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3 フェントラミン
第8帖 配給品
しおりを挟むとうの昔に使われなくなった涸れた池を過ぎ、昇降口に至る。昇降口には大勢の生徒たちが詰めかけていた。
乗合自動車から降車した生徒たちが一斉に殺到していた。それに今は遅刻ぎりぎりの時刻である。運が悪かった。あのとき風紀委員に足止めを食わなければ……と思う反面、フェントラミンは反省した。僕がちゃんと毎朝礼拝をしなかったせいでもあるんだ、と模範的な解答と共に。
そうすることでフェントラミンは心に安らぎを得られた。もし心の中を見られても、批判だと言われることはない。そんな誤摩化しの安らぎを得る。
一方で心のどこかに傷が付いた気がした。自分に嘘を吐いている。そして嘘を自覚しつつも正当化する。火星平和委員会という存在を言い訳にして、フェントラミンは自己を正当化していた。
フェントラミンは昇降口の人口が減るまで待った。ある程度少なくなったところで彼らと同じように靴を脱ぐ。
入学時に配給された海獣革の靴はあちこちほつれがあり、歴年の使用感を一層深いものにしている。フェントラミンが履いたからこんなにぼろぼろなのではない。最初からぼろぼろだった。角は欠けたり劣化で剥がれたりしている。下駄箱に収めた。
新品を履く生徒は誰もいない。配給される靴も、鞄も、教科書も、何もかもが中古品だった。
配給された靴を履くことは強制ではない。しかし火星平和委員会からの配給ならば履くことは義務であった。同志として従うことは必須だった。ゆえに配給の靴を履くことは強制だった。
フェントラミンは、そこに疑問を呈している。強制ではないが結局は強制。建前を煌びやかな電飾のように飾り立てる。本音は洞窟の奥底に隠し、それでいて建前を正当化するために前面に出て来る。
わだかまりを感じた。最初から義務であると明言すればいいのに、なぜ建前と本音を掲げるのか。
靴屋では靴を売る。だがこれは建前であって、本音を言えば、靴屋とは靴を修理する店に過ぎない。ここ、勝利高等学校のある都に何件かある靴屋のうちで、新品の靴を置いていた試しは皆無だった。仮に強要でなくとも、どこにも新品の靴など売っていないではないか。百貨店にも配給店にも新品の靴は入荷されていない。
同じように鞄屋に鞄は置いておらず、専ら鞄の修理をする。
本屋にしても書籍はほとんどなく、破れかけた本を修理するのみだった。本音が建前に勝り、正当化の手段に成り下がっていた。配給を受け取るも受け取らないも自由。それでいて自由ではない。
大いなる矛盾だった。フェントラミンはそのことを同級生に話した。そして皆が皆、口を揃えて言うのだった。そんなこと当たり前じゃないか。皆そう言い放ち、数秒の後には別の話題に移った。興味を持たれなかった。
新品の靴も鞄も新書もない。それが普通のことだった。フェントラミンは、もしかすると、おかしいのは自分ではないのか、と思い悩むことが多くなった。こんがらがった縄紐のように決して解けぬ難題としてわだかまる。義務を義務と言わず、あえて自由とする。選択の自由を与えているようで答えは1つしかない。最初から1つしかない。
新品があっても買うかどうかはまた別の話だった。フェントラミンのような高等学校の生徒には年間4500点の衣料切符が配給されていたが新品の靴は1500点もした。現物はないのに点数だけは規定されていた。
それに代金ときたら馬鹿が付くほど高く、火星平和委員会から配給される遺族年金でやりくりしているフェントラミンには手が出ない。
自力で靴、鞄、教科書を揃えようとしたら1年間分の衣料切符と書籍切符はたちまち吹き飛ぶだろう。目が飛び出る代金も必要になる。従って新品や新書を揃えることは現実的ではなく、たとえ店頭になくても困らない。
革命前、都会だの大都市と呼ばれていた都でさえそんな状況なのだ。住居や農地が疎開している〝鄙〟でも新品の靴の入手など望めない。
望めないのであれば考えなければいい。以前「歯抜け」に言われたことがある。無いものは無いのだ。考えなければ無いものと一緒であり、存在しないということだ。それこそ天が落ちて来ないかと心配するようなもので、労力の無駄ではないか。歯抜けはそこでにやりと笑った。前歯が1本抜けた間抜けな笑顔をフェントラミンに見せるのだった。
フェントラミンの住む家の近くにも軒の傾いた靴屋が1軒あったが、修理に使う海獣革さえ不足していた。腰の曲がった店主はいつも申し訳なさそうに断るきりだった。フェントラミンは彼が仕事をしている光景を見たことがなかった。何のために店を開けておくのかも分からない。ただときたま来る靴の修理依頼を断るためだけに作業場へ椅子を持ち込み、日がなぼんやりと座っている。
爪先から踵まで劣化の激しい靴はフェントラミンが卒業したら回収され、次の学生の手に渡るだろう。その循環を恐らくこの靴は製造された瞬間から繰り返している。
いつかは限界が来るであろう循環が断ち切られたとき、投入される新品の靴はどこから来るのだろうか。いかに火星平和委員会の配給品とて永久に使い続けるのは不可能のはずだ。
どんなものでもいつかは寿命を迎える。いかなるものも新品が配給される機会が来る。それなのに学校のどこを見ても中古品しかないのだった。
「いよう、陰気な顔してんな」
声をかけられた。
フェントラミンに話し掛けて来る彼は、背が低かった。笑うと前歯が1本ないのが目立つ。間抜けな顔つきの男子生徒だった。
彼こそが「歯抜け」であり、本人に言うと怒るためフェントラミンは影でのみ彼のことを歯抜けと呼んでいる。
「陰気とは失礼な」
「おう、そう見えたからね。さっきから靴を見てたみたいだけど何かあったか」
「分かるのか」
「分かるも何もずっと下向いてたから。そう思った」
気を付けよう、とフェントラミンは思った。そして歯抜けに答える。
「靴がだいぶボロいじゃないか。これどっか修理してくれるところあるかな」
「都の靴屋ならどこだって修理くらいやってるぞ」
「一番安いのはどこだ」
「うーん。どこだろう。いっそ鄙のが安いのか? いや鄙だとかえって高いこともあるしなあ」
歯抜けは言い淀んだ。火星平和委員会の綱領では、学生が靴の修理を受ける場合、担任にその旨を報告することになっている。修理申請書を片手に靴屋へ行く。そしてやっと直してくれる。
しかし修理申請書は学校1つあたりで配給される枚数が決まっている。使わなかった分は返却され、減った枚数に応じて表彰される。使わなければそれだけ学校が褒められる。
修理は個人で行うことが奨励されていたが、個人でそんな技術があるはずもない。そこでやむなく修理が必要となったとき、たいていの生徒は鄙の靴屋を頼る。ここならば修理申請書がなくても修理をしてくれる。ただし料金は高めだ。そうして靴の修理は絶えることがない。フェントラミンの家の近くの靴屋はその需要の輪に入らないでいた。
歯抜けもそうした事情を知っている。
「そうだなあ。鄙だと海獣革があったりなかったりするしなあ。それに料金もちょいと高めだ」
フェントラミンは悩んだ。一長一短。それぞれに良さがあり、悪さがある。
歯抜けに尋ねる。
「そういや以前誰かの靴を直したとか言ってなかったっけ」
「ああ、ありゃあ靴紐を炙って縒り直しただけだ。靴そのものの修理じゃない。そのくらいなら出来るけど、フェントラミンはどこを直してほしいんだ」
「底なんだよ。踵の擦り減りが大きくなってね。今は夏だからいいけど雨が振ったら中まで滲むから」
「底か……。それは無理だ」
「さすがに無理か」
「先生に修理申請書を貰った方がいいよ、素直に。だって直さないといかんくらいの段階まで来てるから、怒られることはないでしょ」
「隣の学級は怒られてたぞ。〝踵をずらずに歩けば良かったのに!〟って」
「聞くねえ、無茶言うぜ。どうやって歩けってんだ。空でも飛べってか?」
「それだと靴さえいらないからいいね」
「だろう?」
歯抜けはいかにも自慢げに笑った。1本欠けているのがはっきり見えた。
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