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第一章
無理難題
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恋は人を馬鹿にする。
それは世間では定説みたいに言われていることで、まあ、そうなんだろうな。という場面は長く生きている間に幾度も見た。だから、そういうものなんだなと納得はしていて、でもそれはユーゴにとっては自分には関係のない世界の話……だったのだけれど。
「ユーゴ様! ユーゴ様! お忘れものです!」
「え? ……あっ」
レイに頼まれていた品物を受け取って、仕立て屋を出ようとしたところで後ろから呼び止められ、ユーゴは足を止めた。振り返ると、カウンターの中から出てきた女性の店主が、ホッとしたような顔をして息をつく。
「お釣り、お忘れです。レイ様に叱られますよ?」
「あ…。えっと、すみません」
革製のトレイに乗った銀貨を集めてポケットに突っ込みながら、クスクスと聞こえた笑い声にチラっと彼女の顔を盗み見る。でも、目の前の彼女は曖昧な笑みを浮かべてはいるものの、声は出していない。逆の方に顔を向けると開いたドアの向こう、奥の部屋で針仕事をしているはずの女の子たちがふたり、顔を覗かせユーゴを笑っていた。ユーゴがふたりに気付いたことに気付くと、ひらひらとこちらに手を振ってくる。
「レイ様がお出かけになってもう三日ですもんね」
「ユーゴ様はレイ様がいないと途端にぼんやりなさるから」
「今朝の礼拝も、詩篇の場所間違えて読んでたって、おばあちゃん言ってましたよ」
「こら! あなたたち! 失礼よ。仕事に戻りなさい」
口々に好きなことを言っていた女の子たちが、店主に叱られてはぁいと不満げな返事を残して奥に引っ込む。
ここはレイの馴染みの店でユーゴも度々世話になっているのもあって、店主も店員も気安い。すみませんね。と申し訳なさそうな顔をした店主に、いえ。と、ユーゴは曖昧に笑った。
ぼんやりしてるのも今朝の礼拝でヘマをしたのも、本当のことだ。
「今日は雨で足元が悪いですし、気を付けてお帰りになってくださいね。あの子たちじゃないですけどユーゴ様、レイ様がいらっしゃらない日は本当にうわの空ですから」
重ねてそんな恥ずかしいことを言われながら店を送り出され、傘をさす。鈍色の空から降り注ぐ雨粒が、パタパタと音を立てて傘の生地を叩いた。濡れないようにと荷物をぎゅっと胸に抱えて、ユーゴはふうと大きなため息をつく。
あの夜から二ヶ月と少しが過ぎた。
生活自体はそれほど変わりないけれど別々だった寝室は一緒になり、ただの居候だったユーゴはレイの恋人になっていた。公言したわけではないけれど、『ゆーちゃんはおれの!』という態度を隠さないレイのおかげで、町の人々もそういうものだと思っているらしい。恥ずかしいけれど嬉しくて変な気分だとユーゴは思う。
そんなレイは教団の会合とやらに呼ばれて隣国まで出かけていて、三日前から留守だ。
『ゆーちゃんおるから安心やし』
そんなふうに信頼されるのは嬉しい。
でも、離れているのはちょっと寂しい。
『なるべく早く帰るから! ゆーちゃん餓死したら大変!』
そんなに簡単に餓死なんてしない。大体、五日くらいで戻ると聞いたし、そのくらい全然大丈夫。
そうは言ったけれど。
『だってこの前、三日間留守にしたときやって、ゆーちゃんボーッとしてるし元気なかったって町の人もみんな心配してたし!───それに、おれがおらんときにお腹空いて、それで誰かから補給とか、嫌やし』
そんなことは絶対しないと言ったのだけれどレイは聞かなくて、結局、出発の前の夜は頭のてっぺんからつま先まで泣きが入るほど丁寧に愛されてしまった。
そんなことをちょっと思い出して、ユーゴは熱くなる頬を隠すように、視線を地面に向ける。
レイと身体を重ねた回数は、もうとうに両手の指では足りない数になった。
正直、そんなことをして大丈夫なのかと、ユーゴはいつも心配になるのだけれど、レイは『ヘーキ。おれ、丈夫やもん』と、聞く耳を持たない。確かに何処にも異変はないようだけれど、普通に考えて、異種で交わって負担になるのはレイの方だ。
まあ、そんなことを言ってみても、甘くて美味しくて気持ちが良くて、最後には夢中になってしまっているのはいつもユーゴの方なのだけれど。
そんなことをつらつら考えながら歩いているうちに、雨は上がっていた。
用済みになった傘をパチンと閉じると視界が開けて、もうすぐそこに我が家が見える。
ポケットに仕舞っておいた鍵を取り出しながら近づいて、玄関のドアを開けようと鍵穴に鍵を差し込んで…、と、中に人の気配があることに気付いて、あ! とユーゴは少し乱暴にドアを開いた。
「おかえり! ゆーちゃん! ただいまっ」
音に気付いたレイがそう言いながら、リビングに続く廊下をパタパタと走ってくる。あわてて傘を傘立てに置くと、細長い身体が体当たりするみたいにユーゴに飛びついてきた。咄嗟のことに堪えきれなくて、足が二、三歩たたらを踏む。
「おかえりなさい。早かったね」
「うん。急いで帰ってきた」
ぎゅうぎゅうときつく抱きしめられて、それと同じくらい、きゅうと胸が痛む。痛いくらいの強さが心地よくて、ユーゴはほうと深く息をついた。
「でね、帰ってきたばっかりやけど、三日後にまた、出かけるよ」
「…え」
「今度はゆーちゃんも一緒!」
「え。な、何で…?」
いつものことだけれど、レイの話は言いたいことが先で経緯や説明が後回しだ。わけがわからなくて首を傾げると、えっとね、とやっと解説が始まる。
「審査通ったんよ」
「審査って?」
「前に言ったじゃん。推薦状書くって」
推薦状…?
推薦状とは、あの、前にレイが言っていたユーゴを祭司に推薦するとかいう話のことだろうか。
「そう。それ! で、本部からOKですって返事きたの」
は?
「だからね、正式な辞令もらいに、本部に行くんよ」
はぁああああっ??!
それは世間では定説みたいに言われていることで、まあ、そうなんだろうな。という場面は長く生きている間に幾度も見た。だから、そういうものなんだなと納得はしていて、でもそれはユーゴにとっては自分には関係のない世界の話……だったのだけれど。
「ユーゴ様! ユーゴ様! お忘れものです!」
「え? ……あっ」
レイに頼まれていた品物を受け取って、仕立て屋を出ようとしたところで後ろから呼び止められ、ユーゴは足を止めた。振り返ると、カウンターの中から出てきた女性の店主が、ホッとしたような顔をして息をつく。
「お釣り、お忘れです。レイ様に叱られますよ?」
「あ…。えっと、すみません」
革製のトレイに乗った銀貨を集めてポケットに突っ込みながら、クスクスと聞こえた笑い声にチラっと彼女の顔を盗み見る。でも、目の前の彼女は曖昧な笑みを浮かべてはいるものの、声は出していない。逆の方に顔を向けると開いたドアの向こう、奥の部屋で針仕事をしているはずの女の子たちがふたり、顔を覗かせユーゴを笑っていた。ユーゴがふたりに気付いたことに気付くと、ひらひらとこちらに手を振ってくる。
「レイ様がお出かけになってもう三日ですもんね」
「ユーゴ様はレイ様がいないと途端にぼんやりなさるから」
「今朝の礼拝も、詩篇の場所間違えて読んでたって、おばあちゃん言ってましたよ」
「こら! あなたたち! 失礼よ。仕事に戻りなさい」
口々に好きなことを言っていた女の子たちが、店主に叱られてはぁいと不満げな返事を残して奥に引っ込む。
ここはレイの馴染みの店でユーゴも度々世話になっているのもあって、店主も店員も気安い。すみませんね。と申し訳なさそうな顔をした店主に、いえ。と、ユーゴは曖昧に笑った。
ぼんやりしてるのも今朝の礼拝でヘマをしたのも、本当のことだ。
「今日は雨で足元が悪いですし、気を付けてお帰りになってくださいね。あの子たちじゃないですけどユーゴ様、レイ様がいらっしゃらない日は本当にうわの空ですから」
重ねてそんな恥ずかしいことを言われながら店を送り出され、傘をさす。鈍色の空から降り注ぐ雨粒が、パタパタと音を立てて傘の生地を叩いた。濡れないようにと荷物をぎゅっと胸に抱えて、ユーゴはふうと大きなため息をつく。
あの夜から二ヶ月と少しが過ぎた。
生活自体はそれほど変わりないけれど別々だった寝室は一緒になり、ただの居候だったユーゴはレイの恋人になっていた。公言したわけではないけれど、『ゆーちゃんはおれの!』という態度を隠さないレイのおかげで、町の人々もそういうものだと思っているらしい。恥ずかしいけれど嬉しくて変な気分だとユーゴは思う。
そんなレイは教団の会合とやらに呼ばれて隣国まで出かけていて、三日前から留守だ。
『ゆーちゃんおるから安心やし』
そんなふうに信頼されるのは嬉しい。
でも、離れているのはちょっと寂しい。
『なるべく早く帰るから! ゆーちゃん餓死したら大変!』
そんなに簡単に餓死なんてしない。大体、五日くらいで戻ると聞いたし、そのくらい全然大丈夫。
そうは言ったけれど。
『だってこの前、三日間留守にしたときやって、ゆーちゃんボーッとしてるし元気なかったって町の人もみんな心配してたし!───それに、おれがおらんときにお腹空いて、それで誰かから補給とか、嫌やし』
そんなことは絶対しないと言ったのだけれどレイは聞かなくて、結局、出発の前の夜は頭のてっぺんからつま先まで泣きが入るほど丁寧に愛されてしまった。
そんなことをちょっと思い出して、ユーゴは熱くなる頬を隠すように、視線を地面に向ける。
レイと身体を重ねた回数は、もうとうに両手の指では足りない数になった。
正直、そんなことをして大丈夫なのかと、ユーゴはいつも心配になるのだけれど、レイは『ヘーキ。おれ、丈夫やもん』と、聞く耳を持たない。確かに何処にも異変はないようだけれど、普通に考えて、異種で交わって負担になるのはレイの方だ。
まあ、そんなことを言ってみても、甘くて美味しくて気持ちが良くて、最後には夢中になってしまっているのはいつもユーゴの方なのだけれど。
そんなことをつらつら考えながら歩いているうちに、雨は上がっていた。
用済みになった傘をパチンと閉じると視界が開けて、もうすぐそこに我が家が見える。
ポケットに仕舞っておいた鍵を取り出しながら近づいて、玄関のドアを開けようと鍵穴に鍵を差し込んで…、と、中に人の気配があることに気付いて、あ! とユーゴは少し乱暴にドアを開いた。
「おかえり! ゆーちゃん! ただいまっ」
音に気付いたレイがそう言いながら、リビングに続く廊下をパタパタと走ってくる。あわてて傘を傘立てに置くと、細長い身体が体当たりするみたいにユーゴに飛びついてきた。咄嗟のことに堪えきれなくて、足が二、三歩たたらを踏む。
「おかえりなさい。早かったね」
「うん。急いで帰ってきた」
ぎゅうぎゅうときつく抱きしめられて、それと同じくらい、きゅうと胸が痛む。痛いくらいの強さが心地よくて、ユーゴはほうと深く息をついた。
「でね、帰ってきたばっかりやけど、三日後にまた、出かけるよ」
「…え」
「今度はゆーちゃんも一緒!」
「え。な、何で…?」
いつものことだけれど、レイの話は言いたいことが先で経緯や説明が後回しだ。わけがわからなくて首を傾げると、えっとね、とやっと解説が始まる。
「審査通ったんよ」
「審査って?」
「前に言ったじゃん。推薦状書くって」
推薦状…?
推薦状とは、あの、前にレイが言っていたユーゴを祭司に推薦するとかいう話のことだろうか。
「そう。それ! で、本部からOKですって返事きたの」
は?
「だからね、正式な辞令もらいに、本部に行くんよ」
はぁああああっ??!
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