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第二話 おしどり夫婦のハニークロワッサン
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放課後になって足早に下校した四葉は、白鳥家に寄った。
土間を通り過ぎて厨房に入ると、白いコックコートを着た由岐が、難しい顔で熱せられたオーブンを覗き込んでいた。
「ただいま、由岐くん。そんなに近づいたら顔を火傷するよ」
「するかよ。俺は雪女の末裔だぞ」
そうだった。雪女パワーがきいているのか、由岐は火に手を突っ込んでも火傷しない。
体温が低めなのも関係しているかもしれない。もしも由岐が大学なんかで実験体になったら火傷治療はさらに発展するだろう。
「すごくにぎやかになったような気がする!」
採光窓のそばには、二十五キロ入りの業務用小麦粉が四種類も並んでいる。食パンに使うもの、デニッシュ系に使うもの、バゲットやハード系のパンに使うものなど、作るパンによって使い分けるのだという。
空だった棚には、副材料の砂糖や油脂が整然と並べられていて、シンク上に取り付けられたフックには麺棒や泡立て器、小鍋が掛けられている。
パンを作るために必要なすべてが揃った調理室は、埋蔵金を見つけた夜よりもだいぶ狭く感じた。
そもそも機材が大きすぎるのだ。
暖簾の右手側に釜が二段あるオーブンが、その隣にホイロが並べられていて、川の中州のようにコンロとシンクと生地をこねる麺台が固まり、残りの機材は左手側にまとまっている。
安岐は、この厨房を縦横無尽に駆けまわってパンを作っていた。
さながら西遊記に出てくる孫悟空みたいに。
由岐は、観察が済んだオーブンの扉を閉じて小さく息をつく。
「熱は入るが温まりが悪いな。試しに何度か焼いてみて、温度が安定するか見る。今日はこれだけで冷ます」
調理台の大きな天板には、焼き上がったあんパンがあった。てっぺんに黒ごまが付いたものと、白いケシの実がついたものの二種類だ。
「安岐おじいちゃんのパンとそっくり。中身は、こしあんとつぶあん?」
「黒ゴマの方がつぶあんだ。お前、こっちのが好きだったろ?」
「ありがとう。いただきまーす!」
由岐が手渡してくれた、つぶあんパンを頬張る。熱いパンはみしっとした噛み心地で、安岐が作ったもののような馨しい風味がしなかった。
「うん? おいしそうな匂いがしない。あとこの生地、膨らんでないね」
歯形のついたあんパンは、餡子までの距離が短かった。薄皮タイプに見えるが、単純に生地の発酵に失敗しているようだ。
由岐も自覚があったらしく「失敗した」と正直に打ち明けた。
「ジジイ、あんパンには酒の酵母を使ってたんだ。近くの酒蔵に頼んで特別に別けてもらって、見様見真似でやったが膨らまなかった。イーストとは扱いが違うな」
「イーストって、パンを発酵させる菌のことだよね」
「菌って言うな。あれも酵母だ」
由岐の説明によると、基本的なパンは、粉とパン酵母、塩と水だけで構成されていて、配合によって食感が変わる。
バゲットやブロートと呼ばれるパンがこれにあたり、リーン系として大別される。
日本で食べられているパンの多くは、副材料である油脂や卵、牛乳や砂糖が加えられた贅沢なもので、リッチ系と呼ばれる。
「日本人ならリッチ系の方が馴染み深い。ふんわりしているのや、甘みやバターの風味がするの好きだろ?」
「大好き! クロワッサンとか、デニッシュとか、シナモンロールとか!」
「落ち着け。いずれ、そういうのも作ってやるから」
由岐は、オーブンのスイッチを切って土間の方へと足を向けた。
「パン作りとは別に、店の内装についても考えないとな。ジジイの頃みたいな長テーブルの時代じゃねえし、パンを並べる陳列台でも作るか」
「必要なら大工の康三(こうぞう)さんに声を掛けるよ。定年してからお仕事がないって言ってたから、お家のリフォームをやってもらったの」
黒羽家の屋敷は登録有形文化財になっていて、見た目はありのままを保全しなければならない。だが、内部のリフォームは保存と利活用のためならばある程度の自由がきく。
花太郎は、昔ながらの台所をシステムキッチン変え、廊下を張り替え、座敷の畳を新しくした。人口減少の煽りを受けて、暇になってしまった角館の職人に仕事を与えるためだ。
由岐は、土間の隅に置きっぱなしのスツールを手で払った。
「康三さんって、高校の近くに住んでる怖い人だよな。俺、あの家の柿を勝手にもぎってトンカチ持って追いかけられた記憶がある」
「食い意地張ってたんだね。でも、あのお家の柿って……」
「渋柿だ。渋くて吐いたら『もったいねえから全部食え』とさ」
渋柿は、収穫して茎に渋抜きの酒を塗り、2週間ほど置かないと食べられない。
角館では、糸でくくってつるして干し柿を作ることも多い。
萎びた果実は保存が利くので、冬の間のおやつになる。
「もったいないと言えば、このあんパン持って帰ってもいい?」
四葉は天板にのったままの失敗作を指さした。
あんパンとしては落第点だが、餡子クレープだと思えば、なかなかに美味しい。
持って帰っておやつと朝ご飯にしたい。少しでも、食費を切り詰めるために。
「賀来が大騒ぎしねえんならいいが……」
心配そうに言付けながら、由岐は膨らまなかったあんパンを紙に包んでくれた。
ありがたく持ち帰った四葉が、賀来に事情を話して一つ食べさせたら、お気に召したらしく次の朝まで残っていなかった。
土間を通り過ぎて厨房に入ると、白いコックコートを着た由岐が、難しい顔で熱せられたオーブンを覗き込んでいた。
「ただいま、由岐くん。そんなに近づいたら顔を火傷するよ」
「するかよ。俺は雪女の末裔だぞ」
そうだった。雪女パワーがきいているのか、由岐は火に手を突っ込んでも火傷しない。
体温が低めなのも関係しているかもしれない。もしも由岐が大学なんかで実験体になったら火傷治療はさらに発展するだろう。
「すごくにぎやかになったような気がする!」
採光窓のそばには、二十五キロ入りの業務用小麦粉が四種類も並んでいる。食パンに使うもの、デニッシュ系に使うもの、バゲットやハード系のパンに使うものなど、作るパンによって使い分けるのだという。
空だった棚には、副材料の砂糖や油脂が整然と並べられていて、シンク上に取り付けられたフックには麺棒や泡立て器、小鍋が掛けられている。
パンを作るために必要なすべてが揃った調理室は、埋蔵金を見つけた夜よりもだいぶ狭く感じた。
そもそも機材が大きすぎるのだ。
暖簾の右手側に釜が二段あるオーブンが、その隣にホイロが並べられていて、川の中州のようにコンロとシンクと生地をこねる麺台が固まり、残りの機材は左手側にまとまっている。
安岐は、この厨房を縦横無尽に駆けまわってパンを作っていた。
さながら西遊記に出てくる孫悟空みたいに。
由岐は、観察が済んだオーブンの扉を閉じて小さく息をつく。
「熱は入るが温まりが悪いな。試しに何度か焼いてみて、温度が安定するか見る。今日はこれだけで冷ます」
調理台の大きな天板には、焼き上がったあんパンがあった。てっぺんに黒ごまが付いたものと、白いケシの実がついたものの二種類だ。
「安岐おじいちゃんのパンとそっくり。中身は、こしあんとつぶあん?」
「黒ゴマの方がつぶあんだ。お前、こっちのが好きだったろ?」
「ありがとう。いただきまーす!」
由岐が手渡してくれた、つぶあんパンを頬張る。熱いパンはみしっとした噛み心地で、安岐が作ったもののような馨しい風味がしなかった。
「うん? おいしそうな匂いがしない。あとこの生地、膨らんでないね」
歯形のついたあんパンは、餡子までの距離が短かった。薄皮タイプに見えるが、単純に生地の発酵に失敗しているようだ。
由岐も自覚があったらしく「失敗した」と正直に打ち明けた。
「ジジイ、あんパンには酒の酵母を使ってたんだ。近くの酒蔵に頼んで特別に別けてもらって、見様見真似でやったが膨らまなかった。イーストとは扱いが違うな」
「イーストって、パンを発酵させる菌のことだよね」
「菌って言うな。あれも酵母だ」
由岐の説明によると、基本的なパンは、粉とパン酵母、塩と水だけで構成されていて、配合によって食感が変わる。
バゲットやブロートと呼ばれるパンがこれにあたり、リーン系として大別される。
日本で食べられているパンの多くは、副材料である油脂や卵、牛乳や砂糖が加えられた贅沢なもので、リッチ系と呼ばれる。
「日本人ならリッチ系の方が馴染み深い。ふんわりしているのや、甘みやバターの風味がするの好きだろ?」
「大好き! クロワッサンとか、デニッシュとか、シナモンロールとか!」
「落ち着け。いずれ、そういうのも作ってやるから」
由岐は、オーブンのスイッチを切って土間の方へと足を向けた。
「パン作りとは別に、店の内装についても考えないとな。ジジイの頃みたいな長テーブルの時代じゃねえし、パンを並べる陳列台でも作るか」
「必要なら大工の康三(こうぞう)さんに声を掛けるよ。定年してからお仕事がないって言ってたから、お家のリフォームをやってもらったの」
黒羽家の屋敷は登録有形文化財になっていて、見た目はありのままを保全しなければならない。だが、内部のリフォームは保存と利活用のためならばある程度の自由がきく。
花太郎は、昔ながらの台所をシステムキッチン変え、廊下を張り替え、座敷の畳を新しくした。人口減少の煽りを受けて、暇になってしまった角館の職人に仕事を与えるためだ。
由岐は、土間の隅に置きっぱなしのスツールを手で払った。
「康三さんって、高校の近くに住んでる怖い人だよな。俺、あの家の柿を勝手にもぎってトンカチ持って追いかけられた記憶がある」
「食い意地張ってたんだね。でも、あのお家の柿って……」
「渋柿だ。渋くて吐いたら『もったいねえから全部食え』とさ」
渋柿は、収穫して茎に渋抜きの酒を塗り、2週間ほど置かないと食べられない。
角館では、糸でくくってつるして干し柿を作ることも多い。
萎びた果実は保存が利くので、冬の間のおやつになる。
「もったいないと言えば、このあんパン持って帰ってもいい?」
四葉は天板にのったままの失敗作を指さした。
あんパンとしては落第点だが、餡子クレープだと思えば、なかなかに美味しい。
持って帰っておやつと朝ご飯にしたい。少しでも、食費を切り詰めるために。
「賀来が大騒ぎしねえんならいいが……」
心配そうに言付けながら、由岐は膨らまなかったあんパンを紙に包んでくれた。
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