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第一章
サヴォタージュ 1
しおりを挟む私は冷たい女なのです。
貴方の望みを知っていて、
それを与えているだけだから。
たっぷりと与えておきながら、
いつか全てを奪う気がします。
貴方を幸せにしてあげたいけど、
不幸にしてしまう気もするのです。
怖くて怖くて、嬉しい。
嬉しくて嬉しくて、怖い。
どうして恋は、
その両方を与えてしまうのでしょうか…。
────
「いいよねー、雅は。努力せずに欲しいものを手に入れて。芳に飽きたら次は番匠くん?今だから正直に告白するけどさ、私ずっと芳が好きだったの。でも見ていたら分かったんだ…芳と雅は好き同士なんだって、だから必死でその気持ちを抑えてた。ようやく新しい恋をしようと決心して、お見合いパーティーで出会った男にコツコツ貯めたお金を騙し取られて。挙句の果てに飲み屋で知り合った男に乱暴されて、その画像をネタに強請られたの。
あははは、笑っちゃうでしょ?
うっ、ううあぅ、ひっ、ぐっ。
本当に酷いよ、雅。
芳の次がどうして番匠くんなの?
私、この人だけは信じられると思っていたのに。ねえ雅、私と番匠くんが付き合っていると噂になった時、何故すぐ否定してくれなかったの?そうすれば私が傷つくことも無かったよ。どうせ番匠くんがモテるから周囲の反感を避けるためだったんでしょうけど、私なんかどうなってもイイって、きっとそう思ったんだよね?…ほんとアンタって最低!!」
恐ろしいほどの悪意が、私の意識に流れ込んでくる。喉の奥が乾き切って、声の出し方すら忘れていた。何か答えないと、この人の怒りを鎮めないと。そう思うのに、出てくるのは嗚咽にも似た咳だけだ。
コンコン、ゴホッゴホ…。
傍にいた光正が慌てて私の背中を擦るが、その咳は一向に止まる気配が無い。
ゴホッゴホッ、ゲホ…。
それを『煩い』と言わんばかりの表情でこちらをジットリ睨んだかと思うと、瞳さんは低い声で呟いた。
「どうやらアンタは、相手の気持ちに立って考えるということが出来ない欠陥人間のようね。こんなクソみたいな女に、世の中の男達はどうして騙されるのかしら」
コンコン、ゴホゴホッ、コンコンコン…。
なんだかもうパニック状態で、咳が一層激しくなってくる。涙も出てきたが、それは咳だけのせいでは無いようだ。いつしか光正の両腕は力強く抱き締めてくれていて、私はその胸の中で沈黙を保つ。
ドンッ!!
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
だが、その音の発信源を辿ってみると芳が瞳さんを壁に押し付けていて、彼女を睨み付けながら唸るように言ったのだ。
「これ以上、雅のことを侮辱するな!雅はクソ女なんかじゃないッ!!」
滅多に怒らない芳がもの凄く怒っていて。そう言えば先日もこんな姿を見たけど、確かその時も私絡みだったなと思いながらひたすら心の中で詫びていた。
ごめん、芳。
迷惑ばかり掛けて、本当にごめん。
そんな私の気持ちを察したのか光正は私の睫毛をそっと撫でて、涙の雫を自分の人差し指へと移す。なんだかその行為がとても美しく思えて、一瞬だけ自分が置かれている状況を忘れた。
「あのさ…」
現実に引き戻してくれたのはやっぱり芳で、瞳さんはどうやらその剣幕に怯えているらしく、彼の言葉を虚ろな目で聞いている。
「なんかアンタ、雅に責任押し付け過ぎじゃないか?だってよく考えてみろよ。今まで彼氏がいなかった、結婚詐欺師に騙された、続けて別の男にも騙された。…ハッキリ言うけどな、それって全部自己責任だぞ?
どうせ『私は人より傷つき易いの』とかなんとか言い訳ばかりして、誰とも付き合わなかったんだろ?そんなもん、アンタだけじゃなくて、みーんな傷つき易いんだっつうの。そうやって逃げてばかりいたから経験値が一向に増えなくて、バカな男に騙されるんだよ。しかも続けて2回って、もう救い難いよな?」
瞳さんの表情が畏怖から憎悪へと変化したが、それでも芳は攻撃を緩めない。
「アンタ、さっき雅のことを『相手の気持ちに立って考えることが出来ない欠陥人間』とか言ってたけどな、そもそも相手の気持ちなんて分かるワケ無いんだよ。人は自分の気持ちを悟られないようにと隠しながら生きているんだから。
いや、それよりも自分の物差しで相手の感情を測ること自体、無理なんだ。相手の立場になって考えてみて、自分ならこうすると思ったとしてもそれは所詮、自分の考えでしかない。相手がそうしたいのかと言うと、絶対に違うだろ?
あのな、人間は10人いれば10人とも考えが違う。
だから黙ったまま、何も発信せずに『理解しろ』だなんて物凄く傲慢だ。傷つくのが怖くて伝えられないのなら、そのせいで失うことが有ることも承知していたはずなんだ。俺を好きだったのに雅のせいで諦めたみたいに言ってたけど、『そんなん知るか!』って感じだし。そんで、番匠さんに勝手に乗り換えたらまた奪われたとかさ、ビックリするほど雅に関係無いじゃん。
だって諦めてたから、何も行動しなかったんだろ?自己完結してたクセに、他人の幸福が妬ましくなって、それに難癖付けて嫌がらせするとか、俺から見るとアンタの方がメチャクチャ性格悪いと思うぞ。その調子じゃアンタ、一生幸せになれないだろうな」
芳の性格から考えると、自分が憎まれ役になろうとしてくれているのだ。それで私から気を逸らそうと。経理部の佐久間さんの件といい、今回の瞳さんの件といい、どうしてそこまでしてくれるのか?
そんなことを思いながら芳の背中をジッと見つめていると、一瞬だけ振り返りニカッと笑ってくれた。『大丈夫だぞ!』とでも言うかのように、いつもの屈託の無い笑顔で。だから私も反射的に笑い返してしまう…涙でグチャグチャの顔のままで。その笑顔を違う意味に受け取った瞳さんが、目を吊り上げて怒り出す。
「何なのよ、その顔?!私をバカにしてんの!!男2人を味方に付けて、勝った気になってるんでしょうけどね、死ぬまでそうやって誰かに頼って生きていればいいわよッ。ああッ、もう、ムカつく!!」
そう叫んだかと思うとヒール靴の踵で芳の足を思いっきり踏み、痛みで飛び上がった彼の体をすり抜けて物凄い勢いでこちらに向かって来る。
「…えっ?」
短く問う私の声は、そのまま絶叫に変わった。
「きゃああああッ」
「雅っ!」
火事場の馬鹿力というものだろうか。女性とは思えないほどの力強さで瞳さんは私の右腕をムリヤリ引っ張り、そのまま階段の最上段から突き落した。段数を数えたことは無いが、たぶん高さ3m以上は有りそうな階段だ。そんなところから落ちれば、無傷でいられるはずが無い。ふわっと体が宙に浮き、最悪の事態を覚悟した…その時。
ギュッと瞼を閉じたので何が起きたのか分からなかったが、気付くと柔らかな何かに包まれていた。階上から光正が駆け降りて来て、私を引っ張り起こしてくれたのでようやく事態を把握する。
「よ…し…。嘘、なんで?どうしてこんな…」
私を庇ってそのまま一緒に落ちたらしく、グッタリ倒れて動かない。
「やだ、芳!!目を覚まして、死なないでよお」
その顔色は真っ青で、口元に耳を寄せるとなんとか息はしているようだ。
「芳、ねえ、芳、死んじゃやだってば!芳、よーし──っ!!!!」
隣で光正が救急車を呼ぶために電話を掛け始めると芳の口が微かに開く。
「…さいせい…い病院」
「えっ?何、もう一回言ってみて?!」
「済成会病院の神崎先生で…頼む」
「神崎先生?何なのその人?!」
「しゅ…じい」
「……」
あまりにも頭の中が混乱していて、その言葉を理解するまでに時間を要してしまった。でも、確かに芳は言ったのだ…神崎先生は“主治医”だと。
それは芳の身に何かが起きているということを、
教えてくれるには充分な言葉だった。
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