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2 波紋
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男の名前は耕平三十歳。苗字は名乗らなかった。こういう場所であるからそれが普通なのだろう、私が聞かれてしまった『自己紹介』が余計奇異な物に思えたのではないかと少しだけ恥ずかしくなった。
耕平(そう呼べと言われた)の話は面白く、初めて会ったというのに昔からの友人のような気持ちにさせられた。誰かとこんなに楽しい時を過ごすのはいったいいつぶりだろうか。
朗らかで、話のチョイスも運びもうまい。見た目も少しワイルドながら大人の色気のようなものまであり、黙っていてもモテるはずの男がなぜこんな所で私といるのか。
耕平によればここは出逢いの場だという事だし、そういう出会いを求めて来たのなら私と同じテーブルにつくべきではないと思うのに、それを自分から口にする事も自ら席を立つ事も私はしなかった。
耕平の話をもっと聞いていたかったからだ。こんな事は本当に久しぶりで、せめてジョッキのビールが無くなるくらいまでは――、と少しも減っていないビールを眺めながらそんな事を考えていると、少しだけ耕平は雰囲気を変えた。言おうか言うまいか迷っているようだった。
それでもすぐに遠慮がちではあるものの意を決したように口を開いた。
「――こんな事言うのもなんだけど、言わずにはいられないというか――話は大分戻るけど、平坦に拘る必要なんかないんじゃないか?」
耕平の言葉が最初は理解できなくて、のろのろと遅い伝達の後、全身が強張り手の平には汗が滲んだ。
「俺自身の話じゃなくて悪いけど――おと――過去に色々あったやつがいて、あいつの人生はとても平坦だなんて言えるものじゃなかった。小波が言うようにあいつにも何かがずっと続いていたってわけじゃないし、今は何もなかったとしてもその時に受けた傷が消えるわけじゃない――、それでもあいつは全部受け止めて強く生きてる。平凡だとか無理矢理気持ちを抑えて、なかった事にだなんてそれでいいとは思えないんだ。だから小波も――」
「だから小波も――」に続く言葉はきっと「逃げるなよ」。
あと少しが何故待てなかったのだろう。こんなここだけの関係であれば楽しい事だけで終わってもよかったのではないか――。
あいつができるんだからお前もできるはずだろうって言われているようでとても嫌だった。逃げる事の何が悪いんだ。
大きく波立つ心は、いつものように大した事はないと気持ちを平坦に保つのが難しく、遂にははぁと小さな溜め息が零れ出た。
私だってこんな事好きで始めたわけじゃない。そもそも逃げたいと思えるような事がなければ逃げなかったし、自分を守る為にそうしているだけなのだ。たとえ守ってくれなくても私を受け入れてくれる人がいたなら私だって――。
そこまで考えて、はっとした。
もしかしたら耕平は私が求めていた人なのではないのか。耕平なら「逃げるな」と言葉だけではなく寄り添ってくれるのではないだろうか。
だとしても折角心配して言いにくい事を言ってくれた人を拒絶するようなマネをして、呆れられたかもしれない。
色々な感情が渦巻くばかりで何と言っていいのか分からず、俯きぎゅっと下唇を噛んだ。
このまま席を立たれても文句は言えないのに耕平は、慌てたようにすぐに謝ってくれた。
「少し――言い過ぎた。悪い。俺に小波の何が分かるんだって話だよな。本当に悪かった」
さっきも思ったが、耕平は佐多とは違い本当に『いい人』なのだろう。やはり私を責めているわけではなく、私の事を想っての発言だったのだ。それなのに私は――。
テーブルに手をついて頭を下げて謝る耕平に私はできるだけ笑顔に見えるように口角を上げ、「大丈夫です」と言った。それが私にできる精一杯。
耕平は二度三度と瞬きをして、眉尻をへにょりと下げ「サンキュー」と私の頭を少しだけ乱暴に撫でた。
仲直り、と耕平が差し出した生ビールの入ったジョッキに自分のジョッキを合わせ、こっそりと安堵の息を吐いた。
『カチャリ』とガラスのぶつかる音が小さくして、それはまるで私の中の奥の奥にあるはずの扉の鍵が開けられた音のように思えた。ヤバいと思うのにもうどうしようもなくて、波紋は更にいくつも広がっていくのをぼんやりと感じる事しかできなかった――。
耕平(そう呼べと言われた)の話は面白く、初めて会ったというのに昔からの友人のような気持ちにさせられた。誰かとこんなに楽しい時を過ごすのはいったいいつぶりだろうか。
朗らかで、話のチョイスも運びもうまい。見た目も少しワイルドながら大人の色気のようなものまであり、黙っていてもモテるはずの男がなぜこんな所で私といるのか。
耕平によればここは出逢いの場だという事だし、そういう出会いを求めて来たのなら私と同じテーブルにつくべきではないと思うのに、それを自分から口にする事も自ら席を立つ事も私はしなかった。
耕平の話をもっと聞いていたかったからだ。こんな事は本当に久しぶりで、せめてジョッキのビールが無くなるくらいまでは――、と少しも減っていないビールを眺めながらそんな事を考えていると、少しだけ耕平は雰囲気を変えた。言おうか言うまいか迷っているようだった。
それでもすぐに遠慮がちではあるものの意を決したように口を開いた。
「――こんな事言うのもなんだけど、言わずにはいられないというか――話は大分戻るけど、平坦に拘る必要なんかないんじゃないか?」
耕平の言葉が最初は理解できなくて、のろのろと遅い伝達の後、全身が強張り手の平には汗が滲んだ。
「俺自身の話じゃなくて悪いけど――おと――過去に色々あったやつがいて、あいつの人生はとても平坦だなんて言えるものじゃなかった。小波が言うようにあいつにも何かがずっと続いていたってわけじゃないし、今は何もなかったとしてもその時に受けた傷が消えるわけじゃない――、それでもあいつは全部受け止めて強く生きてる。平凡だとか無理矢理気持ちを抑えて、なかった事にだなんてそれでいいとは思えないんだ。だから小波も――」
「だから小波も――」に続く言葉はきっと「逃げるなよ」。
あと少しが何故待てなかったのだろう。こんなここだけの関係であれば楽しい事だけで終わってもよかったのではないか――。
あいつができるんだからお前もできるはずだろうって言われているようでとても嫌だった。逃げる事の何が悪いんだ。
大きく波立つ心は、いつものように大した事はないと気持ちを平坦に保つのが難しく、遂にははぁと小さな溜め息が零れ出た。
私だってこんな事好きで始めたわけじゃない。そもそも逃げたいと思えるような事がなければ逃げなかったし、自分を守る為にそうしているだけなのだ。たとえ守ってくれなくても私を受け入れてくれる人がいたなら私だって――。
そこまで考えて、はっとした。
もしかしたら耕平は私が求めていた人なのではないのか。耕平なら「逃げるな」と言葉だけではなく寄り添ってくれるのではないだろうか。
だとしても折角心配して言いにくい事を言ってくれた人を拒絶するようなマネをして、呆れられたかもしれない。
色々な感情が渦巻くばかりで何と言っていいのか分からず、俯きぎゅっと下唇を噛んだ。
このまま席を立たれても文句は言えないのに耕平は、慌てたようにすぐに謝ってくれた。
「少し――言い過ぎた。悪い。俺に小波の何が分かるんだって話だよな。本当に悪かった」
さっきも思ったが、耕平は佐多とは違い本当に『いい人』なのだろう。やはり私を責めているわけではなく、私の事を想っての発言だったのだ。それなのに私は――。
テーブルに手をついて頭を下げて謝る耕平に私はできるだけ笑顔に見えるように口角を上げ、「大丈夫です」と言った。それが私にできる精一杯。
耕平は二度三度と瞬きをして、眉尻をへにょりと下げ「サンキュー」と私の頭を少しだけ乱暴に撫でた。
仲直り、と耕平が差し出した生ビールの入ったジョッキに自分のジョッキを合わせ、こっそりと安堵の息を吐いた。
『カチャリ』とガラスのぶつかる音が小さくして、それはまるで私の中の奥の奥にあるはずの扉の鍵が開けられた音のように思えた。ヤバいと思うのにもうどうしようもなくて、波紋は更にいくつも広がっていくのをぼんやりと感じる事しかできなかった――。
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