に握る鉛筆に汗が滲んで、気持ちばかり焦る。

夕方、図書館に行って、夜の8時に帰るまで、ただ脂汗をかいて座っていた。

その日も、わたしは図書館にいた。

見ると、わたしは無意識にノートいっぱい、猫の落書きをしていた。

「たいくつやー」落書きに吹き出しをつけた。




小さな映画館のロビーで、わたしは茫然としていた。ロビーのスタンドでコーヒーを頼み、テーブルに座ってカップ


を持った。壁に、昔の映画のポスターが貼ってある。


「かなちゃん、ゾンビ映画なんて見るの?」
不意に声がした。

見ると、薄いブルーのワンピースを着た、ほっそりとした女性が立っていた。

美しい髪が、肩にかかっている。女性は顔のマスクを外してにっこりと笑った。


「あれ、誰でしたっけ?」

わたしは、失礼にも彼女に聞いてしまった。

「あれ、覚えてない?いいよ。わたしは、あなたをよく知ってるから。もしよかったら、

ジャームッシュ、いっしょに見てもいい?あなたさえ、良ければだけれど」

そう言うと、女性はマスクをもう一度つけた。

「覚えてないかもしれないけど、わたしは、清水ちさきです。

久しぶりでも、初めましてでも、どちらでも良いよ。わたし、映画は誰かと見たい派なの」


ちさきさんは、綺麗な髪を後ろでまとめた。

わたしたちは、お客さんのまばらな館内で、一つ席を離れて座った。


“マスクをして、大声を出さないでください”
的なテロップがスクリーンに流れた。

みな、マスクをして、息を潜めて映画を見た。

映画館で映画を見るなんて久しぶりだ。もう何十年ぶりかもしれない。

ずっと映画を見ていなかったので、はっきり言って、ジム・ジャームッシュなんて監督知らない。

しかし、映画を見ながら、わたしはなんだか懐かしい気分になっていた。

わたしは、映像の世界に引き込まれていた。

そのうち隣から、小声が聞こえてくるのに気づいた。

“スターデストロイヤーのキーホルダーや!うけるー”

“何?あのチャチな仏像!”

間違いない。ちさきさんだ。

ちさきさんが、ぶつぶつ言ってるんだ。

「シーっ。ちさきさん、声でてる、後で聞くから」

ちさきさんは、わたしを見て我に帰って、口を閉じた。

あっという間に、映画は終わった。

私たちは、エンドロールを見終わって、劇場に照明がついても、なかなか立ち上がれずにいた。

ゾンビ映画を見終わっても、現実世界はウイルスに気をつけないといけない。この厳しい現実が不思議に思えた。

「あー面白かった。めちゃ楽しかった!スカッとした!」

ちさきさんは、とっても晴れやかな表情で映画館を出た。

映画が終わると。もう深夜。外は真っ暗だ。

わたしたちは、映画の感想を言い合いながら、自然と海の方に向かっていた。

昔もそうだった。気持ちが煮詰まると、海べの公園に足が向いた。

わたしたちは、誰もいない海辺の公園のベンチに座った。

ちさきさんが、たすきがけにしたポーチからお財布を取り出して言った。

「わたし、何か飲むもの買ってくるね」

ちさきさんは、自動販売機で甘そうな、カフェオレを二本買って来て、一本をわたしにくれた。

ちさきさんは、自分のコーヒーを飲み干して、空き缶をゴミ箱に捨てた。

「かなちゃん、スマホ持ってる?」

「うん、持ってるよ」

ちさきさんは、わたしを見て頷くと、後ろでまとめた髪を解いて、堤防を歩きだした。

うっすらと街灯が照らすなか、真夜中なのに、ちさきさんが歩くと、そこだけスポットライトが当たったように明る

く感じられる。

わたしは、スマホを取り出して、ちさきさんの歩く姿を夢中で撮っていた。

画面の中のちさきさんは、美しく、儚く、そして生き生きと輝いていた。

「はい、終わり」

しばらくして、ちさきさんは、笑ってこちらに来た。

「うまくとれた?」

「うん。大丈夫」

「ちさきさん、女優さん?」

わたしは、思わず聞いた。

「そんなわけないやん。わたしはただのレストラン勤め。ただし、わたし名義のレストラン何件も経営してる。結構

やりてなんやで」

ちさきさんは笑った。

そして、ベンチに座って靴の、靴紐を結び直した。靴はニューバランスの青い運動靴だった。

「かなちゃん、今も、たいくつな毎日過ごしてるの?」

わたしは、ちさきさんの言葉に、はっとした。

「ううん、忙しい。目が回るくらい毎日忙しい。少なくとも退屈してる暇はないな」

わたしは答えた。

「そう、でもたまには、また、いっしょに映画見に行かへん?わたし、映画はいろいろ人と話したい派やねん」

「ええよ、また行こう。ありがとう、本当に楽しかったよ」

わたしは答えた。


わたしは、ヤギュウ先生に呼ばれて進路指導を受けていた。

「大学は、行きたいところある?」

「先生になりたいです。教育学科のあるところに」

わたしは胸を張って答えた。

先生は笑った。

「そう。わかったよ。応援しているよ」

わたしは、そうして翌年ある大学の教育学科に無事合格した。

それから十七年たち、いろんな事があったけれど、わたしは今も生きている。絶望しても結構なんとかなって来た。

今回はだめかな、と毎回思うけれど、いつも誰かが助けてくれる。ついてる人生だ。

「あれっ、かなちゃんもニューバランスの靴やん」

ちさきさんは叫んだ。

いつの間にか、東の空が明るくなってきた。新聞配達のバイクが走り出した。お酒も飲んでいないのに久しぶりのオ

ールナイトだ。

眠くて仕方ないのに、気分はすごく晴れやかだ。わたしは、ちさきさんに向かって言った。

「ちさきちゃん、太陽に向かって走れ!」

わたしは駆け出した。ちさきさんも走った。わたしたちは、肩で息をしながら、昇る太陽に向かってダッシュした。

どこまでだって走れそうだ。

ブルーの運動靴を履いた、わたしたちは、最強に良い気分だった。

F I N

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