上 下
30 / 36

29 彼女の距離感

しおりを挟む

「思っていたより大丈夫そうね」

 保健室からの帰り道、あたしの足取りを見て氷乃ひのはそんな感想を漏らした。

「だいぶ楽になったからな」

 嘘です。

 本当は最初から元気だっただんけど、寝て更にすっきりしただけです。

 でも、これはあたしの心の中にしまっておこう。

 怒られたくないからね。

「体調を崩すなんて貴女らしくないものね」

「……そだな」

 氷乃がそんなあたしの機微を察するくらいなのだから、悪くない仲になっていると思う。

 それでも“友達”という関係にすらなれていないのは、よく分からない小説設定と氷乃の心の壁のせいだ。

 その距離を縮めるには、もっと初歩的な問題があることに気づいた。

「思ったんだけどさ」

「何かしら?」

「氷乃の“貴女”呼びって距離感遠くね?」

 そう。

 お互いの呼び方だ。

 あたしは“氷乃”と苗字呼びだし、氷乃に関しては“貴女あなた”と名前ですらない。

 これがどうにも他人行儀というか、距離感を生んでしまっている。

「……其方そなた?」

「名前で呼べ、名前で」

 どうして頑なに二人称にこだわる。

 しかし、氷乃は難しい顔をしながら口をへの字にしていた。

 なんでだよっ。

「必要あるかしら?」

「あるでしょっ、貴女って誰のことか分かんないじゃん」

 道歩く人全員が対象ですよ、その呼び方っ。

「でも分かっているでしょ?」

 それは氷乃があたし以外と喋らないから奇跡的に成立しているだけであって、これが大勢とコミュニケーションを普通に取る子だったら絶対に成立していない。

「何のために名前ってものがあると思ってるんだ」

「他人との区別をつけるためよ」

「分かってるなら呼んでよっ」

 つまり名前で呼ばないってことは、氷乃にとってあたしは“他人と差がない”ってことじゃないか。

 うおおおっ。

 どうしても呼ばせたくなってきた。

「……考えておくわ」

「それ絶対に言わないやつじゃんっ」

 明日になって急に呼び方が変わってるとか氷乃に限ってはないだろう。

 この話題を終わらせようとしているだけにしか聞こえない。

「それにほらっ、主人公とヒロインが名前で呼び合わないっておかしくないか?」

 うーん。

 この意味わからない“設定”から抜け出したいとは思っている。

 だけど、距離感を縮めるのにこの設定を利用してしまう。

 使いたくないのに使ってしまう、二律背反な気持ち。

 どうやったら抜け出せるんだ、このスパイラル。

「……それは、距離間が縮まってから呼び合うものでしょ?」

「そうだよ、だからもうよくない?」

「まだ早いと思うわ」

 ガードが堅い。

 ヒロインならともかく、なんで主人公の方のガードが堅いのかなっ。

 もっとラフに言い合うもんじゃないのかなっ。

「じゃあ氷乃が名前で呼び合う距離感って、具体的にどうなったらアリなのさ」

 そもそも距離感なんてものは完全に主観になる。

 明確な物差しも基準もない。

 氷乃なりの解釈を教えて欲しい。

「付き合ってから、じゃないかしら」

「ええっ」

 付き合うまで、名前すら呼ばずに過ごすのか氷乃よ。

 果たして、その接し方でその相手とは結ばれるのか……。

 ていうか。

「あたしと氷乃ってまだ付き合ってなかったの?」

 なんか客観的に聞くと、修羅場みたいな発言に聞こえるけど。

 あくまで設定の話ね、リアルな方じゃないよ。

「創作における恋愛は付き合ったら終わりじゃない」

「いや、そうでもないんじゃない……? ものによると思うぞ」

 付き合うまでの過程を描いてるものは確かに多い気がするけど。

 でも必ずしもそれだけでない。

「でもそろそろ付き合ってる頃だと思うんだけど」

 けっこうベタな展開はやってきたでしょ。

「何を勝手に勘違いしているのかしら」

「いや、だって初めて氷乃の小説を読んだ時には告白してたから……」

 てっきり付き合ってると思うじゃないか。

「あれはクライマックスよ」

「あたしは初手でクライマックス読んでたのかよ。ていうか最初からクライマックス書くなよ」

 どういう順番で書いてるんですか。

 そういう手法はあるんだろうけど、氷乃は物語が書けない所からスタートしているんだから絶対狙ってるはずがない。

「私が難しく思っているのは人と親密になるまでの過程、その物語よ。それを作ることで人の感情を理解できるようになりたい、何度も言っているでしょ」

 うーん。

 これが氷乃の謎理論。

 一見それっぽく聞こえるけれど、どこか間違っているようにも聞こえる。

 あたしは頭が良くないから、そういう考えもあるのかと聞き逃してきたけれど。

 氷乃との関係性を深めていく中で、その言葉に違和感を感じるようになってきた。

「でもそれってさ、“物語”を書こうとしている時点でムリじゃない?」

「……どういうことかしら」

 あたしが氷乃の創作行為そのものについて口を出すのは初めてだ。

 それもあって氷乃の温度が下がる。

 あたしはそれ以上にひやりとするわけだけど、言ってしまった以上はもう引っ込めることは出来ない。

「物語は作り話ではあるけど、そこには作者なりの体験や経験が入ってくるもんでしょ? 純度百パーセントの妄想なんてきっとないでしょ?」

「……それはそうだろうけれど」

「だから、特に恋愛感情なんていう人の心に触れるものなんだから。それを氷乃が経験しない事には書けないじゃん」

「だから、その経験を私は小説を通して……」

 いやいや、だから話は捻じれるのだ。

 その事にもっと早く気付くべきだった。

「いや、氷乃自身が経験しなきゃダメだと思う」

 読者、つまり受け取り手であれば経験したことのないものを受け取ることは出来ると思う。

 だけど作者、作り手には経験が必要になるはずだ。

 だって他人に伝えることは難しい。

 それを自分自身が経験していなければ、きっとその輪郭すら伝わりやしない。

 ましてや、それが人間の根幹的感情であればあるほど、その嘘は透ける。

「……その経験が出来ないと言っているじゃない」

「いや、だからあたしがいるんじゃん。あたしは氷乃と物語を通してじゃなくて、実際に触れ合おうしてるんだから。氷乃もそうしなよ」

 そうしない限り、あたしと氷乃の間の距離は縮まらない。

 創作として触れ合おうとする氷乃と、創作を利用して実際に触れ合おうとするあたし。

 過程は同じでも望む結果に差があると、そこにはズレが生じる。

 そのズレがきっと大きくなってしまったんだ。

「勝手な言い分ね」

 頭をわずかに下げている氷乃の黒髪はしな垂れ、その表情を隠している。

 ただ、その冷たい温度だけが伝わってくる。

「私はそこまでは望んでいない。あくまで感情を理解するための行為であって、他人との触れ合いを求めているわけじゃない」

「だから、それが矛盾してるんだって」

 自分や他人の感情を理解するのに、人との触れ合いだけを拒否することはきっと出来ない。

 多種多様な価値観を知っていくことで、初めて目に見えない感情に触れることが出来るんだと思う。

 だから、氷乃の求めているものと実際の行動には矛盾が生じている。

「そう、なら貴女は私には人の感情を理解できないと言いたいのね」

「いや、そうは言ってないじゃん。あたしはもっといい方法があるって言ってるだけで――」

「もういい、分かったわ」

 遮るように、拒絶するように、氷乃は言葉を区切る。

 その“分かった”は、あたしの言い分を理解してくれたものとは思えなかった。

 冷たく重い空気を乗せたまま、氷乃はあたしに背中を向ける。

「私はそこまでの行為は望んでいない。貴女が求めている行為ははっきり言って不要なもの、おせっかいそのもの」

「……なんで」

 そんな、悲しいことを言うのだろう。

「でも貴女の意見を否定しても意味がないことも分かっている。だから終わりにしましょう」

 どうして氷乃は、そういう結末しか迎えられないのだろう。

「貴女との物語を描くのは、今日で終わりよ」

 感情を知ろうとしている人間が、そんな冷たい終わり方を選んでしまうのだろう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ダメな君のそばには私

蓮水千夜
恋愛
ダメ男より私と付き合えばいいじゃない! 友人はダメ男ばかり引き寄せるダメ男ホイホイだった!? 職場の同僚で友人の陽奈と一緒にカフェに来ていた雪乃は、恋愛経験ゼロなのに何故か恋愛相談を持ちかけられて──!?

身体だけの関係です‐原田巴について‐

みのりすい
恋愛
原田巴は高校一年生。(ボクっ子) 彼女には昔から尊敬している10歳年上の従姉がいた。 ある日巴は酒に酔ったお姉ちゃんに身体を奪われる。 その日から、仲の良かった二人の秒針は狂っていく。 毎日19時ごろ更新予定 「身体だけの関係です 三崎早月について」と同一世界観です。また、1~2話はそちらにも投稿しています。今回分けることにしましたため重複しています。ご迷惑をおかけします。 良ければそちらもお読みください。 身体だけの関係です‐三崎早月について‐ https://www.alphapolis.co.jp/novel/711270795/500699060

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

〈社会人百合〉アキとハル

みなはらつかさ
恋愛
 女の子拾いました――。  ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?  主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。  しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……? 絵:Novel AI

処理中です...