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谷兄弟の凋落 ―兄の場合③
しおりを挟む状況としては、こうだという。
谷が千両箱の中身を手持ちの巾着袋に移し替えているところに、背後から声をかけられた。
『谷先生? 何を……されているのですか』
谷が振り返ると、そこには小川が立っていた。
『あ、ああ、河合に頼まれてな。少し金子を持ってきてくれと』
『そうでしたか。しかし……河合さんは、どんなことがあっても決して千両箱を他人には触らせないと聞いたことがありますけど』
きょとんとしている様子の小川に、谷は近づくよう手招きした。
『今見たことは何があっても黙っていろ』
そう言って、小川の手に十両を握らせた。
『谷先生!』
『いいか。私は明日から大坂駐屯だ。先ほどあちらでの滞在費用を我々に渡すため、河合は千両箱を開けた。これから四、五日は中を確かめないだろう。だから、二、三日後。頃合いを見計らって、河合を酔わせるのだ。その日に盗まれたと思わせれば、今日のこのことは誰にも悟られぬ』
『し、しかし』
『土方副長にバレればお前とて腹を切ることになるだろう。なあ、小川、お前は私に借りがあるのではないか?』
小川はうっと口ごもった。谷は以前、小川を助けたことがある。捕り物で敵と対峙した小川が、怖気づいて逃げ出そうとした。その時点で、士道不覚悟で切腹となるのだが、現場を唯一目撃していた谷が小川に斬りかかろうとした敵を斬り捨て、「見なかったことにしてやろう」とその場を収めたのだった。
『だいいち、この金はまわりまわって隊のためになるのだ』
『ならば、なぜこんなコソ泥のような真似を』
『つべこべぬかすな。いいか。死にたくなかったら私の言うことを聞け』
さくらは顛末を聞いて、怒りに拳を震わせた。
「私も聞きたい。なぜそのような真似をした。金が欲しかったのなら、正直に言えばまだ酌量の余地があったものを」
「武士ともあろうものが、金の無心など正面きってできるものか。それに、あれは刀を買うための金。近藤局長をお守りし新選組のためによりよい働きをするために買い求めた刀だ。近藤局長は立派なお方だ。私のような落ち目の侍を拾ってくださった。それに弟を養子にまでしてもらった。そうだ。私は局長の縁戚にあたるんだぞ。すなわちそこにいる島崎殿の縁戚ということにもなる。私のことを斬って捨てることなどできまい!」
スッと総司が一寸、刃を谷に近づけた。
「武士というのなら、近藤先生の名を口にするなら、金を盗んで二人の同志を死に追いやるなんて馬鹿な真似は到底できないと思いますが」
「ま、まさか二人とも死ぬなんて思わなかったのだ! 小川から文が届いて、このままだと河合が切腹になってしまうと。だが、金が届けば万事解決だ。それまで隠し通せばいいと小川を諭し、さらに念を入れたくば足がつかぬように一旦私の知り合いに十両を預けよと指示した。新選組とは無関係な者たちゆえ、足がつきにくいとな」
浪士の証言によれば、もともと彼らは谷の私的な密偵として金をもらい京都・大坂をいったりきたりしていたようだ。これで話が繋がった。浪士と小川の口論を聞いた周囲の人の証言から、さくらたちは小川が「五十両は渡せぬ」と言っていたのだと思っていたのだが、浪士側が「十両は渡せぬ」と言っていたのだ。聞き間違いと先入観による、まったく逆の事実があったのだ。
さくら達三人は、逃げられぬよう谷を取り囲んだ。
「谷さん。わかってると思うが、あんたは切腹する価値もない。今ここで死んでもらう。抜けよ。自慢の刀なんだろ。俺たちを三人とも斃して、そいつで近藤さんに媚びへつらったらいいさ」
「ふ、ふん、ではその通りにさせてもらおう」
谷は立ち上がった。確かに、生きてこの場を去るには、三人とも斬るしかないのだ。
谷の正面には歳三、背後に総司、さくらが控える。谷が抜いた刀は月明かりに照らされると、澄んだ光を放った。まだ何者も斬っていない刀だ。
歳三が、動いた。正眼に構え、一歩後ずさる。谷とて、かなりの使い手。真正面から向かったのでは、返り討ちにあう可能性も否定できない。歳三を追うように、谷は前に出る。
背後から、総司が斬りかかった。察知したのか、谷はバッと振り返って総司の剣を受けようとしたが少し遅かった。肩口に一太刀入った。
「ぐわあっ!」
痛みに呻き、体勢が崩れた。今度はさくらがその隙を狙おうと近づく。だが、谷もそれは読めていたようだ。さくらよりも一瞬早く、谷は間合いに入ってきた。こうなると、少し分が悪い。さくらは刀を構え直し、ひと息に突こうと体勢を整える。谷が、大きく振りかぶってきた。もうさくらには攻撃の形を変える暇はない。イチかバチかの勝負だった。
と、その時谷が突然足元をふらつかせ、その場にバタンと倒れた。トス、と音を立てて地面に落ちた刀は、きれいなままだった。
さくらは気が抜けて、ドサっと尻餅をついた。見上げると、歳三が険しい顔で納刀していた。
「ったく、無茶しやがる。あの間合いじゃ刺し違えてたかもしんねえぞ」
「甘く見てもらっては困る。別に歳三に助けてもらわずとも、私は」
「いいから立て」
歳三が、スッと手を差し出していた。さくらはその手と歳三の顔を交互に見た。なんだか調子が狂うが、おずおずとさくらは手を取った。お互い手汗でじっとりしていたが、不思議と不快とは思わなかった。それでも、立ち上がった瞬間にパッと手を離した。
総司が、しゃがみ込んで谷の亡骸を検分していた。
「土方さん、久々に派手にやりましたねえ。背中に大きく一太刀。致命傷ですよ」
「ふん。さっさとカタ付けた方がいいだろ」
「それにしても、この刀のために、河合さんと小川さんが……谷さんも、近藤先生を敬っていたのは確かなんでしょうけど」
そうだな、とさくらは溜息をついた。
「小川が最初から正直に全部言ってくれてればなあ。少なくとも河合は命を拾えたものを。だが……こういう抜け道を作ってしまったのも、河合の弱さゆえと思えば、なんだかな。最初にひとりで錠前屋に行っていれば、こんなことにはならなかったのだから」
一応は、同志としてここまでやってきたのだ。三人は、静かに合掌した。そして虚しく溜息をついた。刀を振り回し、戦っていた時間は短かったが、どっと疲労が押し寄せた。
谷三十郎、慶応二年四月一日没す。残された弟たちへのせめてもの情けとして、その死因をさくら達は詳らかに書き残さなかった。
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