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86 あたしにとっての意味 side:日奈星凛莉
しおりを挟む「朝かぁ……」
スマホのうるさいアラーム音で目を覚ます。
今日は文化祭の後片付けだ。
「……めんどくさ」
お祭りの後の片付けなんて気が進まなさすぎる。
だって、昨日は夢みたいな出来事ばかり起きた。
涼奈と付き合うことになるなんて、夢としか言いようがない。
だが学校の片づけをして元通りになってしまえば、そのまま夢から醒めてしまうんじゃないかと怖くなる。
あのまま夢の時間が続けば良かったのに。
「とは言え、やることはやらないとね……」
面倒くさいことはやりたくないけど、一応これでも大学進学を目指している。
サボって出席日数を減らしたり、内申点を下げるようなことをしたくない。
学力がないからこそ、それ以外の所で足を引っ張りたくないわけだ。
『なら、化粧もやめて制服も規則通りに着れば?』
なんて、嫌味ったらしく楓に言われたことはある。
でもそれはそれ、これはこれ。
見た目を磨くことをやめてしまっては、あたしはあたしでいられない
そうすると学校にも行けなくなるから、これは必要なことなわけ。
『まともに聞いた私がバカだった』
楓にはそう一蹴された。
自分でも矛盾してると思うけど、こればっかりは感情がそう動くんだから仕方ない。
あたしはベッドから起きて、リビングに向かう。
リビングの窓は大きい。
目の前にはほとんど建物はなく、この街を見下ろすことになる。
壮観と言えばそうなんだろうけど。
毎日のように一人で見ているから、いまさら何の感情も湧いたりしない。
「だいたい、何見たって一人じゃつまんないしねぇ」
とは言え、あたしは割と恵まれていると思う。
自慢ではないが、見た目のことを褒めてくれる人はいるし。
生活だって裕福な方だ。
パパには“大学は出ておけ”とだけ言われて、その他のことは何も言われてない。
こんな高層マンションに住まわせてもらって、パパは単身赴任で何年もこの家には帰っていない。
高校生ではありえない悠々自適な暮らしをさせてもらっているのは分かっている。
ただ、何かがいつも足りないとは思っていた。
ママはあたしが生まれた時に亡くなっている。
母親という女性像をあたしが知ることはない。
だからあたしにとっての家族は父と兄で構成され、男の人という概念は彼らによって作り上げられる。
お兄ちゃんは年が離れていて、あたしが物心ついた時には結婚してすぐに家を出ている。
パパもこうして仕事でいつも家を空けている。
その関係性があたしの常識を作っていく。
男の人はあたしから自然と離れていく生き物だという常識が出来上がるのだ。
その感覚を拭い去ることは難しい。
調子のいい言葉でおだててくるけど、いずれはあたしの元から消える人達。
そう思ってしまうと、誰かを本気で好きになるなんて出来るわけなかった。
だから友達はいるけど、本当の意味で誰かと一緒になることは出来ないんだと思っていた。
「それがねぇ……」
ある一人の女の子によって、あたしのその孤独感は完全に過去の物になった。
◇◇◇
いつもの待ち合わせ場所で涼奈を待つ。
恋人としての朝を迎えるのはこれが初めてだから、少しだけ緊張する。
いつも通りに出来るかな、なんて不安になったりするんだけど……。
「おっ、おおっ、おはよよ。凛莉、ちゃん……」
それ以上に緊張して現れるのが涼奈だから、逆にあたしの緊張はすぐにほぐれてしまう。
「なに、涼奈。おはようも言えなくなったの?」
あたしは涼奈の顔を覗き込んで、むりやり視線を合わせる。
「言えてるじゃん」
「噛んでるじゃん」
「噛むことくらいだってある」
「そうだよね。噛むの、好きだもんね」
それを聞いて、涼奈は見るからに不機嫌な顔になる。
「……それ、ちがうこと言ってるでしょ」
「ん?なんの話し?」
「……噛むって、二通りの意味で言ってるでしょ」
「ああ、これのこと?」
あたしはわざとらしく知らないフリをして、スカートの上から太ももの内側を指す。
そこには涼奈に噛まれた跡がまだしっかり残っている。
「別にいいでしょ。噛んだって」
涼奈は開き直って、ふんと鼻を鳴らす。
「……どっちの意味で?」
「どっちの意味でもっ」
言葉を噛む方は良くても、体を噛まれるのを良しとする人はあんまりいないと思うけど。
「いいよ、あたしは。どっちでも」
でも、それをオーケーできてしまうのがあたしだ。
かわいい涼奈のためなら、ある程度の痛みは許容範囲。
「……噛まれたいの?」
肯定されるとは思わなかったのか、涼奈は一瞬だけ毒気を抜かれていた。
「涼奈が噛みたいなら。いいよ」
「……なんかそれ、つまんないね」
「つまんない?」
そんな言われ方ある?
「うん、噛まれたくない凛莉ちゃんを噛むのがいいのに」
涼奈は涼奈で人格を疑うような発言を当たり前のように言い出す。
噛むのを良しとするあたしもおかしいと思うけど、嫌がるあたしを噛みたいとか言い出す涼奈もおかしいと思う。
「だってアレって涼奈の愛情表現でしょ?そりゃ受け入れてあげちゃうよ」
「……そんな表現してないんだけど」
こういう言い方をすると、涼奈が否定するのは分かっている。
分かった上で、涼奈がどんな反応をするのか見たくてこういう言い回しをあたしはよくする。
「じゃあどういう意味さ」
「ストレス発散」
「あたしならそのストレスを受け取ってくれると思うから、それに甘えて噛んじゃうんでしょ?やっぱり愛情表現じゃん」
「……そう受け取るんだ」
「それ以外にある?」
涼奈は無自覚かもしれないけど、多分そういうことだと思っている。
「いつからそんなふうに考えてたの?」
「割と最初から?」
「……最初から愛情表現だと思って何回も噛まれてるとか。凛莉ちゃんってやっぱり頭おかしいね」
もちろん恋愛としての愛とまでは思ってなかったけど。
親愛の証くらいではあるのかなと思っていた。
「いやいや、そもそも何回も人を噛んでくる方がおかしいから」
「……とにかく、わたしが噛むのはそういう意味じゃないから。あんまり変なこと考えないでね」
涼奈はすたすたと先を歩きだす。
多分、あたしに言われたことを自覚して恥ずかしくなったな。
かわいいやつめ。
「涼奈、待ってよ」
「待たない」
あたしは早足で涼奈の隣に立つ。
「……ところでさ」
「なに?」
涼奈の空気が少し変わる。
何かを決心したような、そんな覚悟を感じる。
「凛莉ちゃんの好きなものって、なに?」
初対面みたいな質問を、このタイミングで聞かれるとは思わなかった。
試されてる?あたしは涼奈に何かを試されてるの?
「そうだね……」
好きなものについて考えて、一番最初に浮かんだものを言う事にする。
「涼奈、かな?」
「……」
涼奈は目を点にする。
「真面目に答えてよ」
「真面目に答えてるんですけど」
すると涼奈の足がどんどん速くなっていく。
あたしも負けじと足を速める。
残念ながら運動神経はあたしの方がいいから、取り残されることはない。
「凛莉ちゃん、朝なんだからもっと普通の会話してよ」
「なんでさ、いいじゃん。友達同士の会話じゃないんだから」
もうひとつ深い関係になったんだから、これくらいはいいと思う。
「ばかっ、だからこそ普通にして欲しいのに」
「えー?それじゃ前と変わらないじゃん」
せっかく変わった関係、それをあたしは大事にしたい。
“好きな人”でいてくれた涼奈をもっと感じていたい。
「だって……友達じゃないんだから、ほんとの好きじゃん。刺激つよすぎ」
「……涼奈って普段はひねくれてるのに、急にピュアだよね」
「うるさい」
「かわいいよ?」
「だから、うるさいっ」
今の涼奈はあたしから離れようとしていくけど、あたしにとってはそれでも追いかけたくなる人だ。
好きって、こういうことなんだと思う。
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