彼がスーツを脱いだなら

ももくり

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彼が私を褒めてくれた!

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……
「ねえ、愛宕さんって今晩空いてる?」
「今晩ですか?用件にも寄りますけど」

「その言い方は、空いてるってことだな。よし、じゃあ強制参加ね」
「えっ?何ですか、用件を教えてくださいよ」

ランチタイム終了5分前。いつもの如くセカセカと自席に戻ると、含みのある笑顔でジュニアが私に近づいて来た。用件を聞くと、なんてことは無い。しゃぶしゃぶの食べ放題を予約していたのだが、突然1人キャンセルが出たそうで。4名以上でなければ飲み放題の対象にならず、困っているのだと。

「他の参加者は誰ですか?」
「俺と人事部の水上さんと、あとは大野だよ。…あ、大野のことは知ってるかな?俺の1コ下で愛宕さんの1コ上なんだけど」

大野さんなら知っている。その昔、社内でコンパらしきことをして、たまたま隣席になった男性だ。連絡先を交換したがそのまま何の音沙汰も無い。たぶん押しが弱いというか、『イイ人どまり』のタイプだと思われる。…ということをそのままジュニアに伝えると、何故か恐ろしいほど顔が緩んだ。

「ああ、もう言っちゃおうかな。実はその大野がさ、ずっと愛宕さんに惚れてて。すっごい熱烈に好きらしいんだわ。でもほら、彼氏いただろ?んで、その彼氏と最近別れたんだって?『チャンスじゃーん』って、俺が煽った。たまたま今日は人事部の3人と鍋食う予定でさ、そのうちの1人…あ、男だったんだけどね、これが急に体調崩して早退しちゃったワケ。じゃあ日を改めてって話になるところを、『俺が愛宕さんを誘うよ』って言ったら大野が分かり易くはしゃぐからさ。…だから頼むッ!お願いッ!俺の顔を立てて、今回は参加してくれないかな」

正直、気乗りしなかった。しかし目の前にいるのは仮にも将来の社長で、NOと言えるはずも無く。長いモノに巻かれることが大好きな私は、躊躇せずに『はい』と頷くのだ。返事をした後で隣席の山田君が気になったが、その横顔はジュニアの陰になり見えなかった。まあ別に私は山田君の彼女じゃないんだからいちいちお伺いを立てなくても良いのだが、やっぱりその反応は気になるワケで。ジュニアが去ってからコッソリ隣席を眺めると、彼は手元の資料と何かのデータを照合しており、そして端末画面に顔を向けたままで言うのだ。

「へえ、そういうのに行っちゃうんだ?」
「えっ?!あ、うん。だって断る理由無いし」

「……」
「……」

沈黙に沈黙で返す。重苦しい空気を破るかのように二瓶さんが山田君に声を掛け、そのまま2人でどこかへ消えてしまい。私の方も淡々と業務をこなし、気付けば終業時間になってしまった。普段ならば少しだけ残業するところだが、何せジュニア直々に誘われた食事会なのだ。遅れてなるものかと意気込み、帰り支度を始めると誰かに両肩を掴まれ、振り返るとそこには同じ経理部で同期のアリサちゃんが立っていた。

「きゃ!って驚かさないでよ」
「乃里、ちょっとこっち来て」

戸惑う私をそのまま洗面所へと連れ込み、ポキポキ指を鳴らしたかと思うと彼女は激しく私の髪をブラッシングし始める。

「えっと、な、何してるのかな?」
「人事部の大野さんと今から会うんでしょ?それも見初められたらしいじゃない。彼なら優良物件よ!ヤリチン川瀬より百倍イイ。うふふ、陰ながら応援させてちょうだい」

『陰ながら』の意味を間違えていませんか?そう訊ねたくなるほどアリサちゃんは絶好調で。肩まである私の髪をヘアアイロンで巻き、器用にそれを編み込んでいく。それから無造作におくれ毛を出し、ヘアワックスで前髪をふんわり立ち上げた。

「さすがアリサちゃん、素晴らしい女子力だね」
「感心してる場合じゃないわよ。はい、次は顔を手直しさせてちょうだい。ほんのちょっと眉を整えて、チークも入れるよ」

まるで美のカリスマみたいにアリサちゃんは作業を続け、20分も経たないうちに私は大変身する。

「な、なんか自分じゃないみたいで恥ずかしい」
「バカ言わないで、乃里以外の誰だっつうのよ。これでどんな男もイチコロよ!さあ行きなさい」

その厚意は非常に有難かったのだが、まるで『張り切ってまーす!』と全身でアピールしているみたいでどうにもいたたまれず。かと言ってこれを元に戻すことも出来ないので大喜びしてみせながら自席へと戻る。チラチラと周囲からの視線を感じ、『気にしないぞ』と自己暗示をかけているところにあの人が帰って来た。

「ただいま戻りました」
「や、山田君、お疲れ様です」

「乃里?なんだよその格好」
「アリサちゃん…えっと、柏木さんがね、してくれたの。変かな?変だよね。でも、あの、断れなくて」

「……」
「……」

『また無言攻撃かな?』と思ったのに。今回はどうやら違ったようだ。

「ヤバイ…すっげえ可愛い。乃里、もう、お前、何だよ。俺を殺す気か?」

天変地異、青天の霹靂、驚天動地、有り得ない、そんなバカな、アンビリーバボ───ッ!

「や、山田君が私を褒めた…」

そのことに本人も気づいたらしく、ハッとした表情のまま口元を手で押さえている。付き合っていたときは、どんなに無茶な要求をこなしても、決して御礼を言われたことは無く。バイトの時だってお客様が粗相したものを1人で掃除したり、クレーマー的なオジサンに気に入られ、いつも泣きながら対応して皆んなからそれを褒め讃えられても、この人だけは違ったのに。いま思えば、それで私は更に努力したのだ。この人のお陰で、私は成長し続けたのである。

突然、寂しい気分になった。

山田君に褒められるとまるで『お前なんかどうでもいい』と言われてるみたいだ。だってもう山田君の一番近い場所にはいないからこそ、客観的に眺めて褒めることが出来るのだから。…こんな考え『歪んでいる』のは分かってる。だけど元々、私たちの関係は普通じゃない。そんな2人にしか分らないこともあるのだ。

「な、なんだよ。俺が褒めたらダメなのか?」
「ん…。別に」

このタイミングでジュニアが近寄って来て、『愛宕さん、そろそろ行くよ』と言い。私は素直にその後をついて行く。ジュニアにも『可愛くなったね、大野のため?』と触れられたくない部分を抉られ、当たり障りのない返事をしていると何故かそこから山田君の話題へと移った。

「もしかして愛宕さんってさ、山田君のことが気になってる?こう言うのもナンだけど、彼は跡取り修業で一時的にウチにいるだけなんだよ。山田君の会社は本社が地元だから、あと1年で確実に向こうへ戻ってしまう。もし付き合えたとしても、遠距離になるかな。しかもあの会社、最近急成長してるから、戻ったらたぶん恋愛に費やす時間は無いと思う。だったらもう大野にしておけば?」

移動中のタクシーの中で、私はボンヤリと遠くを眺めていた。そっか、あと1年しか一緒にいられないんだ…。そう考えると胸がギュッと苦しくなり、心の底からジュニアを恨んだ。このままそっとしておいてくれれば、絶対諦めたのに。そんなことを知ったら、あと1年だけでも一緒にいたいと思ってしまったではないか。恋人としてではなく、ただの友達でも構わない。少しでも長く山田君の傍にいられれば…。

しかし、残念ながら大野さんの登場により私の平穏だった日常は引っ掻き回される。久々に会った大野さんは、恐ろしいほどの変化を遂げていた。
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