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彼の水

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 白い壁に覆われた理科室。約六人用の大きのテーブルが、数個設置されている。周りにはガラスケースが並べてあり、化学用品が豊富に収納されていた。

 三人は一つのテーブルを囲み、昼食を楽しんでいた。

 日向は、思いのほか自然体でいられた。ついさっきまでは、噂を聞いてことで、疑心暗鬼になっていた。
 しかし、いつもと変わらない夕人と夜風の対応に、少しずつ平常心を取り戻していった。
 噂は噂。心にそう呼びかけ続けていた。

「ちょっと、トイレ行ってくる」

 夕人が理科室から出ていった。理科室には、日向と夜風の二人きりになった。

「そういえば、さっき大丈夫だった?」

「さっきって?」

「なんか教室の空気が変だったから。誰かにいじめられた?」

 自分よりも明るい日向に限って、そんなことはないとは思ったが、心配にはなった。

「ううん。なんでもないよ」

「ほんと?」

「ほんと」

 少し険しい表情をしている夜風を見て、日向の顔から笑みが媚びれた。

「なんで笑うのよ」

「夜風、見た目は怖いけど、優しいよね」

「一言余計よ」

「ありがとね」

 二人は笑みを交わした。
 夜風のことを疑っていたのが、急に恥ずかしくなってきた。
 常に冷静で、とっつきにくいと思われがちな夜風。だけど、根は日向と変わらぬ女子高生。きついことをいうこともあるが、夜風が嘘をつくような子ではないことを、日向は改めて認識した。

「はぁ、頑張らなきゃ」

 日向は微かに焦り始めた。今流れている噂が嘘だとしても、それがまことのことになるかもしれないと恐れた。

 夜風は多くの男子生徒から好意を持たれている。学校一とまでは言わないが、美人の部類に入る顔立ち、モデルのようなスタイルをしている。さらに、性格もいい。
 そんな夜風に夕人をとられてもおかしくはないと思った。今まで幼馴染だからと安心していたが、積極的に動き出さなければ、と日向は決心をした。

「頑張るって、何を? 部活?」

「なんでもない」

 決心した気持ちを隠そうと、日向は満面の笑みを浮かべた。

「さっきから、なんでもないばかりじゃない」

 夜風は、膨らんだ日向の頬を、少し強くつまんだ。

「痛いよ、夜風」

「うるさい」

 二人は笑いあいながら、時間をつぶした。
 そして、夕人が帰ってくると、三人はいつも通り、何気ない会話をしながら、昼休みを過ごしていった。

 日が東から西へ上ってきていた。校庭を橙色の空が覆いつくしていた。
 グラウンドで陸上部が活動していた。全速力で、グラウンドの端から端へと駆け抜けていった。
 他にもサッカー部、野球部などの運動部員たちが、汗水流して青春を謳歌していた。

 その青春を、夕人は花壇の近くから見ていた。
 華道部の活動時間は運動部よりも短く、夕人は下校するところだった。
 下校する前に、花壇のアサガオに水やりを行うところだった。

 いつもなら花に集中するところだが、ふと他の部活が気になっていた。
 夕人は基本的に男子よりも女子とともにする時間の方が長い。登校も下校も日向たちと、部活動も他の部員は女子だ。

 男子の友人がいないわけではない。同じクラスや、中学からの同級生など、普段会話をする男子生徒は存在する。
 しかし、校庭でひたすら体を動かしている生徒たちを見ると、無性に寂しくなる時があった。運動部にでも入ればよかった、と後悔する日が時たまやってくる。

 花が好きで、華道部に入ったこと自体を後悔しているわけではない。ただ、喜び悲しみを分かち合う、友人を超えた、仲間と呼べるほどの同性の友人が欲しかった。
 運動部の掛け声を聞きながら、夕人は如雨露の水をアサガオに垂らした。

 部活動を終えた放課後が、夕人が唯一、一人でいられる時間だった。常に一緒にいる日向と夜風は、それぞれ別件で他のことをしていた。
 日向は、花壇から東へ数百メートル離れたところにある、体育館にいた。彼女も部活動中だった。所属はバレーボール部だ。背が低い彼女だが、リベロとして活躍をしているらしい。

 もう一人の方は部活には所属していなく、アルバイトをしていた。今日はアルバイトは休日だったが、部活はしていないので、すぐさま家に帰っていった。
 華道部の部員たちも先に帰っていった。部員とは親しくないわけではないが、数人の女子の輪に入っているのは、さすがの夕人でも堪えた。なので、部活動以外は極力かかわらないようにしていた。

 そのため、この時間だけが夕人は一人なのだ。
 水やりを終えると如雨露を地面に置いた。そして、ゆっくりと夕日を見上げた。全身の力を抜き、ただ空を見つめた。
 呆然と立っていると、先ほど華道部員に聞かれた質問を思い出した。

「夕人君って、夜風さんと付き合ってるの?」

 前々から、そういった噂が校内に流れているのを、夕人は知っていた。噂を聞いた生徒に事の真相を尋ねられるたびに、否定し続けてきた。
 中学時代は日向との交際疑惑を否定し続けていた。高校に進学して、別の疑惑を否定することになるとは思いもよらなかった。

 日向と夜風、どちらか選べと、周りの人間から注意されることがあった。しかし夕人は、付き合う気もないのに選ぶなんて逆に失礼だ、と思っていた。

「すぐ恋愛に持っていきたがるんだよな」

 夕日に向かって語り掛けた。
 異性と一緒にいるだけで、恋愛に持っていく周りの生徒たちが嫌いだった。
 本当なら、日向とは距離を置きたかった。勘違いされるなら、離れた方が楽だと考えた体。
 だが、日向と夕人は隣の家に住んでいる。家族ぐるみで仲がいいため、距離を置くこともできなかった。

 それに、日向は一人じゃ何にもできなかった。子供のころから、勉強は夕人が教えていた。自転車の乗り方も、箸の持ち方も、数えきれないほど日向には知識を与え、世話をしてきた。
 そんな子供のころの記憶が焼き付いて、日向を一人にするのが、少し心配だった。

 中学の時に仲が良かった友達に言われたことがあった。「夕人は日向にとっての水だ」と。
 花は水がないと育つことはない。目の前の花壇に植えられたアサガオもそうだ。それと同じく、日向は夕人がいなければ何もできない。

 夕人はその友人の言葉を聞いたあと、「だったら俺の水はなんなんだ」と思った。
 花も一生懸命水を与えて育てている。日向のことも幼馴染として世話をしてきた。
 誰か自分にご褒美をくれ、そう思った。誰かに甘えたかった。

 時は刻刻と過ぎていき、夕日の色はさらに濃くなってきていた。

「そろそろ行くか」

 誰に言うでもなく、その場で呟いた。
 如雨露を校舎裏にある倉庫へと戻しに行った。そして、夕人は学校の敷地から出ていった。
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