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私は劣等感を抱えている。
夕日が差し込む部屋、グランドピアノの椅子に座る彼と、その正面でギターを抱えて彼の持つ紙をのぞき込む私。
「この部分はここの詩を書き替えて、リズムよくしよう」
赤ペンで書き換えられた文、リズムに乗ってギターをかき鳴らしながら口ずさんでみる。
「おお、しっくりくる」
まあね、って照れくさそうに笑みを浮かべる彼を見ながら思う、やっぱり私に作詞の才能は無い、感情を文字にするのが苦手なのだ。といっても感情を表に出すのが苦手ということではない、実際に思ったことをよく口にするほうだし、人と話すのは好きなほうである。
つまりはただ単に言葉選びが下手なのだ。といっても言葉のレパートリー、語彙が乏しいわけではないと自分では思うし、実際に歌詞の言葉、単語の意味もしっかりと把握している。
しかしセンスが無い、それだけのこと。
「どうかした?」
歌詞に目を通しているように見えるといっても感傷に浸りすぎたようで、彼が心配そうにのぞき込んでくる。彼と作詞の話をするとどうにも感傷に浸りやすくなってしまうが目敏い彼は心配そうな顔をして私をすぐに引き戻す。
「いや、何でもないよ、よくこんなに上手く書けるなぁって」
私がそう返すと、彼は特に嬉しがるような様子も見せずに一瞬ほっとしたような表情を見せ、すぐに不安げな表情に戻って「ほんとに?どこかズレた表現とかしちゃってない?」などと宣う、基本的に憶病で、軟弱で、心配性なのだこいつは、そういった一面がまた私を刺激する。
「なんでも言ってよ、頑張ってみるから」
付け加えて言う彼、こうなってくると少し、というか結構しつこい、こいつ以上に女々しい者は他に居ないだろう、どんな環境で育ったんだこいつは、と疑問に思いながらも強引に彼の不安を掻き消すように言う。
「全く悪いところなんて無いよ、それより続きしよ」
私がそう言うと彼は私が乱雑に歌詞とメロディーを書き込んだ紙に目を向け、ときに詩を口ずさみ、ときにピアノを奏でながら訂正を書き込んでいく、ずっとこの調子だったら楽なのに、一息つけばあれだけ不安そうな顔を見せるくせに、この瞬間では自信満々といった感じで指と筆を走らせる。
本当に奇妙な奴だ、しかしこの調子でいけば最終下校時刻までにはきりのいいところまで漕ぎ着けるだろう、定期演奏会に向けて練習するためにも早めに終わらせたい、こんな奴の奇妙な一面に付き合ってやる必要もないのだ。
『最終下校時刻になりました、校内に残っている生徒は速やかに下校しなさい、繰り返します、最終下校時刻になりました…』
アナウンスとともに音楽が鳴り響く、どうにかキリのいいところまでは漕ぎ着けたが少し名残惜しい、グランドピアノや机の上に散らばっていた紙を片付け始める。
「今日もありがとう、やっぱり作詞はシショウがいないとダメだね」
シショウ、それが彼、長田翔のあだ名、彼の名前であるカケルの音読みと新入生の教育係という役割からつけられたあだ名は先ほどの様子からは想像もつかない、そもそもこいつに新入生の教育係がなぜ務まるのか見当もつかない、実際に同級生で同じバンドである私は彼が新入生を引っ張っていく様も見ているし、それは堂に入ったものであったが、だからこそ私にとって受け入れがたく現実味のない物であったのだ。
といっても、そもそもシショウが見せる不安げな表情も彼のほんの些細な一部で、普段は聡く、堂々としていて、先ほどの私の言葉にも「そんな、僕なんて」などと照れながらも、僕でよければなんて言って明日の話を流暢に応えているし、シショウとの付き合いは面白い。
片付けが終わって廊下を歩きながら、どちらが音楽室の鍵を返しに行くか、職員室に入るのは緊張するだとかくだらない話をする。器用な奴だ。
「ふぅ、やっぱり職員室は緊張するね」
結局じゃんけんで負けて鍵を返しに行ったシショウは芝居がかった仕草をしながら話す。
「ふっふっふ、それが敗者の定め、次も私が勝つ」
私も芝居がかった口調で返す。何気にシショウと馬鹿な会話をするのも楽しいものだ。
こうやって馬鹿なノリで歩いていくとあっという間に下足ロッカーに着く、シショウの方を見るとカバンの荷物整理に勤しんでいるのが見える。
「うわ、あっつ」
一足先に校庭に出た私を温い風が襲う、日も落ちかけているためそんなに暑いわけでもないがもどかしい不快感に思わず声を上げる。
「ほんと、やんなっちゃうよねぇ」
間延びした声で、荷物の整理を終えたシショウが応える。
「シショウ、ジュースおごって」
シショウが追いついたことで歩き始めた私は駐輪場の脇にある自販機へと向かう。
「えぇ、やだぁ」
「女々しいなぁ、お前は男で、私は女だ」
「男女差別はんたーい」
私たちは自販機の前でじゃんけんを始める。
その瞬間に繰り広げられる心理戦
「僕はパーを出す」
「じゃあ私はチョキ」
私は負けた。
隣で美味そうに麦茶を飲むヤツが恨めしい、しかし夏場の麦茶はどうしてこうも美味いのだろうか?
「夏の麦茶ってどうしてこんなにおいしいんだろうね」
さてはこいつ超能力者だな?
「夏は体が麦茶を欲してるんじゃない?」
私が適当に返すと、少しの間、沈黙が訪れる。
やめろ、滑ったみたいじゃないか、こいつと話すと時折、黙り込んでしまうことがある。
といってもほんの一瞬であり、実際にはそんなに気になることでもない、ただ一瞬、彼の何かが顔をのぞかせている気がするのだ。
「ふふっ、体が麦茶を欲するって、中毒じゃあるまいし」
どうやら再起動したらしい、何が琴線に触れたか知らないが、対して面白くもない表現に笑っている。こわい
カシャン、と自転車のスタンドを上げ漕ぎだし、夕焼けの差し込む校庭を抜け校門を出る。
私たちの会話には独特の間がある。彼とは途中までともに下校するが最後まで無言であることも多い、特に夏は暑さのせいで会話はすべて要約すれば「暑い」になる会話ばかりだ。
交差点に差し掛かり、信号を待っていると彼が口を開いた。
「最近さ、シズクちゃんの様子がおかしいのは知ってる?」
「シズクちゃんってヒラカタさんのこと?確かに最近、元気がないよね」
ヒラカタシズク、高校二年生の私たちの後輩の一人で明るく元気な子で、違うバンドながらも目立っていたが確かに最近はどこか影を落としているように見えた。
彼は少し考え込むように一瞬視線を落とすと、信号が青に変わるとともにゆっくりと自転車を漕ぎ出し、私は彼を追いながら自分のことを考える。いつも彼には欠点を補ってもらっているが、そんな彼に対し私は劣等感も感じていた。
もしかしたらシズクちゃんも何か自分の中でコンプレックスを抱えているのかもしれない。
「シショウ、なにかコンプレックスを感じることってある?」
突然の問いかけに対し彼は驚いたような顔を見せる。初めて見る反応だ。
少し考えたのちに彼は答えた。
「もちろんあるよ、誰だって自分に自信がない部分ってあるよね」
不安そうな、それでいて堂々とした出で立ちで応える彼に私は戸惑いながら返す。
「ヒラカタさんも何か抱えてるんだろうね、きっと」
私は沈黙し、生温い風にさらされながら自分のコンプレックスや、シズクちゃんの悩みに思いを馳せる。
「実はさ、シズクちゃんがこの前、ぼそって言ったんだ」
「なにを?」
「同じ新入生の子にノダちゃんって子がいるでしょ」
「あぁ、ミオちゃんかぁ、凄いよねあの子」
「うん、だからシズクちゃんは自分がその、劣ってるって感じちゃったみたいで」
やはり、というかなんというか、どうにも悪い予想というのは的中してしまう。
「ヒラカタさんも頑張ってるだけに辛いね」
きっと私には彼女に碌なアドバイスを送ることはできないだろう。
「そうだね、だからこそ少しでも気にかけてあげてほしいんだ」
私の空っぽな返答に対し見透かしたような優しい顔をする彼から目を背けそうになるのをグッと堪えて、気返事で返す。
そろそろ分岐点だ。
「シショウ」
「なに?」
顔は合わせない、ただ相手を見つめて話す。
「上手くやってみせるよ」
「頼りにしてるよ」
日が沈みかけた空、夏のじれったい空気の中で私たちは自転車を漕ぎ続けた。
「じゃあねシショウ、また明日」
「うん、ハギワラさん、また明日~」
彼に軽く手を振って別れを告げ、自転車を漕ぎ始める。夕焼けであたりは見事に染まっているが、住宅街のなかに差し込む光と蒸し暑さのせいではっきりとした情報が入ってこず、そのまま家に到着した。
玄関を開けると我が家独特の匂いが出迎えてくれ、リビングに進めば母がタバコを吸いながらテレビを見ていた。
「おかえり~」
間延びした声で迎える母に私もまた間延びした声で「ただいま」と返す。
靴下を洗濯かごに入れた後は手を洗い、自室へと駆け上がる。
家に帰ってギターを下ろした時の解放感は素晴らしいもので、そのまま快楽に身を任せてベッドに飛び込んでしまいたくなるが、自制心を働かせ部屋着に着替える。
机の上に置かれた書きかけのノートを一瞥し、課題の入ったカバンから目を逸らしながらギターを手に取る。
彼の訂正が入った楽譜を見ると彼の紡ぐ言葉の美しさが私では到底及ばないものだと感じる。それは事実であろうとも私が傷つかない理由にはなりえないようだ。
「はぁ・・・」
ため息が漏れてしまうが、構わずにピックを手に取りギターを鳴らし始める。彼の書いたメロディーを奏で、頭の中で歌詞を追いながら鼻歌を歌ってみる。
どうやったらここまで綺麗な詩が作れるんだろう。才能に対するコンプレックスが胸の中で渦巻く、彼のことは嫌いではないし、それどころか軽音部で最も仲の良いメンバーといっても過言ではない、ただ嫉妬してしまうのだ、己より優れた才能に、ぼんやりと暗い感情を抱きながら激しくギターをかき鳴らす。
ドロップCチューニングの安っぽいレスポールギターの音と鼻歌が部屋の中に響き渡る。これが唯一の私の個性で才能で、唯一の慰めだ。
「アオイ~ご飯よ~」
母の声が一階から聞こえ、スマホを起動すると20:42の文字が浮かんでいた。もうそんな時間か、そう思いながらギターをスタンドに立てかけ、リビングに行くと母の料理が食卓に並んでいる。
今日の夕食のおかずは魚の煮物のようだ。
「この魚って何?」
「アカウオっていうの、安かったんだよねそれ~」
私の言葉を皮切りに、魚の話から物価の話、更に兄の進学後の一人暮らしの話へと次々と話題は変わりな柄賑やかに食事をとる。
口には出さないが私はこういった時間が好きで、大切だ。
夕食を終え、ぼんやりとテレビを眺めたあと、お風呂の準備を始めた。
脱衣を済ませて浴室に入るとその時点で気が抜けていくのを感じる。シャワーを出すと冷たい水が私を襲った。
このようなことをするのは兄しかいない、父は風呂の後に冷水を出すという考えは持っていないし、ずぼらな母も几帳面な真似はしない、残るは兄だけだ。
兄に対し心中で悪態をつきながらお湯に切り替え、シャワーを出した。
打たれながら考える。今日のこと、コンプレックスのこと、これからのこと、ぼんやりとした頭で問うても答えは返ってこない、切り替えた私は髪と体を洗い始める。
ショートは楽だ。一時期は髪を伸ばしていた時期もあったが、ショートにしてからは髪を洗うのが楽で伸ばす方が億劫だ。
髪も体も丁寧に洗い、ゆっくりと湯船につかる。体を包み込む心地よさに思わず息が漏れる。暑い日が続くとシャワーだけで済ませてしまいたくなるが、実際に湯船に浸かると心身の疲れが緩やかに取れていく形がする。この時間はそれこそギターを弾いて歌っているときのように悩みを軽くしてくれ、夏のうんざりするような暑さでもこの時間だけは欠かせない。
このままぼんやりと回らない頭で思いついたことを悩んでいたいが、どうにか重い腰を上げて水滴の滴り落ちる短い髪をタオルで拭いていく、髪は楽になったが体を拭くのは面倒くさい、適当に拭いた後は髪を梳きながらドライヤーで乾かしていく。こういった手入れに関してはめんどくさいが丁寧にしないと母がうるさいのだ。
部屋着を着てリビングで麦茶を飲む、しばらくコップを手にしたままぼんやりとテレビを眺める。どうやらバラエティ番組のようだが面白いとは感じられず、ソファでテレビを眺めている両親に面白いのかと尋ねてみると「そんなに」と父が答える。
これ以上テレビに興味を持てなかった私は自室へと戻り課題に手を付け始めた。今日は古典の課題だけで済ませたが、もうすぐテストも始まってくるためノートも見返す必要がある。またシショウに勉強を教えてもらおう。そう思いながら課題を片付け、机に作詞作曲用のルーズリーフを広げる。
しかしいざ机の上に広げられたルーズリーフを眺めると歌詞を書くことができない、浮かんでいたアイデアに不安や疑問が付きまとう、これでいいのか、もっと良い選択は無いかと渦巻く自身のアイデアに対する否定的なことばかりが頭に浮かんでくる。
このままでは埒があかないと思った私は思考を放棄してベッドに飛び込み、頭の中で渦巻くものを掻き消すようにSNSを開いてスラスラとスクロールして見たいものを選んでいく、スマホの充電コードを煩わしく思いながら下らない情報を見て心の中で笑いながら時間をつぶす。何の生産性が無くとも、こうやって娯楽に勤しむことで無為な時間を過ごし焦れる自身を鎮め葛藤から逃げる。こうやってただ楽なほうへと流されていきたい。
目が覚めて握りしめたスマホを確認すると6:13の表示、いつもより早い時間に起きて得した気分にもなるが、何をするにも微妙な時間だ。遮光カーテンを開けると薄暗い外の光が入り込む、朝ごはんを食べるにも早すぎるし、二度寝をするのは気が引ける。昨日のまま広げられたルーズリーフを手に取って通学用カバンにしまい込んだ私はスマホを手に取って動画を見始める。昨日と同じ、何の生産性もない逃げを繰り返す私に嫌気がさす、もっと自分が勤勉であればいいのに、もしもの自分を浮かべて情けなく思う、もっと自分が、もっと周りが、と暗い羨望、どうにもしないことを考えているとスマホからアラームが流れた。
6:40、スマホのアラームを切り支度を始める。時間が過ぎるのは早い、すこし悩んでいるだけでも勝手に過ぎていく、顔を洗ってリビングに行くと母がトーストとジャムを机に並べていた。焼かれたトースト2枚とジャムという簡素なものだが用意してくれるのはありがたい、普段はずぼらだけど食に対して几帳面な母に有難さを感じつつ尋ねる。
「お母さん、ブルーベリーのジャムは?」
「あっ、ごめん買ってくるの忘れてた」
「えぇ、テンション下がるなぁ」
お気に入りのジャムが無いという母の答えに気を落としつつ、適当にいちごジャムを塗りたくったトーストを齧る。
「おはよー」
兄が寝ぼけ眼を擦りながらリビングに降りてきた。すごく眠そうだがどうせまた遅くまで本を読んでいたのだろう、ぼそぼそと何も塗らずにトーストを齧る兄を尻目に洗面所に向かい、歯磨きを終え適当に寝ぐせを整えたら自室で制服に着替える。メイクに関しては私の学校では生徒会の尽力のお陰で軽い物なら可能だが、私はメイクとも呼べない軽いもので済まし、カバンの中身を確認したら余った時間でギターを触る。
今日はちょっとシズクちゃんの様子も気にかけてみよう、そうやって学校のことを考えながら時間をつぶす。
スマホからアラーム音として設定した音楽が鳴り出発する時間であることが告げられる。本当に時間が経つのは早い、いそいそとギターをケースにしまって背負い、カバンを手にもって階段を下りる。
「行ってきまーす」
「いってらっしゃーい」と返ってくる言葉を流し、家を出てすぐに纏わりついてくる暑さに辟易としながら自転車に跨り夏特有の広大な青のなか大きな積乱雲が浮かぶ空の下、地元の小学生たちがはしゃぎまわる道を走る。こんなに暑い日だというのにはしゃぎまわるなんて、小学生の体力に感嘆しながらゆっくりと自転車を漕いでいく、小学生達の通学路を抜けて学校の手前にある交差点が見えてくると同時に背負ったギターの重みが主張を始める。
夏にギターを背負って登校するのは辛いが、チューニングの関係で持ち運ばなくてはならない、なぜ変に気取ってダウンチューニングなんてしてしまったのか、それに合わせた曲ばかり作ってしまうのか、自身に毒づきながら信号を待つ。
「おはようございまーす」
ふと声のした方を向くと、件のシズクちゃんが居た。
「おはようヒラカタさん、この時間に会うなんて珍しいね」
自慢することでもないが私は登校時間が遅い方で、早く登校して勉強をするようなシショウや彼女とは登校中に出くわすことはほぼない、不思議に思い尋ねてみると少し悩んだ後に「夜更かししちゃいまして」と返答した。
確かにこれは様子がおかしい、時に寝坊することは誰にでもあるが眩しくて見ずらかった彼女の顔が伏せった瞬間に深いクマがあるのが見えた。いつもならクマを隠すメイクなど几帳面に施すどころかクマすら作らないと言う彼女の様子を見るに相当悩んでいるようで、私は彼女と話しながら歩くことにした。
「最近なんだか元気ないよね、暑いからしょうがないけど気を落とし過ぎたらもっとバテちゃうよ?」
一瞬なにを話そうか考えたが良い言葉が思い浮かばず結局軽く核心を突いてみることにした。
「そうですよね、最近ちょっと夏バテ気味なんですけど、でもそれで気を落とし過ぎたら余計に疲れちゃいますもんね」
「そうそう、だからもっと軽く元気に行こうよ」
「はい、ありがとうございます」
二人の間に静寂が生まれる。どうしたものか、私たちの距離感では上手く相談するのは難しいみたいだ。少し思案した後に口を開く。
「実は私も夏バテ気味でさ、体だけじゃなくて、心も落ち込んじゃっててさ」
こちらに向けられた彼女の顔を横目に見てゆっくりと話す。
「だけど落ち込んじゃってそのまま、向き合わずにいると何も変わらないんだよね」
どの口が言っているのやら、だけどきっと彼女は乗り越えられるだろう、私と違って。
「先輩はどう向き合われたんですか」
彼女の核心を突いた質問に心が揺れる。私は向き合えていない、ただ向き合わないといけないことを理解しながら逃げ続けているのだ。ただここで向き合えていないと答えたら彼女も逃げるようになるだろうし、玉虫色の答えにも納得しないだろう、私は絞り出すように嘘をついた。
「なんと言ったらいいのか、ただその時はがむしゃらに向き合ってみたんだ、周りに迷惑もかけたけどね」
いま私の声は不安定だろう、目も泳いでいるだろう、だけど振り絞って彼女の目をみた。訝しさ抱いた眼、誠実な目に背きたくなる。
「がむしゃらに、わかりました、私も頑張ってみます」
あまりの責任に心が締め付けられ、ため息が零れそうになったところで彼女が加えて言った。
「ただ、その時は手を貸してくれますか?」
彼女のこちらを試す言葉によい答えを探そうとするも見つからず、彼女の誠実な瞳に負けた私は返した。
「絶対、手を貸すよ」
この言葉に嘘偽りはない、悩みに向き合いながら答えを求める彼女に対して私の言葉は誠実とは言えないだろう、ただこの言葉だけは嘘ではないし嘘にしたくない、私と違って向き合う強さを持つ彼女には良い結果が訪れてほしいと願う。
「ありがとうございます、気にしてくださって」
私たちは無言のまま学校まで歩いた。これで良かったのだろうか、あのような答えは不誠実だっただろう、無責任で憶病な私に嫌気がさす。これで良かったのだ、今から発言を変えるのは不誠実だ。心の中で言い訳をして自信を納得させる。
「先輩、じゃあ私はここで」
ロッカーまで歩いた私たちはまた部室で、と言葉を交わし分かれる。心にしこりが残ったまま私は淡々と教科書を出して靴を履き替える。
蒸し暑い廊下を重い荷物を抱えて歩く、ギターを置くために音楽室のある4Fまで登っていくが足取りは重い、どうにか鍵のある職員室にたどり着いたがあるはずの鍵はなく、一息つく間もなく音楽室に向かうこととなった。
今日の一限目はどの学年も音楽の授業は無かった筈、音楽の先生がまた一人で音楽室に籠っているのかと考えながら階段を上り、音楽室の前まで歩いていくと微かにギターの音が聞こえてくる。ギターの音は拙く、新入部員の誰かが練習しているのかなと思いながらドアを開く。
目に飛び込んできたのはギターを練習するシショウの姿で、こちらに気づいたシショウはクラシックギターをスタンドに立てかけながら照れくさそうに笑みを浮かべて「おはよう」と一言。
動揺した私は挨拶を無視して質問する。
「えっっ、シショウ、ギター始めたの?」
「まぁね、最近ちょっとやってみようと思って」
いやぁ、いつのまにかこんな時間に、なんて言う彼に呆然とする。私にはギターしかない、ボーカルは他にもいるし、作詞もシショウが一番上手いしキーボード、ピアノも彼が一番上手い、そんな中で私の唯一の取り柄がギターだ。だからギターだけは駄目だ。確かに私は部員の中で最もギターが上手いと自負しているし、すぐに追い越されるつもりもない、だけどシショウなら、彼ならもしかして、なんて疑念があった。ありえないとは思うが、どうしても唯一の取り柄を奪われたくない私は彼がギターに触れないことを願っていたのに。
「そうなんだ、いいと思うよ」
曖昧な感想で動揺を取り繕う。
「あっ、ギター置いてくるね」
そう台詞を吐いて音楽室の奥の部屋へと引っ込む。どうしたものか、暑さで回らない頭で考えるが答えは出てこず、シショウの元へと戻る。
「いやぁ、暑いね今日は、今更だけどおはよう」
「鍵は私が返しに行くよ」
とりあえず動揺を隠しきることにした私は捲し立てるように言葉を並べてシショウと音楽室を出る。
「先に教室に戻ってもいいよ」
「すぐそこだし一緒に行くよ」
教室に先に向かうという私の提案は突っぱねられ、鼻歌を歌うシショウを引き連れて職員室まで向かうこととなってしまった。この静寂は居心地が悪い、ゴム製のスリッパを擦る音だけが微かに聞こえる廊下、空回りする頭で言葉を探す。
「その鼻歌って、今つくってる曲だよね」
「あぁ、そうなんだよ、この曲のメロディーが面白くてさ」
どうにかアタリを引き当てれたようだ。このまま曲の話を続けよう。
「そうでしょう、じつは80年代のロックを意識してみたんだよね」
「あぁ、確かに渋めのギターが多いね」
「そうそう、あとその曲なんだけど、ピアノパートももっと欲しいなって思っててさ」
「僕の出番って事だね、じゃあ今日はもっとメロディーをいじくってみようか」
「他のメンバーはどうする?呼ぶ?」
「うーん」
そうこうしているうちに職員室までたどり着くことができた。シショウを待機させて職員室に入ると涼しい空気に包まれる。こっそり一息ついてそそくさと鍵を返却して廊下に出る。
「じゃあ教室に行こうか」
私がそう言って歩き出すとシショウも横に並んで歩く。
「他のメンバーのことだけど、聞いてみてから決めようか、この時期だし」
確かにもうすぐテストが始まろうとしている。私とシショウは良いがメンバー全体の集まりは悪くなるだろう、特に受験を意識しだしている同級生達の大半は勉強に追われている。
「全員出席してればいいけど、聞けなかったらそのとき考えようか、因みに私は部室の方にも顔を出してから行くから」
「うん、じゃあまた放課後ね」
シショウと別れ、教室のドアを開けると数人の視線が一瞬こちらに向けられるのを感じた。居心地の悪さを感じながら自身の席で荷物を整理し、いつものメンバーの元へと向かう。
「おはよー」
挨拶をすると笑顔で迎えてくれる友人たち、その中でもいの一番に反応した岬が問いかける。
「今日はいつもよりちょっと早いね、何かあったの?」
聞かれて時計を見ると短い針が8と9の間を、長い針は6の文字を指している。確かに40分頃、遅刻寸前のチャレンジャーが現れだす時間に教室に滑り込む私にしてはかなり早い入室だ。きっと音楽室でギターの練習をするシショウに驚いて慌てたからだと思うが、そのまま話す気にもなれず、ただシショウに合わせて音楽室を出たからだと答える。
「あぁ、確かに、教室の前で長田君と話していたもんね」
横合いから美玖が口を開く、よく見ているなぁとも思ったが美玖がシショウにお熱だったのを思い出す。彼女はシショウと私の関係を非常に気にかけている。私とシショウの間で別にそういった感情は無いし、それは彼女に伝えているのだから早くアプローチでもしたらいいと思う、そんな態度をとり続けるからシショウに人見知りっぽくて取っつきにくいなどと思われているのだ。この間さりげなくシショウに聞いた彼女の印象を思い出す。
「もう、美玖はそんなに長田君のことが気になるならもっとアピールすればいいのに」
私がなんと言おうか言葉に迷っていると麗奈が私の気持ちを代弁するかのように話し始める。
「葵は長田君に恋愛感情は無いって言ってるし、美玖はもっと自信もって近づいていきなよ」
「確かに葵はそう言ってたし、信じてるよ、でもいざ目の前にするとアピールとかできなくって」
確かに美玖の言い分も分からなくはない、確かにシショウは客観的にみると良い異性だろう、物腰柔らかで、進学校であり偏差値が高めなうちの学校でもトップクラスに入れる学力があり、おまけに顔もいいと来た。こうして並べるとうちの学校の高嶺の花(笑)と呼ばれているのも頷ける。
ただ一つ言うなら、それは美玖だって同じ、というか私からすればシショウの方が釣り合ってないように見える。というのも私の友人たち、ここにいる私を除くメンバー全員が容姿端麗でそれはそれはおモテになるのだ。
まず一人目、岬こと尼崎岬は大層な美人であり、モデルかと思うようなスタイルと顔を持ち、その美貌で入学当初は見に来るものが絶えなかったほどだ。そして美玖を後押しするように発言した人物、笠田麗奈は岬ほどではないものの美人であり、おっとりとした地味系の顔がまた好感を抱かせる。そして何より胸が大きいのだ。
そんなメンバーが綺麗すぎて私まで綺麗になったような錯覚に陥るが、美玖はまた一味違っている。私は岬に関して一番の友人という事もあり贔屓目で見てしまうが、美玖は違う、単純に可愛いのだ。ちんまいが恋愛対象に入る事が出来る丁度いいスタイルに、くりっとした大きな瞳とくせっ毛のポニーテールが織り成す天真爛漫といった言葉が似合う顔、そのアニメから出たような風貌に加え、高い学力も併せ持っている。これで何を尻込みすることがあるのか。
私は麗奈を援護するように口を挟む。
「麗奈も可愛いんだからもっと積極的になりなよ」
「そうそう、受け身じゃ他の子に取られるよ」
空気になりかけていた岬も援護するが美玖はでも、でも、と譲らない。痺れを切らした私は奥の手を使うことにした。
「シショウは美玖のこと可愛いって言ってたよ、ただ、私とシショウの間に恋愛感情が無くても他の部員は知らないよ、案外コロッといっちゃうかも」
畳みかけて決まった。とドヤ顔を披露するが、美玖は前者の内容で一杯らしい、本当に?長田君が?と尋ねてくる。実際にこれは事実であるがめんどくさくなってきた私は岬たちに視線を送ると、二人は最近できた店だか何だかの話をしている。
「ほ、ほらもうすぐ先生が来るだろうし席に着こ、ね?」
どうにか言葉を発し窮地を切り抜けた私は世間話に興じていた二人を睨んで席に着いた。
担任がやってきてホームルームが始まり、テスト前がどうのと定型文が並べられ、そそくさと担任が退出する。教室はまた一瞬、話し声が飛び交うようになるが授業が始まると静けさを取り戻した。
教科書とノートを広げ授業に集中する。問題を解き終わった私はぼんやりとあたりを見渡す。こういう時に後ろから二番目、窓際という席は楽だ。少しのよそ見なら何も言われずにすむ。ぼやっとしていると前の席に座っている岬が話しかけてきた、教えあいは許可されているが大胆な奴だ。
「ねぇ、ここ間違ってるよ」
「あっ、えっ?ほんとだ」
私の様子に岬がクスクスと笑う、意地悪な奴だ。上手く計算できず悩んだ私は岬の丁寧な説明をBGMにしながらふと思い出す。
確か岬と関わるようになったのもこんな出来事が最初だったような。
「ねぇ聞いてる?」
「あっ、ごめん」
「最近いつにも増してぼーっとしすぎじゃない?大丈夫?」
「うん、大丈夫」
ぼーっとして話を聞いていなかった私に怒るどころか心配してくれる岬、申し訳なく思いながら気を入れなおす。
「ん?いつにも増してってどういう意味?」
そんなこんなで授業をこなしていき昼休みになると学校全体が一気に賑やかになる。廊下では食堂に向かう人達が出歩いているが、私たちは机を囲んでお弁当を広げる。
「私、ちょっと部員に予定聞かないといけないから食べたら出るね」
私は皆が了承の声を挙げるのを聞き食べ始め適当に雑談を交わした。お弁当を食べ終わった私は廊下に出て食堂を目指す。この時間ならまドラムとギターは食堂にいるだろう、暑さから逃げるためにも足を速め、渡り廊下へと出る。食堂と校舎を結ぶ渡り廊下は日陰となっているもののグラデーションのように緩やかに暑さが纏わりついて気持ち悪い、駆け抜けるのも体力を使いそうで中途半端なペースで日陰の中を歩き、食堂横の自販機でスポーツドリンクを買って中へ入る。
食堂の中を見渡すと思った通りドラムとギターの二人はだらだらと駄弁っている。
「二人とも、今日の予定を聞いてもいい?」
「あぁ、放課後のこと?残念だけど俺ら三人とも行けないから、ちなみにベースは夏風邪で休み」
「ごめんね、作業は進めといて大丈夫だよ」
どうやらシショウから話は聞いていたらしい、申し訳なさそうに二人は答えた。この時期ならしょうがない、ただギターに関してはまだ何とかなるが、リズム隊が二人ともいないのは痛い、どうにかシショウにリズムを頑張ってもらうしかないだろう。二人に礼を述べこの場を後にして教室へと戻る。
昼休み後の気だるい授業を乗り越えた放課後、シズクちゃんの様子を見るため音楽室を覗くと話し声が聞こえてきた。
「私、実はあなたに嫉妬してたの」
「えっ」
どうやら件のノダちゃんとシズクちゃんの二人が話し合ってるようだ。上手く状況がつかめない私はそのまま聞き耳を立てて静観することにした。
「私は確かにギターもPAもできる。だけどあなたみたいに真剣に向き合うことは難しいし、ドラムも叩けない」
「そうはいっても私はあなたのように人気者じゃない」
「本当にそう?私は上辺だけ、本当に頼られているのはあなたじゃない?」
「けれど」
「確かに私には貴方より優れた部分があるかもしれない、だけど貴方にも私より優れた部分がある」
そういって彼女は自身の醜い感情を吐露する。どちらも互いに劣等感を抱きあっていたのだろう。それこそ周りが想像する以上に、私が彼女たちのどちらを信用しているか、どちらが優れているか聞かれたとしたら、きっと大いに悩むし、差はないと答えるだろう。
確かに人は他人を評価するが、その判断は当人が思っている以上に無頓着で適当なのだ。
「私たちはきっとお互いの良いところしか見えていないんだと思う」
「だけどお互いにより優れた部分があるのも事実」
「それは補完しあえるものでしょう?」
「けど代替品になることも不可能じゃない」
会話が激化する。一方は否定し現実を見たように、もう一方は諭すようでいてすがるようでもある。二人に会話でシショウがギターの練習をしていたのを思い出す。きっとどちらもアイデンティティが失われるのが怖いのだろう、そして自信を構成する不明瞭なそれをあると信じるしかないからこそこうなったのだと思う。
会話に割り込もうかと考えたところでもう一人が口を開いた。
「けれど、誰かが代替品になろうと私は私、失われるわけじゃない」
何をいっているのだろうか、確かに誰かが自身のポジションに立とうとも自身は不変である。だが周囲からすれば自身とその他は同じであり個性なんて無意味なものになるのではないか。
「個性に他の評価を持ち込むから、代わりなんて思っちゃうんだ」
確かに自身の変わりは存在しないのかもしれない、だけど周囲から見て同じではその個性の意味がないのでは。彼女は私を置いて話し続けた。
「確かに周囲の影響を受けて形成される個性もある。でもすべてを他人に委ねた個性は本当に個性?」
しかし他人に認められたいだろう、もっと凄い個性があるだろう。
「それは」
なんだというのか、結局アイデンティティとは何なのか、人より劣った自分が個性とでも言うのか。
「本当に幸せにつながる?」
やはり何を言っているのか理解できない、暑さのせいか汗が顔の表面をなぞるのを感じる。幸せに決まってるだろう、能力があればできることも増えるし、認められる。
「確かにこんな才能があれば、こんなことができればと思う」
「だけど、それで満足できる?」
満足、確かにいくらより良い個性を身に着けたところで満たされることはないだろう、ギターという個性を持ちながらも、別の才能を求めている事実と、他人からの評価を求める姿勢がそれを表している。どれだけ努力をしても他人に評価を委ねる以上は満たされることはないだろう。
人は他人の粗ぐらい容易に探し出すだろうし、何より自分自身が他人を見て持ってないものに注目してしまうだろう。
「だから私には自分の個性だと言える、信じれるものが芯に必要なんだと思う」
信じれるもの、誰の判断でもない思い込み、だからこそ揺らがない個性の芯になりえる。私の個性、信じれるものは何だろう?
「芯…」
「確かに私には無い、本当に足りないものってそれなんだろうね」
「ううん、きっと無いわけじゃない、覚えてないだけなんだ、だから心がくすぶられる」
そうだ。アーティストの演奏を見ているとき、妙にギターを弾きたくなる時がある。心の中で燃え切らないまま煙だけ上がるものがある。
「きっとそれが個性の芯なんだね」
「多分お互いに、私が貴方に劣等感を感じていたのは、あなたを見てくすぶっていた個性に気づいてなかったから、それを承認欲求と混ぜ、能力そのものを欲しがっていたから」
「私が欲しいのは貴方の能力じゃなかった、ただ並んで楽しく弾けたら良かったんだ」
私も昔見たロックスターの映像を思い出す。その技巧に惚れたのは間違いない、だけど、何よりその楽しそうな光景に惚れたんだ。
「そこに降り積もっていったものでだんだんと原型を見失っていったんだ」
「たぶん私は貴方のことをしっかりと見れていなかった」
「だから、ごめん」
私はどうなんだろう、シショウのことをしっかりと見れているだろうか、私はシショウのことを上手く捉えられていないのではないか、考え込んでいるとシズクちゃんが部室から出てきた。
「先輩、来てくれてたんですね」
「あっ、うん一応様子だけ見とこうと思って、ごめんね盗み聞きする形になっちゃって」
驚きながらも取り繕う。
「いえ、気にかけてくださってありがとうございます」
「じゃあ、私は音楽室に行くから」
「はい」
先輩も頑張ってくださいね、後輩の見透かしたような声を背に受け音楽室に向かう、結局は何も分からないままだ。アイデンティティとは、自分は何を考えているのか分からない。
音楽室に入ると朝と同じようにシショウがギターの練習をしながら待っていた。
「うわっ、汗びっしょりじゃん」
言われてみれば、ずっと廊下に立っていたのだから発汗量は凄まじいだろう、しかしデリカシーの欠片もない発言をするシショウを睨み、温くなったスポーツドリンクを飲みながら考える。
こういった目に見えて悪いところは捉えてられているとは思うが、実際に何を捉え切れていないのかそれすら分からない、じっくりとギターの練習をするシショウを見る。
「へたくそだなぁ」
「えっ」
シショウが驚いたような顔をしているが当たり前だ。素人丸出しの拙い練習に等身大のシショウが見えた。それこそ、この調子では私に追いつくには凄まじい年月が掛かるだろう。何をおびえて意識していたのか、そもそも彼がギターを弾けたところで私のやりたいことは変わらない、ギタースタンドからもう一本クラシックギターを取り出しシショウの前に座る。
「教えてくれるの?」
「見てられないからな」
「打ち合わせは?いいの?」
しつこいのは相変わらずのようで質問攻めにするシショウに向かって答える。
「明日やればいいでしょ」
「勉強はいつする?」
「ん」
「ちょっと」
よくよく考えれば、こいつにもできないことは多い、例えば人の心を見透かしたような眼をする癖に先ほどのようなデリカシーのない発言をすることもあれば、自身の想定と違う行動に翻弄されることもある。ほら今も私に振り回されている。ただそれは悪いことじゃない、そのおかげで楽しいやり取りができるし可愛げみたいなものが生まれている。私もきっとそうだ。要は自分を認めることが大事なのだろう。
座って一緒に練習をしたところシショウにギターの才能が無いことが判明し、ギターの練習に一区切りがついたころには日が傾き始めていた。
「ねぇ」
「なに?」
「私、シショウにコンプレックスがあったんだ」
こんなに簡単に口に出せる日が来るとは夢にも思わなかった。暗い感情のはずなのに口に出したことに対する後悔なんてものは微塵も湧いてこない。
「知ってた」
やはりデリカシーのない男だ。ここは知らなかったふりをするべきではないのか、シショウの軽い返答に感謝しつつ訪ねる。
「シショウは私にどんなコンプレックスを抱いていたの?」
「知ってたの?」
今度はこいつが驚く番だ。というか本気でバレていないと思っていたのか、案外こいつは自分がわかりやすいタイプであることを理解していないようだ。こういうところもシショウらしさの一つだろう。
「僕はさ君の」
「ギターでしょ」
「当たってるけど、ちょっと違う」
遮った私も悪いが認めないなんて往生際の悪い奴だ。目線で続きを促す。
「僕は君が自分で個性を見つけ出したことが羨ましかったんだ」
「ほーん」
「きいてる?続きを話すけど、僕の個性って子供の時からやってたピアノなんだ」
ただ与えられたものを個性って言ってるんだ。そう付け足して彼は溜息を吐いた。だけど
「だけど個性ってそういうものじゃない?」
「えっ」
「私のギターも結局小さいころに見たアーティストの映像が切っ掛けだし、得たものの中で取捨選択して自分のものと言い張ったのが個性なんじゃないの?」
実際、彼がアイデンティティの切っ掛けと主張するピアノはいつでも捨てられた筈だ。親の意向だとかもあるかもしれないが、ここまで続けてきたのはシショウ自身が選択してきたからだろう。加えて私がギターに特殊さを求めたのも結局は特殊イコール個性と勘違いしていたからで、自身のギターを特殊なものにしたのも特殊なギターの例を知っていたからだ。
「それに知らないもんをどうやってアイデンティティにするの?」
「確かに、じゃあ悩んできたのも無駄ってこと」
「それはちょっと違うでしょ」
「恥ずかしいこんな奴と張り合ってたなんて」
「おい」
ついこの間まで重く捉えていたのを馬鹿みたいに感じる。いや実際に軽い話題という訳ではないがそれでもこうやって口に出していざ割り切ってみれば、もっと気楽になったように感じる。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
荷物を片付けてギターを背負う、どうやってもこれの重さは変わらないみたいだ。
昨日と同じように駄弁りながら職員室に向かい、鍵を返す。ちなみにじゃんけんは今日も勝つことができた。この調子で自販機前のじゃんけんにも勝ちたい。そう願いながら駐輪場の自販機に近づくとシショウが財布を取り出した。
「今日は僕が奢るよ」
なんと殊勝な心掛けだろうか、今までで初めての行動を疑問に思い訳を尋ねると「シズクちゃんの件のお礼」と返ってきた。
「流石に悪いよ」
「お礼だから」
「私が恩着せがましいみたいじゃん、普通に奢ってよ」
「いや普通に奢るってなんだよ」
実際、私には恩を売ったつもりはない、逆に後押しされた気分でもある。先輩に似て個性的な奴だった。
「それこそヒラカタさんに奢ってあげなよ、私は何もしてないから」
これは本心だ。彼女にその気があったか定かではないが結局は彼女に助けられたのだから、私はそれこそ何もしてあげられていない。
「大丈夫、どっちにも奢るから」
どういう暴論なんだ。初めて負けたら奢られるという形式のじゃんけんをした。結果は昨日と同じ敗北、奢られる側がここまでの敗北感を得ることはなかなか無いだろう。
「夏は麦茶が一番だなぁ」
駐輪場の屋根の下で押し付けられた麦茶を飲みながらゆっくりと涼む、学校の裏手の畑から吹き抜ける風が心地よい、ただ比較的涼しくとも長居するには暑い、重いギターをしっかりと背負い自転車に跨った。
無言の中で自転車を漕ぐ音が響くも、セミの鳴き声によってあっという間に掻き消されていく。
「つぎから後輩に関することはハギワラさんに任せようかな」
「おいやめろ」
暑さが気にならないくらい軽いジョークを飛ばしあいながら自転車を漕いで走る。夏の帰り道をこんなにも短く感じたのは初めてだ。
家に着くと母が鍋に火をかけており、気になって横からのぞき込むとその正体が見えた。どうやら夕飯はカレーのようだ。母は本格的に暑くなってくると夏野菜カレーを作る。というのも母曰く夏は暑さが始まった時期の食生活が肝心で様々な栄養を手軽に摂れ、旬の野菜を使えるカレーは万能食らしい、母が鍋を睨みながら口を開く。
「部活もいいけど勉強はどう?ちゃんとやってる?」
「一応ね」
母の質問の答えをはぐらかしコップに麦茶を注ぐ、自販機で売られているとは違った風味のする家の麦茶は夏にぴったりで、涼しさが体中に広がっていくのを感じる。
自室のドアを開くと良い感じに夕日が差し込んでおり所謂エモい風景が出来上がっていた。ギタースタンドにケースから取り出したブラウンのレスポールタイプのギターを立てかけると夕日に照らされ、一枚の写真のように完成された風景が出来上がる。
「やっぱり、夕日にはブラウンのレスポールだよね」
自慢のギターが織り成す美しい光景に思わず口角が上がるのを感じる。このまま見とれて時間が過ぎる前にギターを手に取り弦を鳴らす。
ただ無心で弾きたい弦、弾きたいコード、弾きたいフレーズを鳴らし悦に浸る。もっと昔、ギターを始めた頃にただただ触って音を楽しんでいたのを思い出した。
そうして時間が過ぎふと時計を見ると、夕食の時間が近づいているのに気付きリビングに降りると丁度お皿を運んでいる最中だったようで、母から皿を受け取って並べていく、皿が並べ終わると同時に兄も自室から出てきて食卓に着くが、父は穴が開いた靴下を勿体無いといって放置したせいで母に怒られている。
やっと父が食卓に着くと皆一緒に食べ始める。家では別に父が食べるまで食べてはいけないとかそういったルールは無いが、やはり食卓は囲んで食べるのが一番だ。
夕食を終え食器を片付けてお風呂に入る。リラックスしてお湯に浸かることが随分と久しぶりに感じる。ただただぼーっとお湯に浸かる。それだけのことがなぜこんなにも心地よいのか、訳も分からないことだが一切の思考を放棄して湯船に浸かる。
お風呂を出た頃には時間は驚くほど進んでいて、課題のためにもお茶を飲んですぐに自室に引っ込んだ。悩みはなくなったかのように思えるがそんなことは無いし、すぐ目の前に課題に進路にと分かりやすい問題がそびえたっている。
しかし一つの憂いが軽くなるだけで思考はクリアになるようで、今日の授業であんなに苦戦した問題もスラスラと解けている。
そして課題を思ったよりも早く終えることができた私はその勢いに任せて日記のようなものを書くことにした。日記のようなものというのも、結局アイデンティティとは、自分を認めるとは何かつかみ切れないからノートに箇条書きしようと思っただけで別に深い意味はない、そうやって髪を目の前にして思っていたこと、感じていたこと、行動を書いていくだけのものである。
ただこの行動が思いのほか楽しかったのもあって時刻はいつの間にか3:00を過ぎてしまい、それに気づいた私はベッドに潜り瞼を閉じた。
目覚まし時計の音で目覚め、眼を擦りながらも二度寝を避けるため早めに体を起こす。
リビングに降りると朝食の準備をしていた母に一言告げ、朝食を簡単に済ませる。
「お母さん、ブルーベリーのジャム冷蔵庫にしまっとくから」
「今日は早く出るの?」
「うん」
どうにか支度を素早く終わらせることができたので出る前にちょっとでもギターを触ろうとしたが、あまりにも睡魔が酷く断念して荷物を背負って家を出た。
強烈な睡魔もどうにか炎天下のお陰でましにはなったものの、暑さはやはり煩わしく、いつもの交差点を大きな欠伸をして待つ。すると後ろから声を掛けられた。
「おはようございまーす」
朝、しかもこの炎天下だというのに元気なものだ。そう思いながら私も声の主に挨拶を返す。
「おはよう、ヒラカタさん」
振り向いて顔を見ると昨日までと様子が違うのが確認できる。クマはまだ残っているものの顔の険がとれ、雰囲気も入部したばかりの頃のような爽やかさに戻っている。
「元気そうだね」
「はい、お陰様で」
元気よく受け答えする様子で立ち直ったのが確認できる。こんなにも爽やかな子でも暗い感情や思い悩みを抱くのだ。きっとこれからも同じようなことで悩むことがあるだろうが、彼女を見ているとそんな自分も肯定できるようになれると思った。
「私は何もしてないから、お礼なんて言わなくていいよ、それよりいまから飲み物を奢ってあげるからそれに感謝して」
「えっ奢ってくれるんですか?」
「当たり前じゃん」
昨日シショウにはシズクちゃんに奢ってあげてと言ったが、助けてもらった本人が何もしないわけが無いだろう、二人で駐輪場のそばにある自販機へと向かう。
後輩とも仲良くなれたし悪くない経験だったかも、なんて思いながら麦茶を握って校舎に入っていく。
シズクちゃんと別れた後、音楽室に入るとそこでは昨日と同じようにシショウがギターの練習をしていた。彼の指が弦を滑る音がまだ静かな部屋に響いている。シショウはいつもより早い登校に驚きながらも、その時間を有効活用しようと、昨日の練習の続きをしていた。しかし、今日は一年生が一限目から音楽の授業を受けるらしく、教師によって音楽室から追い出されることになった。シショウが不満そうにギターを片付ける姿と私が教師に駄々をこねる姿をシズクちゃんに見られ、目があった瞬間に軽く苦笑いをされた。その顔には彼女の優しさと少しの同情が見え、それがより羞恥心を掻き立てた。シショウがギターを直して振り向くと、私はシズクちゃんに軽く手を振り、教室へと向かった。教室に着くと窓から差し込む朝の光が机の上に粒を描いていたが、暑い日差しに対して無慈悲にカーテンを閉めた。
これからは悩みが付きまとわない学校生活を心から楽しもうと決意していたが、午前の授業が始まるとまたもや睡魔が私を襲ってきた。眠気が徐々に襲いかかり、まるで自分の体の重心が変化し続けているように感じた。眠気に抗い頭を揺らしながら授業を受ける私の姿は、岬たちにとって格好の笑いのネタとなり、クスクスと笑い声が教室に広がった。
どうにかこうにか睡魔が落ち着くころには、放課後のチャイムが校内に鳴り響いていた。授業の終わりを告げるその音が、午後の穏やかな空気に溶け込んでいく。部室にちらっと顔を出すと、シズクちゃんとノダちゃんが、楽しげに勉強をしながらお互いにちょっかいを出し合っているのが目に入った。ふたりの楽しげなやり取りに、少し羨ましさを感じながら、私はそそくさと音楽室へと足を運んだ。音楽室のドアを開けると、そこには静かな空間が広がり、心地よい余韻が残っていた。
どうやら今日もシショウと私以外のメンバーは来ていないようだった。話し合った結果、昨日できなかった分の作曲をすることに決めた。音楽室の机に紙を広げ、作詞の紙を出そうとした。
「なにこれ?」
しまった。気づいた時にはもう遅かった。シショウは私が昨日描いた日記もどきを手に取り読みふけっている。本当に無神経な男だな、こいつは。私の日記だと言い出すのも恥ずかしくどう言い訳しようかと戸惑っていると、シショウが突拍子もないことを言い出した。
「この歌詞、いいね」
「は?」
どこをどう読めば歌詞になるんだ。という言葉を引っ込めたが、結局それを要約した一文字が口から飛び出した。
「いや、これいつもの歌詞より面白いよ」
シショウはまだ紙から目を離さないまま続ける。
「いや、でもそれ文にすらなってないし」
深夜のテンションで単語を寄せ集めた自身の感情を書き殴っただけの文。それがどうして面白いと言えるのか。
「いいんだよ、そんなの。それよりこの詩にはもっと強い魅力がある」
「そんなのどこにあるの?」
ただ単語を並べただけの乱文にどんな魅力があるというのか。書き殴られた単語だけの韻すら踏んでいない言葉の羅列を思い出し、呆れた様子の私に対し、シショウは冷静を装いながらも熱を込めて言った。
「確かにこの詩は一つも韻を踏んでないし、気持ち悪い単語の並んだ気持ち悪い詩だ」
シショウの言葉に少しイラっとしたが話を聞いてみると、どうやら彼は私が書いた単語の寄せ集めに現実の感情が込められていると感じたらしい。確かにその文にはリアルな感情があるだろう、ただの日記なんだから。そんな事を思いながらも口には出せず、歌詞として加筆していくことになってしまった。面倒臭くなった私は殆どをシショウに放り投げることにした。
シショウはペンを手に取り机の上に広げた紙に何かをメモし始める。その姿を見て、私も少しずつこの奇妙な状況に適応し始めた。
表現は自由といえども限度があるだろう、呆れながら辺りを見渡すと窓から差し込む日の光がピカピカのグランドピアノや机に反射し私達を照らしているのに気づいた。
夕日が差し込む部屋、グランドピアノの椅子に座る彼と、その正面でギターを抱えて彼の持つ紙をのぞき込む私。
「この部分はここの詩を書き替えて、リズムよくしよう」
赤ペンで書き換えられた文、リズムに乗ってギターをかき鳴らしながら口ずさんでみる。
「おお、しっくりくる」
まあね、って照れくさそうに笑みを浮かべる彼を見ながら思う、やっぱり私に作詞の才能は無い、感情を文字にするのが苦手なのだ。といっても感情を表に出すのが苦手ということではない、実際に思ったことをよく口にするほうだし、人と話すのは好きなほうである。
つまりはただ単に言葉選びが下手なのだ。といっても言葉のレパートリー、語彙が乏しいわけではないと自分では思うし、実際に歌詞の言葉、単語の意味もしっかりと把握している。
しかしセンスが無い、それだけのこと。
「どうかした?」
歌詞に目を通しているように見えるといっても感傷に浸りすぎたようで、彼が心配そうにのぞき込んでくる。彼と作詞の話をするとどうにも感傷に浸りやすくなってしまうが目敏い彼は心配そうな顔をして私をすぐに引き戻す。
「いや、何でもないよ、よくこんなに上手く書けるなぁって」
私がそう返すと、彼は特に嬉しがるような様子も見せずに一瞬ほっとしたような表情を見せ、すぐに不安げな表情に戻って「ほんとに?どこかズレた表現とかしちゃってない?」などと宣う、基本的に憶病で、軟弱で、心配性なのだこいつは、そういった一面がまた私を刺激する。
「なんでも言ってよ、頑張ってみるから」
付け加えて言う彼、こうなってくると少し、というか結構しつこい、こいつ以上に女々しい者は他に居ないだろう、どんな環境で育ったんだこいつは、と疑問に思いながらも強引に彼の不安を掻き消すように言う。
「全く悪いところなんて無いよ、それより続きしよ」
私がそう言うと彼は私が乱雑に歌詞とメロディーを書き込んだ紙に目を向け、ときに詩を口ずさみ、ときにピアノを奏でながら訂正を書き込んでいく、ずっとこの調子だったら楽なのに、一息つけばあれだけ不安そうな顔を見せるくせに、この瞬間では自信満々といった感じで指と筆を走らせる。
本当に奇妙な奴だ、しかしこの調子でいけば最終下校時刻までにはきりのいいところまで漕ぎ着けるだろう、定期演奏会に向けて練習するためにも早めに終わらせたい、こんな奴の奇妙な一面に付き合ってやる必要もないのだ。
『最終下校時刻になりました、校内に残っている生徒は速やかに下校しなさい、繰り返します、最終下校時刻になりました…』
アナウンスとともに音楽が鳴り響く、どうにかキリのいいところまでは漕ぎ着けたが少し名残惜しい、グランドピアノや机の上に散らばっていた紙を片付け始める。
「今日もありがとう、やっぱり作詞はシショウがいないとダメだね」
シショウ、それが彼、長田翔のあだ名、彼の名前であるカケルの音読みと新入生の教育係という役割からつけられたあだ名は先ほどの様子からは想像もつかない、そもそもこいつに新入生の教育係がなぜ務まるのか見当もつかない、実際に同級生で同じバンドである私は彼が新入生を引っ張っていく様も見ているし、それは堂に入ったものであったが、だからこそ私にとって受け入れがたく現実味のない物であったのだ。
といっても、そもそもシショウが見せる不安げな表情も彼のほんの些細な一部で、普段は聡く、堂々としていて、先ほどの私の言葉にも「そんな、僕なんて」などと照れながらも、僕でよければなんて言って明日の話を流暢に応えているし、シショウとの付き合いは面白い。
片付けが終わって廊下を歩きながら、どちらが音楽室の鍵を返しに行くか、職員室に入るのは緊張するだとかくだらない話をする。器用な奴だ。
「ふぅ、やっぱり職員室は緊張するね」
結局じゃんけんで負けて鍵を返しに行ったシショウは芝居がかった仕草をしながら話す。
「ふっふっふ、それが敗者の定め、次も私が勝つ」
私も芝居がかった口調で返す。何気にシショウと馬鹿な会話をするのも楽しいものだ。
こうやって馬鹿なノリで歩いていくとあっという間に下足ロッカーに着く、シショウの方を見るとカバンの荷物整理に勤しんでいるのが見える。
「うわ、あっつ」
一足先に校庭に出た私を温い風が襲う、日も落ちかけているためそんなに暑いわけでもないがもどかしい不快感に思わず声を上げる。
「ほんと、やんなっちゃうよねぇ」
間延びした声で、荷物の整理を終えたシショウが応える。
「シショウ、ジュースおごって」
シショウが追いついたことで歩き始めた私は駐輪場の脇にある自販機へと向かう。
「えぇ、やだぁ」
「女々しいなぁ、お前は男で、私は女だ」
「男女差別はんたーい」
私たちは自販機の前でじゃんけんを始める。
その瞬間に繰り広げられる心理戦
「僕はパーを出す」
「じゃあ私はチョキ」
私は負けた。
隣で美味そうに麦茶を飲むヤツが恨めしい、しかし夏場の麦茶はどうしてこうも美味いのだろうか?
「夏の麦茶ってどうしてこんなにおいしいんだろうね」
さてはこいつ超能力者だな?
「夏は体が麦茶を欲してるんじゃない?」
私が適当に返すと、少しの間、沈黙が訪れる。
やめろ、滑ったみたいじゃないか、こいつと話すと時折、黙り込んでしまうことがある。
といってもほんの一瞬であり、実際にはそんなに気になることでもない、ただ一瞬、彼の何かが顔をのぞかせている気がするのだ。
「ふふっ、体が麦茶を欲するって、中毒じゃあるまいし」
どうやら再起動したらしい、何が琴線に触れたか知らないが、対して面白くもない表現に笑っている。こわい
カシャン、と自転車のスタンドを上げ漕ぎだし、夕焼けの差し込む校庭を抜け校門を出る。
私たちの会話には独特の間がある。彼とは途中までともに下校するが最後まで無言であることも多い、特に夏は暑さのせいで会話はすべて要約すれば「暑い」になる会話ばかりだ。
交差点に差し掛かり、信号を待っていると彼が口を開いた。
「最近さ、シズクちゃんの様子がおかしいのは知ってる?」
「シズクちゃんってヒラカタさんのこと?確かに最近、元気がないよね」
ヒラカタシズク、高校二年生の私たちの後輩の一人で明るく元気な子で、違うバンドながらも目立っていたが確かに最近はどこか影を落としているように見えた。
彼は少し考え込むように一瞬視線を落とすと、信号が青に変わるとともにゆっくりと自転車を漕ぎ出し、私は彼を追いながら自分のことを考える。いつも彼には欠点を補ってもらっているが、そんな彼に対し私は劣等感も感じていた。
もしかしたらシズクちゃんも何か自分の中でコンプレックスを抱えているのかもしれない。
「シショウ、なにかコンプレックスを感じることってある?」
突然の問いかけに対し彼は驚いたような顔を見せる。初めて見る反応だ。
少し考えたのちに彼は答えた。
「もちろんあるよ、誰だって自分に自信がない部分ってあるよね」
不安そうな、それでいて堂々とした出で立ちで応える彼に私は戸惑いながら返す。
「ヒラカタさんも何か抱えてるんだろうね、きっと」
私は沈黙し、生温い風にさらされながら自分のコンプレックスや、シズクちゃんの悩みに思いを馳せる。
「実はさ、シズクちゃんがこの前、ぼそって言ったんだ」
「なにを?」
「同じ新入生の子にノダちゃんって子がいるでしょ」
「あぁ、ミオちゃんかぁ、凄いよねあの子」
「うん、だからシズクちゃんは自分がその、劣ってるって感じちゃったみたいで」
やはり、というかなんというか、どうにも悪い予想というのは的中してしまう。
「ヒラカタさんも頑張ってるだけに辛いね」
きっと私には彼女に碌なアドバイスを送ることはできないだろう。
「そうだね、だからこそ少しでも気にかけてあげてほしいんだ」
私の空っぽな返答に対し見透かしたような優しい顔をする彼から目を背けそうになるのをグッと堪えて、気返事で返す。
そろそろ分岐点だ。
「シショウ」
「なに?」
顔は合わせない、ただ相手を見つめて話す。
「上手くやってみせるよ」
「頼りにしてるよ」
日が沈みかけた空、夏のじれったい空気の中で私たちは自転車を漕ぎ続けた。
「じゃあねシショウ、また明日」
「うん、ハギワラさん、また明日~」
彼に軽く手を振って別れを告げ、自転車を漕ぎ始める。夕焼けであたりは見事に染まっているが、住宅街のなかに差し込む光と蒸し暑さのせいではっきりとした情報が入ってこず、そのまま家に到着した。
玄関を開けると我が家独特の匂いが出迎えてくれ、リビングに進めば母がタバコを吸いながらテレビを見ていた。
「おかえり~」
間延びした声で迎える母に私もまた間延びした声で「ただいま」と返す。
靴下を洗濯かごに入れた後は手を洗い、自室へと駆け上がる。
家に帰ってギターを下ろした時の解放感は素晴らしいもので、そのまま快楽に身を任せてベッドに飛び込んでしまいたくなるが、自制心を働かせ部屋着に着替える。
机の上に置かれた書きかけのノートを一瞥し、課題の入ったカバンから目を逸らしながらギターを手に取る。
彼の訂正が入った楽譜を見ると彼の紡ぐ言葉の美しさが私では到底及ばないものだと感じる。それは事実であろうとも私が傷つかない理由にはなりえないようだ。
「はぁ・・・」
ため息が漏れてしまうが、構わずにピックを手に取りギターを鳴らし始める。彼の書いたメロディーを奏で、頭の中で歌詞を追いながら鼻歌を歌ってみる。
どうやったらここまで綺麗な詩が作れるんだろう。才能に対するコンプレックスが胸の中で渦巻く、彼のことは嫌いではないし、それどころか軽音部で最も仲の良いメンバーといっても過言ではない、ただ嫉妬してしまうのだ、己より優れた才能に、ぼんやりと暗い感情を抱きながら激しくギターをかき鳴らす。
ドロップCチューニングの安っぽいレスポールギターの音と鼻歌が部屋の中に響き渡る。これが唯一の私の個性で才能で、唯一の慰めだ。
「アオイ~ご飯よ~」
母の声が一階から聞こえ、スマホを起動すると20:42の文字が浮かんでいた。もうそんな時間か、そう思いながらギターをスタンドに立てかけ、リビングに行くと母の料理が食卓に並んでいる。
今日の夕食のおかずは魚の煮物のようだ。
「この魚って何?」
「アカウオっていうの、安かったんだよねそれ~」
私の言葉を皮切りに、魚の話から物価の話、更に兄の進学後の一人暮らしの話へと次々と話題は変わりな柄賑やかに食事をとる。
口には出さないが私はこういった時間が好きで、大切だ。
夕食を終え、ぼんやりとテレビを眺めたあと、お風呂の準備を始めた。
脱衣を済ませて浴室に入るとその時点で気が抜けていくのを感じる。シャワーを出すと冷たい水が私を襲った。
このようなことをするのは兄しかいない、父は風呂の後に冷水を出すという考えは持っていないし、ずぼらな母も几帳面な真似はしない、残るは兄だけだ。
兄に対し心中で悪態をつきながらお湯に切り替え、シャワーを出した。
打たれながら考える。今日のこと、コンプレックスのこと、これからのこと、ぼんやりとした頭で問うても答えは返ってこない、切り替えた私は髪と体を洗い始める。
ショートは楽だ。一時期は髪を伸ばしていた時期もあったが、ショートにしてからは髪を洗うのが楽で伸ばす方が億劫だ。
髪も体も丁寧に洗い、ゆっくりと湯船につかる。体を包み込む心地よさに思わず息が漏れる。暑い日が続くとシャワーだけで済ませてしまいたくなるが、実際に湯船に浸かると心身の疲れが緩やかに取れていく形がする。この時間はそれこそギターを弾いて歌っているときのように悩みを軽くしてくれ、夏のうんざりするような暑さでもこの時間だけは欠かせない。
このままぼんやりと回らない頭で思いついたことを悩んでいたいが、どうにか重い腰を上げて水滴の滴り落ちる短い髪をタオルで拭いていく、髪は楽になったが体を拭くのは面倒くさい、適当に拭いた後は髪を梳きながらドライヤーで乾かしていく。こういった手入れに関してはめんどくさいが丁寧にしないと母がうるさいのだ。
部屋着を着てリビングで麦茶を飲む、しばらくコップを手にしたままぼんやりとテレビを眺める。どうやらバラエティ番組のようだが面白いとは感じられず、ソファでテレビを眺めている両親に面白いのかと尋ねてみると「そんなに」と父が答える。
これ以上テレビに興味を持てなかった私は自室へと戻り課題に手を付け始めた。今日は古典の課題だけで済ませたが、もうすぐテストも始まってくるためノートも見返す必要がある。またシショウに勉強を教えてもらおう。そう思いながら課題を片付け、机に作詞作曲用のルーズリーフを広げる。
しかしいざ机の上に広げられたルーズリーフを眺めると歌詞を書くことができない、浮かんでいたアイデアに不安や疑問が付きまとう、これでいいのか、もっと良い選択は無いかと渦巻く自身のアイデアに対する否定的なことばかりが頭に浮かんでくる。
このままでは埒があかないと思った私は思考を放棄してベッドに飛び込み、頭の中で渦巻くものを掻き消すようにSNSを開いてスラスラとスクロールして見たいものを選んでいく、スマホの充電コードを煩わしく思いながら下らない情報を見て心の中で笑いながら時間をつぶす。何の生産性が無くとも、こうやって娯楽に勤しむことで無為な時間を過ごし焦れる自身を鎮め葛藤から逃げる。こうやってただ楽なほうへと流されていきたい。
目が覚めて握りしめたスマホを確認すると6:13の表示、いつもより早い時間に起きて得した気分にもなるが、何をするにも微妙な時間だ。遮光カーテンを開けると薄暗い外の光が入り込む、朝ごはんを食べるにも早すぎるし、二度寝をするのは気が引ける。昨日のまま広げられたルーズリーフを手に取って通学用カバンにしまい込んだ私はスマホを手に取って動画を見始める。昨日と同じ、何の生産性もない逃げを繰り返す私に嫌気がさす、もっと自分が勤勉であればいいのに、もしもの自分を浮かべて情けなく思う、もっと自分が、もっと周りが、と暗い羨望、どうにもしないことを考えているとスマホからアラームが流れた。
6:40、スマホのアラームを切り支度を始める。時間が過ぎるのは早い、すこし悩んでいるだけでも勝手に過ぎていく、顔を洗ってリビングに行くと母がトーストとジャムを机に並べていた。焼かれたトースト2枚とジャムという簡素なものだが用意してくれるのはありがたい、普段はずぼらだけど食に対して几帳面な母に有難さを感じつつ尋ねる。
「お母さん、ブルーベリーのジャムは?」
「あっ、ごめん買ってくるの忘れてた」
「えぇ、テンション下がるなぁ」
お気に入りのジャムが無いという母の答えに気を落としつつ、適当にいちごジャムを塗りたくったトーストを齧る。
「おはよー」
兄が寝ぼけ眼を擦りながらリビングに降りてきた。すごく眠そうだがどうせまた遅くまで本を読んでいたのだろう、ぼそぼそと何も塗らずにトーストを齧る兄を尻目に洗面所に向かい、歯磨きを終え適当に寝ぐせを整えたら自室で制服に着替える。メイクに関しては私の学校では生徒会の尽力のお陰で軽い物なら可能だが、私はメイクとも呼べない軽いもので済まし、カバンの中身を確認したら余った時間でギターを触る。
今日はちょっとシズクちゃんの様子も気にかけてみよう、そうやって学校のことを考えながら時間をつぶす。
スマホからアラーム音として設定した音楽が鳴り出発する時間であることが告げられる。本当に時間が経つのは早い、いそいそとギターをケースにしまって背負い、カバンを手にもって階段を下りる。
「行ってきまーす」
「いってらっしゃーい」と返ってくる言葉を流し、家を出てすぐに纏わりついてくる暑さに辟易としながら自転車に跨り夏特有の広大な青のなか大きな積乱雲が浮かぶ空の下、地元の小学生たちがはしゃぎまわる道を走る。こんなに暑い日だというのにはしゃぎまわるなんて、小学生の体力に感嘆しながらゆっくりと自転車を漕いでいく、小学生達の通学路を抜けて学校の手前にある交差点が見えてくると同時に背負ったギターの重みが主張を始める。
夏にギターを背負って登校するのは辛いが、チューニングの関係で持ち運ばなくてはならない、なぜ変に気取ってダウンチューニングなんてしてしまったのか、それに合わせた曲ばかり作ってしまうのか、自身に毒づきながら信号を待つ。
「おはようございまーす」
ふと声のした方を向くと、件のシズクちゃんが居た。
「おはようヒラカタさん、この時間に会うなんて珍しいね」
自慢することでもないが私は登校時間が遅い方で、早く登校して勉強をするようなシショウや彼女とは登校中に出くわすことはほぼない、不思議に思い尋ねてみると少し悩んだ後に「夜更かししちゃいまして」と返答した。
確かにこれは様子がおかしい、時に寝坊することは誰にでもあるが眩しくて見ずらかった彼女の顔が伏せった瞬間に深いクマがあるのが見えた。いつもならクマを隠すメイクなど几帳面に施すどころかクマすら作らないと言う彼女の様子を見るに相当悩んでいるようで、私は彼女と話しながら歩くことにした。
「最近なんだか元気ないよね、暑いからしょうがないけど気を落とし過ぎたらもっとバテちゃうよ?」
一瞬なにを話そうか考えたが良い言葉が思い浮かばず結局軽く核心を突いてみることにした。
「そうですよね、最近ちょっと夏バテ気味なんですけど、でもそれで気を落とし過ぎたら余計に疲れちゃいますもんね」
「そうそう、だからもっと軽く元気に行こうよ」
「はい、ありがとうございます」
二人の間に静寂が生まれる。どうしたものか、私たちの距離感では上手く相談するのは難しいみたいだ。少し思案した後に口を開く。
「実は私も夏バテ気味でさ、体だけじゃなくて、心も落ち込んじゃっててさ」
こちらに向けられた彼女の顔を横目に見てゆっくりと話す。
「だけど落ち込んじゃってそのまま、向き合わずにいると何も変わらないんだよね」
どの口が言っているのやら、だけどきっと彼女は乗り越えられるだろう、私と違って。
「先輩はどう向き合われたんですか」
彼女の核心を突いた質問に心が揺れる。私は向き合えていない、ただ向き合わないといけないことを理解しながら逃げ続けているのだ。ただここで向き合えていないと答えたら彼女も逃げるようになるだろうし、玉虫色の答えにも納得しないだろう、私は絞り出すように嘘をついた。
「なんと言ったらいいのか、ただその時はがむしゃらに向き合ってみたんだ、周りに迷惑もかけたけどね」
いま私の声は不安定だろう、目も泳いでいるだろう、だけど振り絞って彼女の目をみた。訝しさ抱いた眼、誠実な目に背きたくなる。
「がむしゃらに、わかりました、私も頑張ってみます」
あまりの責任に心が締め付けられ、ため息が零れそうになったところで彼女が加えて言った。
「ただ、その時は手を貸してくれますか?」
彼女のこちらを試す言葉によい答えを探そうとするも見つからず、彼女の誠実な瞳に負けた私は返した。
「絶対、手を貸すよ」
この言葉に嘘偽りはない、悩みに向き合いながら答えを求める彼女に対して私の言葉は誠実とは言えないだろう、ただこの言葉だけは嘘ではないし嘘にしたくない、私と違って向き合う強さを持つ彼女には良い結果が訪れてほしいと願う。
「ありがとうございます、気にしてくださって」
私たちは無言のまま学校まで歩いた。これで良かったのだろうか、あのような答えは不誠実だっただろう、無責任で憶病な私に嫌気がさす。これで良かったのだ、今から発言を変えるのは不誠実だ。心の中で言い訳をして自信を納得させる。
「先輩、じゃあ私はここで」
ロッカーまで歩いた私たちはまた部室で、と言葉を交わし分かれる。心にしこりが残ったまま私は淡々と教科書を出して靴を履き替える。
蒸し暑い廊下を重い荷物を抱えて歩く、ギターを置くために音楽室のある4Fまで登っていくが足取りは重い、どうにか鍵のある職員室にたどり着いたがあるはずの鍵はなく、一息つく間もなく音楽室に向かうこととなった。
今日の一限目はどの学年も音楽の授業は無かった筈、音楽の先生がまた一人で音楽室に籠っているのかと考えながら階段を上り、音楽室の前まで歩いていくと微かにギターの音が聞こえてくる。ギターの音は拙く、新入部員の誰かが練習しているのかなと思いながらドアを開く。
目に飛び込んできたのはギターを練習するシショウの姿で、こちらに気づいたシショウはクラシックギターをスタンドに立てかけながら照れくさそうに笑みを浮かべて「おはよう」と一言。
動揺した私は挨拶を無視して質問する。
「えっっ、シショウ、ギター始めたの?」
「まぁね、最近ちょっとやってみようと思って」
いやぁ、いつのまにかこんな時間に、なんて言う彼に呆然とする。私にはギターしかない、ボーカルは他にもいるし、作詞もシショウが一番上手いしキーボード、ピアノも彼が一番上手い、そんな中で私の唯一の取り柄がギターだ。だからギターだけは駄目だ。確かに私は部員の中で最もギターが上手いと自負しているし、すぐに追い越されるつもりもない、だけどシショウなら、彼ならもしかして、なんて疑念があった。ありえないとは思うが、どうしても唯一の取り柄を奪われたくない私は彼がギターに触れないことを願っていたのに。
「そうなんだ、いいと思うよ」
曖昧な感想で動揺を取り繕う。
「あっ、ギター置いてくるね」
そう台詞を吐いて音楽室の奥の部屋へと引っ込む。どうしたものか、暑さで回らない頭で考えるが答えは出てこず、シショウの元へと戻る。
「いやぁ、暑いね今日は、今更だけどおはよう」
「鍵は私が返しに行くよ」
とりあえず動揺を隠しきることにした私は捲し立てるように言葉を並べてシショウと音楽室を出る。
「先に教室に戻ってもいいよ」
「すぐそこだし一緒に行くよ」
教室に先に向かうという私の提案は突っぱねられ、鼻歌を歌うシショウを引き連れて職員室まで向かうこととなってしまった。この静寂は居心地が悪い、ゴム製のスリッパを擦る音だけが微かに聞こえる廊下、空回りする頭で言葉を探す。
「その鼻歌って、今つくってる曲だよね」
「あぁ、そうなんだよ、この曲のメロディーが面白くてさ」
どうにかアタリを引き当てれたようだ。このまま曲の話を続けよう。
「そうでしょう、じつは80年代のロックを意識してみたんだよね」
「あぁ、確かに渋めのギターが多いね」
「そうそう、あとその曲なんだけど、ピアノパートももっと欲しいなって思っててさ」
「僕の出番って事だね、じゃあ今日はもっとメロディーをいじくってみようか」
「他のメンバーはどうする?呼ぶ?」
「うーん」
そうこうしているうちに職員室までたどり着くことができた。シショウを待機させて職員室に入ると涼しい空気に包まれる。こっそり一息ついてそそくさと鍵を返却して廊下に出る。
「じゃあ教室に行こうか」
私がそう言って歩き出すとシショウも横に並んで歩く。
「他のメンバーのことだけど、聞いてみてから決めようか、この時期だし」
確かにもうすぐテストが始まろうとしている。私とシショウは良いがメンバー全体の集まりは悪くなるだろう、特に受験を意識しだしている同級生達の大半は勉強に追われている。
「全員出席してればいいけど、聞けなかったらそのとき考えようか、因みに私は部室の方にも顔を出してから行くから」
「うん、じゃあまた放課後ね」
シショウと別れ、教室のドアを開けると数人の視線が一瞬こちらに向けられるのを感じた。居心地の悪さを感じながら自身の席で荷物を整理し、いつものメンバーの元へと向かう。
「おはよー」
挨拶をすると笑顔で迎えてくれる友人たち、その中でもいの一番に反応した岬が問いかける。
「今日はいつもよりちょっと早いね、何かあったの?」
聞かれて時計を見ると短い針が8と9の間を、長い針は6の文字を指している。確かに40分頃、遅刻寸前のチャレンジャーが現れだす時間に教室に滑り込む私にしてはかなり早い入室だ。きっと音楽室でギターの練習をするシショウに驚いて慌てたからだと思うが、そのまま話す気にもなれず、ただシショウに合わせて音楽室を出たからだと答える。
「あぁ、確かに、教室の前で長田君と話していたもんね」
横合いから美玖が口を開く、よく見ているなぁとも思ったが美玖がシショウにお熱だったのを思い出す。彼女はシショウと私の関係を非常に気にかけている。私とシショウの間で別にそういった感情は無いし、それは彼女に伝えているのだから早くアプローチでもしたらいいと思う、そんな態度をとり続けるからシショウに人見知りっぽくて取っつきにくいなどと思われているのだ。この間さりげなくシショウに聞いた彼女の印象を思い出す。
「もう、美玖はそんなに長田君のことが気になるならもっとアピールすればいいのに」
私がなんと言おうか言葉に迷っていると麗奈が私の気持ちを代弁するかのように話し始める。
「葵は長田君に恋愛感情は無いって言ってるし、美玖はもっと自信もって近づいていきなよ」
「確かに葵はそう言ってたし、信じてるよ、でもいざ目の前にするとアピールとかできなくって」
確かに美玖の言い分も分からなくはない、確かにシショウは客観的にみると良い異性だろう、物腰柔らかで、進学校であり偏差値が高めなうちの学校でもトップクラスに入れる学力があり、おまけに顔もいいと来た。こうして並べるとうちの学校の高嶺の花(笑)と呼ばれているのも頷ける。
ただ一つ言うなら、それは美玖だって同じ、というか私からすればシショウの方が釣り合ってないように見える。というのも私の友人たち、ここにいる私を除くメンバー全員が容姿端麗でそれはそれはおモテになるのだ。
まず一人目、岬こと尼崎岬は大層な美人であり、モデルかと思うようなスタイルと顔を持ち、その美貌で入学当初は見に来るものが絶えなかったほどだ。そして美玖を後押しするように発言した人物、笠田麗奈は岬ほどではないものの美人であり、おっとりとした地味系の顔がまた好感を抱かせる。そして何より胸が大きいのだ。
そんなメンバーが綺麗すぎて私まで綺麗になったような錯覚に陥るが、美玖はまた一味違っている。私は岬に関して一番の友人という事もあり贔屓目で見てしまうが、美玖は違う、単純に可愛いのだ。ちんまいが恋愛対象に入る事が出来る丁度いいスタイルに、くりっとした大きな瞳とくせっ毛のポニーテールが織り成す天真爛漫といった言葉が似合う顔、そのアニメから出たような風貌に加え、高い学力も併せ持っている。これで何を尻込みすることがあるのか。
私は麗奈を援護するように口を挟む。
「麗奈も可愛いんだからもっと積極的になりなよ」
「そうそう、受け身じゃ他の子に取られるよ」
空気になりかけていた岬も援護するが美玖はでも、でも、と譲らない。痺れを切らした私は奥の手を使うことにした。
「シショウは美玖のこと可愛いって言ってたよ、ただ、私とシショウの間に恋愛感情が無くても他の部員は知らないよ、案外コロッといっちゃうかも」
畳みかけて決まった。とドヤ顔を披露するが、美玖は前者の内容で一杯らしい、本当に?長田君が?と尋ねてくる。実際にこれは事実であるがめんどくさくなってきた私は岬たちに視線を送ると、二人は最近できた店だか何だかの話をしている。
「ほ、ほらもうすぐ先生が来るだろうし席に着こ、ね?」
どうにか言葉を発し窮地を切り抜けた私は世間話に興じていた二人を睨んで席に着いた。
担任がやってきてホームルームが始まり、テスト前がどうのと定型文が並べられ、そそくさと担任が退出する。教室はまた一瞬、話し声が飛び交うようになるが授業が始まると静けさを取り戻した。
教科書とノートを広げ授業に集中する。問題を解き終わった私はぼんやりとあたりを見渡す。こういう時に後ろから二番目、窓際という席は楽だ。少しのよそ見なら何も言われずにすむ。ぼやっとしていると前の席に座っている岬が話しかけてきた、教えあいは許可されているが大胆な奴だ。
「ねぇ、ここ間違ってるよ」
「あっ、えっ?ほんとだ」
私の様子に岬がクスクスと笑う、意地悪な奴だ。上手く計算できず悩んだ私は岬の丁寧な説明をBGMにしながらふと思い出す。
確か岬と関わるようになったのもこんな出来事が最初だったような。
「ねぇ聞いてる?」
「あっ、ごめん」
「最近いつにも増してぼーっとしすぎじゃない?大丈夫?」
「うん、大丈夫」
ぼーっとして話を聞いていなかった私に怒るどころか心配してくれる岬、申し訳なく思いながら気を入れなおす。
「ん?いつにも増してってどういう意味?」
そんなこんなで授業をこなしていき昼休みになると学校全体が一気に賑やかになる。廊下では食堂に向かう人達が出歩いているが、私たちは机を囲んでお弁当を広げる。
「私、ちょっと部員に予定聞かないといけないから食べたら出るね」
私は皆が了承の声を挙げるのを聞き食べ始め適当に雑談を交わした。お弁当を食べ終わった私は廊下に出て食堂を目指す。この時間ならまドラムとギターは食堂にいるだろう、暑さから逃げるためにも足を速め、渡り廊下へと出る。食堂と校舎を結ぶ渡り廊下は日陰となっているもののグラデーションのように緩やかに暑さが纏わりついて気持ち悪い、駆け抜けるのも体力を使いそうで中途半端なペースで日陰の中を歩き、食堂横の自販機でスポーツドリンクを買って中へ入る。
食堂の中を見渡すと思った通りドラムとギターの二人はだらだらと駄弁っている。
「二人とも、今日の予定を聞いてもいい?」
「あぁ、放課後のこと?残念だけど俺ら三人とも行けないから、ちなみにベースは夏風邪で休み」
「ごめんね、作業は進めといて大丈夫だよ」
どうやらシショウから話は聞いていたらしい、申し訳なさそうに二人は答えた。この時期ならしょうがない、ただギターに関してはまだ何とかなるが、リズム隊が二人ともいないのは痛い、どうにかシショウにリズムを頑張ってもらうしかないだろう。二人に礼を述べこの場を後にして教室へと戻る。
昼休み後の気だるい授業を乗り越えた放課後、シズクちゃんの様子を見るため音楽室を覗くと話し声が聞こえてきた。
「私、実はあなたに嫉妬してたの」
「えっ」
どうやら件のノダちゃんとシズクちゃんの二人が話し合ってるようだ。上手く状況がつかめない私はそのまま聞き耳を立てて静観することにした。
「私は確かにギターもPAもできる。だけどあなたみたいに真剣に向き合うことは難しいし、ドラムも叩けない」
「そうはいっても私はあなたのように人気者じゃない」
「本当にそう?私は上辺だけ、本当に頼られているのはあなたじゃない?」
「けれど」
「確かに私には貴方より優れた部分があるかもしれない、だけど貴方にも私より優れた部分がある」
そういって彼女は自身の醜い感情を吐露する。どちらも互いに劣等感を抱きあっていたのだろう。それこそ周りが想像する以上に、私が彼女たちのどちらを信用しているか、どちらが優れているか聞かれたとしたら、きっと大いに悩むし、差はないと答えるだろう。
確かに人は他人を評価するが、その判断は当人が思っている以上に無頓着で適当なのだ。
「私たちはきっとお互いの良いところしか見えていないんだと思う」
「だけどお互いにより優れた部分があるのも事実」
「それは補完しあえるものでしょう?」
「けど代替品になることも不可能じゃない」
会話が激化する。一方は否定し現実を見たように、もう一方は諭すようでいてすがるようでもある。二人に会話でシショウがギターの練習をしていたのを思い出す。きっとどちらもアイデンティティが失われるのが怖いのだろう、そして自信を構成する不明瞭なそれをあると信じるしかないからこそこうなったのだと思う。
会話に割り込もうかと考えたところでもう一人が口を開いた。
「けれど、誰かが代替品になろうと私は私、失われるわけじゃない」
何をいっているのだろうか、確かに誰かが自身のポジションに立とうとも自身は不変である。だが周囲からすれば自身とその他は同じであり個性なんて無意味なものになるのではないか。
「個性に他の評価を持ち込むから、代わりなんて思っちゃうんだ」
確かに自身の変わりは存在しないのかもしれない、だけど周囲から見て同じではその個性の意味がないのでは。彼女は私を置いて話し続けた。
「確かに周囲の影響を受けて形成される個性もある。でもすべてを他人に委ねた個性は本当に個性?」
しかし他人に認められたいだろう、もっと凄い個性があるだろう。
「それは」
なんだというのか、結局アイデンティティとは何なのか、人より劣った自分が個性とでも言うのか。
「本当に幸せにつながる?」
やはり何を言っているのか理解できない、暑さのせいか汗が顔の表面をなぞるのを感じる。幸せに決まってるだろう、能力があればできることも増えるし、認められる。
「確かにこんな才能があれば、こんなことができればと思う」
「だけど、それで満足できる?」
満足、確かにいくらより良い個性を身に着けたところで満たされることはないだろう、ギターという個性を持ちながらも、別の才能を求めている事実と、他人からの評価を求める姿勢がそれを表している。どれだけ努力をしても他人に評価を委ねる以上は満たされることはないだろう。
人は他人の粗ぐらい容易に探し出すだろうし、何より自分自身が他人を見て持ってないものに注目してしまうだろう。
「だから私には自分の個性だと言える、信じれるものが芯に必要なんだと思う」
信じれるもの、誰の判断でもない思い込み、だからこそ揺らがない個性の芯になりえる。私の個性、信じれるものは何だろう?
「芯…」
「確かに私には無い、本当に足りないものってそれなんだろうね」
「ううん、きっと無いわけじゃない、覚えてないだけなんだ、だから心がくすぶられる」
そうだ。アーティストの演奏を見ているとき、妙にギターを弾きたくなる時がある。心の中で燃え切らないまま煙だけ上がるものがある。
「きっとそれが個性の芯なんだね」
「多分お互いに、私が貴方に劣等感を感じていたのは、あなたを見てくすぶっていた個性に気づいてなかったから、それを承認欲求と混ぜ、能力そのものを欲しがっていたから」
「私が欲しいのは貴方の能力じゃなかった、ただ並んで楽しく弾けたら良かったんだ」
私も昔見たロックスターの映像を思い出す。その技巧に惚れたのは間違いない、だけど、何よりその楽しそうな光景に惚れたんだ。
「そこに降り積もっていったものでだんだんと原型を見失っていったんだ」
「たぶん私は貴方のことをしっかりと見れていなかった」
「だから、ごめん」
私はどうなんだろう、シショウのことをしっかりと見れているだろうか、私はシショウのことを上手く捉えられていないのではないか、考え込んでいるとシズクちゃんが部室から出てきた。
「先輩、来てくれてたんですね」
「あっ、うん一応様子だけ見とこうと思って、ごめんね盗み聞きする形になっちゃって」
驚きながらも取り繕う。
「いえ、気にかけてくださってありがとうございます」
「じゃあ、私は音楽室に行くから」
「はい」
先輩も頑張ってくださいね、後輩の見透かしたような声を背に受け音楽室に向かう、結局は何も分からないままだ。アイデンティティとは、自分は何を考えているのか分からない。
音楽室に入ると朝と同じようにシショウがギターの練習をしながら待っていた。
「うわっ、汗びっしょりじゃん」
言われてみれば、ずっと廊下に立っていたのだから発汗量は凄まじいだろう、しかしデリカシーの欠片もない発言をするシショウを睨み、温くなったスポーツドリンクを飲みながら考える。
こういった目に見えて悪いところは捉えてられているとは思うが、実際に何を捉え切れていないのかそれすら分からない、じっくりとギターの練習をするシショウを見る。
「へたくそだなぁ」
「えっ」
シショウが驚いたような顔をしているが当たり前だ。素人丸出しの拙い練習に等身大のシショウが見えた。それこそ、この調子では私に追いつくには凄まじい年月が掛かるだろう。何をおびえて意識していたのか、そもそも彼がギターを弾けたところで私のやりたいことは変わらない、ギタースタンドからもう一本クラシックギターを取り出しシショウの前に座る。
「教えてくれるの?」
「見てられないからな」
「打ち合わせは?いいの?」
しつこいのは相変わらずのようで質問攻めにするシショウに向かって答える。
「明日やればいいでしょ」
「勉強はいつする?」
「ん」
「ちょっと」
よくよく考えれば、こいつにもできないことは多い、例えば人の心を見透かしたような眼をする癖に先ほどのようなデリカシーのない発言をすることもあれば、自身の想定と違う行動に翻弄されることもある。ほら今も私に振り回されている。ただそれは悪いことじゃない、そのおかげで楽しいやり取りができるし可愛げみたいなものが生まれている。私もきっとそうだ。要は自分を認めることが大事なのだろう。
座って一緒に練習をしたところシショウにギターの才能が無いことが判明し、ギターの練習に一区切りがついたころには日が傾き始めていた。
「ねぇ」
「なに?」
「私、シショウにコンプレックスがあったんだ」
こんなに簡単に口に出せる日が来るとは夢にも思わなかった。暗い感情のはずなのに口に出したことに対する後悔なんてものは微塵も湧いてこない。
「知ってた」
やはりデリカシーのない男だ。ここは知らなかったふりをするべきではないのか、シショウの軽い返答に感謝しつつ訪ねる。
「シショウは私にどんなコンプレックスを抱いていたの?」
「知ってたの?」
今度はこいつが驚く番だ。というか本気でバレていないと思っていたのか、案外こいつは自分がわかりやすいタイプであることを理解していないようだ。こういうところもシショウらしさの一つだろう。
「僕はさ君の」
「ギターでしょ」
「当たってるけど、ちょっと違う」
遮った私も悪いが認めないなんて往生際の悪い奴だ。目線で続きを促す。
「僕は君が自分で個性を見つけ出したことが羨ましかったんだ」
「ほーん」
「きいてる?続きを話すけど、僕の個性って子供の時からやってたピアノなんだ」
ただ与えられたものを個性って言ってるんだ。そう付け足して彼は溜息を吐いた。だけど
「だけど個性ってそういうものじゃない?」
「えっ」
「私のギターも結局小さいころに見たアーティストの映像が切っ掛けだし、得たものの中で取捨選択して自分のものと言い張ったのが個性なんじゃないの?」
実際、彼がアイデンティティの切っ掛けと主張するピアノはいつでも捨てられた筈だ。親の意向だとかもあるかもしれないが、ここまで続けてきたのはシショウ自身が選択してきたからだろう。加えて私がギターに特殊さを求めたのも結局は特殊イコール個性と勘違いしていたからで、自身のギターを特殊なものにしたのも特殊なギターの例を知っていたからだ。
「それに知らないもんをどうやってアイデンティティにするの?」
「確かに、じゃあ悩んできたのも無駄ってこと」
「それはちょっと違うでしょ」
「恥ずかしいこんな奴と張り合ってたなんて」
「おい」
ついこの間まで重く捉えていたのを馬鹿みたいに感じる。いや実際に軽い話題という訳ではないがそれでもこうやって口に出していざ割り切ってみれば、もっと気楽になったように感じる。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
荷物を片付けてギターを背負う、どうやってもこれの重さは変わらないみたいだ。
昨日と同じように駄弁りながら職員室に向かい、鍵を返す。ちなみにじゃんけんは今日も勝つことができた。この調子で自販機前のじゃんけんにも勝ちたい。そう願いながら駐輪場の自販機に近づくとシショウが財布を取り出した。
「今日は僕が奢るよ」
なんと殊勝な心掛けだろうか、今までで初めての行動を疑問に思い訳を尋ねると「シズクちゃんの件のお礼」と返ってきた。
「流石に悪いよ」
「お礼だから」
「私が恩着せがましいみたいじゃん、普通に奢ってよ」
「いや普通に奢るってなんだよ」
実際、私には恩を売ったつもりはない、逆に後押しされた気分でもある。先輩に似て個性的な奴だった。
「それこそヒラカタさんに奢ってあげなよ、私は何もしてないから」
これは本心だ。彼女にその気があったか定かではないが結局は彼女に助けられたのだから、私はそれこそ何もしてあげられていない。
「大丈夫、どっちにも奢るから」
どういう暴論なんだ。初めて負けたら奢られるという形式のじゃんけんをした。結果は昨日と同じ敗北、奢られる側がここまでの敗北感を得ることはなかなか無いだろう。
「夏は麦茶が一番だなぁ」
駐輪場の屋根の下で押し付けられた麦茶を飲みながらゆっくりと涼む、学校の裏手の畑から吹き抜ける風が心地よい、ただ比較的涼しくとも長居するには暑い、重いギターをしっかりと背負い自転車に跨った。
無言の中で自転車を漕ぐ音が響くも、セミの鳴き声によってあっという間に掻き消されていく。
「つぎから後輩に関することはハギワラさんに任せようかな」
「おいやめろ」
暑さが気にならないくらい軽いジョークを飛ばしあいながら自転車を漕いで走る。夏の帰り道をこんなにも短く感じたのは初めてだ。
家に着くと母が鍋に火をかけており、気になって横からのぞき込むとその正体が見えた。どうやら夕飯はカレーのようだ。母は本格的に暑くなってくると夏野菜カレーを作る。というのも母曰く夏は暑さが始まった時期の食生活が肝心で様々な栄養を手軽に摂れ、旬の野菜を使えるカレーは万能食らしい、母が鍋を睨みながら口を開く。
「部活もいいけど勉強はどう?ちゃんとやってる?」
「一応ね」
母の質問の答えをはぐらかしコップに麦茶を注ぐ、自販機で売られているとは違った風味のする家の麦茶は夏にぴったりで、涼しさが体中に広がっていくのを感じる。
自室のドアを開くと良い感じに夕日が差し込んでおり所謂エモい風景が出来上がっていた。ギタースタンドにケースから取り出したブラウンのレスポールタイプのギターを立てかけると夕日に照らされ、一枚の写真のように完成された風景が出来上がる。
「やっぱり、夕日にはブラウンのレスポールだよね」
自慢のギターが織り成す美しい光景に思わず口角が上がるのを感じる。このまま見とれて時間が過ぎる前にギターを手に取り弦を鳴らす。
ただ無心で弾きたい弦、弾きたいコード、弾きたいフレーズを鳴らし悦に浸る。もっと昔、ギターを始めた頃にただただ触って音を楽しんでいたのを思い出した。
そうして時間が過ぎふと時計を見ると、夕食の時間が近づいているのに気付きリビングに降りると丁度お皿を運んでいる最中だったようで、母から皿を受け取って並べていく、皿が並べ終わると同時に兄も自室から出てきて食卓に着くが、父は穴が開いた靴下を勿体無いといって放置したせいで母に怒られている。
やっと父が食卓に着くと皆一緒に食べ始める。家では別に父が食べるまで食べてはいけないとかそういったルールは無いが、やはり食卓は囲んで食べるのが一番だ。
夕食を終え食器を片付けてお風呂に入る。リラックスしてお湯に浸かることが随分と久しぶりに感じる。ただただぼーっとお湯に浸かる。それだけのことがなぜこんなにも心地よいのか、訳も分からないことだが一切の思考を放棄して湯船に浸かる。
お風呂を出た頃には時間は驚くほど進んでいて、課題のためにもお茶を飲んですぐに自室に引っ込んだ。悩みはなくなったかのように思えるがそんなことは無いし、すぐ目の前に課題に進路にと分かりやすい問題がそびえたっている。
しかし一つの憂いが軽くなるだけで思考はクリアになるようで、今日の授業であんなに苦戦した問題もスラスラと解けている。
そして課題を思ったよりも早く終えることができた私はその勢いに任せて日記のようなものを書くことにした。日記のようなものというのも、結局アイデンティティとは、自分を認めるとは何かつかみ切れないからノートに箇条書きしようと思っただけで別に深い意味はない、そうやって髪を目の前にして思っていたこと、感じていたこと、行動を書いていくだけのものである。
ただこの行動が思いのほか楽しかったのもあって時刻はいつの間にか3:00を過ぎてしまい、それに気づいた私はベッドに潜り瞼を閉じた。
目覚まし時計の音で目覚め、眼を擦りながらも二度寝を避けるため早めに体を起こす。
リビングに降りると朝食の準備をしていた母に一言告げ、朝食を簡単に済ませる。
「お母さん、ブルーベリーのジャム冷蔵庫にしまっとくから」
「今日は早く出るの?」
「うん」
どうにか支度を素早く終わらせることができたので出る前にちょっとでもギターを触ろうとしたが、あまりにも睡魔が酷く断念して荷物を背負って家を出た。
強烈な睡魔もどうにか炎天下のお陰でましにはなったものの、暑さはやはり煩わしく、いつもの交差点を大きな欠伸をして待つ。すると後ろから声を掛けられた。
「おはようございまーす」
朝、しかもこの炎天下だというのに元気なものだ。そう思いながら私も声の主に挨拶を返す。
「おはよう、ヒラカタさん」
振り向いて顔を見ると昨日までと様子が違うのが確認できる。クマはまだ残っているものの顔の険がとれ、雰囲気も入部したばかりの頃のような爽やかさに戻っている。
「元気そうだね」
「はい、お陰様で」
元気よく受け答えする様子で立ち直ったのが確認できる。こんなにも爽やかな子でも暗い感情や思い悩みを抱くのだ。きっとこれからも同じようなことで悩むことがあるだろうが、彼女を見ているとそんな自分も肯定できるようになれると思った。
「私は何もしてないから、お礼なんて言わなくていいよ、それよりいまから飲み物を奢ってあげるからそれに感謝して」
「えっ奢ってくれるんですか?」
「当たり前じゃん」
昨日シショウにはシズクちゃんに奢ってあげてと言ったが、助けてもらった本人が何もしないわけが無いだろう、二人で駐輪場のそばにある自販機へと向かう。
後輩とも仲良くなれたし悪くない経験だったかも、なんて思いながら麦茶を握って校舎に入っていく。
シズクちゃんと別れた後、音楽室に入るとそこでは昨日と同じようにシショウがギターの練習をしていた。彼の指が弦を滑る音がまだ静かな部屋に響いている。シショウはいつもより早い登校に驚きながらも、その時間を有効活用しようと、昨日の練習の続きをしていた。しかし、今日は一年生が一限目から音楽の授業を受けるらしく、教師によって音楽室から追い出されることになった。シショウが不満そうにギターを片付ける姿と私が教師に駄々をこねる姿をシズクちゃんに見られ、目があった瞬間に軽く苦笑いをされた。その顔には彼女の優しさと少しの同情が見え、それがより羞恥心を掻き立てた。シショウがギターを直して振り向くと、私はシズクちゃんに軽く手を振り、教室へと向かった。教室に着くと窓から差し込む朝の光が机の上に粒を描いていたが、暑い日差しに対して無慈悲にカーテンを閉めた。
これからは悩みが付きまとわない学校生活を心から楽しもうと決意していたが、午前の授業が始まるとまたもや睡魔が私を襲ってきた。眠気が徐々に襲いかかり、まるで自分の体の重心が変化し続けているように感じた。眠気に抗い頭を揺らしながら授業を受ける私の姿は、岬たちにとって格好の笑いのネタとなり、クスクスと笑い声が教室に広がった。
どうにかこうにか睡魔が落ち着くころには、放課後のチャイムが校内に鳴り響いていた。授業の終わりを告げるその音が、午後の穏やかな空気に溶け込んでいく。部室にちらっと顔を出すと、シズクちゃんとノダちゃんが、楽しげに勉強をしながらお互いにちょっかいを出し合っているのが目に入った。ふたりの楽しげなやり取りに、少し羨ましさを感じながら、私はそそくさと音楽室へと足を運んだ。音楽室のドアを開けると、そこには静かな空間が広がり、心地よい余韻が残っていた。
どうやら今日もシショウと私以外のメンバーは来ていないようだった。話し合った結果、昨日できなかった分の作曲をすることに決めた。音楽室の机に紙を広げ、作詞の紙を出そうとした。
「なにこれ?」
しまった。気づいた時にはもう遅かった。シショウは私が昨日描いた日記もどきを手に取り読みふけっている。本当に無神経な男だな、こいつは。私の日記だと言い出すのも恥ずかしくどう言い訳しようかと戸惑っていると、シショウが突拍子もないことを言い出した。
「この歌詞、いいね」
「は?」
どこをどう読めば歌詞になるんだ。という言葉を引っ込めたが、結局それを要約した一文字が口から飛び出した。
「いや、これいつもの歌詞より面白いよ」
シショウはまだ紙から目を離さないまま続ける。
「いや、でもそれ文にすらなってないし」
深夜のテンションで単語を寄せ集めた自身の感情を書き殴っただけの文。それがどうして面白いと言えるのか。
「いいんだよ、そんなの。それよりこの詩にはもっと強い魅力がある」
「そんなのどこにあるの?」
ただ単語を並べただけの乱文にどんな魅力があるというのか。書き殴られた単語だけの韻すら踏んでいない言葉の羅列を思い出し、呆れた様子の私に対し、シショウは冷静を装いながらも熱を込めて言った。
「確かにこの詩は一つも韻を踏んでないし、気持ち悪い単語の並んだ気持ち悪い詩だ」
シショウの言葉に少しイラっとしたが話を聞いてみると、どうやら彼は私が書いた単語の寄せ集めに現実の感情が込められていると感じたらしい。確かにその文にはリアルな感情があるだろう、ただの日記なんだから。そんな事を思いながらも口には出せず、歌詞として加筆していくことになってしまった。面倒臭くなった私は殆どをシショウに放り投げることにした。
シショウはペンを手に取り机の上に広げた紙に何かをメモし始める。その姿を見て、私も少しずつこの奇妙な状況に適応し始めた。
表現は自由といえども限度があるだろう、呆れながら辺りを見渡すと窓から差し込む日の光がピカピカのグランドピアノや机に反射し私達を照らしているのに気づいた。
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赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
私の隣は、心が見えない男の子
舟渡あさひ
青春
人の心を五感で感じ取れる少女、人見一透。
隣の席の男子は九十九くん。一透は彼の心が上手く読み取れない。
二人はこの春から、同じクラスの高校生。
一透は九十九くんの心の様子が気になって、彼の観察を始めることにしました。
きっと彼が、私の求める答えを持っている。そう信じて。
虹色の花束
じゅんとく
青春
小さなバーで、ライブを公演している女性シンガーソングライターに花束を届けに来た男性…
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「ありがとうを伝えに来ました…」
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