上 下
8 / 57
第二部

8 失われた三か月間

しおりを挟む
 一昨日は落とし穴だった。
 昨日は捕まえたと思ったらマネキンだった。
 そして今日は煙幕だ。

 この一か月間、ずっと子供の鬼ごっこのようなやり取りが続いている。
 しかし、よくもあんな煙幕だとか落とし穴だとか幼稚で姑息な手段を考えるものだ。


 汗でうなじに張り付くゴールデンロッドイエローの髪を鬱陶しそうに掻き上げた彼女は地上二十階建ての厚労省庁舎を、エレベーターも使わずに誰もいない屋内非常階段を昇っていく。

 厚生局が占有する十二階まで上がった彼女は非常ドアの先にある長い廊下の一番奥まで進み、『異能管理室』と書かれたプレートが掲げられるドアを開けた。
 するとタイトスカートにブラウス姿のスタイルの良い女性が室内へ入って来た彼女に気付き声を掛ける。

「あら、まだ宵の口なのに今日は早かったわね」

 ブラウンの長い髪を一つに束ねたリサはコーヒーカップにコーヒーを注いでいるところだった。
 視線でリサと挨拶を交わした彼女は教室ほどの広さしかない事務所を見回す。
 自席でダンベルを持ち上げているのはアフリカ系日本人のネイサン、応接用のソファーに寝転ぶのは直人だ。今日の当直メンバーはこの三人らしい。

「よう、姫様、ニヤニヤしてどうした? デートでもしてきたのか?」

 ソファーに寝転ぶジーンズにTシャツ姿のラフな出で立ちをしたこの男はこれでもこの班のリーダーである。

「は? 何を言っているのですか?」

 彼女が無精ヒゲを生やした直人をギロリと睨むと、ネイサンがダンベルを持ったまま大げさに肩を竦めた。

「やめとけ直人、姫は気付いてないんだよ。これはセンシティブな問題だからな」

「?」
 訝しげに眉間にシワを寄せながら彼女は自分のデスクに腰を掛ける。
 そして使い込まれたノートパソコンを開いた。すぐにスリープモードから回復したパソコン画面に報告書の様式が展開され、彼女はキーボードを叩き文字を打ち込み始める。

 ふぅ、と小さく息を漏らした。

《姫》―――、それがここでの彼女の渾名だった。 

 彼女はそう呼ばれるのが嫌で仕方なかった。なんだか馬鹿にされているみたいだし、自分の名前にその漢字が使われている訳でもなければ、お姫様みたいに振る舞ったこともない。

 しかしいつの間にかここではそう呼ばれるようになった。最初は姫と呼ばれることをハッキリと口に出して拒んでいたが、一癖も二癖もある同僚たちは一向に改善しようとせず、彼女はいつしか諦めて受け入れるようになっていた。

 パーティションで区切られただけの室長室のドアが緩慢に開き、中から口髭を蓄えた四十代半ばの男が白髪交じりの金髪を掻きながら現れた。

「あ、室長。お疲れ様です」

 特に敬意を払う訳でもなく、直人は視線だけを室長に向ける。

「ああ、おつかれ」

 昨日からずっと室長室に籠って仕事をしていたのだろう。室長と呼ばれた男、マーク・クレイグの眼の下には濃い隈が出来ていた。

 報告書を作成していた彼女も軽く会釈するが、視線はPC画面に置かれたままだ。
 リサからコーヒーカップを受け取り、再び室長室に戻ろうとしていたマークは何かを思い出したように踵を返した。

「あ……そうだ、姫、八重山照の件で話があるんだ。その報告書が終わってからでいいから、室長室まで来てくれ」

「……はい」

 彼女が振り返ったときには既にマークは室長室のドアを閉めるところだった。


◇◇◇


 プリントアウトしたばかりの報告書を片手に彼女は室長室のドアを二回ノックして開ける。

「失礼します。話とはなんでしょうか、室長」

 マークはデスクの上に山積みにされた書類の中から何かを探しているようだ。

「うん、君が担当している八重山照なんだがな……、監視対象から除外しようと思う」
「な、なぜですか!?」
 予想外の展開に彼女は少なからず動揺した。

「ちょっと待ってくれ……。ああ、あったあった」

 書類の山からオレンジ色のファイルを取り出したマークはファイルを開き、中の書類をペラペラと捲っていく。

「報告書を見る限りでは八重山照は自己防衛のためにしか異能を使用していないようだし、これ以上の監視は他の業務に支障が出るからな。彼は放置しておいて構わないだろう。貯まった俺の仕事も振り分けたいし……」

「そんなことはありません! あの男は凶悪……な、はずです!」

「ううーん、しかし、今のところ確固たる違法性は皆無だしな……。疑わしきは罰せずが世の道理だしねぇ」

「必ず決定的な現場を押さえてみせます! もう少しだけ猶予をください!」

「お、おう? 珍しいな、そんなに熱くなるなんて……まあ、君がそこまで言うなら……」
「ありがとうございます」

 頭を下げて踵を返そうとした彼女をマークは呼び止める。
「ああ、それから……〝失われた三か月間〟に関してなにか思い出せそうか?」

 彼女は小さく首を振る。
「……いえ、今のところはなにも……」

「そうか……、なんならサイコメトリーを試してみるか? 記憶を読んだことが引き金になって思い出すこともある」

「……この件については自力で思い出さないとダメな気がするんです……」

「まあ、いつでも力になるから気が変わったら言ってくれ」
「ありがとうございます」

「うむ、じゃあ今日は上がっていいぞ。お疲れさま」





 彼女には記憶のない空白の三か月間があった。
 それは今から四か月前の五月―――、彼女は自身が担当する異能者・八重山照を監視しに行くと同僚に伝え、庁舎を出ていく姿が確認されたのを最後に失踪し行方不明になる。その三か月後、街中で立ち尽くしているところを異能管理室の職員に保護された。

 空白の三か月の間に一体なにがあったのか何も思い出せない。思い出せないというよりも存在しないといった表現に近いかもしれない。つまり失踪した日から保護された日までの三か月間は彼女にとって瞬きほどの時間でしかないのだ。

 しかし、自身にとって〝失われた三か月間〟という事柄がとてつもなく重要であるという確信めいた何かが頭ではなく心の奥に残留していた。
 


 空調の効いた庁舎を出るとむわッと熱の籠った重い空気が全身にまとわりついてきた。
 ヒートアイランド現象によって行き場を失った熱は日が完全に落ちた夜だろうと関係なく、いつまでも都心に居座り続けている。

 彼女は繁華街に向かって歩き出した。
 
 高校生である彼女は他のメンバーと違い当直することはない。基本的に勤務は学校が終わってからの数時間と土日のみであるが、緊急出動要請があれば例え授業中だろうと現場に行かなければならない。それが今の彼女の立場と役職だった。もちろん緊急の呼び出しがあった場合に得られなかった単位は親方日の丸である国が保証してくれる。

 彼女は真っ直ぐ家には帰らず最短距離で例の公園に向かっている。

 このままではあの男が無罪放免で野に放たれてしまう―――、そんな一種の使命感に駆られていた。

 繁華街を通り抜ける途中で彼女はショーウインドを鏡代わりにして髪形を整えてからニッと口角を上げて笑顔を作り、そして再び素面に戻した。

 ―――私はニヤついてなどいない。

 そんなことを呟くように確認してから再び歩き出す。
 
 そして公園にたどり着いた彼女は樹木の物陰に隠れながら公園内を覗き見た。視線の先には悠々と足を組んでベンチに腰を掛ける軽薄そうなあの男がいる。
 ターゲットである八重山照がやる気なく怠惰に、だらしなくボケーと意味もなくベンチに座っていた。

 今さっき私から逃げおおせたばかりだと言うのにもう戻ってきている……。

 なぜか彼女は自分がムカムカと苛立っていることに気付いた。

 そんなにこの公園が好きなのだろうか……。それともまさかこの公園に住んでいるのだろうか?

 ―――その直後だった。
 黒い髑髏のバンダナで顔を隠した何者かが八重山照の背後から迫り、金属バットを振りかぶる。
 反射的に物陰から飛び出していた彼女は、咄嗟に叫んでいた。

「先輩、うしろッ!」


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

性転換マッサージ

廣瀬純一
SF
性転換マッサージに通う人々の話

全ての悩みを解決した先に

夢破れる
SF
「もし59歳の自分が、30年前の自分に人生の答えを教えられるとしたら――」 成功者となった未来の自分が、悩める過去の自分を救うために時を超えて出会う、 新しい形の自分探しストーリー。

身体交換

廣瀬純一
SF
男と女の身体を交換する話

ハッチョーボリ・シュレディンガーズ

近畿ブロードウェイ
SF
 なぜか就寝中、布団の中にさまざまな昆虫が潜り込んでくる友人の話を聞き、 悪ふざけ100%で、お酒を飲みながらふわふわと話を膨らませていった結果。  「布団の上のセミの死骸×シュレディンガー方程式×何か地獄みたいになってる国」 という作品が書きたくなったので、話が思いついたときに更新していきます。  小説家になろう で書いている話ですが、 せっかく アルファポリス のアカウントも作ったのでこっちでも更新します。 https://ncode.syosetu.com/n5143io/ ・この物語はフィクションです。  作中の人物・団体などの名称は全て架空のものであり、  特定の事件・事象とも一切関係はありません ・特定の作品を馬鹿にするような意図もありません

45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる

よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です! 小説家になろうでも10位獲得しました! そして、カクヨムでもランクイン中です! ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。 いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。 欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●● 小説家になろうで執筆中の作品です。 アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。 現在見直し作業中です。 変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。

江須衣布新作試行錯誤

スーパーちょぼ:インフィニタス♾
SF
ときおり短編を書いては新作を試行錯誤しました。 (1話1000〜2000字前後を目安に全7話)

処理中です...