恋愛ノスタルジー

友崎沙咲

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悲しいキス

《2》

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「こんばんは」

驚いていた心が徐々に落ち着きを取り戻す。
真っ先に思ったのは彼女がスタイルのいい美人だということと、凌央さんの家に自由に出入り出来る権利がある立場なんだということ。
それから……彼女の眼差しの温度から、私に友好的感情がまるでないということ。

「優。この娘は前に話した俺のアシスタント」

凌央さんが彼女にそう言ったから、私は慌てて頭を下げた。

「峯岸彩と申します」
「……立花優です」

言い終えるなり彼女は私から凌央さんに向き直った。

「社長。イラストペンと用紙のセット販売の件ですが、もう少し時間をいただきたいのですが」
「……なんで?」

凌央さんが少し厳しい顔をしてジーンズに両手を突っ込んだ。

「時間経過とともに50色の発色に問題が生じないかもう一度確認したいんです」
「そんな段階はとうに過ぎてる。クリアしたから販売日が決まったんだろうが。お前今頃何言ってるんだ」

「ペンに使用した水性顔料インクは完璧です。ただ、セットで販売するというのは当社に新たな責任が生じます。用紙との相性という部分で。JG製紙とはこのたび初めての取引ですし」

凌央さんがあり得ないといった風に大きく息をついた。

「……契約書を交わしたんだぞ。今更JG製紙以外はありえない」
「だからJG製紙の用紙の中でもよりわが社の作り出した顔料インクが美しく映えるものを選びたいんです。そのくらいの時間、さいて下さってもいいのではありませんか?」
「多少インクを弾いたとしても表面のコーティングを消ゴムで落としゃいけるだろーが」

ムッとして横を向いた凌央さんに立花優さんが話しながら近づく。

「何の為のセット販売?プロじゃあるまいし未経験者が紙にこだわりがあるとでも?素人にも手軽にイラストにチャレンジしてもらう為のセット販売でしょ?」
「……」

カツンとヒールが鳴り終えた頃、立花優さんは至近距離から凌央さんを見上げて勝ち誇ったような笑みを見せた。

「とにかくご検討を。私はこれで失礼します。新作のポスターカラー、ここにおいておきますね」
「……ああ。彩、ちょっと下まで送ってくるわ」
「あ、は、はい」

急に名前を呼ばれて、私は弾かれたように返事をした。
新作のポスターカラー……。
ん?

立花優さんが置いて帰ったポスターカラーの隣に、赤い手帳が置き去りになっている。
もしかして、彼女の忘れ物なんじゃ……。
私はそれを手に取ると確認のために玄関へと急いだ。

「あ、あの……」

行くんじゃなかったって、心の底から後悔した。
だって二人が、キスしてたから。

*****

何がなんだか分からないうちにカレーを作り終え、私は凌央さんのマンションを出た。
地下鉄の中でも立花優さんの顔や艶のある黒髪が頭から離れない。
それから、玄関で凌央さんの首に絡めていた華奢な腕も。

「ああ……手帳。忘れてたわ。ありがとう」

キスを終え、私を見た立花優さんの目差しが胸に突き刺さる。
……彼女……凌央さんが好きなんだ。
じゃあ、凌央さんは?
凌央さんは立花さんが好きなの?
あの時の凌央さんは、どんな感じだった?

……分からない。全然思い出せない。
いや、思い出せないんじゃない。
立花さんとキスをした凌央さんを、私は怖くて見れなかったんだ。

付き合っているのだろうか。
ふたりは恋人同士なのだろうか。
頭の中はめまぐるしいのに、まるで思考がまとまらない。

鼓動が早くて苦しくて、マンションに着くと私は荷物を玄関に放置したままバスルームへと駆け込んだ。
洗面台の鏡に写る顔が、何とも間抜けだ。
よく考えたら、凌央さんみたいな素敵な人に恋人がいないわけがない。
……無鉄砲にも程がある。

熱いシャワーを浴び終えても、私の心はスッキリしない。
冷蔵庫を覗き込むと、一番にワインを見つけた。

『アキにもらったんだけど、二本あるから一本やるよ』

少し笑った凌央さんの顔。
差し出されたワインを受け取りながらドキドキしたのを覚えている。
だって、凌央さんに何かを貰ったのはこのワインが初めてだったから。

「凌央さん……」

ポツンと呟いても、私のそれに誰も気づかない。
圭吾さんはきっと今夜も遅いだろう。
私はワインのボトルを握りしめると小さく息をついた。

*****


「あっははははっ!は、はは……」

テレビを観ながらワインを飲めば少しは気分もましになるかと思ったのに、胸は苦しいままだった。
……立花さんって綺麗だし、あの時のふたりの会話からして、きっと仕事の出来る女性なんだろうな。

それに比べて私には何の取り柄もない。
容姿がずば抜けて美しい訳でも気が利くわけでもなく、婚約者には嫌われていて好きな人にはキスする関係の人がいて。

このまま三ヶ月が経つと私は凌央さんと離れ、圭吾さんと愛のない結婚生活を始めなければならないのだ。
そう思った途端、ジワリジワリとテレビの画面が滲んだ。
そこからはアッという間で、たちまち涙が頬を伝って落ちる。

「荷物が玄関に、」
「……っ、おかえりなさい」

圭吾さんだ、どうしよう。
慌てて顔をそむけたものの、不自然な涙声に彼の言葉が止まった。

「……どうした」
「っ……な、んにも、ないです」
「……」

やだ、凄く気まずい。

「あ、あの夕飯は……きゃあっ!」

しつこく湧き出てくる涙を拭おうと上げた手が空のワイングラスに当たり、カシャンと割れた。

「ごめんなさい!」
「触るな」

短くそう言うと、圭吾さんはソファに荷物を置いた。
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