真冬のカランコエ

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番外編

花信風(かしんふう)

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「もしかして…石原さん?」
「はい?」


 森嶋くんと唯ちゃんの結婚式が終わり、大きな引き出物を持ってホテル内をズンズンと闊歩していたら、ロビー付近で声を掛けられた。…よく見ると、いやよく見なくても前田くんだ。私はこの人と高校時代に1年だけ交際し、大学に入ってなんとなく別れたのである。

「うわあ、石原さんは変わらないなあ」
「そっちはかなり変わっちゃった…かも」

「ああ、これでも一応、社長だからね。恥ずかしながら結構派手に暮らしてるよ。先日も経済誌から取材を受けてさ、“将来有望な100人の男”という特集、読んでないかなあ?」
「ごめんね、残念ながら読んでいないわ」

 どうやら私の言葉を彼は良い意味で受け取ったらしいが、本当は真逆だ。

 昔は真面目で爽やかな人だったのに、目の前の人物は全然違う。確かに身のこなしは堂々としているし、身に着けている物も全てハイブランドだ。だがそれらを帳消しにしてしまうほどの滲み出てくる何か。…他者をバカにしているような、自分だけが特別だと過信しているような、そんな下卑た感じの“何か”がこちらをイヤな気分にさせてしまうのだ。

 たぶんこれが、成功した人間の傲りというものだろうか。気持ち悪い物を見てしまった気分になり、早々にこの場を立ち去ろうと思ったのに、なぜか行く先を前田くんに遮られる。

「ふうん、結婚式の帰りかい?実は俺、待ち合わせの相手が2時間ほど遅れるという連絡を受けてさ。暫く話し相手になってくれないかな?」
「悪いんだけど私、急ぐから…」

 躱そうとしたが大きな荷物のせいで機敏に動けず、手首をギュッと掴まれた。

「じゃあさ、コレ持ってあげるよ。いいじゃないか、久々に会ったんだし。2時間が無理なら1時間でもいいから」
「でも、私、本当に帰らないと…。家で主人が待っているから」

 てっきり私が誰と結婚したのかをこの人は知らないんだろうと思ったのに、ムリヤリ私の手から荷物を奪って片頬を上げる笑い方で前田くんは言う。

「知ってるよ、西原と結婚したんだろ?同窓会で再会した後、アイツが口説いたんだってな」
「…え?ああ、まあ…」

 どうやら私の意思は完全無視らしく、前田くんはエレベーターの方へと向かって上ボタンを押しながら尚も話し続ける。

「随分と手堅い男を選んだもんだなあ。西原なんて面白くもなんとも無いだろ?あの時、俺と別れなければ良かったのに」
「…え?」

 なんだ?口説いているつもりなのか?いやいやだってアンタも私も既婚者だし。そう思ってふとその左手を見ると、有るべきはずのモノが無い。

「あれ?指輪は?」
「あはっ、見つかっちゃったか。…そう、普段は外しているんだ。指輪してるとモテないだろう?」
「へえ、…そうなんだ」

 結婚しててもまだモテたいんだ?モテていったいどうするつもり?せっかく森嶋くんと唯ちゃんの結婚式でホッコリしていたのに、コイツのせいで気分が台無し。荷物を奪い返して逃げなくてはと思うけれども、なかなかそのタイミングが掴めない。結局、強引にエレベーターに押し込まれ、気付けば夜景が美しいバーラウンジにいた。

「前田さま、いらっしゃいませ」
「ああ、いつもの個室で頼む」

 どうやら常連らしく、流れるようにその個室へと案内されてしまう。

「まあまあ、そんなに慌てないで。ほんの少しの間だけでいいからさ、そこに座って俺の相手をしてくれよ」
「だっ、本当に私、帰りたいんだってば」

 声を荒げたその時、オーダーを訊きにベテラン風のバトラーがやって来て仕方なく私は自分に近い丸椅子に腰を下ろす。

「ご注文はいかが致しますか?」
「ああ、僕はいつもので。彼女には…何か飲みたいものはあるか?」
「えと、じゃあ、ペリエで」

 酒を飲めと言われるかと思ったが、案外すんなりとソレは許されて。そして2人きりになった途端、前田くんはベラベラと喋り出すのだ。

「俺もその同窓会に行けば良かったなあ。丁度、仕事が忙しくてさー。だって石原さん、毎回欠席だったクセに、そん時だけ参加するなんてビックリだよ」

 …当時、私は33歳で。イイ感じだと思っていた森嶋くんが突然別の女性と結婚し、とても焦っていたのである。あの時はねー、ほんとムカついたなー。だってキスとかしてきたクセに、『もしやケンカ友達から恋人に発展?』なーんてドギマギしていたら、どこぞの美女とアッサリ結婚しやがんの。しかも毎日のように愚痴を言い合ってた同じ営業部の後輩女子が、幼馴染と再会して電撃婚とかさ。

 正直、心を病みかけてたね。取り残されていく感じがハンパ無くて、寂しくて寂しくて仕方なかった。一生このまま誰とも結婚しないのかな、私ってそんなに需要無いのかな、なんてどんどん落ち込んで。落ちまくった後は妙にポジティブになったと言うか。たぶん感情のバイオリズムがあまりにも急降下したせいで、後は上がるしか無かったんだな。

 >だってそこそこ美人だよ?!
 >きっと結婚したらお得だよ?!

 >私だったら絶対に、
 >私と結婚したいもん!!

 …なんて本気で思っていたりして。

 後輩の成功例を参考に、珍しく同窓会にも出席し。そこで隣に座った西原くんに酔った勢いで心に秘めておくべきその本心を言ってしまったワケだ。

 >だってそこそこ美人だよ?!
 >きっと結婚したらお得だよ?!

 >私だったら絶対に、
 >私と結婚したいもん!!


 ううう…、いま思い出すと恥ずかしくて死にそう…。


 寡黙で優しい西原くんは仕方なくそんな私を介抱してくれて、無事にマンションまで送り届けた上に翌日、安否確認の電話までくれたのだ。ふっ、よほど私が哀れだったに違いない。…そんな回想に耽っていると、ワザとらしく脚を組み直した前田くんが運ばれたロックグラス片手に口を開いた。

「西原って全然目立たなかったよな?大抵は教室の隅で…えっと誰だっけ?ああ山下だ。山下と2人でツルんでてさ。悪いけど俺は人気者だったからいつも輪の中心にいたし、奴とはあまり接点が無かったなあ。アイツってどんな感じ?いま何の仕事してんの?もしかしてあんな男と結婚して、後悔してるんじゃないのか?」

 …この人、いちいち自分を上げないと話が出来ないのだろうか?

 鼻につく。
 ああ、すごく鼻につく。

「私、後悔していないよ。だってウチの旦那さん、浮気しないもん」
「…へ、へえ…そうなんだ。でもな石原さん、男なんて皆んな浮気するものなんだぞ?それを隠すか隠さないかの違いだけだよ」

「私ね、警察犬並みの嗅覚が有るんだ。その私が浮気していないと言ったら、絶対にしていないのよッ」
「はいはい、そういうことにしておけよ。じゃあさ、仕事は?何してんの」

 くっそ、いちいちムカつくなッ。ただでさえ体調悪くて苛ついてるのに。

「何って…。一般的なサラリーマンだよ。工業用精密機器の設計とかしてんの。普通高校を出て大学も経済学部だったし、入社してからそっちの知識を学んだって。並大抵の苦労じゃなかったと思う。私、旦那さんのそういうとこ、すごく尊敬してるんだ」

 カラカラとグラスの中の氷を揺らし、前田くんは予想どおりの言葉を吐いた。

「ふうん。そんなに苦労して、年収は?まさか俺よりも低いワケないよな~」

 カチンと来た。だから言うまいと思っていた言葉が、マジシャンの口から出てくる国旗の如くスルスルと飛び出る。

「じゃあ前田くんは幸せなの?ごめん、ハッキリ言わせてもらうね。アナタ、全然幸せそうに見えないよ。多分、このあと会うのも浮気相手なんだろうけど。私の勘ではどの女性とも本気になれず、奥さんもそんなに前田くんに関心が無い。誰も愛せず、誰からも愛されないなんて本当に寂しい人生だと思う。高校時代は人気者だった?じゃあその時の誰か1人だけでも、ずっと仲のいい友だちはいるのかな?

 あのさ、ウチの旦那さんね、今でも山下くんとよく遊んでるよ。今日もきっとウチに来てる。奥さんが出産して里帰り中だから、寂しいとか言ってちょくちょく来るの。ねえ、前田くん。死ぬ時にアナタは人生を振り返って、『素晴らしかった』と言えるのかな?上辺だけ楽しそうにしていても、中身はカラッポに見えるよ。それはアナタが本当に望んだ未来なの?」


 …カラン。
 ロックグラスの中で氷が寂しく音を立てた。

 言い過ぎたかなとも思ったが、言葉は口に戻せない。反論しないということは、どこか図星だった部分も有るのだろう。前田くんは絞り出すような声で一言だけ『さあな』とだけ答え、私はいたたまれない気分でそっと夜景を見詰めた。

「ねえ、前田くん。きちんと手を伸ばさないと、本当に欲しいものは手に入らないよ。『もう遅い』って諦めないで、いつでも今が一番若いんだから。誰かと比べて自分の価値を確かめるのは止めた方がいいと思う。そんなことをするくらいなら、過去の自分と今の自分を比べてみなよ。何も持っていなかったかもしれないけど、私は昔の前田くんの方が好き。あんなにキラキラしていた人が、どうしてこんな風になっちゃったの?それが分からないのなら、アナタは一生このままだよ」

 絶対に足りないと思うけど、テーブルの上にペリエ代として千円をそっと置いて。今度こそ私はバーラウンジを出た。ふふ、何を偉そうに言ってるんだろう。自分だってそんなに幸せじゃないクセに。

 結婚生活6年目。

 傍目では幸せそうに見えるだろうけど、『仮面夫婦なんです』とは誰にも言えない。夫は優しくてとても善い人だが、彼が私と結婚したのはたまたま自分が独身でそこに結婚したいと騒ぐ女が現れたからだ。だってプロポーズの言葉が『俺、別に結婚してもいいよ』って、何だか他人事みたいな感じでさ。

 結婚ってそうじゃないよね??

 番匠さんと雅さんだって、森嶋くんと唯ちゃんだって、皆んな皆んな愛し愛されて結婚したのに、私たちには愛が無い。ああもう、引き出物が重いよッ。確かに高級フルーツの詰め合わせとバームクーヘンは必ず入れてねって森嶋くんにリクエストしたけど、あの頃と今とじゃ状況が違うっての!




 …タクシーに乗って帰宅すると案の定、玄関には見慣れた革靴が置いてあった。たぶん絶対に山下くんだ。

「ただいま~」
「よう!お邪魔してます」

 リビングに入るとタコより赤い山下くんが出迎えてくれて、家長であるはずの我が夫は床に寝ている。

「潰れましたか」
「うん、潰れちゃったよ。ほら今日は止める人間が不在だったろ?お陰で酒が進む進む…」

 たまにこの状態になるのだが、うつ伏せ寝は危険だ。いや、夫の体調を心配する以前にこの人は酔うとヨダレを垂らす癖が有り、カーペットを汚されては困る。

「ごめん、山下くん。コレ、仰向けにしてくれないかな」
「コレって…。酷いなあ」

「じゃあ、智明さんを仰向けに」
「おっ、名前で呼ぶの初めて聞いたな。きっと西原が起きてたら喜んだだろうに」

 その言葉に思わず手が止まった。

「名前で呼ぶと、喜ぶんだ?」
「ああ、絶対にな」

「なら、自分でそう言えばいいのに。…変な人」
「まあ、そう言うなって。コイツ、未だに梨乃ちゃんといると緊張するみたいでさ。可愛いよなあ」

 緊張??なんで??

 キョトンとしていると、山下くんは普段より深酔いしているのかペラペラと喋り出す。

「だってコイツ、高校ん時から梨乃ちゃんにメチャクチャ惚れてたんだぜ?毎日『石原さんが、石原さんが』って、うるさいうるさい。アハハハ」



 なんだか無性に腹が立った。

 どうしてソレをもっと早く言わなかったのか。私、この6年もの間、ずっと愛されていないと思ってたよ。いや、それどころか下手をすれば自分達は愛の無い夫婦だと思ったまま死んでいたかもしれないのに。

 ううう…。でも、責められないなあ。だってどっちも言わなかったし、訊かなかった。平穏な生活を壊すのが怖くて、肝心な核の部分をハッキリさせずに幸せなフリをして生きていたから。そう、まるで黄身の無い卵みたいな間抜けな夫婦生活。

 怒りが収まった途端、ジワジワと喜びが湧いてくる。

「山下くん…」
「えっ、あ、何?」

 カーペットの上に直座りして、ソファにもたれる私と山下くん。目の前には今から議題のテーマとなる、愛しの旦那様が安らかに眠っていた。

「変なことを言ってもいい?」
「う、うん。どうぞ…」

「私ね、ずっと愛されてないと思ってて。だから私もこの人のことをね、そんなに好きじゃないって思ってた」
「…あ、…そ、そうなんだ…」

「よく聞いてッ。まだ話は続くよ!私ね、いま分かったの。好きじゃないと思ってたんじゃなくて、好きじゃないと思おうとしてたんだって。だって自分だけが相手のことをたくさん好きなのって悔しくない?この人、すっごく優しいの。私がつまらないことで怒ると、哀しそうにするの。だから哀しませないために、なるべく怒らないようになったの。そしたら、どんなことにも全然腹が立たなくなって、なんかそういう穏やかな自分ってすごく素敵とか思っててッ。一緒にいると、どんどん自分が成長していく気がするの。あー、最高の旦那さんを見つけたなって何度も何度も思ったの。でも、私のことを好きじゃないなら、絶対にこっちも好きになるもんかって…」

 …ああ、もう言ってることが支離滅裂だ。なのに山下くんは可笑しくて堪らないという表情で私を見ている。

「あのさ、梨乃ちゃん。それってつまり…?」

 この期に及んで、私はしどろもどろだ。

「う、あの…。つまり、そのね…。この人が私を愛してるって分かったから、もう自分の気持ちを解禁しようと思うの。

 ああ、そうよ、好き!!
 心の底から愛してるッ!!

 ねえ、起きてよ、智明さん。直接この気持ちを伝えさせて。絶対に狸寝入りしてるでしょ?さっきから鼻の穴がピクピクしてるもの」



 返事は、無い。

 その代わりに左手で自分の顔を覆い隠し、それから何かを探すかの様にして右手をサワサワと動かし始めた。

「お、おい、西原?どうし…」

 ガシッと掴んだのは、山下くんの手だ。

 ちょっとっ!おかしくない??この場面でまず握るのは、妻である私の手のはずでしょうがッ!!

 そしてようやく夫は言葉を発する。

「やましたァ…。お前、……ロス」
「えっ、何?なんて言ったんだ?」

 慌ててその口元に耳を寄せた山下くんは、その言葉をもう一度聞けたらしい。瞬きを二度ほどして、ゆっくりとまたソファにもたれながら私にこう言った。

「俺のこと、コロスって。こいつ、心の中で悶絶してるらしい」
「あ…そう、なんだ…」

 いやいや、この期に及んで。むしろ世界の中心ならぬリビングの中心で愛を叫んだ私の方が、よっぽど恥ずかしいと思うんですけど。え?その映画、古い??確か学生時代に上映してたけど??ていうかさ、同級生じゃん。古い、古くないの論争はおかしいよね、そうでしょ、山下くん。

 …照れ隠しでその後、私はただひたすら山下くんに向かってどうでもいい話をし続けていて。それは山下くんに相槌を打たせる隙すら与えないほどの勢いで。暫くして山下くんが唐突に立ち上がった。

「俺、帰るわ。ケロケロ」
「カ、カ、カエル??」

「うん、梨乃ちゃん頑張って!」
「な、何をっ?!ねえ、山下くん、何をっ?!」

 その足元に縋ったものの、優しく振り解かれたので仕方なく玄関まで見送り、内鍵を掛けてから大音量で鳴り続ける心音を鼓膜に感じながら静かにリビングへと戻る。観念したのか夫は胡坐をかいてボンヤリと座っており、ゆっくりと私に向かって笑った。

「な、なに??」
「うん、あは、嬉しいなあ…と思って」

 分かっているクセに、確認するかの様に私は質問する。

「何…が?」
「梨乃が、俺のこと、好きって言った」

 モジモジとはにかんだその表情が、なんだかもう堪らなくなって。こんなに愛しい存在がこの世の中にいる、その奇跡にただただ感謝したくて。私はその胸に、飛び込んだ。

「十代の恋愛なんてさ、好きになるキッカケとかほんと単純だよ。俺の場合、同じシューズ履いてたコを好きになった。当時の俺にはすごく贅沢品だと思ってた、ブランドものの黒いシューズで、横んとこに白のラインが入ってるヤツ。父さんが臨時収入貰ったとかでさ、好きな物なんでも買ってやるって。1万5千円もしたんだけど、俺、どうしてもソレが欲しくて。

 手に入った時は嬉しかったなあ。すっごいウキウキ気分で学校に行ったら、前を歩いてたコが同じシューズ履いてた。髪の長い、スラッとした女のコでさ、『俺、絶対にこのコと気が合う』ってもう運命感じちゃったワケだよ。そのコには既に彼氏がいたけど、でも俺はその運命をひたすら信じてた。実際に綺麗なコだったんだ、姿だけじゃなく中身も。真っ直ぐて裏表が無くて、誰に対しても平等に同じ態度でさ。毎日毎日、飽きもせずに見てた。高校を卒業して、大学も出て、就職して、何人かと付き合ってみたけど“あのコ”を超える女性はいなかった。

 同窓会で再会して、本当は全然違う席のはずだったのに隣の南と喋りたいから席を替わってとかお願いされちゃってさ。そうして大好きなあのコの隣に座れた。相変わらず楽しそうに喋ってたな。だけど俺はもう心臓バクバクだったんだ。

 >だってそこそこ美人だよ?!
 >きっと結婚したらお得だよ?!

 >私だったら絶対に、
 >私と結婚したいもん!!

 そう繰り返されたから、俺も脳内でコッソリ返事してた。

 >うんうん、世界イチ美人だよ。
 >そうだね、とっても得だよね。

 >俺も、石原さんと結婚したい。

 そしたらさ、叶っちゃった。やっぱ運命の2人だよなあ。梨乃、俺と結婚してくれて、有難う。本当に本当に、有難う。朝起きて、梨乃を見るたび嬉しくなる。俺のたった1つの宝物。大事な大事な、俺の梨乃…」


 く、臭いことをなんて堂々と言いやがる。そう心の中で毒づきながら私は号泣していた。


「ごめ…、うっ、えっ、ええん、うあ、うう、2つになるうう、た、宝物」
「ん?何、もう1回言ってみて」

「ごめんね、だって、自分でも驚いてて、40にもなってそんな、あああん」
「どうした、梨乃。ゆっくり言ってごらん」

 優しく背中を撫でられた私は、隠し続けていたその言葉を口にした。

「赤ちゃん、出来たって。高齢でしかも初めての妊娠だから、流産の危険が高いとか言われてて。だから落ち着くまで黙ってた。…もう5カ月に入ったとこ」

 しっかり悪阻もあったけど、ずっとずっと隠してた。そして何よりも、私達は愛の無い夫婦だと思ってたから、そんな2人で育てられるのかなって、凄く不安だったんだよ。

「そ、そんな大事なこと、なんで言わないんだよ」
「だからごめんなさい、私が悪いぃ」

 だって、私達いま40なんだよ?大学まで卒業させることを考えると、60過ぎまでガッツリ働かないと。自分たちの老後の為の貯蓄はほぼ消えちゃうね。こんなことならもっと節約したのに。年に何回も旅行したり、深夜にネットで衝動的に買い物したり、フレンチだのイタリアンだの外食三昧の暮らしなんかしなかったよ。

 しかも授業参観とか行ったら、20代の若いお母さんたちに紛れて、40代後半の私が立ってるんだよ?ウチの子、きっと友達から『おばあちゃんが来たの?』とかなんとか言われて悲しい思いをするわ。それにママ友と上手くやれるかな?私、若い子と仲良くやれる自信無いよ。あとさァ、もしも、もしもだよ。私達夫婦が交通事故で同時に死んだら、どっち側の両親ももう高齢なのにウチの子の面倒を見てくれるかな?

 …この調子で小一時間ほど苦しい胸の内を吐露し続けた。すると、その間ずっと黙っていた夫は、膝に乗せた私を背中から抱いたままでボソリと呟いたのだ。

「面白いなあ」
「えっ?!」

 信じられない!という形相で、私はグリンと後方に振り返る。

「やっぱり梨乃は面白いよ」
「ど、どこがっ?!どうしてっ?!」

 それから必死に食い下がる私を無視して、お腹に向かって話し掛けるのだ。

「おーい、赤ちゃーん。お母さんはこんな風に心配症だけどお父さんは全然平気だぞー。怖がらないで安心して出ておいでー。綺麗なものをたくさん見せて、美味しいものを一杯食べさせてやるから楽しみにしてろー。うんと幸せにしてやるから覚悟してろよー」

 へなへなと全身の力が抜けて、そして糸の切れた操り人形みたく私は目の前の絨毯に崩れ落ちた。

「ほんとウチの旦那さんって呑気だわ」
「あはは、ごめん。でも心配してもどうにもならないだろ」

 シューッと毒気が体から抜けて、今まで溜め込んでいた悩みらしきモノが全てバカバカしく思えてくる。

「…そっか、これからは私もなるべく赤ちゃんに心配掛けないように頑張るね」
「うん、その意気だよ。起きる前のことはどうにも出来ないし、心配なんて起きてからすればいいんだよ」

 そのまま絨毯で横たわっていると、夫がその隣に並んで寝転んだ。

「高齢出産の悪いところばかり挙げずに、良いところも挙げてみようよ」
「良いところ?」

「例えばほら、周囲はもう子育てがひと段落してるから、その知識を色々とアドバイスして貰える。それに20代の頃より今の方が給料は各段に上がっているし、有休も多いよね」
「そっか、そうだよね」

「若い頃よりも今の方が精神面は断然落ち着いていると思うし、新たな人間関係を築く時とか、子育てにも有利なんじゃないかな?」
「うんうん。…もっと言って」



 静かに、静かに夜は更けていく。
 

 いつの間にか私は、柔らかな夫の声を子守歌にして眠っていた。


 そしてフワリと体が浮いたかと思うと、
 空から声が降ってくる。


 >とうとう俺も父親…かあ。
 >くうううううっ、スゴイぞお。

 >梨乃、本当に夢みたいだよ。

 >最高に幸せだ。
 >キミも同じくらい幸せだといいな。


 ぽすん、と何処かに寝かされた気がする。…多分それはベッドの上で。お腹、頬、手の順に撫でられてから、オデコにそっと優しいキスを受けた。去っていく足音を聞きながら私は精一杯の大声で返事をするのだ。


「うん、幸せ!すっごくすっごく幸せ!!」


 あははっ、と遠くで笑う声がして。

 私はふわふわとした気分のまま、
 もう一度意識を手放した。





 --END--

 
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