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お礼①
しおりを挟む「なあヒデちゃん、女子が喜ぶお礼って何がいいと思う?」
そう言って、茂上武雄は二段ベッドの下段から、上段を見上げた。上には三田秀成がいる。二日前、財布をすられた時に一緒にいた男だ。二人ははとこ同士で近所に住んでいたので、幼馴染みのような間柄である。
「それはあれだよタケちゃん。花束だ」
秀成は上から武雄の顔を覗き込むと、眼鏡をくいっと上げてニヤリと笑った。最近、この仕草が癖になっているようだ。今やすっかり東京に染まり、インテリを気取っている。眼鏡もこちらに来てから使い始めたものだった。
「花束……⁉ そんなのなんだか小恥ずかしいよ」
「もちろん冗談だ。あのなあタケちゃん、小石川高女といえば、泣く子も黙るお嬢様学校。そもそも、僕たちなんかにあそこの学生が満足するお礼の品など買えるはずがないのだよ。あのまま掏られていた方が安くつくくらいだ」
やっぱりそうかあ、と武雄は力なく項垂れた。
うるさいぞ、と隣の二段ベッドにいたクラスメイトから怒られた。
「ははは、すまない」
謝って、武雄は手元の明かりを消して目を閉じた。
瞼の裏には、あの時の少女の姿が浮かんでいた。
結局、スリ騒動から一週間経っても妙案が思い浮かばないまま日曜日を迎えてしまった。
何はともあれと、武雄は走りに行くことにした。半分は現実逃避でもあった。走っている間は、頭の中が空っぽになる。だが空っぽになれば、妙案が浮かぶかもしれない。そんな思惑もあった。
早速運動着に着替え、武雄は校舎を出た。
***
東京高等師範学校の寄宿舎の前に、悉乃は立ち尽くしていた。
いざ、ここに茂上武雄というあの男子学生がいるのかと思うと、途端に我に返った。
自分は何をしにここまで来たんだろう。
いきなり会って、身の上話を聞いてくれとでも言うのだろうか。
いくらなんでも失礼すぎる。
百歩譲って聞いてもらったとしても、それで何になるというのだ。
相手はたった一回、市電で乗り合わせただけの人なのに。
やめよう、と悉乃は踵を返した。
無駄足だったが、外に出たことで気分転換にはなった。
明日からはまた授業だけれど。きっと、状況は好転しないけれど。
すると、後ろから声をかけられた。
「悉乃さんじゃないですか!」
「も、茂上さん……!」
悉乃は驚きに息を飲んだ。武雄は、悉乃が初めて(一方的に)会った時と同じく、上下白の運動着姿だった。
「どうしたんですか? こんなところで」
「ええーっと、その……」
武雄は、自分で聞いておきながら「あっ」と何か思いついたような顔をした。
「すいません!」
「え?」
何に対して謝っているのかも言わずに、武雄は踵を返して走り去ってしまった。
もともと会わずに帰ろうと決めたばかりであったが、逃げられるとなると、却って気になる。何か誤解があることは明白だ。
悉乃は追いかけた。
「待って! お待ちください!」
「すいませーん!」
すいません、の一点張りで逃げていく武雄を追いかけるが、たちまち距離を空けられ、見失ってしまった。
「は、速すぎる……」
スリ時代に培った逃げ足で脚力にはそこそこ自信があった悉乃だったが、これではまるで大人と赤子の差だ。
諦めて帰ろう、また来てみて、ゆっくり話を聞いてみよう。
そう思い市電の駅まで戻ろうと歩く方向を変えた時に、近くの時計台の鐘が鳴った。
寄宿舎の門限までは、まだ時間がある。どうせなら少しふらふら散歩してから帰ろうと、当てもなく歩き出した。
やがて、神田川の土手に行き当たった。
ちょうどいい。少し走って体が火照っていたから、なんとなく涼を取りたくて悉乃は川岸に出た。
そこには、川べりの芝生で仰向けに寝そべっている先客がいた。
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