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第三章 岡埜谷俊一郎
02 春の知らせ
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底冷えするような二月が終わり、暦は三月。通学路だけでも、だんだんと春の兆しがあちらこちらに見受けられるようになった。
おれたちの住んでいる地域はよく雪が降るから、冬場の部活動の場所が天候に左右されている。それもじきに少なくなるのだろうなと、まだ気温は冷たいながら、温かさを滲ませてきた日差しにおれは目を細めた。
走りおわったあとに噴き出る汗も、以前よりも名残惜しそうに肌にしがみつくことが多くなった。それはちょっとだるいなという気持ちと、汗が冷えて風邪をひくよりはいいかという気持ちが、せめぎ合いはしないけれど隣通しでそっぽを向いている。
残り、八百メートル。
前を走る数人の後輩を眺めながら、おれは無心に大地を蹴る。
三位争いの集団には、おれと田村、後輩二人に、それから広瀬が団子状態を保っている。朝凪高校陸上部では珍しくない光景だ。レース後半になると、だいたい前の方に残っている顔触れは限られてくる。
残り、四百メートル。
(……そろそろだな)
おれがそう思ったところで、ずい、と後ろから影が伸びてきた。
広瀬だ。最後のスパートをかけるために、集団から一歩前に飛び出したのだ。
それを合図に、おれが属していた団子は串が抜け、ばらけはじめる。
後れを取る者。同じようにラストスパートの覚悟を決める者。
おれも広瀬に食らいつくように自分の中でギアをあげる。
くじけそうな自分の足に叱咤激励をする。痛みだす鳩尾を無視して、あげそうになる音を腹の中にしまい込む。
共にレーンを走るやつらとの戦いは、同時に自分自身との戦いだ。二位を独占していた後輩を一人抜いて、おれはひたすらに広瀬の背中を追った。
残り、百メートル。
広瀬の身体が揺らぐ。じわじわとペースが落ちる。
それを見逃さず、おれはさらに足を前に踏み出した。広瀬の姿が、俺の後ろへと流れていく。
おれの吐く息に、ほんのすこしの歓喜がとける。
小学校のかけっことも、部活対抗リレーとも違うから、ゴールテープなんてない。
それでもゴールとなる最後の白線を踏み越えて、おれは大きく深呼吸を繰り返した。
トラック外に移動し立ち止まった瞬間に、どこからあふれ出したのか尋常じゃないほどの汗が首筋を、身体を流れていく。シャツの胸元を掴んで、とりあえず額の汗をぬぐう。乾燥した唇から吸い込む空気はまだ冷たい。
おれは振り返って広瀬を探した。おれや他の部員から少し離れたところにあいつは立っていて、こちらの方なんてひとつもみずただ俯いて、おれと同じようにシャツで汗をぬぐっている。
「ノヤ先輩、お疲れ様です!」
それを見ながら呼吸を整えていると、陸上部のマネージャーである高橋ゆきがタオルとドリンクの入った籠を持っておれのところへやってきた。
広瀬を視界から追い出し、差し出されたそれをありがたく受け取りながらおれは尋ねる。
「高橋、おれのタイムは?」
おれの目標は、十六分台だ。
今日はスパートもトラブルなく走れたし、いい線いってると思うんだけど。
「ええと、ノヤ先輩はですね……」
期待を寄せるも、タオル同様に籠に入っていたクリップボードに視線を落とした高橋の口からこぼれたタイムは、十七分台だった。
まあ、こんなものかとおれはひとつ息を吐いた。
とりあえず今日の結果だけ見ても、部内の長距離組では二番手だし、今回一番を取った後輩ルーキーも目と鼻の先だった。もうすぐ開催される春の競技大会は怪しいが、五月の高体連までにはもうすこしタイムを縮めることは可能だろうなと踏む。
「じゃあ、私は他の部員にもタイムを伝えてきますね」
「おー。さんきゅーね」
高橋を見送れば、籠を抱えた彼女はぱっと身体を翻し――もう半回転して再びおれの方を向いた。謎に目の前で一回転した高橋におれは首を傾げる。え、なにごと。
「そうだ。今、OBの先輩が来てるみたいですよ」
高橋の指差す方向にあっち向いてほいされてみれば、松井田たち短距離組やハードル走組が背の高い男性と楽しそうに話しているのが見えた。
うわ、すごく懐かしい顔。東先輩だ。わー、なんか見た感じ話が盛り上がってるなー。
うん、盛り上がっているところ悪いんだけども。
「ええ……。アポ無しなの、あのひと」
「いえ、先生方は来るの知ってたみたいですよ?」
それはそうだ。OBとはいえ、平日だろうが休日だろうが、一応一言断りをいれないと敷地内には入れないのだから。だからおれが指摘したいのはそっちじゃない。
「おれにアポイントがないんだよなー」
あの人とは連絡先も交換しているはずなのに、現部長のおれに一切連絡が無いのはおかしいでしょーが。
「二個上の先輩ですか?」
そういえば前回、彼が来たときには高橋は部活を休んでたっけ。
あのときは風邪の流行りはじめで、おれのよく話す面々はほとんど休んでたんだよな。松井田も広瀬も、確か我妻もいなかった。
たぶんあと三日も遅かったら、先輩は「来ないでください」って顧問の先生から言われてたんじゃないだろうか。
そんなことを思い出しながら、オレは頷いた。
「うん。おれの二個上。おれらが一年の時の部長」
不服で鼻を鳴らせば、まるでその音が聞こえたみたいに東先輩はこっちをみた。元気よく手を振ってくる姿を見て、おれは仕方がない、頭をひとつ下げるのであった。
おれたちの住んでいる地域はよく雪が降るから、冬場の部活動の場所が天候に左右されている。それもじきに少なくなるのだろうなと、まだ気温は冷たいながら、温かさを滲ませてきた日差しにおれは目を細めた。
走りおわったあとに噴き出る汗も、以前よりも名残惜しそうに肌にしがみつくことが多くなった。それはちょっとだるいなという気持ちと、汗が冷えて風邪をひくよりはいいかという気持ちが、せめぎ合いはしないけれど隣通しでそっぽを向いている。
残り、八百メートル。
前を走る数人の後輩を眺めながら、おれは無心に大地を蹴る。
三位争いの集団には、おれと田村、後輩二人に、それから広瀬が団子状態を保っている。朝凪高校陸上部では珍しくない光景だ。レース後半になると、だいたい前の方に残っている顔触れは限られてくる。
残り、四百メートル。
(……そろそろだな)
おれがそう思ったところで、ずい、と後ろから影が伸びてきた。
広瀬だ。最後のスパートをかけるために、集団から一歩前に飛び出したのだ。
それを合図に、おれが属していた団子は串が抜け、ばらけはじめる。
後れを取る者。同じようにラストスパートの覚悟を決める者。
おれも広瀬に食らいつくように自分の中でギアをあげる。
くじけそうな自分の足に叱咤激励をする。痛みだす鳩尾を無視して、あげそうになる音を腹の中にしまい込む。
共にレーンを走るやつらとの戦いは、同時に自分自身との戦いだ。二位を独占していた後輩を一人抜いて、おれはひたすらに広瀬の背中を追った。
残り、百メートル。
広瀬の身体が揺らぐ。じわじわとペースが落ちる。
それを見逃さず、おれはさらに足を前に踏み出した。広瀬の姿が、俺の後ろへと流れていく。
おれの吐く息に、ほんのすこしの歓喜がとける。
小学校のかけっことも、部活対抗リレーとも違うから、ゴールテープなんてない。
それでもゴールとなる最後の白線を踏み越えて、おれは大きく深呼吸を繰り返した。
トラック外に移動し立ち止まった瞬間に、どこからあふれ出したのか尋常じゃないほどの汗が首筋を、身体を流れていく。シャツの胸元を掴んで、とりあえず額の汗をぬぐう。乾燥した唇から吸い込む空気はまだ冷たい。
おれは振り返って広瀬を探した。おれや他の部員から少し離れたところにあいつは立っていて、こちらの方なんてひとつもみずただ俯いて、おれと同じようにシャツで汗をぬぐっている。
「ノヤ先輩、お疲れ様です!」
それを見ながら呼吸を整えていると、陸上部のマネージャーである高橋ゆきがタオルとドリンクの入った籠を持っておれのところへやってきた。
広瀬を視界から追い出し、差し出されたそれをありがたく受け取りながらおれは尋ねる。
「高橋、おれのタイムは?」
おれの目標は、十六分台だ。
今日はスパートもトラブルなく走れたし、いい線いってると思うんだけど。
「ええと、ノヤ先輩はですね……」
期待を寄せるも、タオル同様に籠に入っていたクリップボードに視線を落とした高橋の口からこぼれたタイムは、十七分台だった。
まあ、こんなものかとおれはひとつ息を吐いた。
とりあえず今日の結果だけ見ても、部内の長距離組では二番手だし、今回一番を取った後輩ルーキーも目と鼻の先だった。もうすぐ開催される春の競技大会は怪しいが、五月の高体連までにはもうすこしタイムを縮めることは可能だろうなと踏む。
「じゃあ、私は他の部員にもタイムを伝えてきますね」
「おー。さんきゅーね」
高橋を見送れば、籠を抱えた彼女はぱっと身体を翻し――もう半回転して再びおれの方を向いた。謎に目の前で一回転した高橋におれは首を傾げる。え、なにごと。
「そうだ。今、OBの先輩が来てるみたいですよ」
高橋の指差す方向にあっち向いてほいされてみれば、松井田たち短距離組やハードル走組が背の高い男性と楽しそうに話しているのが見えた。
うわ、すごく懐かしい顔。東先輩だ。わー、なんか見た感じ話が盛り上がってるなー。
うん、盛り上がっているところ悪いんだけども。
「ええ……。アポ無しなの、あのひと」
「いえ、先生方は来るの知ってたみたいですよ?」
それはそうだ。OBとはいえ、平日だろうが休日だろうが、一応一言断りをいれないと敷地内には入れないのだから。だからおれが指摘したいのはそっちじゃない。
「おれにアポイントがないんだよなー」
あの人とは連絡先も交換しているはずなのに、現部長のおれに一切連絡が無いのはおかしいでしょーが。
「二個上の先輩ですか?」
そういえば前回、彼が来たときには高橋は部活を休んでたっけ。
あのときは風邪の流行りはじめで、おれのよく話す面々はほとんど休んでたんだよな。松井田も広瀬も、確か我妻もいなかった。
たぶんあと三日も遅かったら、先輩は「来ないでください」って顧問の先生から言われてたんじゃないだろうか。
そんなことを思い出しながら、オレは頷いた。
「うん。おれの二個上。おれらが一年の時の部長」
不服で鼻を鳴らせば、まるでその音が聞こえたみたいに東先輩はこっちをみた。元気よく手を振ってくる姿を見て、おれは仕方がない、頭をひとつ下げるのであった。
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