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「……」
そんな馬鹿な、と思った。
リリオは確かに落ちこぼれだが、主要都市に常駐する聖騎士は優秀なはずだ。
全てを救うことは出来なくとも、できうる限り、罪のない民の安寧を守ることが誇り高き聖騎士の仕事のはずである。
(なのに、実際に【黑妖】が出てるこの都市で、聖騎士の活躍を知らないなんて)
一体どうしてなのか。
リリオが重ねて問おうとしたその刹那、
「はっなせよ! いてぇんだよ!」
――子供の声がした。
弾かれるように振り返れば、店の前で大柄な男に腕を捻じ上げられている少年がいた。周囲の者が立ち止まり、騒ぎを囲むように、飲み屋通りの中央に輪を作っている。
射干玉の黒髪に、リリオと同じ翡翠色の瞳。
歳の頃は――ようやっと十二歳になったあたりだろうか。
「――汚らしいスリめが」
蔑みを吐き捨てた声が、静まり返った通りによく通る。
声の主は妙に恰幅のいい男だった。
公都でも力のある商人か、あるいは地方の貴族か――道端の吐瀉物でも見るような目で少年を睨めつけている男は、誂えはいいようだが趣味の悪い外套をまとっている。
「私の財布を盗もうなどと、ふざけたことを。用心棒《こやつ》がいなければまんまと掠め取られるところであったわ」
「ハア? テキトーなこと抜かしてんじゃねぇよこの狸親父!」
「大人しくしろクソガキが!」
「っっぐあ!」
用心棒らしき大柄な男に捻り上げられた華奢な腕が軋み、少年が痛みに顔を歪めて呻いた。
思わず立ち上がると、「やめとけ」と客の一人がリリオに言った。
「ありゃここらじゃ有名な金貸しの旦那だ。貴族で、手広くやってる商売もことごとくうまくいって富豪でもある。用心棒の男も……ありゃ有名な荒くれ者だ」
「だからと言って黙って見てるなんて」
「助けになんて入ったらにいちゃんも危ねぇぞっつってんだ。奉公に来た貧乏人をいたぶって遊んでるって噂だし、首突っ込んでもいいことねぇぞ絶対」
――やめておけ、でないとお前がひどい目に遭うかもしれねぇぞ。あの子の代わりに。
客が低い声でそう忠告したのと同時、通りの方で少年が叫ぶ。
「ほら、見ろよ! 俺の服のどこにもアンタの財布はねぇだろ! さっき散々探ってたじゃねぇか! 離せったら!」
「うるさい! 貴様貧民のくせに私の言葉を否定するのか!」
店主と客の男たちが揃ってと唇を噛んで眉根を寄せる。少年の叫びはいかにも必死そうで、とても嘘を吐いているようには思えない。
見物人《やじうま》たちや隻腕の男を事なかれ主義だと責めることは簡単だ。
だが――あの大柄な男。少年を拘束する動作も最小限、動きに無駄が殆どなかった。怖々と周囲が彼らを遠巻きにしている感情も理解できる。
しかしリリオとしては、ここで黙って見てる訳にもいかなかった。
(これでも僕は聖騎士になったんだ。常駐の聖騎士が来られないなら、僕がやらなきゃ)
リリオは掴まれた腕を外すと立ち上がり、声を上げた。
「やめろ。その子は何も盗っていないと言ってるじゃないか」
「……なんだ貴様は?」
じろりとこちらを睨んだ金貸しの男は、不快げに鼻を鳴らした。
ぎり、とさらに強く腕を拗られた少年が「うぐ」と小さく呻く。リリオは眉を曇らせる。
「僕はリリオ、リリオ・レックスと言います」
「レックス? ……中央の貴族の名前を騙るとはいい度胸をしている小僧だな」
「僕のことはともかく。証拠もないのに子供を痛めつけるのはいかがなものでしょう」
金貸しの男はリリオの恰好を見て、貴族ではないと判断したらしい。確かに、目立たぬように周囲に馴染む装いをしているので、今のリリオは貴族には見えないだろう。
「その子をスリだと決めつけるなら、それなりの証はあるんですよね?」
「そんなものは必要ない。このクソガキとぶつかった後、懐にあった財布が忽然と消えていた。それだけで十分だろうが」
「単にあなたが落としただけという可能性もあるでしょう」
なんだと? と金貸しの男は目を眇めた。
「――いいか小僧」金貸しは脂ぎった顔をずい、と近づけ、声を低めた。「甘さを見せてこういうクソガキを無罪放免としてしまえば、奴ら全体が調子に乗るのだ。下町はスリで溢れ返り、治安は悪くなる。痛めつけて見せしめにするのが美しきエルメルの治安を守るのに寄与する行為だ」
まるで自分のほうに理があるとでも言いたげな物言いだ。
とはいえ男は真の意味で自分が正しい、とは考えていないだろう。
……ただ、許されるとは思っている。
それは目の前の少年がいかにも平凡な貧民の少年だからだ。
「……治安を守るのはエルメルの憲兵か、そうでなくても聖騎士の仕事でしょう」
「ああ?」
「痛めつけて見せしめにするのは私刑でしかない。そもそもその子がスリかどうかもハッキリしないうちにすべきことじゃないと思いますが」
「――ええい黙れ、お前も私に楯突いた見せしめに使われたいのか!」
男の手にしていた杖の石突が石畳に叩きつけられ、甲高く不快な音が弾ける。
「忌々しい。……おい、そのクソガキの腕の骨を折ってしまえ! 二度とこの街で、麗しきエルメルでスリなど出来ぬようにな!」
「はい」
用心棒の男が口端を吊り上げ、少年の腕を掴む手に力を込めるのが見えた。少年が目を剥いて苦痛に喘ぐ。
「やめろ!」
「ふん、貴様のような貧弱そうな小僧に何ができる!」
――できる。
腐っても、リリオ・レックスは妖魔を狩る聖騎士である。
地を蹴る。
人よりは鍛えている足に力を入れて跳躍し、用心棒の男に肉薄する。魔力も込めていたので、一瞬で距離を詰める格好になった。魔法が使えなくたって、貴族として魔力くらいはなんとか扱える。
用心棒の男は、ぎょっと目を見開いた。
「なッ、」
まるで化け物を見る目だった。
だが――、
(この男は、きっと聖騎士の強さを見たことがないんだな)
優秀な聖騎士の戦いぶりを知っていたら、リリオの動きがいかにお粗末なものかもわかるだろうに。
かひゅ、と、喉の奥で恐怖に引き攣った音を立てた男に、リリオが浴びせたのは――ごく軽い、首への衝撃だった。けれども間違いなく、それで男の意識を刈り取った。
どさり。声も上げずに、用心棒の男が地面に倒れる。
「は……」
少年が尻餅をついた姿勢のまま、目を剥き固まっている。見物人も同様に凍りついていた。
(よかった。このくらいならまだ、僕でも対処できる)
どういうことだ。今のはなんだ。一撃で、あんな大男が――。
さざめきの中、リリオはふう、と息を吐くと、意識して笑顔を浮かべてみせた。そして、固まっている少年に手を差し伸べる。
「君、大丈夫か?」
「え、あ、あんた……」
そんな馬鹿な、と思った。
リリオは確かに落ちこぼれだが、主要都市に常駐する聖騎士は優秀なはずだ。
全てを救うことは出来なくとも、できうる限り、罪のない民の安寧を守ることが誇り高き聖騎士の仕事のはずである。
(なのに、実際に【黑妖】が出てるこの都市で、聖騎士の活躍を知らないなんて)
一体どうしてなのか。
リリオが重ねて問おうとしたその刹那、
「はっなせよ! いてぇんだよ!」
――子供の声がした。
弾かれるように振り返れば、店の前で大柄な男に腕を捻じ上げられている少年がいた。周囲の者が立ち止まり、騒ぎを囲むように、飲み屋通りの中央に輪を作っている。
射干玉の黒髪に、リリオと同じ翡翠色の瞳。
歳の頃は――ようやっと十二歳になったあたりだろうか。
「――汚らしいスリめが」
蔑みを吐き捨てた声が、静まり返った通りによく通る。
声の主は妙に恰幅のいい男だった。
公都でも力のある商人か、あるいは地方の貴族か――道端の吐瀉物でも見るような目で少年を睨めつけている男は、誂えはいいようだが趣味の悪い外套をまとっている。
「私の財布を盗もうなどと、ふざけたことを。用心棒《こやつ》がいなければまんまと掠め取られるところであったわ」
「ハア? テキトーなこと抜かしてんじゃねぇよこの狸親父!」
「大人しくしろクソガキが!」
「っっぐあ!」
用心棒らしき大柄な男に捻り上げられた華奢な腕が軋み、少年が痛みに顔を歪めて呻いた。
思わず立ち上がると、「やめとけ」と客の一人がリリオに言った。
「ありゃここらじゃ有名な金貸しの旦那だ。貴族で、手広くやってる商売もことごとくうまくいって富豪でもある。用心棒の男も……ありゃ有名な荒くれ者だ」
「だからと言って黙って見てるなんて」
「助けになんて入ったらにいちゃんも危ねぇぞっつってんだ。奉公に来た貧乏人をいたぶって遊んでるって噂だし、首突っ込んでもいいことねぇぞ絶対」
――やめておけ、でないとお前がひどい目に遭うかもしれねぇぞ。あの子の代わりに。
客が低い声でそう忠告したのと同時、通りの方で少年が叫ぶ。
「ほら、見ろよ! 俺の服のどこにもアンタの財布はねぇだろ! さっき散々探ってたじゃねぇか! 離せったら!」
「うるさい! 貴様貧民のくせに私の言葉を否定するのか!」
店主と客の男たちが揃ってと唇を噛んで眉根を寄せる。少年の叫びはいかにも必死そうで、とても嘘を吐いているようには思えない。
見物人《やじうま》たちや隻腕の男を事なかれ主義だと責めることは簡単だ。
だが――あの大柄な男。少年を拘束する動作も最小限、動きに無駄が殆どなかった。怖々と周囲が彼らを遠巻きにしている感情も理解できる。
しかしリリオとしては、ここで黙って見てる訳にもいかなかった。
(これでも僕は聖騎士になったんだ。常駐の聖騎士が来られないなら、僕がやらなきゃ)
リリオは掴まれた腕を外すと立ち上がり、声を上げた。
「やめろ。その子は何も盗っていないと言ってるじゃないか」
「……なんだ貴様は?」
じろりとこちらを睨んだ金貸しの男は、不快げに鼻を鳴らした。
ぎり、とさらに強く腕を拗られた少年が「うぐ」と小さく呻く。リリオは眉を曇らせる。
「僕はリリオ、リリオ・レックスと言います」
「レックス? ……中央の貴族の名前を騙るとはいい度胸をしている小僧だな」
「僕のことはともかく。証拠もないのに子供を痛めつけるのはいかがなものでしょう」
金貸しの男はリリオの恰好を見て、貴族ではないと判断したらしい。確かに、目立たぬように周囲に馴染む装いをしているので、今のリリオは貴族には見えないだろう。
「その子をスリだと決めつけるなら、それなりの証はあるんですよね?」
「そんなものは必要ない。このクソガキとぶつかった後、懐にあった財布が忽然と消えていた。それだけで十分だろうが」
「単にあなたが落としただけという可能性もあるでしょう」
なんだと? と金貸しの男は目を眇めた。
「――いいか小僧」金貸しは脂ぎった顔をずい、と近づけ、声を低めた。「甘さを見せてこういうクソガキを無罪放免としてしまえば、奴ら全体が調子に乗るのだ。下町はスリで溢れ返り、治安は悪くなる。痛めつけて見せしめにするのが美しきエルメルの治安を守るのに寄与する行為だ」
まるで自分のほうに理があるとでも言いたげな物言いだ。
とはいえ男は真の意味で自分が正しい、とは考えていないだろう。
……ただ、許されるとは思っている。
それは目の前の少年がいかにも平凡な貧民の少年だからだ。
「……治安を守るのはエルメルの憲兵か、そうでなくても聖騎士の仕事でしょう」
「ああ?」
「痛めつけて見せしめにするのは私刑でしかない。そもそもその子がスリかどうかもハッキリしないうちにすべきことじゃないと思いますが」
「――ええい黙れ、お前も私に楯突いた見せしめに使われたいのか!」
男の手にしていた杖の石突が石畳に叩きつけられ、甲高く不快な音が弾ける。
「忌々しい。……おい、そのクソガキの腕の骨を折ってしまえ! 二度とこの街で、麗しきエルメルでスリなど出来ぬようにな!」
「はい」
用心棒の男が口端を吊り上げ、少年の腕を掴む手に力を込めるのが見えた。少年が目を剥いて苦痛に喘ぐ。
「やめろ!」
「ふん、貴様のような貧弱そうな小僧に何ができる!」
――できる。
腐っても、リリオ・レックスは妖魔を狩る聖騎士である。
地を蹴る。
人よりは鍛えている足に力を入れて跳躍し、用心棒の男に肉薄する。魔力も込めていたので、一瞬で距離を詰める格好になった。魔法が使えなくたって、貴族として魔力くらいはなんとか扱える。
用心棒の男は、ぎょっと目を見開いた。
「なッ、」
まるで化け物を見る目だった。
だが――、
(この男は、きっと聖騎士の強さを見たことがないんだな)
優秀な聖騎士の戦いぶりを知っていたら、リリオの動きがいかにお粗末なものかもわかるだろうに。
かひゅ、と、喉の奥で恐怖に引き攣った音を立てた男に、リリオが浴びせたのは――ごく軽い、首への衝撃だった。けれども間違いなく、それで男の意識を刈り取った。
どさり。声も上げずに、用心棒の男が地面に倒れる。
「は……」
少年が尻餅をついた姿勢のまま、目を剥き固まっている。見物人も同様に凍りついていた。
(よかった。このくらいならまだ、僕でも対処できる)
どういうことだ。今のはなんだ。一撃で、あんな大男が――。
さざめきの中、リリオはふう、と息を吐くと、意識して笑顔を浮かべてみせた。そして、固まっている少年に手を差し伸べる。
「君、大丈夫か?」
「え、あ、あんた……」
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