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第一章
フレンド 1
しおりを挟むどうして人は、
見えない未来に期待してしまうのか。
そして、その期待と同じくらいの
不安を抱えてしまうのか。
年齢を重ねれば重ねるほど、
不安の量は期待の量を上回る。
…“経験”は本当に残酷だ。
────
>おいこら雅、
>本気で番匠さんを狙うなよ?
>なんか真剣に迫ってるように見えるぞ。
実際はその逆で私が迫られているというのに、トイレから出て来た芳はそれだけ言い残して足早に去って行く。
目の前に転機が訪れたとき、人は2つのタイプに分かれると思う。『もしこれを選べばどうなるのか?』を緻密のシミュレートし、後悔しないようにと熟考するタイプと。『自分はどうしたいのか?』ということだけを優先し、本能のままに突き進むタイプだ。
私なんかは正に後者で、光正からの復縁の申込に対して『なんとなくイヤ』というあまりにも曖昧な理由で即答するのだ。
「ごめんなさい。今は誰とも付き合う気になれないから」
「えっ、誰とも?」
「うん、そう。誰とも」
「『今は』って、将来的には考えが変わると思っていいのかな?」
だといいなあ…という願望も込めて、私は無言のまま頷く。
「うん、じゃあ分かった。友人としてなら仲良くしてくれるかな?」
「え、でも…。光正なら私じゃなくても、すぐに新しい女友達が出来ると思うよ」
目の前のその人は照れ臭そうに目線を斜め下へと落とし、意味なく人差し指の第一関節を、親指で擦りながら言うのだ。
「遠くにいて会えないなら仕方ないけど、すぐ傍にいる時は…雅がいい」
一瞬だけ胸が締め付けられ、ようやく言葉を絞り出す。
「あはは、人見知りだもんね、光正」
そういう意味では無いということはその表情からも伝わってきたが、私はそれに気づかないフリをした。
…そっか、そうなんだ。どうしてヨリを戻すことをイヤだと感じたのか、いま分かった。
“真意”が分からないからだ。
たぶん光正は私とのことを後味の悪い別れ方だと思い込んでいて。今後、同じ職場で円滑にやって行くには、取り敢えず復縁しておくことが最良の方法だと考えたのかもしれないし、そうでは無いのかもしれない。昔のこの人ならばそんな計算高いことをするはずは無いが、あれから6年も経過しているのだ。
時の流れは人を変える。
目の前にいる人はよく知っているようで、見知らぬ他人なのだ。
「俺、頑張って雅に一番近い男になる」
「……」
ほら、昔の光正だったらこんな台詞を絶対に言わないはずだ。真っ直ぐなその目に射抜かれそうで、今度は私の方が目線を斜め下に落とし。それから暫くして、私たちは宴会場へと戻った。すると明らかに芳が不機嫌で。まるで私を囲い込むようにして、ひたすら話し掛けてくる。
歪んだ独占欲だな…と思う。
自分は他に彼女がいるのに、こうして私が他の男性と仲良くするとハッキリ不快感を示すだなんて。
「雅の好きそうなデザートだぞ。俺の分もやるよ」
「ええっ、いいよ。私お腹いっぱいだし。自分で食べなよ」
どうしてそんな必死な目で私を見るの?まるで『俺を捨てるな』と言っているみたい。だって、どう考えても捨てられたのは私の方なのに。芳、それって支離滅裂だよ。
…頭の中が混乱して、ふと隣を見ると祐奈が光正と盛り上がっている。社交的で誰とでも打ち解けられる祐奈は、『恋愛』が絡まなければ天使なのだが、ソレが絡んだ途端、悪魔に変わる。
忘れもしない、あれは入社1年目の研修合宿でのこと。同期に間山君という内気なコがいて、明らかに彼は祐奈を好きだったのだが、それに気づかない祐奈は彼を孤立させまいと話し掛け、悩みを聞き、周囲との懸け橋になった。ところが彼に告白された途端、無視をし、背を向けるのである。『仕事の一環なのに勘違いされて怖い、そういうつもりじゃ無かった』と。
優しさは時に凶器だ。孤独だった1人の男を掬い上げ、そして難なく叩き落とす。未熟だと言えばそれまでだが、人それぞれに経験の時期は異なる。誰かを好きになって、裏切られること。人づき合いが苦手だったせいで、その時期が間山くんは人よりも遅く。また、祐奈も己の未熟さに気づいていない。優しくする時は一定の距離を保たないと相手を誤解させてしまうということを。
経験値の低さ故に結局、祐奈は間山君を傷つけてしまい。それはボディブローのように時間を掛けて自分への呪縛となる。健介を好きなクセに、行動もせずにただウダウダと相手から告白されることを待つ日々。私とは違った意味で、祐奈はいろいろと面倒臭い女だ。
数週間後、その祐奈が私に言ったのだ。
『私、番匠さんのことが好きかも』と。
…健介は歓迎会のあの晩から徳田社長にたびたび呼び出され。私もこれ以上、舞美ちゃんに恨まれたくはなかったので芳と一緒にいることを極力避けていたが、なぜか芳の方から強引に誘われて。もう断ることに疲れ果てていた頃、『2人きりでなければ大丈夫じゃない?』と必ず祐奈が加わってくれるようになり。
そのうち『じゃあ、俺も』と、光正もついて来るようになって。芳は私に一点集中で話し掛けてくるから、そうすると祐奈は光正と話すしかなく。毎晩催される食事会の後、光正はワザワザ遠回りして祐奈を送ってあげていたそうで。優しさに飢えていた彼女は、光正に陥落したようだ。
「…えっと、健介のことはもういいの?」
「いいよ、だって絶対に無理でしょ」
「それは健介に訊いてみないと分からないんじゃないかな。だいたい3年近くも片想いしてて、そんな簡単に乗り換えられるの?」
悟りを開いたような表情で、祐奈は答える。
「雅には内緒にしてたんだけどね、1回告白して見事にフラれてるの。しかも現在、絶賛セフレ状態だから」
ちょ、ちょっと!!声が大きいよッ。
ココは駅前のコーヒーショップで。夜8時だから店内は人が少ないけど、カウンター近くの席なので中で作業している店員には聞かれてしまったと思う。
えっと。羞恥心の方が勝ってしまったけど、よく考えたら今の爆弾発言だよね?
「ゆ、祐奈と健介がセ…フ…レ?」
「あはは、笑ってよ雅」
何の悩みも無いと思っていたのに、いつもヘラヘラしているこのお姫様が案外ヘヴィな状態だったワケだ。
「告白って、いつしたの?」
「1年半くらい前かな。たまたま2人揃って出張になったから、宿泊先のホテルで部屋飲みした時に」
「ふんふん」
「『私、健介が好きかも』ってボソッと呟いたら『アホか』だってさ」
「それで?」
「ああ、失恋したなって思ったわよ」
「そこからセフレに?どういう流れで?」
「その告白の後にそのまま押し倒された。好きじゃないクセにヤルことはヤルのよね」
け、健介っ!
私と芳のことを…いや、最近は芳と舞美ちゃんのことか。とにかくそんな他人のことを心配している場合じゃなかったでしょッ。よりにもよって女友達に手を出すなんて、ルール違反も甚だしいわ。怒りで鼻息を荒くする私に、祐奈はボソボソと続ける。
「本当は健介のことが好きだけど、いつまでもこの状態じゃいられないし。番匠さんとならきっと幸せになれると思うんだ、私」
自分は光正を振っておきながら、祐奈に対して苛立ってしまうのはどうしてなのだろうか?だって、そんな理由で?光正自身を好きだからじゃないの?それじゃ優先順位は1番目が健介で、2番目が光正…いや、それどころか健介以外なら誰でもイイってこと?
そしてふと気づくのだ。
ああ、そうか。芳が私に抱いているのは、きっとこんな気持ちなのかもしれない。私の場合で例えると、光正は既に自分の一部となっていて。わずか1年間だけの彼氏だったけれど、私は未だにその存在を誇らしく思い、彼からもそう思われたいと願っている。私以外の誰かと幸せになるのは寂しいが、かと言って不幸になって欲しくない。
だから誰かの穴埋めにされるような、そんなことは断じて許せなかった。
「ウチのお姉ちゃんね」
「えっ?!ああ、祐奈のお姉さんね?」
「ずっと付き合ってた彼氏がいて。でも、その人は奔放な性格で、なかなかお姉ちゃんだけを選んでくれなかったんだって」
「ふうん、初耳だわ」
祐奈は暇さえあれば家族の話をするので、全部知っているつもりでいたのだが。どうやらそうでは無かったようだ。
「最後の賭けでお見合いすると騒いだら、その彼氏、『勝手にしろ』って。まあ、結局はそのお見合い相手と結婚して今はすごく幸せそうなんだけど。なんか、そういうコトなのかなって」
寂し気な祐奈の表情を見て、私は全てを納得してしまうのだ。…軽い気持ちで、光正に移ろうとしているわけでは無いと。多分、この1年半の間ずっと祐奈は悩み苦しんだに違いない。
心の通わない恋愛は、恐ろしいほど心を疲弊させる。
期待するな
近づき過ぎるな
多くを求めるな
そう自分で自分に言い聞かせ、負の感情をどんどん膨らませるのだ。そんなことを繰り返していくうちに、心は麻痺してしまう。それが極限まで達したからこそ、こうして祐奈は健介から離れるという決断を下したのだろう。
「分かった、私も応援するよ」
「本当?有難う、雅ッ!!」
努めて明るく振る舞いながらも、細い針で心の奥の方をチクッと刺された気がした。変わろうとしない自分を、誰かが責めている気がして。たぶん、こうして誰もが人知れず足掻いているのだろう。
過去は変えられないし、
手の届かない未来も変えようが無い。
でも、“今”だけは動かせるのだ。
…変わろう、そうだ、変えよう。
ようやく私の中で、何かが動き出した。
枯れ木だと思っていたら突然芽吹いた枝のように、恋をしてみたいと思った。恋愛は勝ち負けでは無いと分かっている。でも、今の私は負け犬だ。だって、逃げているから。芳からでもなく、光正からでもなく、自分自身から。
確かに過去2回、私は失恋した。でも、相手が自分を選ばなかったからどうだと言うのだ。私は、私。これは変えようが無い。もしかして狭いフィールドの中で相手を選ぼうとしているのではないか?もっと、出会わなければ。この広い世界のどこかに、『雅じゃなきゃダメだ』と言う奇特な男がいるかもしれない。どんな困難にも挫けず、2人の仲が引き裂かれそうになっても、私の手を握って離さない男が
「…いたら、いいなあ」
思わず願望が口から零れ出て、そんな自分に微笑む。
まだ枯れるには若すぎる。やれることをやってみよう。望みの無い芳のことはもう諦めて、私に罪悪感を抱く光正のことも忘れて、
とにかく先に進むのだ。
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