わおん

小楯 青井

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 私には親友と呼べる存在がいる。
 
 彼女と始めて出会ったのは去年の春だった。新しい制服、新しい学校、初めての教室、初めて会う人。入学したばかりで知らないことだらけ、出席番号順に並べられた私たちはぎこちない教室で虎視眈々とほかの生徒の出方をうかがっていた。 
「自転車通学?」
 この静寂を破って質問する彼女に戸惑いながら答えた。
「え、あぁ、そうだよ」
 私の答えに満足したのか、彼女はまた自身の机と向かい合って、首を傾げだした。
 書き方がわからないところでもあったのか、困っているなら手助けしたいけど、思いながらも私は自分の書類を見直したものの、集中できずに顔を上げた。
「ねぇ、これって書き方これであってるのかな」
 クルッと振り返って書類を見せながら彼女は首を傾げた。
「ええと、ここは、あっ、日付がずれてる」
 そういうのは先生に聞いたほうが、とか思うことは色々あったが、別に難しいことでもなかったから簡単に答えると彼女は礼を言って前を向きなおして書類の訂正を始めた。
 ぼーっとした子、そんな印象だった。
 その後も彼女はそのぼんやりとした様子で活動していて、出席番号の都合でしばらく私は彼女の面倒を見ていた。
 そうしていくうちに私たちは笑顔で会話を弾ませるようになり、学校に慣れてグループが形成される頃には私たちは美玖と麗奈の二人を加えた『いつものメンバー』を形成していた。

 ぼんやりとした様子で話題を投げかける彼女と、それに翻弄される私、その構図は大まかには変わっていないものの、愛おしい思い出としてはっきりと覚えている。
「ちょっとこれ見てくれない?」
 あの時と違ってざわめく教室の中、私は後ろに座っている彼女の方を振り向いた。
「いいよ」
 私は返事をして差し出された紙に目を通す。
 進路希望調査、その書類の欄には音楽系の専門学校の名前が書き連ねられている。
 私は粗探しをするように一つ一つ間違いを見つけ出そうと集中していた。
「ここ、学校のコード間違えてる」
 見つけた間違いを指で差して箇所を伝える。
「これ提出は明日にして家でゆっくり見返したら?」
 私らしくない提案をしてしまうが、彼女が肯定するのが確認できると自身の書類へと向き合った。

 彼女が進もうとしている道、それがどれだけ重要なものか、彼女にとって大切なものか、理解しながらも手放しで肯定は出来なかった。
 彼女と違う道を歩んでいく中で私達の関係はどう変わってしまうのか、不安で堪らない。
 あと数分でチャイムが鳴る。私もきっと書類の提出は明日になるだろう、願っても変わらないのに先延ばしにする。

 休み時間になると私達の席に美玖と麗奈がやってきていつものメンバーが完成する。
「やっと休み時間だね!」
 美玖が少し誇張気味に伸びをしながら言うと、麗奈がクスッと笑った。その瞬間、私は一歩引いて彼女たちに続いて微笑む。彼女たちは、葵を通じてしか繋がっていない存在であり、私から積極的に話しかけることは少ない。
「美玖、いつもそんなに疲れてるの?」
 麗奈が軽くからかうように言うと、美玖は照れ隠しのように大袈裟に肩をすくめた。彼女たちは自然に笑い合っていて、私がいなくても変わらないかのように見えた。
「だって、進路の話って難しくて」美玖が答えたが、その言葉に私は軽く頷くだけで、特に会話に加わる気にはなれなかった。

 ふと視線を葵に移すと、彼女はいつものようにぼんやりと窓の外を眺めていた。相変わらず惚けた様子に絆される。
「葵、進路のやつ、出した?」麗奈が不意に葵に話しかけると、彼女は少し驚いたように振り向いた。
「あ、いや、まだ、ただ、明日出そうと思って」葵は笑って答えた。彼女のその無防備さが、私たちの関係をなんとか繋ぎとめている。葵がいなければ、このグループに私がいる理由はおそらくなくなってしまうだろう。

「まぁ、私もまだだし、明日に回す人も多いんじゃない?」私は微笑みながら言ったが、その笑顔はどこかぎこちなく感じた。美玖と麗奈との会話は自然に進んでいくが、私はそれをただ聞いているだけ、自分から話題を提供することもできず、彼女たちとの距離が分からない。
「そうだよね、私もまだ出してないし、明日で良いよね」
 美玖が同意するように頷いた。有難い言葉だけど、彼女たちがどんな進路を選ぼうが、私には関係ないように感じてしまい関心が持てない。
 葵以外の二人は、私にとってただの同級生であり、葵を通して知り合っただけの存在だった。もちろん彼女たちと過ごす時間も大切だ。
 ただ私にとって、それらを与えてくれた葵の存在が、私にとって唯一の繋がりで救いだったから。
 未来のことを考える。私は葵が選ぶ道がどんなものであれ、彼女との関係だけは失いたくない、だけど彼女の幸福も邪魔したくはない。
 答えは出るのだろうか?

 休み時間が終わりに近づき、再び教室の喧騒が徐々に静まり始めた。皆はそれぞれの席へと戻り、移動していない私は彼女の前の席そのまま。
 六時間目は自習、教師が自習の二文字を描いて挨拶を済ませると教卓でパソコンを広げた。
 教室には静けさが広がり、私も課題を開くが、集中できずに葵の事を考える。
 二年間、彼女と過ごしてきたこの教室で、葵は少しずつ変わってきた。彼女は以前よりも自信を持ち、コミュニティを広げていった。それは嬉しい変化なのに、私はその変化がどこか怖く感じていた。
 彼女が初めて私に話しかけてきた、あの高校一年の最初の登校日を思い出す。前の席に座っていた彼女が、いきなり振り返って話しかけてきた時、私は戸惑った。
 自分から積極的に他人と関わろうとしなかった私にとって、葵の存在は眩しいほどに明るく、その明るさに引き込まれるように、私は彼女と友達になり、いつしか親友と呼べる存在になっていた。
 しかし最近はその眩しさが強くなりすぎて、私には届かなくなってきたように感じる。葵は私以外の人たちとも話し、笑い合うようになり、彼女の世界が広がっていくのをただ見ていると、次第に私が取り残されている様な気持ちになった。
「ねえ、今日の放課後、一緒に帰らない?」
 葵が突然私に話しかけてきた。
「え?」私は不意をつかれて、少し間が空いてしまう。
「うん、いいよ」
「よかった。最近、放課後に一緒に帰ること少なくなっちゃったから、今日は絶対に一緒に帰りたいなって思って」
 葵が無邪気な笑顔で言った。
 その笑顔に、私は胸が締めつけられるような感覚を覚えた。彼女は変わっていく。私の知らないところで、私とは違う世界で。だけど、その世界で私を忘れないでいてくれることを、私はどこかで願っていた。
 葵が前よりも自分の意見をはっきり言うようになり、今では軽音部として文化祭などで活躍する程になった。
 その成長は彼女にとって喜ばしいことだったのに、私はその変化に対してどこか寂しさを感じていた。
「進路のこと、まだ悩んでるだよね」
 葵が軽くため息をつきながら言った。
「でも音楽系の専門学校に行くって決めてるんだ。まだ細かいところは決めてないけどね」
「そっか…」
 彼女が選んだ道は私とは違う。音楽への情熱を持つ彼女にとって、それは自然な選択だったのかもしれない。でもその選択が、私たちの距離を広げてしまうようで怖かった。
 そして何より私の我儘が、信頼してくれている彼女を裏切っているようで苦しかった。
「あなたはどうするの?」
 葵が私を見つめながら尋ねた。
「私は…まだ考え中かな」
 本当は私も自分の進路を決めていた。
 何も無い私が決めた普通の大学、周りからの後押しもあって決まった学校、ただそれを言葉にすることが怖かった。それを話すことで、私たちの未来が今以上に明確になってしまう気がして。
「そっか、まぁ岬はある程度は選べるもんね」
 葵の何気ない一言が突き刺さる。
「そうだね、ゆっくり考えるよ」
 選べる。確かに私は進路の選択肢が多いだろう、しかしそれは偏差値等の学力が私にあるから、彼女と歩むのに必要な、音楽に対して強い興味も関心も、ましてや真剣に取り組んだ経験もない。
 興味、関心、それらで進路が変わってくる以上は仕方のないこと、分かっていた事だったが、どうしても彼女と共に歩みたいという思いは消えてくれない。
 数分間、私は何も手につかないまま、ただぼんやりと手元を見つめていた。葵との関係が変わり、どうなるのか。
 彼女の成長を見守りながらも、私はその成長から取り残されていく自分に気づかないふりをしていた。だけど、心の奥底ではその変化を認めざるを得なかった。
 そして授業が終われば、またいつものメンバーが集まってくるだろう。葵が連れてきた美玖と麗奈、そして私たち。彼女たちとの時間は変わっているけど、その変化に気づいているのは私だけだったのかもしれない。

 授業終了のチャイムが鳴り響く。静かだった教室の緊張感は弾け跳び緩和した空気と騒がしさが広がる。
 生徒たちは各々の荷物をまとめ始め、SHRの為にやって来る担任を待つ。
 机の上に広げられたノートをゆっくりと閉じ、私は深く息をついた。
 そんな私のもとに、すぐに美玖と麗奈、そして葵が集まってきた。いつものメンバーだ。彼女たちは自然に私の周りに集まり、それぞれが何気ない話を始める。
「今日の自習、結局あんまり進まなかったなぁ。」葵がそう言いながら荷物をギュウギュウとバッグに押し込んでいる。
「分かる。なんだか集中できなくて」
 麗奈も相槌を打ちながら、葵の机の上から落ちそうな教科書を抱えている。
 私は彼女たちの会話を耳にしながら、少し遅れて荷物を鞄にしまい始める。
 自分も一緒に話したいのに、言葉が出てこない。心の中にはまだ先ほどの葵との会話が残っていた。
「そういえば、進路のこと、まだ決めてないんだっけ?」美玖が私に尋ねた。
「うん、まだ…」
 私は曖昧に答え、視線をカバンの中に落とした。授業中の葵の言葉が再び胸に重くのしかかる。
 美玖は「そっかぁ、でもきっといいところ見つかるよ」と笑顔で励ましてくれる。その笑顔がますます私の心の中にある距離感を際立たせた。
「ありがとう。」私は小さな声で答えたが、それ以上何も言えなかった。
 無言の間ができる前に麗奈が話題をお洒落な喫茶店だとかありきたりな話題に転換する。
 三人が楽しそうに話している中、私は一歩引いた位置にいるような感覚にとらわれている。
 美玖と麗奈とは葵を通じて知り合った仲であり、彼女たちとは親友というには少し距離がある。
 話を合わせることはできても、心から打ち解けることはできなかった。
 担任が姿を見せ、SHRまでの短い時間が過ぎ去っていく。彼女たちの楽しそうな笑い声が私の耳に残って響いていたが、心の中はどこか寂しい気持ちで満たされていた。

 先生が教卓に手を置き、生徒たちを見渡すと、教室が一瞬で静まり返った。
「さて、いくつか進路の調査書を受け取ったが、今日出していない者は明日しっかりと提出するように」
 担任のその言葉に、教室内に少しのざわつきが戻る。五限目の授業でも言われていたことだが、実際にその瞬間が迫っていると改めて言われると気持ちが急かされる。
「締め切りは、明日の放課後まで、それ以上は待たないぞ、これはただの書類じゃなくて君たちの未来に関わるもの、ここでしっかりと出さないと後で後悔することになるかもしれないぞ」
 その言葉はまるで心の奥を突くように響いた。時間がない。
 まぁどれだけ待ったとしても彼女の志望は変わらないだろう、明日の放課後には書類が提出される。それを思うと心臓が少しずつ早くなっていくのを感じた。
 葵は、もう道を決めている。やりたい事が決まっている。それが私には羨ましくもあり、どこか遠いものに感じられた。
 一方、私はまだ何も決まっていない。大学は粗方決まったているが、ただぼんやりと、どうするべきか、何がしたいかを考え続けている。
 音楽系の道に進む葵とは違い、その道を選ぶことができない自分。それは興味や能力の問題だけでなく、心のどこかで葵と同じ道を選んではいけないという感情があるからかもしれない。
「それじゃあ、明日は提出し忘れないように、今一度確認しておくんだぞ。」
 号令が終わり、そそくさと生徒達が帰っていく中、私の心には焦りが募っていた。無感動にカバンを背負う。

「大丈夫?」
 そういえば一緒に下校する約束をしてたんだっけ、ぼんやりと思い出し、慌てて平静を装う。
「大丈夫。ちょっと進路について考えてただけだから、行こう?」
 何も嘘はついてない、これで誤魔化しきれただろうか?まだ不安を感じていた私は「行こう」と声を掛けてスタスタと突き進んでいく。
 進路については触れずに下らない話をしながら歩く、流行りの曲だとか、面白い本だとか、そこに彼女の独創的な価値観や疑問が加わることで話題にこと尽きる事は無く、気づけば駐輪場に着いて自転車のペダルを漕ぎ出している。
 シャーッ、シャーッ、という軽い伸びた音を規則的に立てながら自転車を転がし、強い日差しを気にも止めずに話し続ける。
 夏の猛暑の中、自転車を漕いで体力は著しく消耗される筈なのに、感じていた疲れが嘘だったかのように消えていく。
「ねぇ岬」
「ん?」
「明日は帰りに寄り道して行こうよ」
 改めて名前で呼んできた葵に身構えたが、ただの提案であったことに安堵し、「うーん」と予定を考えるふりをしながら息を吐く。
「いいね、何処に行く?」
「近くのモール、フードコートで休憩して、お店を見て回ろ」
 葵が楽しげに計画を話し出す。具体的な予定を聞いて思い浮かべていると、私までワクワクしてくる。
 やがて分かれ道に差し掛かり、私はハンドルを右に切った。
「じゃあまた明日」
「ん、また明日」
 自転車を少し漕いで後ろを振り向くと、遠ざかっていく葵の姿が見えた。その姿に寂しさを覚えた私は振り切るように自転車を漕ぎ出し、明日の放課後を想像しながら夕焼けで照らされた道に影を差していった。

 家に着いて部屋に入り、鞄から書類を取り出す。書かれているのは国立大学の名前、偏差値も高いし、就職率も悪くなかった。親も先生も勧めてくれているし、これ以上の物はない、迷う必要も無い筈なのに不安が広がる。
 ただ葵がいないだけ、たったそれだけとも言ってしまえる理由なのに、それとも他の理由があるとでも言うのだろうか?分からなくなってきた私は書類を鞄へと戻した。

 手慰みに勉強をしていると、あれだけ煩わしかった日が落ちていることに気づく、時計を見ると夕食の時間が近づいており、リビングに行くついでに玄関を見ると、父親の靴が転がっていた。
 お洒落な夕食が並べられたテーブル、両親は二人共席に着いていて、私も急いで食卓に着く。
「慌てなくていいわよ、勉強してたんでしょう?」
 母が慌てる私に優しく声を掛ける。
「まぁ進路について考え出す時期だしね」
 父が進路に触れ、書類を思い出した私は返答に困ってしまう。
 両親は私のことを勤勉な子だと信頼してくれているが、怠惰な人間というのが私の本性で、実際は細かいことから逃げるために、ただ勉学に努めているだけ、醜い私を嘘で固めて騙しているのだ。
「岬なら、行ける場所は多いだろうし、興味を大切にして選んでいってね」
 両親は優しい、勉学にばかり目を向ける私に他の選択肢も与えようとしてくれる。
 そして私が実際にあれがしたい、これがしたいと声を挙げれば嬉々として援助してくれるだろう。だからこそ心苦しい。
 そもそも現状ですら我儘を言っている状況なのだ。勉学に励んでいるとはいっても、アルバイトはしていないし、部活もしない、何の興味も無いのにただ当たり前というレールに乗って思考停止で大学を選んでいる。
 そのうえで友人と同じ学校に行きたいなんて悩んでいる。本当に私がしたいことは何処にあるのだろうか?
「大丈夫?」
 母が心配そうな顔で見つめてくる。
「大丈夫、ちょっと勉強しすぎて眠くなったみたい」
 下手な言い訳をしながら最後に取っておいたブロッコリーを頬張り、夕食を終える。
「もう寝るね、おやすみ」
 そそくさと自室に戻る。
 本当に何も考える気の無くなった私は、ベッドに潜り込んでみるが、心にモヤモヤとしたものが溜まる一方で、大きなため息を吐いてベッドから出て鞄から書類を引っ張り出す。
 乱雑に押し込まれた書類は教科書に阻まれて下手に取ると破れてしまいそう、教科書を一つ一つ丁寧に出して取り出して、ようやく書類を机の上に広げた。
 夕食前に見た内容と変わっていない、当たり前の光景に嫌気が差す。
 本当にこの進路で良いのか、無難で安定した選択、だけど進むべき道として正解なのか、どれだけ自身に問いかけてもは返ってこない、数学のように決まった答えや求め方の無い問題に苛立ちも湧いてくる。
 何故この進路を選んだのか、親や先生の為?確かにそれもあるだろう、でも前者は私がどんな大学を選んだとしても反応は変わらないだろうし、それどころか就職でも祝福するだろう、先生に関しては私も相手もそれほど関心をいだいていない。
 じゃあ、葵の為?確かに進学という選択は周りの環境、意識によって影響されたものかもしれない、だけど安定した進路を歩みたいという理由もあるし、進学のほうが楽そうなんて理由もあって、多くの理由に翻弄される。
自問自答しながら書類を見つめる。自分の本当の希望がわからなくなっていた。
 葵を思い浮かべる。彼女は本当に楽しそうに音楽に打ち込んでいて、悩みながらも突き進んでいる。
 私には、あんな風に夢中になれるものがあるんだろうか?葵は音楽という明確な目標に向かって全力で進んでいるのに対し、自分はそのような目標を持てずにいる。確かに学業は得意だし、成績も悪くない。だからこそ進学という道が自然に浮かび上がってきたのだが、それは本当に自分が心から望んでいることでは無い。
 私が本当にやりたいこと、心に問いかけてみる。
 進学が安定した選択肢であることは分かっているが、それだけで本当に満足できるのか、心がざわついて落ち着かない。将来のことを考えれば考えるほど、進学以外の選択肢があるのではないかと頭をよぎる。
 そもそも惰性で進学してやっていけるのか、葵と離れてしまう、それだけで心が揺れているのに。
 しかし、具体的に何をやりたいのか、ハッキリとは出てこない。葵のように情熱を持って打ち込めるものが自分には見つかっていない。
 ますます不安が募る。音楽のように夢中になれるものを見つけられたら、自分も心から納得してその道を選べるのだろうか。道を選ぶことに自信が持てず、心の中で悩みが深まっていく。
 進学という選択肢が無難であることは分かっている。しかし、それだけで自分の人生が本当に満足できるのか疑問に思う。葵のように本当にやりたいことを見つけることができるのか。
 自分の人生に責任を持てない、ただ微睡みのように曖昧で心地良い今を揺蕩っていたい、葵は進みたい道を決めているのに、私はそれすら決められていない、それがより一層、焦りに繋がって思考を狂わせる。
 逃げるようにベッドに飛び込んだ。

 翌朝、私ははいつもよりも早く目が覚めた。カーテンの隙間から薄暗い光が差し込み、影を浮かび上がらせた。
 進路の書類は昨日のままカバンの中だ。何も書き足していないし、書き直してもいない。
 起き上がって鏡の前に立つ。鏡に映る自分の顔には疲れが滲んでいる。昨夜、何度も繰り返し考えたが、やはり答えは見つからなかった。それでも、今日こそは書類を提出しなければならない。それがどれだけ重い選択であるか、自身が一番よく分かっていた。

 朝ご飯は食べる気になれず、ただ家を出る時間までスマホを眺めた。
 外に出ると湿った重苦しい空気に包まれ、見上げることでようやく曇り空に気づく、重い足取りで自転車を漕ぐ、自分の進むべき道は、何なのか。安定した未来を手に入れるために国立大学へ進むべきなのか、それとも、自分が本当にやりたいことを見つけるために、別の道を探るべきなのか。
 そんな責任は抱え込みたくない、葵と同じ進路を選び、春のように暖かい空気の中を過ごしたい。
 葵の未来は既に音楽と共に歩んでいく道だと決まっているのに対し、自分は取り残されている。その差がさらに私を苦しめていた。
 学校に着くと、いつも通りに教室へ向かい、席で荷物を整理する。
 何人かの生徒がそれぞれの進路について話し合っているのが聞こえる。
 私はちらりと麗奈の方を見た。最近は葵も美玖もギリギリに教室に入ってくるため、同じグループに属するのは麗奈だけ、少し躊躇しながら彼女の横に立つ。
「麗奈、おはよう」
「おはよう、岬」
 挨拶を済ませ、私達の間に沈黙が流れる。気まずさを感じながら話題を探し、進路について訪ねてみることにした。
「麗奈はさ、進路ってどう考えてるの?」
 自然を装いつつ、何か得られるかもと期待を込めて答えを待つ。
「私?デザイン系の学校にしようと思ってるんだ、絵を描くのに興味があるからね」
 麗奈の返事に落胆する。葵だけでなく麗奈もやりたい事が見つかっているのに、私はまだ何も見つけられていない、「私はまだ迷っちゃってさ」ヘラヘラと笑いながら言ってみる。惨めな気持ちになり、話題を変えようと考えていると彼女が口を開いた。
「岬が迷ってるのは分かるよ、だって私も迷ってるもん」
 麗奈も迷っている。そう言われても納得はできない、確かに彼女なりに進路に悩みはあるだろう、だけど私と違って彼女は方向性が決まっており、あやふやな私との間にはゼロとイチ、無と有ぐらいの差があるのだ。
 寄り添ったお情けに有り難さと憤りを覚える。
 お優しい彼女は私の為を思って寄り添ってくれる。それは何ら悪いことではないし、有り難さも感じた。
 だけど知ったような口で、寄り添われても戸惑ってしまう、なんと返そうか考えるが良い言葉は見当たらない。
「そりゃあ、違う悩みだけどさ、岬は考えすぎなんだよ」
 見透かしたような言葉、何処まで理解しているのか分からないが、自然と言葉に耳を傾ける。
「私も本当にしたいこと、すべきことなんて分かってないんだよね」
「でも、好きなことがあるだけ良いんじゃない?」
 そう、私はまだ私を掴みきれていない、何がしたいのか、そんな事すら理解できない。
 私は何が好きなんだろう。
 疑問符の浮かんだ頭に麗奈の言葉が通り過ぎる。
「きっと岬は真面目すぎるんだよ、ゆっくり考えてみたら?」
 ゆっくりと考える。あと1年という短い期間でどう答えを見つけ出せというのか、ぼんやりとした心で不満を垂れながら生返事をして席に着いた。
 やがて授業が始まる時間になり、葵も入室してくるが、軽く挨拶を交わした後はぼんやりとしてやり取りの内容は思い出せない。

 私が進路について悩んでいると、気づけば6時間目の授業が始まっていた。
 年配の先生、貝塚先生が挨拶をしながら教室に入る。彼女はおっとりとした雰囲気と生物の教師らしい白衣が特徴的な先生で、その日も穏やかでハキハキとした声は私の回らない頭にもよく届いた。
「皆さん、進路のことについて悩んでいる人も多いでしょうし、中には焦ってしまうこともあるかもしれません、特に真面目な人ほどその傾向が強いようで、」
 ハキハキとした声が教室に響き渡ると、忙しなく走るシャープペンシルの音が止み、生徒たちは貝塚先生のことを見つめた。
「ただ、それぞれのペースがありますからね。自分のペースを大事にしてください。それにこの時期は皆が悩むための期間でもあります。しっかり自分と向き合って、自分が本当に望むことを見つけてください。焦る必要はありません」
 貝塚先生の穏やかな声と言葉を反芻する。私のペース、焦りすぎ、考えすぎ、そもそも自身のペースとはどんなものだろう。
「私たち教員は皆さんのことを全力で応援します。そのためにも皆さんは焦らずに、自分が本当に何をしたいのか、しっかり考えてみてくださいね」
 そのときの先生の声は穏やかだっだが、その真剣な眼差しに生徒たちは前を向いた。
 私の中で先生の言葉が繰り返される。「焦らなくていい」という言葉が、自分の中にある不安を少しだけ和らげてくれた気がした。
 しかしもっと自分と向き合い、自分が本当に望んでいることを見つけたいという欲求も少しずつ強まっていった。
 心を落ち着かせながら考える。自分のことなのに、まるで一つも手がかりが得られない。

 授業が終わり、放課後の時間がやって来た。
 提出期限は今日まで、心の中でカウントダウンが始まるのを感じる。
 鞄を背負い書類を手にしてトボトボと歩く、涼しい風が廊下を通っていくのに嫌な汗をかきながら重たい足取りで前を進む。廊下を歩いていると葵がふいに声をかけてきた。
「岬も今から提出?」
 その言葉に一瞬私はためらうが、「じゃあ一緒に行こうよ」なんて言って鼻歌交じりに前を歩く姿を見て軽くなった足で後を追う。
 書類の提出も終わり、自転車に乗っていつもの道を走り出す。校門を潜り抜け交差点を右に曲がる。
 風が頬を撫でる中、同級生達が進路の話題で盛り上がりながら通り過ぎて行った。
「今日はどのお店が見たいの?」
 進路関係の話題、触れてほしくなくて他愛もない日常のことを問うが、葵の目は通り過ぎて行った彼等を追っている。
 ひとこと、「決まってない」の一言を返して葵が前を見つめたまま質問する。
「岬も進路の書類、ちゃんと出した?」
 その言葉に、私はドキリとした。まるで心の中を見透かされたかのように思えたが、表情には出さず、静かに首を縦に振った。
「出したよ」
 提出はした。してしまった。ちゃんと、その言葉にはどんなニュアンスが含まれているのだろう。
 ちゃんと、私は決められていない、ただ惰性で出しただけ、考えることから逃げて自分を追い詰めていく、きっとこのまま過ごしても私は私の人生に責任を持てないだろう。このままではいけない。
「なら良し」
 私の答えに葵が短い言葉で返す。何を良しとするのか分からないまま、ぼーっと進んでいく。
 学校とショッピングモールの距離は短い、いつの間にか着いてしまっている。駐輪所に自転車を置いて葵を追う。
「どこに行くのか決めたの?」
 私が訪ねると葵は「ん」と声にもならない音を発して歩みを止めた。どうやら何も考えずに此処まで歩いたみたいだ。
「じゃあ、いつものカフェに行く?」
「ン、そうしよう」
 私が提案すると葵がズンズンと歩いていく、この子は何を考えているのだろうか、いつものことだけど彼女の思考の読みにくさに混乱しながら後を追う。
 私たちはお気に入りのカフェに入る。いつも通り客足の少ない店内、葵が幸せそうな顔でメニューを見ている。
 暖かく落ち着いた照明の中で窓を眺める。
 進学という選択肢。それは自分が自然に選んだ道だった。だが、それが本当に自分の望むものなのか?本当に、自分はそれを心から望んでいるのか?
ふと、葵のことを思い浮かべる。彼女は迷わずに音楽の道を選んだ。そして、それを追いかけようとしている。
 自分はどうだろう。いま私は葵の後を追っているだけ、私を必要としている葵を追っているだけ、何をしたいのか、何が自分のアイデンティティなのか。考えれば考えるほど自分の足元がぐらつくように感じた。
 この日々がずっと続けばいいと、何度も願ってしまう。しかし時間は待ってくれない。選ばなければならない。
 葵はいつも通り、楽しそうな笑みを浮かべながら思いついたことを次々と話す。
 その何気ない日常の出来事、感じた幸福感に未来への不安が顔を見せ、会話の流れでつい、言葉が漏れ出る。
「進学したら、こうして集まれなくなるのはのは寂しいね」
 しまった。そう思いながら葵の顔を見ると、葵も驚いたような顔をしている。
「岬もそんなこと思うんだ、でも、別の大学に進学しちゃうのは寂しいよね」
 やっぱり、と思った。進学してしまえば私たちの絆は薄れていくだろう。
「でも、今はスマホもあるし、完全に離れるわけじゃないでしょ」
  確かにスマホがあれば暫くは関係が途切れることはないかもしれない、だけど葵も忙しくなってくるだろうし話題も合わなくなってくるだろう、疎遠になって途切れていく関係性。思い浮かべて暗く沈む。
「そっちからも、しっかり、連絡してよね」
 葵の言葉に目が点になる。こうやって悩んで、悩みつくした気分に陥っていたが、よくよく考えてみれば自身の考えには、積極的に動いて関係性を維持する。なんてことは選択肢として存在しなかった。
 今までのコミュニケーションは葵に依存しっぱなしで、自身で参加、作成したコミュニティが一つとして無いことに気づく。
 だからこそ自分が本当に大切にできるものがないことに気づく、私は今まで生まれたてのひよこの様に葵という存在を追っていたのだ。
 自分の足で立っているような感覚でいたが、ただ自立した葵の後をよたよたとついて回り、作られた居場所に依存していたのだろう。
 葵が別のコミュニティに行ってしまうことに居心地の悪さを感じていたのは、何も持っていない私の焦りと嫉妬のせいだったのかもしれない。
 音楽に打ち込む葵は目指したいものを見つけられていて、ただ流されてきた私にはまぶしく見えていた。
 葵の行動が読めなかったのも、私が葵の自立した面を理解できなかったから、自分の人生を考えること、自分の居場所を作ること、私にはまだ想像もつかない。

 窓からはオレンジ色に染まりつつある町が見える。大きなパフェと格闘する葵を横目にコーヒーを啜る。
 私はこのままでは行けない、自身のことを理解すると、より未来に対して不安が訪れる。
 元から葵は自分の道を歩んでいたのだ。それに対して私は自分で何も決められないまま。
「ひとくち食べる?」
 聞こえた声に顔を上げると葵が手の付けられていないパンケーキを指さしている。
「お腹いっぱいになっちゃって」
 葵の気軽な言葉、戸惑いつつも「しょうがないなぁ」なんて偉そうに言って食べ始める。
「悩んでるなら、頼ってね」
 そういって葵はオレンジジュースを飲み始めた。
 その言葉に特に深い意味などなかったのかもしれない、ただそれだけで十分だった。確かに私たちの間には絆があって、変化しても失われるものではない。

 私は葵と別れて家に戻ると、進路の書類に書いた学校のパンフレットを広げた。
 これまで私が勉強してきたのは、自身の未来を切り開くためではなかった。「それが普通」「できるから」といった固定概念の下で楽をしようと何かの延長線上に立っていただけだったのだ。
 パンフレットを開けば、私が見向きもしなかった情報が入ってくる。
 楽しそうな学科、専門的な学科、取れる資格、就職情報、どれもこれも学校選びに重要な情報なのに初めて知るものばかりだ。
 いかに自身が適当に進学先を選んでいたのか呆れていると、スマホが揺れ動いた。
 画面には葵からのメッセージがある。
「今日はありがとう、また今度もどこか行こうね!」
 その文字列に心が温まる。自由奔放で何気ない仕草に私は救われていた。
「また今度、次は休日にでも出かけようか」
 メッセージを送り返して考える。何を始めようか、何が面白そうか、不確かな何かが私の中で動き始めている。これからも変わらない友情に背を押されるように、私は自身の未来を見据えようと決意した。
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