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第一章 冒険者世界アリスト編
第48話 窮鼠
しおりを挟むスラムと下町の境にある酒場で、一人の男が酒を飲んでいた。
酒を飲む、というより、コップから零れ落ちた酒の中に顔を浮かべていた。
店主も、こういった客には慣れているのか、近くにも寄らない。
男は、高価そうなローブを着いたが、それが泥で汚れていた。
おまけに、異臭がする。
何日も、入浴していないのかもしれない。
男の顔は、コウモリを思わせた。
いや、もともと肉付きの薄い、その肉がさらに薄くなり、骸骨そのものが浮かび上がっていた。
男の耳に、聞くとはなしに、酒場の噂話が入ってきた。
「本当かい? じゃ、今、お国は大変なことになってるな」
「開戦宣言なんか出したから、罰が当たったんじゃねえのか」
「まあな。 戦争なんて、俺っち下々は苦しむばかりだからな」
「でも、勇者様が帰って来たから、安心かもよ」
「お、帰って来たのか。 どっか行ってたって、話だったからな」
「帰って来たとたん、王が死ぬなんて。
勇者が、やったんじゃないのか?」
「ばかっ! 滅相もないこと言うなよ。
下手したら、袋叩きに遭うぜ」
「冗談に、決まってるだろ」
酒飲みの支離滅裂が、真相を暴くこともある。
国の裏で働いてきたコウモリには、酒場の噂話が、真相の一端を捉えているような気がしてならなかった。
思えば、勇者がこの町にやって来てから、どこか歯車が狂い始めたのではなかったか。
朦朧とする頭で考えようとするが、二日酔いと、服用してきた薬の副作用で、集めかけた思考が、煙のように消えていく。
思考の断片が絡み合い、はじき出した答えは、全ての元凶が、勇者であるというものであった。
狂気が生んだこの結論が、あながち的を外していないのは、運命のいたずらとしか言いようがなかった。
男は、金額も数えず、硬貨をばらまいて、その店を後にした。
復讐。 この男に、生きる目的が出来た。
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舞子は、普段から、あまり寝つきがよい方ではない。
昼間に史郎の言葉を聞いて、いつも以上に眠れなくなっていた。
既に、深夜も近いと思われた。
最近は、この部屋まで来ることがない、聖女付きの女官が、ノックの後、静かに入ってきた。
「聖女様。 なかなか、お休みになれないということでしたが」
メイドたちの報告は、逐一この女のところに集まる。
「お水を、取り換えておきます。
では、失礼します」
舞子が気を付けて観察すれば、いつもは浮かぬ顔の女官が、目を輝かせ、口元に笑みを浮かべているのに気(き)づけたであろう。
「ありがとう」
女官が出ていくと、ベッドから降り、水差しの水をコップに注ぐ。
水からは、いつもは無い、甘い香りがした。
横になると、あっという間に瞼が重くなり、眠りに落ちる。
しばらくして、再びドアが開いても、目を覚まさなかった。
深く眠っているようだ。
入って来たのは、先ほどの女官だった。
しかし、服装は、なぜかメイドのものである。
洗濯物を回収するための、荷車を押していた。
女官は、思わぬ力で、眠ったままの舞子を抱え上げる。
荷車に載せると、膝を抱えるような格好にさせた。
そして、彼女の上に、シーツを掛ける。
「ふうー」
女官は一つ息をつき、ニヤリと笑うと、荷車を押して部屋から出て行った。
あの男から言われたように、部屋を出る前に、枕元にある指輪を、ポケットに入れるのを忘れなかった。
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舞子が目覚めたのは、粗末な狭い小屋の中だった。
いや、体がふわふわ揺れるところをみると、船中かもしれない。
時々、木がこすれるような音がしている。
朝の訪れを告げる大聖堂の鐘の音が、遠くで、かすかに聞こえている。
服装は寝た時のままで、足首と手首が縄で結わえられていた。
彼女は気づかなかったが、指にはなぜか、寝る前に外した多言語理解の指輪があった。
船酔いしたのか、頭が重く、思考に霞が掛かっている。
やがて、意識がはっきりしてくると、史郎との約束を思い出した。
「こ、ここはどこ? 早く帰らなくちゃ」
史郎との約束が頭を過り、それを守れないかもしれないことが心を痛め付けた。
彼との約束の前では、自分がかどわかされたかもしれないことなど、気にもならなかった。
板天井の隙間から、針金のような朝の光が斜めに差し込んでいる。
夜が明けて、あまり時間が立っていないようだ。
突然、壁と思っていたところが、四角く開いて、痩せた男が入って来た。
何かに似ている。
舞子は、そう思った。
そう、コウモリ。
コウモリに、似ている。
コウモリ男は、こちらを見ると、しわがれた声で話し掛けた。
「目覚めましたかな」
「ここは、どこです。
私は、人と会う約束があるの。
すぐに、帰して下さい」
「それは、無理ですな。
あなたには、いろいろ、やってもらわねばならん」
「時間が無いのです。
すぐに帰して下さい!」
必死な舞子の姿を見ても、コウモリ男は、何も感じないようだった。
「入ってこい」
男が声を掛けると、戸口から、もう一人が入ってきた。
その顔を見て、舞子が驚く。
「あ、あなたは!」
聖女付きの、女官であった。
「この時を、どれほど待ったか。
すぐに、始めてもらえる?」
「そうしよう」
男が、懐から何かを出し、女官に手渡した。
それは、多言語理解の指輪だった。
女が、それを着ける。
男は、舞子の隣に女を座らせると、二人の指輪が触れるように手を重ねさせた。
「いいか、動くなよ」
男が呪文を唱えだすと、男の周囲に、様々な色の光の粒子が、飛び交うのが見(み)えた。
「魂よ。
いまこそ交わりて、新しき主に宿らん・・
換魂の術!」
光の粒子が体に触れると、女官の体がパタリと倒れた。
舞子は、これから何が起こるのか分からず、怯えている。
コウモリ男が、舞子には何も起こらないのを見て、焦りだす。
「ど、どうしたんだ!
なぜ、魂が入れ替わらない!」
多言語理解の指輪に秘められた、最大の禁忌は、魔術によって人の魂を入れ替えるものだった。
「もしやっ!」
男が舞子の手首を握り、持ち上げる。
「痛いっ!」
「お、お前っ! この指輪は、なんだ!」
「ゆ、指輪?」
そういえば、王城で事件があった後、史郎が、この指輪を前の指輪と交換したのだった。
そのとき感じた胸のうずきまで、はっきり覚えている。
「あの指輪じゃない・・」
やっとコウモリ男は、自分の魔術が失敗したことに気付いた。
こうなれば、次善の策を選ぶしかない。
力を失った女官の体にロープを巻き、部屋から外に出る。
船上で予備の錨をそのロープに括り付けると、ためらいなく女官の体ごと、湖に投げ込むのだった。
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女官は、コウモリ男が魔術を唱えた途端、自分の体から意識が抜け出すのを感じた。
その意識は、聖女のすぐ上で、フワフワと浮いている。
これから起こることを考えると、体など無いはずなのに、全身が熱くなるような感覚を覚えた。
驚きに満ちた、コウモリ男の声を聴くまでは。
「ど、どうしたんだ! なぜ、魂が入れ替わらない!」
な、何が起こってるの?
意識だけの存在なので、コウモリ男に問いただすことさえできない。
男が、さっきまで自分の体だったものにロープを巻き付けだすと、意識が冷たくなるような気がした。
この男は、いったい何をしてるの?
しかし、まだ、それで終わりではなかった。
男が自分の体を担いで船室から出るのを見て、危機感を覚えた。
私の体を、どうしようというの?
女官の意識は、男を追いかけようとした。
しかし、ドアの手前までしか動けなかった。
仕方なく、上へ向かって動いた。
意識は、やすやすと木の板を抜け、船上へ出た。
そこにあったのは、目を疑うような光景だった。
錨が括り付けられた自分の体が、今まさに、湖に投げ込まれようとしていたのだ。
やっ、やめてーっ!
意識がとてつもない悲鳴をあげたが、音にはならない。
男の耳に届くはずもなかった。
低い水音とともに、自分の体が、水面下に消えた。
少しの間、感覚を失っていたようだ。
女官は、自分の意識が体を失ってもなお存在し続けていること、なぜか聖女から一定の距離までしか離れられないことを知った。
自分が、成り代わるはずだった聖女。
その聖女が多くの人を癒し、称賛を浴びるのを、間近で見続けなければならない。
それは、彼女にとって、永遠に続く地獄の始まりだった。
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