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ビフテキとバゲット③
しおりを挟むそして迎えた日曜日。
悉乃は、夏休みに選んで仕立ててもらった新しい着物を身につけていた。山吹色に菫の花の刺繍をあしらった袷、濃紺の袴。悉乃としては、普段着ないような色合わせで、だいぶ冒険したつもりである。
この着物を着るのは二度目だ。一度目は、父に言われるがまましぶしぶお見合い写真を撮った時。それからは、何か特別な日に着たいと思い箪笥の奥にしまっておいたのだった。
今日は、悉乃にとっては「特別な日」に当てはまる。やや緊張しながら店の前に到着すると、武雄がすでに待っていた。
その姿を見て、悉乃はなんだか嬉しくなった。武雄も、今日は特別な装いで来てくれたのだ。普段は見たことのないきっちりとした洋装で、いかにも着慣れていなさそうなフロックコートを身にまとっている。
「こんにちは」
悉乃が声をかけると、武雄は「ここここんにちは」と緊張した様子で答えた。悉乃が武雄の服装に言及しようとすると、店のドアが開き食事を終えた客と、見送りの店員が出てきた。店員は悉乃たちの姿を見ると、いらっしゃいませ、と笑顔で迎えた。
***
「ご注文、いかがしましょう?」
「え、えーと……」
入店したあとの武雄はさらに緊張が高まったのか、メニュー表を持つ手が震えていた。店内は洒落たテーブルと椅子が並び、ゆったりとした西洋の音楽が流れている。一応学生身分であるので、高級すぎない店を悉乃は選んだ。客層は様々だが、洋装和装問わず気軽な服装の人も多い。武雄が張り切って着てきたフロックコートは少々浮いていた。
悉乃は、「大丈夫」と小声で声をかけると、ビフテキとバゲットを二人分注文した。
「今日の服、素敵ですわ」
店員が去っていくと、悉乃は武雄を落ち着かせようと、そんなことを言った。
「秀成が、貸してくれたんです。どうも卒業したら、親戚の家で家業の手伝いをするみたいで。洋行することもあるから、買ってもらったみたいです」
「まあ、そんな大事なお洋服を貸してくださるなんて、お優しいのね」
「た、確かにいいヤツです。……で、でも、少し調子の良すぎるところもあって! いや、まあ、いいヤツです」
褒めたりけなしたりと慌ただしい武雄が可笑しくて、悉乃は笑みを漏らした。
「ふふ、本当に仲がよろしいんですのね」
「ええ、まあ。って、僕のことはいいんですよ! 悉乃さんこそ、今日はなんだか雰囲気が違うというか、その……きれいです」
武雄から向けられた視線に、悉乃はどぎまぎしてしまって俯いた。
新しい着物を着てきてよかった。この着物を誂えてくれたことだけは、悔しいけれど少しだけ、父・文信に感謝だ。
やがて、注文していた料理がテーブルに運ばれてきた。
「わああ、これがビフテキ! 初めて見ます」
武雄は出された料理に目をきらきらと輝かせ、両手にフォークとナイフを持った。
「武雄さん、左右逆ですわ。右手にナイフ、左手にフォーク」
「あっ、ああ、そうでした」
武雄はちらちらと悉乃を見ながら同じようにナイフとフォークを動かしたが、カチャカチャと不格好な音が鳴るばかりで、なかなかうまく切れない。そして最終的には力任せにガチャンと音を立てて肉を切った。「やった!切れた!」と喜びの声を上げたのもつかの間、勢い余ってソースが派手に飛び散った。
悉乃の顔にも、武雄の顔にも、飛び散ったソースが点々とついてしまった。
「う、うわああ! 大丈夫ですか、悉乃さん!?」
悉乃は、黙ってナプキンで顔を拭った。悉乃が何も言わないので、すっかり怒らせてしまったと思ったのか、武雄は怯えるような表情で悉乃を見ている。
「ふふっ」
「へ?」
「私は初めてフォークとナイフを扱った時、そこら中にお肉を跳ね飛ばしてしまいましたわ。ソースが少し飛び散ったくらい、なんでもありませんわ」
武雄はほっとしたように「なんだ、焦った……」と笑った。
「上出来ですわ、武雄さん。少し慣れれば外国でも十分やっていけますわよ」
「悉乃さんにそう言ってもらえると安心します」
半分ほど食べ終えると、二人は料理を味わって、会話を楽しむ余裕も生まれた。
悉乃にとっては、忘れられない幸せな時間になった。
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