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19.なかなかの仲直り
しおりを挟む「ぬぁ、ぬなな、何してんすかっ?!」
動揺のあまりに唾を飛ばして叫ぶ私に、課長は物憂げな感じでこう答える。酔ってはいなかったのだと。早く帰りたくて酔ったフリをしていたら、豪快に小杉さんが赤ワインを零したそうだ。真っ白なブラウスを着ていた彼女はもちろん、カウンターに横並びで座っていた大松課長にもその被害は及び、2人揃って真っ赤っ赤に。そして彼女は落ち着いた様子でこう提案する。
>このままじゃシミが取れなくなっちゃうから、
>どこかで洗いましょうよ。
課長の白地に紺ストライプのワイシャツも袖部分がガッツリ汚れていたが、彼はそれでも帰ると言い張った。しかし、小杉さんは往来で尚も粘る。
>ほらソコにホテルがあるでしょ?
>ここってファッションホテルだから、
>女1人じゃ入れてくれないんですよ。
>ねえ、見てください。このブラウスのタグ!
>これね、海外ブランドで5万円もするんです。
>スグ洗わないと、二度と着れなくなっちゃう。
そのブランドは確かに課長も知っているもので、5万円という金額を聞くと妙に納得してしまい。まあ自分は男だし、何か有ってもチカラでねじ伏せられると考え、仕方なくワインバーの二軒隣に有ったそのホテルへと入ったそうだ。
「…いま思うとさ、そのワインバーもあの女が見つけて来た店なんだよな。都合よくホテルが近くにあったのって、絶対に最初から仕組んでたんだろうな。で、案の定、ホテルに入ったら浴室に消えてさ。チェックインすればお役御免だと思ってたのに、ワイシャツを人質に取られて帰るに帰れなくて。『私が洗ってきます』とか言って、アイツだけ浴室に入った後は予想通りの展開だ。そこ、ガラス張りじゃなかったからさ、いきなり全裸で再登場された衝撃ときたら。ショック大き過ぎてもう、目が潰れそうだった」
…う、えっと。…なんだろう?怒りたいけど怒れない。いろいろと突っ込みどころ満載過ぎて。なぜ、ホイホイついて行く?そしてそんな簡単にワイシャツを奪われた挙句、どうして私にソレを平気で告白する?
「えっ?なんで小嶋、そんな怖い顔してるんだ」
「だって、それってつまり浮気の告白ですよね」
「は?!浮気なんかしてないけど」
「そんなはず無いでしょ?全裸であの小杉さんが立っていたんですよ」
「やだなあ、人をそんな節操無しみたいに。慌ててワイシャツ掴んで逃げて来たんだって」
「嘘!逃げ出したんですか?」
そして私たちは声を揃えて『へ?』と言った。
「そう、ご期待に添えなくて悪いがな、俺は清廉潔白だ」
「き、期待なんかしてませんよッ。ただ私は…」
「『私は』何だ?」
そう課長が問い質すので、素直に答える。
「じ、自信が無かったんです。なんだかんだ言って課長はメンクイだから。不細工な私よりも、美人な小杉さんの方に傾くんじゃないのかなって。それでも私のところに戻ってくれるのなら、許すしか無いかなって、…その、…浮気を」
チッチッチッ。
再び壁時計の秒針の音が大きく響き出す。なんだろうか、この重々しい雰囲気は…。
「そんなこと言うなよ」
「えっ?」
聞き逃したその言葉をもう一度と要求すると、課長は背後でボソボソ繰り返す。
「そんなこと言うなって言った」
「そんなこと言うなって言ったと言いました?」
「小嶋ァ、この場面でそういうのイイから」
「…ごめんなさい、ちょっと笑いが欲しくて」
ジンワリと私の手が汗ばんでくる。課長は今、思いっきりロマンティックモードだ。私はソレがどうにも気恥ずかしい。先日の告白でも死にそうになったというのに、アレをまた味わうのかと思うと震えてしまう。愛やロマンはイケメンと美女にこそ相応しく、私ごときには不似合いなのに。なぜかこの人はそっち側へと私を引き摺り込む。ウットリするような甘い言葉で私を讃え、貧民をお姫様であるかのように錯覚させるのだ。
「お前の魅力は俺にしか分からなくていい。これほど夢中にさせておいて、浮気なんかするワケないだろう?分かってるクセに。メチャクチャ愛してるって。あのな、美人だとか美人じゃないとか、そういう基準は俺の中ではもう存在しないんだ。…紀子か、紀子じゃないか。世の中の女はその二択だ。紀子、俺をもっと束縛しろよ。『浮気なんかしないで』って、『自分だけを見ていて』って。俺、そう言って欲しいんだけど。なあ、お願いだそう言ってくれ」
…う、うへえ。甘い、砂糖菓子より甘いわッ。そしてこの微妙な沈黙は、要望に従うことを期待されているという意味で。汗でジットリした手を部屋着で拭い、『う…ああ…』などと言い淀んでいると、課長は尚も追い込んでくる。
「紀子は何してても可愛いよ。集中すると口が尖っちゃうところとか、興奮すると鼻の穴を広げちゃうところとか、たまに踊るみたいにして歩くところとか、なんかもう、見てるだけで幸せな気分になる」
うひゃあ、耐えられない。ほんと限界ですッ。
「わ、私も課長が大好きですから!浮気なんかしたらタダじゃおきませんッ。そうやって一生、私だけを見ててください。お願い、他の女性になんか心を奪われないで」
『うん』と課長は嬉しそうに答えた。この人は生粋の王子様体質で。相手がどんな女であっても、きっと幸せにしてしまうのだ。
「紀子、こっち向いて。『愛しています』のキスをしよう」
「うう、ひゃあッ」
「なんだ、どうした」
「どうすればそんな台詞を真顔で言えるんです。もう背筋ゾワゾワですよ」
照れるな、と彼は言う。それから私を膝から下ろし、ゆっくりとソファへと寝かせる。その上から覆い被さるみたいにして、課長の顔が近づいてきた。
「なあ、このままずっと一緒に暮らさないか?…その、前向きに将来を考えた同居ってことで。そうすれば紀子は俺を独占し放題だぞ」
「しょ、将来…」
それってつまり。『ケ』のつくアレなんでしょうか??そのことで頭がイッパイになっていると、課長は焦れた様子で返事を急かしてくる。
「独占…したくないのか?俺を」
「し、したい、したいですッ」
驚くほど妖艶にその唇が弧を描いたかと思うと、それはいつの間にか私の唇に重なっていて。呪文のように繰り返される言葉に、頑なだった私の心が溶けていく。
>紀子、好きだよ、好きだ、好き…。
>可愛い、本当に食べてしまいたい。
さようなら、身も心も醜かった私。
これからはこの人の傍で最高に美しくなるのだ。いや、もしかして既になっているかもしれない。
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