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第二章 松井田蓮
07 帯に短し襷に長し
しおりを挟む毎週水曜日と金曜日。それが、オレと雪村奈々香の塾の時間が被る曜日だった。
とはいえ講師となる担当の大学生はお互い別のひとだったし、顔を合わせるのなんて塾が始まる前に自習室で見かけるか、帰りの時間が被ったことにより、塾の入り口で迎えの車を一緒に待つことになるか、そのくらいしかない。
オレはというと、あれから彼女と顔を合わせれば、当たり前のように挨拶をしていたし、帰りが被れば話しかけたりもしていた。
だって別に、大晦日の質問のことは忘れて、とは言われたけれど、話しかけるなとは言われていないし。
そう、言われてないし……!
だから、っていうのは違うか。でも、そう心を強く持って自分の中であえて正当化したうえで、二度目の邂逅のときにオレはオレの中にあるだけの勇気を振り絞って彼女に話しかけたのだ。
「あのさ。この間、忘れてって言われたことは忘れるようにする。するんだけど」
正直、忘れたくはないなと思う。だってあれがオレと彼女との出会いだ。一目惚れとかいう、オレの心を勢いよくかっさらった大きな感情と人生の波だ。
もうきっと二度とないかもしれない劇的なほどの世界の変化を、恋心と一緒に記憶の底に沈めるのは惜しい。
「……これからも、普通に話しかけたりするのは、駄目、か……?」
出来れば彼女の気持ちを優先したい。もう関わるなと言われたら、彼女の前で跪いて受け入れるような心の準備だってしてある。
それでも、自分でも御しきれない恋心がオレに根付いては、血液と一緒にその衝動を全身に送り出しているものだから、どうかオレのわがままを受け入れてくれとも祈ってしまう。
二律背反、っていうんだっけ。相手を尊重したい気持ちと、自分を優先したい気持ちがどっちも大きく存在していて、天秤の端と端でぐらぐらと揺れている。
ああ、神様。どうか。
「…………。別に、それくらいなら」
いいけど。
小さな声が、確かにオレの耳へと届いたとき、オレは安堵のあまり足の力が抜けてその場に崩れ落ちたし、許可を貰って早々に奈々香ちゃんをびっくりさせてしまったのだった。
とはいえ、だ。互いの間を行き交う会話は、一度目の会話のときよりもぎこちないものになっていた。
いいよ、とは言ってくれたものの、彼女自身、何か思うところがあるのかもしれない。オレが話しかけても、彼女の返答はどこか素っ気なくて、話を広げようとしてみても、どこかがうまく噛み合わずにあっという間に会話が終わってしまう。なんだっけこういうの、塩対応っていうんだっけ。おかげで青菜のオレはしなしなだ。
なのに着実に厚みを増している恋心だけが、塩をかけられて萎れることも、ましてや祓われることも無く今日も生き生きしているせいで、オレは彼女に話しかけることをやめられない。話しかけないっていう選択肢がない。
オレの心と恋心、足して割ったくらいが安定という点についてはちょうどいいんじゃないだろうか。
加えて、雪村奈々香という少女は、天真爛漫なゆきちゃんとか、ノリの良いのクラスメイトとか、普段オレがわいわいと話すような女子とはがらっとタイプが違う相手だったから、どう接していけばいいのかも皆目見当がつかない。
どうしたもんかな。
やっぱり迷惑かな。
オレは考えた。
考えて、考えて――思いついた。
部活動と一緒だ。まずは、誰かに相談してアドバイスを貰うこと。
最初の一歩がわからないなら、教えてもらうのが一番早い。
「……それで僕のところに来たと」
というわけで。我妻伸也お悩み相談室、リターンズである。
進路のことで相談した記憶が新しいまま、随分と早い段階で彼の元へリターンしてしまったが、我妻ならオレの恋心を暴露したところで絶対に笑わずに受け止めてくれるだろうし、他の誰にも言わない口の堅さもある。となれば頼れるのはこいつしかいなかった。
いや、例えば岡埜谷とか広瀬とかもオレが「言うなよ!」って言えばおそらく口外はしないと思うけど、絶対に事あるごとに揶揄われるのが目に見えていて恥ずかしいから、今回は除外だ。
あ、佐藤と田村は駄目。あいつらは我慢できずに言っちゃう。
それはそれとして。オレが相談相手に我妻を選んだのはそれだけが理由じゃない。他の友人たちと我妻を比べた時に、圧倒的なアドバンテージが我妻伸也という男にはある。
「彼女持ちのお前なら、適切な意見が出ると思って。……なあ、女の子ってどう接すればいい?」
「うーん。我妻の好きな子がどんな子かよくわかんないから、僕から適切なアドバイスできる気がしないけど……」
「それでもいいから! なんか思いついたことどんどん言ってくれればいいから! お前の意見ならオレ信じられるから!」
とにもかくにも、オレは今の状況の突破口が欲しかった。藁にも縋る思いってやつだ。
「……とりあえず相手の嫌がることはしない、とか?」
「……」
オレは黙り込んだ。相手の嫌がることをしない。なるほど。
ある意味事故とはいえ、すでにやらかしている場合はどうすればいいんだろうな。
「よく話す、とか。思ってるだけじゃ伝わらないことってあるし」
「…………」
オレは俯いた。なるほど、よく話す。なるほどなるほど。
いや、その話すが彼女相手だと上手くできないから、こうして相談してるわけで。
アドバイスを求めたくせに、貰ったばかりのそれで落ち込んだオレは、首にかけていたスポーツタオルの両端を握ったままの手で顔を覆ってため息をついた。記録会で出だしから躓いた気分だ。
なお、現在絶賛部活動中である。安心してほしい、決してオレたちはサボってるわけじゃなくて、今が休憩時間だったから、わざわざグラウンドの端っこにあるベンチまで我妻を引っ張ってきただけだ。
隣に座る我妻が、ぐいぐいとオレのシャツの裾を引いた。
「あ、女の子の接し方なら良い見本がいるじゃん」
「見本?」
顔をあげて、我妻に促された方向を見れば、我妻が見本となる人物の名前を即座にあげて、オレの視線をそこに固定した。
記録用の紙が挟んであるバインダーを抱えた女子マネージャーと、そんな彼女と一緒に手元を覗き込みながらさっきのタイムを確認している男子生徒。どっちも、オレには馴染みがありすぎる顔だ。
「ほら。広瀬と高橋さん」
――我妻伸也相談室リターンズ、まさかの広瀬晃太もリターンだ。しかも今回はそこに、彼の幼馴染みである高橋ゆきまでついてきた。
「あー……」
進路の手本にも我妻は広瀬の名前をあげていたけれど、まさかこっち方面でもあいつの名前が出るとは思っていなかった。
確かに広瀬は、幼馴染みであるゆきちゃんに対して、ものすごく優しいところがある。例えば足元が悪い道では当たり前のように彼女に手を差し伸べるし、部活中に彼女の体調が悪そうなら真っ先に声をかけて、顧問やコーチに取り計らう。田村に、どっちがマネージャーだよって言われてたっけ。
大晦日だって、オレたちの誘いは断固として断ったけれど、ゆきちゃんからの誘いには折れたと聞いている。つまり、ゆきちゃんに対して甘いし、優しいのだ、あいつは。
並べ立ててみれば、なんだかオレの方が胸焼けしそうだった。ゆきちゃんの方も当たり前のように広瀬の優しさを受け入れているから、余計にそう思うのかもしれない。
ああ確かに、大多数から見れば見本になるかもな。順風満帆の彼氏彼女ってああいう二人の姿をいうのかもしれないと、二人の並ぶ姿を見てオレは眉間にしわを寄せながら思う。
実際に見た目もお似合いだし。ゆきちゃんの爛漫さに心奪われた何人かの一年生は、告白する前から失恋を悟っていたし。
それでも。そう、それでもだ。オレは二人の友人という身でありながら、納得がいかないことがひとつだけある。それこそ、我妻があの二人を見本として提示したときから、オレの眉間が語っている。
「……でもあれ、付き合ってないんだろ……?」
あの関係で、あの距離を許して。広瀬に関しては、ゆきちゃんにだけ見せる特別な優しさがあって、それを部活中ですら隠していないくせに。むしろオレなんか、最初は見せつけてるのかって思ってたくらいなのに。
それでもあの二人は男女のそういう仲ではないというのだから、これまで失恋した後輩たちが報われないったらない。
「部内公認みたいなところはあるけどね」
「……わっかんねーな幼馴染み」
実際に二人に尋ねてみたとしても、二人とも恥ずかしがるでもなく、あわてるでもなく、むしろ当たり前のように「ただの幼馴染みだよ」と言うのだ。もういっそくっつけよ、とか思ってしまう。
見本を提示されたところで、我妻のアドバイスより参考にならなかった。
オレが広瀬がゆきちゃんにするみたいに、奈々香ちゃんに優しくしてみたとしても、ただ警戒されるだけな気がする。いまだってなんだか、ひしひしと気を張っているのが伝わってくるのに。
やっぱりばれてんのかな、下心。
だとしたら、やっぱり警戒するよな。あんまり知らないやつからそういうの向けられても怖いもんな。だからこそ、オレは仲良くなりたいんだけどな。
というか、下心抜きでも、仲良くなれたら嬉しいんだけどな。
でも正直、一目惚れが先行したせいで、やっぱり下心があるからそう思うんじゃないかって卵と鶏どっちが先かみたいな考えが、ウロボロスみたいにぐるぐると、尻尾の先を咥えて回り続けている。
「……なあ、我妻は彼女との馴れ初めってどんなだった? どうやって仲良くなったんだ?」
とにもかくにも、あの二人を参考にするにはオレとはスタート地点が違いすぎる。オレは矛先を改めて我妻へ向けた。
我妻は驚いたように目を丸くすると、ゆるゆると視線を逸らしつつ、照れたようにぽりぽりと頬を掻いた。
「馴れ初めって言われてもなあ……僕も物心ついたときには一緒に居たし……」
「……はい?」
――ちょっと待て。待つんだ。
こいつ、いま何て言った。
物心ついたときには?
「――お前も幼馴染みか!」
確かにアドバンテージが違うとは思っていたが、まさか初期のアドバンテージから違うとは思わなかった。つーか意外と居るもんなんだな異性の幼馴染み。あれは広瀬か少女漫画の特権だと思ってた。
「正直、もう許嫁みたいなとこもあるし……あ、どうしよう松井田、この話、僕、すごく照れちゃう」
「…………わっかんねーな幼馴染み……」
でれでれし始めた我妻が惚気はじめたのをみてオレは悟った。訪れる相談室を間違えたな、これ。
謹啓、神様!
会えたら自分で頑張ると以前にオレは宣言しましたが、ちょっと厳しそうです!
お願いします、どうにかして、良い感じにオレとあの子が仲良くなれませんでしょうか。責めて気まずさだけでもなんとかなりませんでしょうか。よろしくお願いいたします!
謹白。
渾身の神頼みは全部口から飛び出ていたらしく、それをばっちりと聞いていた我妻に「気持ちが良いほどの神頼みだね。僕は好きだよ」などと言われてしまった。
いや、僕は好きだよって何だ。
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