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第1章「泡沫夢幻」

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世界がまた終わろうとしている。

地球滅亡とか、人類滅亡とか、そんな大それた話ではなく、ちっぽけな人間一人の世界が終わるというだけの、その他大勢には割とどうでもいい世界の終りの話だ。
そのちっぽけな人間一人の世界が終わる光景を何度この目で見て、断末魔をこの耳で聞いて、死の匂いをこの鼻で嗅いで、喪失感をこの身体で感じてきただろうか。

何度の絶望を、体験してきたのだろうか…。

それはまるで春の風のように穏やかで、夏の日差しのように眩しく、秋の枯れ木のように切なくて、冬の吹雪のように容赦のない…そんな矛盾だらけの、形容しがたい世界の終わり。
君と俺と、もしかしたら俺以外に君を愛していた誰かの世界の終わりだ。
だから俺は願う。
お門違いだとか、傲慢だとか、理不尽だとか、色々言われるかもしれないけれど、それでもただ願う。
誰にも、君にも、俺自身にも許してもらえなくても、願う。

もしも今、目の前に神様が現れて、何でも一つだけ願い事を叶えてくれるというのなら………迷わずにこう願うだろう。

叶うなら、あぁどうか叶うならば…今はもう遠く、手の届かない場所にいる昨日の君に会いたいと………。











第1章「泡沫夢幻」





人生経験30年。
30年生きてきてわかったことは、人間は2種類に分けられるという事だ。

それは勝ち組と負け組。神様は全ての人に平等だなんてどこかの誰かが言っていたけれど、そんなのは嘘っぱちだ。
だって平等なら全ての人間が幸せになっている。
この世に不幸なんてあるはずがないのだ。
悪い事をして金を稼いで楽な暮らしをしている奴もいれば、毎日汗水たらして働いても借金地獄から抜け出せない奴もいる。

それのどこが平等なのかと問い質したい。
だからこそ俺は言いたい。人間は勝ち組と負け組に分けられるんだと。

そして俺は間違いなく負け組なんだと思う。
いや、最初から負け組だったわけじゃない。生まれた時は間違いなく勝ち組だった。
親は会社を経営する社長で、テレビで紹介されるほどの大富豪ではないけれど、皆が羨むくらいの裕福な家庭だった。

父は寡黙で何考えてるのかよくわからない人だったけれど、実は人情家で家族を大事にするいい父親だったし、母親は少し過保護だけれど優しくて料理上手で誰もが羨むような理想的な母親だった。
二つ下の弟も真面目で俺の事を憎まれ口叩きながらも慕ってくれたいい子で、5つ下には我が儘だけどお兄ちゃんが大好きな可愛い妹がいた。

絵に描いたような幸せな家族だったんだ。

幼稚園から高校まで何不自由なく育って、友人も多く、勉強や運動だって人並み以上にできた。所謂優等生だった。
だから高校を卒業して大学に入って、社会人になってもそれは変わらずに幸せな未来が待っているんだと信じて疑わなかった。

だってそうだろ。そんな恵まれた環境にいる人間が、どうして明日には地獄に落とされるなんて心配をすると思う。
死にたくなるほど惨めで誰もが同情する可哀想な人生をこれから歩むなんて想像できる?きっと本人だけでなく、周りの人間だって想像しないだろう。

だけどその想像していなかった未来は簡単に俺の目の前に横たわった。
高校2年の秋、修学旅行から戻った俺は買ったお土産片手に上機嫌で帰宅したのだが、いつもなら温かく俺を迎え入れてくれる楽園のような我が家は、この世の地獄になっていた。

一家心中。家族は俺一人を残して全員死んでいた。

殺したのは父親だ。俺や弟たち子供には知らされていなかったんだが、父親は学生時代の友人に騙されて莫大な借金の保証人になっていた。
そしてその友人は失踪し、莫大な借金を返すために父はかなり無理をしたらしい。
そのせいで経営していた会社は倒産、家も売りに出さなくてはいけなくなった。明日食う食事もままならない状態だったらしい。

そして精神的に追い詰められた父は一家心中を図った。

父に雇われていたという弁護士からその話を聞いた俺が最初に思ったことは悲しみでも、怒りでもなく、どうして俺がいないときに一家心中したのか…という取り残された寂しさだった。
どうして俺だけ置いていったのか。家族全員殺すつもりだったなら俺も一緒に殺してくれればよかったのに。
絶望した俺の思考は父への怒りや憎しみよりも置いていかれた寂しさ、虚しさで支配されていた。

そして一人残された俺は、高校を中退して唯一雇ってくれた小さな土木会社で働くことになった。
安い給料で毎日汗水たらして働いて、六畳一間の小さくてぼろいアパートに帰って一人カップ麺を啜る日々の繰り返し。数年前には想像さえしなかった暮らし。

学生の頃は気にしていた外見も、オシャレだって今はしなくなった。
皺くちゃのTシャツに色落ちしたジーパン、髪だってボサボサで、美容院なんてここ数年行っていない。
そんな薄汚い外見で冴えない俺に恋人なんてできるわけもなく、高校までの友人だって一人を除いて全員俺から離れていった。

虚しくて惨めな人生。勝ち組だったはずの俺は、一瞬にして負け組へと転落した。
もし、もし時間を巻き戻せるのなら、俺は修学旅行へ行くはずだった自分を止めて、父親に殺されたい。あの日に一緒に死んで楽になりたい。

そんな事いくら願ったって叶うはずもないのに、俺は毎日そんな事ばかり考えて生きていた。





前述したとおり、俺には一人を除いて友人はいない。

一気に負け組へと転落した俺を最初は心配してくれた友人たちも、家族全員を亡くしたショックで人が変わったように卑屈で捻くれた性格になってしまった俺に愛想を尽かして離れていった。そして俺も進んで友人を作ろうなんて気はもう起きなかった。

ただ一人だけ、こんな変わってしまった俺を気にすることなく、今までと同じ態度で接してくれるお節介な友人が一人だけいた。

高校一年生の時から一緒の笹本朝陽(ささもとあさひ)。お節介で鬱陶しいけれど、今も変わらず俺の傍に居て、俺の事を気にかけてくれる唯一の友人。
絶対に口にはしないけれど、俺はこいつのおかげで何とか生きていられるんだと思う。だから感謝はしている。本人には絶対言わないけど。
だけどやっぱりお節介すぎて鬱陶しいと思う事が大半で、今だってこいつが持ってきた誘いに、俺は辟易としながらしかめっ面で睨みつけた。

「絶対に嫌だ」
「え~…なんでだよぅ。久しぶりに皆に会えるんだぞ?絶対に楽しいって!」
「そりゃ楽しいだろうよ。ただし、その場に俺がいなければな。俺が行ったら絶対気まずい空気になるだろうが」
「そんなことないって!皆お前に会いたいと思ってるよ?だって結生(ゆい)は皆の王子様じゃん」
「王子様とか言うな気色悪い。大体それは昔の話だろ。今では王子から転落してスラム街の住人だっつーの」
「自分でそんなこと言うなよぉ」

困った顔で笑う朝陽を見て、俺もため息ひとつ。
朝陽が持ってきた誘いというのが普通に二人で飲みに行こうというものなら、少しだけ財布と相談して安い店なら快諾していた。

しかし今回のは違う。高校時代の同窓会の誘いなのだ。
百歩譲って、いや一万歩ぐらい譲って小学生の同窓会なら渋々ながらも頷いたかもしれない。だが高校の同窓会は…正直絶対行きたくない。

だって高校の同級生は皆知っているのだ。俺に何があったのかを。

高校当時は家が金持ちで顔立ちもそれなりに整っていた俺は自慢するわけではないがモテていた。男友達も多かったし、目立っていたと思う。だからこそ皆俺の家族に何があったのかよく知っていた。
人の口というのは思っているよりも軽い。しかも良くも悪くも目立っていた俺の話だから、一家心中事件はすぐに学校中、近所中に知れ渡った。
そして今までは友好的に接してきた奴ら全員、触らぬ神に祟りなしとでも言うように俺に近づかなくなって、遠くからヒソヒソと噂話。

俺と親しい奴らも気まずそうに恐る恐る俺に話しかける。正直居心地が悪くて仕方なかった。
だから嫌なのだ、高校の同窓会など。絶対に俺が顔を出した途端、その場が気まずい空気になるに決まっている。
それに俺自身もこんなに変わり果ててしまった俺の姿を高校時代の知人たちに知られるのは嫌だった。
だから頑なに朝陽の誘いを断っているのだが、こいつはどうしても俺と一緒に行きたいらしく、かなりしつこく食い下がる。

「な、な?行こうって!金が心配なら俺がお前の分の会費払ってもいいしさ」
「はぁ!?なんでお前にそこまで世話されなきゃなんないんだよ。それくらいの金は………まぁ一週間昼食抜けば…大丈夫だし」
「それは駄目だって!お前また瘦せただろ!節約もいいけどたまには贅沢しないと!」
「うるさい、俺の勝手だろ。とにかく俺は不参加」
「でもさ、でもさ、今回の同窓会はむっちゃん先生の結婚祝いも兼ねてるんだよ?むっちゃん先生には俺らも世話になったじゃん。お祝いしに行こうよ」
「…んぐっ…」

正直それを言われると困ってしまう。

むっちゃん先生とは俺らが高校の時に担任だった睦月(むつき)先生の事で、確かに大変お世話になった。
俺が大変になった時もたぶん朝陽に次いで俺を心配して何度も連絡をくれたのだ。
むっちゃん先生はもう40代になる男性教師で、いままで浮いた話の一つもなく、生徒からは一生独身貴族なんじゃ?なんていらぬ心配をされていた。
そんな先生がやっと結婚。俺だって直接祝いたい気持ちはある。でも…でもなぁ…。

「大丈夫!もし結生に変なこと言う奴とかいても、気まずい空気になったとしても俺が何とかする。結生の事は俺が守ってあげるから、だから一緒に行こ?」
「守るとか…女扱いすんなボケ。そういうかっこいい台詞は好きな女に言え。………はぁ、分かったよ俺の負け。行けばいいんだろ行けば」

照れ隠しで朝陽の頭を軽く小突くと、朝陽は「いてっ」と大して痛くもないくせにそう言って、嬉しそうに笑った。
結局俺は唯一の友人であるこいつにめっぽう弱いのだ。






同窓会当日の夜。
俺は普段よりも小奇麗な服装をなんとか見繕って、いつもは寝癖すら直さないボサボサ髪もちゃんとセットして、朝陽と一緒に同窓会会場に来ていた。と言っても普通の、そこら中にチェーン店があるような庶民なら誰でも知っている居酒屋だ。

今日は高校二年生の時に同じクラスだった奴らが集まったらしい。朝陽の話では三分の二くらいの人数が集まったとか。
ドキドキと無駄に緊張している胸をなんとか宥めようと深呼吸していると、朝陽はそんな俺に構わずどんどん先へ行ってしまう。

その背を慌てて追いかけて、予約しているという大きめの個室の戸を開けた瞬間、中にいた全員の目が朝陽に向けられる。朝陽の高い背に隠れている俺はまだ誰の目にも入っていなかった。

「あっ!もしかして笹本君?うっわぁ、久しぶり!」
「おうっ、朝陽じゃん!お前相変わらず背でかいなぁ…というか高校の時よりまた伸びた?」
「なんか高校の時よりかっこよくなってるかも~」
「あははっ、皆久しぶり!」

朝陽の登場で場が一気に盛り上がったのが分かる。朝陽は高校時代からクラスのムードメーカー的存在で、いつも皆を笑わせて場を盛り上げていた。だから朝陽のおかげで和やかな空気になった今なら大丈夫な気がして、俺はそっと朝陽の背から顔を出した。そしてすぐに後悔した。

「ど、どうも…」

なるべく愛想を良くしようと思ってぎこちなく笑った顔がすぐに固まる。俺が顔を出した途端、今まで和やかだった雰囲気が一瞬で凍ったのが嫌でも分かった。
皆一瞬ポカンとした顔をして、すぐに気まずそうに視線を逸らす。まるで見てはいけないものを見たかのような反応に、心がギュッと締め付けられるようだった。

「あ、えっと…秋月君も来たんだね…」
「お、おう…久しぶり…だな」
「げ、元気…だった?」
「………」

ほら見ろ。やっぱり気まずい最悪な空気になったじゃないか。だからあんなに嫌だって言ったのに。
心の中で朝陽に文句を言う。
聞こえるわけないけれど、それでもなにか朝陽の悪口を呟いていないと立っていられなくなりそうだった。
心の中だけで思いつく限りの文句を言って、でも実際には口に接着剤でも塗られた様に閉ざして、俯いて顔も上げられなくなった。

やっぱりこのまま帰ってしまおうか、そう思いかけた時、前に立っていた朝陽の手が俺の手を握った。そのままグイッと引っ張られて、気まずい空気の中でも気にしない足取りで朝陽は個室の隅の方に腰を下ろした。
当然手を繋がれたままの俺も同じように朝陽の隣に座る。

そんな俺達の動向を目で追っていた同級生たちは、お互いにどうしようと戸惑った視線を交わす。
駄目だ、こんな空気の中に一秒でも居たくない。逃げたいのに、朝陽の手は逃がさないというように俺の手をきつく握りしめたままだ。

朝陽へ恨みがましい視線を向けると、その視線を受けた朝陽は小憎たらしいくらい満面の笑みを向けてきた。
そしてその笑顔のまま皆に向けて口を開くのを、俺は憮然と見つめていた。

「そう言えば今日の主役のむっちゃん先生はまだ来てないの?」
「え…あ、あぁっ!むっちゃんは少し遅れてくるって…でもそろそろ来る頃かな」
「そうなんだ。でも先生が結婚とかびっくりだよね。失礼だけど俺ずっと独身だと思ってたよ」
「あははっ…私もそう思ってた!お嫁さんどんな人なんだろうね」
「噂ではすっげぇ美人らしいぞ!しかも年下の幼な妻!!」
「えぇ!?うっそだ~」

朝陽が自然に話題を逸らしてくれたおかげで、さっきまでの気まずい空気が嘘のようになくなった。
皆の注目が俺から逸れたことにホッとして、同時に隣の朝陽に心の中で感謝しながらそっと握られたままだった手を外す。

来る前に言っていた俺を守るというのは本当だったらしい。
意外にも頼りになる友に感心しながら、俺は先生にお祝いの言葉を言ったらすぐに帰ろうと心に決めた。
それからほどなくして睦月先生が来て、皆でお祝いして、俺は朝陽のでかい身体に隠れながら大人しく酒を飲んでいた。

さっき個人的に先生に声を掛けてお祝いの言葉を言ったし、そろそろ帰ろうかなと思っていた矢先、朝陽の隣、つまり俺とは逆隣に朝陽よりも大柄な男がドカッと遠慮なく座った。

確かこいつは高校時代俺ともよくつるんでいた奴だ。
名前は田所…だったか。柔道部に所属していたまさしく体育会系の男だった。
しかし田所は俺には目もくれず朝陽の肩にがしっと腕を回すと、コソコソと朝陽の耳元で囁いた。
しかし本人は小声のつもりかもしれないが、俺にもバッチリ聞こえているぞ。

「なぁ朝陽、お前あそこで女連中に囲まれてるあいつ…誰だかわかるか?」

そう言って田所が視線を向けた先に、俺と朝陽も視線を向ける。
俺もさっきから地味に気になっていたのだが、俺達とは反対側の隅に座って女たちに囲まれている中々にイケメンな男が一人いたのだ。

少しクールな印象のある、ミステリアス系のイケメン…いやあれはイケメンというよりは美人という感じだ。切れ長で涼し気な目に泣きホクロが中々に色気があって、モデルや俳優だと言われても納得できるほど。
はて、あんな美形男子が俺たちのクラスにいただろうか。そして田所はあのイケメンの正体を知っているらしい。
わからないと首を傾げる朝陽に得意げな笑みを浮かべると、田所は更に声を潜めて囁いた。相変わらず俺にも聞えていたけれど。

「驚くなよ、なんとあのイケメン…ジミーだ」
「え…ジミーって…あの地味すぎて存在感無くて、いつも隅っこで本ばかり読んでた宇田川君?」
「そう、あの地味でモサかった宇田川だ」

二人とも散々な言い様だが、俺も驚いていた。
宇田川君は俺達のクラスメイトだが、とにかく地味で、地味すぎてジミーなんてあだ名が付くほどで、更に言うと俺がよくつるんでいた連中と一緒にパシリみたいな扱いをして苛めていた。

いじめっ子といじめられっ子。俺と宇田川君はそんな関係だった。
そんな宇田川君があの超絶美形イケメン?ちょっと信じられない。

「しかもだ…あいつ学生時代美術部だったじゃん。それが今では結構有名な画家先生らしいぞ」
「えぇ!?すごい出世したねぇ…」

重ねて聞かされた情報にまた驚く。
人から聞いた話だから本当か定かだけれど、確か宇田川君の家は裕福とは言い難い家庭だったはずだ。兄弟が何人もいる大家族で、色々苦労していると噂で聞いたことがあるのだが…。

まるで俺と正反対ではないか。
勝ち組から負け組に転落した俺と、負け組から勝ち組へ上り詰めた宇田川君。昔女子たちに囲まれるのは俺だった。でも今では宇田川君の方がモテている。

羨ましい気持ち半分、悔しい気持ち半分で宇田川君を見つめていると、その視線に気付いたのだろうか、宇田川君が不意にこちらに視線を向けて、目と目が合った。
その瞬間、何故かドキッと胸が高鳴った。
だけど視線が交じったのは一瞬で、宇田川君はすぐに興味が失せたのか、何の感情も感じられないままフッと視線が逸れる。

なんだろう、なんかすごく虚しいというか…自分がどうしようもなく惨めに思えて、一刻も早くこの場から立ち去りたくなった。
俺は隣にいる朝陽の服の端っこをチョイチョイと引っ張った。それだけですぐに朝陽は気付いてくれた。

「ん、どうしたの?」
「トイレ…」
「あぁ、うん、いってらっしゃい。場所わかる?」
「わかる…」

変な所で保護者面する朝陽に少しムカつきながらも返事を返すと、朝陽はへらっと笑った。こいつ結構酔ってるな。朝陽は酔うと笑い上戸になるからすぐわかる。

俺はあまり目立たないようにそっと席を立つと、個室を出た。そしてそのまま店の入り口まで迷うことなく歩く。
トイレは嘘だ。帰ると言ったら朝陽が俺を気にして自分も帰ると言い出しかねないから、嘘を吐いた。

多分皆、朝陽には二次会までいてほしいだろうし、邪魔者はさっさと帰るに限る。
会費は事前に払ってるし、朝陽には後で文句を言われるだろうが、そんなのは慣れっこなので気にしない。

もうすぐ入口に差し掛かってきたところで、見知った声がいくつか聞こえて、俺は思わず立ち止まってしまった。
どうやらこの店のトイレは入口の近くにあるようで、男女別れたトイレの前の少し開けたところで、男女数名が立ち話をしていた。
そいつらはさっきまで一緒だった同級生たちだった。しかも俺とよく一緒に遊んでいた連中だ。
彼等は俺達が使っている部屋から離れているからと安心していたのだろう。比較的大きめの声で笑いながら談笑していた。そしてその内容は俺の事だった。

「今日はマジでビビったよ。まさか秋月が来るなんてさぁ…」
「ほんと、マジで気まずいっての。誰だよ呼んだの」
「朝陽君でしょ。朝陽君優しいから、今でも付き合いあるって聞いたよ」
「朝陽凄いよな。俺だったら無理だよ。あんな事件起こした親がいる人間と関わりたくないって」
「一家心中って、つまり父親は人殺しでしょ?私も無理だなぁ」
「そう言えば別の意味で吃驚したのは宇田川君だよね!まさかあんなにイケメンで、しかも有名な画家先生でしょ!あ~ぁ、高校の時秋月君じゃなくて宇田川君と仲良くしとけばよかったなぁ…」
「ほんとそれだよな。俺に未来が見える力があればなぁ。秋月より宇田川に媚び売ってたのに~」
「あはははっ、媚って酷くない?」

人を馬鹿にしたような…いや、ようなではなく正しく人を馬鹿にした笑い声が耳にこびり付く。
分かっていた。俺はちゃんと分かっていた。他人から見た俺がどういう風に映っているのか。
人殺しの子ども、可哀想な被害者、落ちぶれた人間…。
分かっていたよ、分かっていたけれど、想像するのと実際に聞いてしまうのではこうもダメージが違うのかと、どこか冷静な自分が自分を分析する。

俺は叫び出してしまいそうな口を強く唇を噛んで堪え、震える拳を握りしめて、零れそうな涙を意地でも流さないように目を見開いて、気付かれないようにそっと店を抜け出した。






どこをどう歩いたのか記憶がない。店を出てフラフラした頼りない足取りで歩いて、駅について、駅のホームに立って漸く我に返る。
そう言えばさっきからケータイの着信が鳴り続けているけれど、どうせ相手は朝陽だろう。俺に連絡をする奴なんて今では朝陽だけだ。

電話…出た方がいいかな。
でも何もかもが面倒くさい。今は朝陽の馬鹿みたいに明るい声は聴きたくなかった。
もう本当に何もかもがどうでもいい気分だった。

周りから可哀想な人間だと同情されて、疎まれて、馬鹿にされて。俺が今必死に生きている意味は何だろうか。
愛する家族はもういない。
守りたいと思えるような大切なものなんて何もない。
唯一朝陽だけは大切だと思えるけど、でもあいつだって俺がいなければ生きていけないわけじゃない。
朝陽は俺以外にも大切なものがたくさんあって、俺がいなくても勝手に幸せになれる人間だ。

じゃあ俺っていらなくね?誰にも必要じゃないなら、いらないじゃん。
こんな簡単なことに気付くのに何年かかっているんだろうと、自分で自分がおかしくて場違いな笑いが漏れた。

電車がホームにもうすぐ着くとアナウンスが流れる。ボーっと電車が来る方向を眺めて、何かの本かテレビで聞いた話を思い出した。
電車の運転士はホームから飛び降りる人が何となくわかるんだって。
何故ってそれはその飛び降りる寸前の人と目が合っちゃうから。
あの話ってマジだったんだな…なんて呑気な事を考えて、驚愕に目を見開く運転士の顔を眺めながら、俺は線路へ一歩踏み出した。



「おいっ!!!!」
「…え」



その瞬間、焦ったような叫び声と、誰かの手が俺の腕を掠った感触がして、俺は無意識にその手を掴もうと手を伸ばしていた。
無我夢中で伸ばした手が何かを掴む。
でもそれが誰なのか、何を掴んだのか確かめる暇もないまま、俺の視界は真っ白に染まってそのまま意識を失った。














・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「お~い…おいって」

ゆさゆさと誰かが俺の身体を揺さぶっている。
誰だ、こんなに気持ちよく眠っている俺を無理矢理起こそうとする不届き者は。俺はまだ惰眠を貪っていたいんだ。だから俺の睡眠を邪魔するな。

煩わしくて俺に触れるその手を振り払うと、すぐ上から苦笑が聞こえた。まるで朝中々起きない息子に呆れている母のような優しい苦笑。

あぁ、なんだ。俺を起こそうとしているのは母さんか。
なんだかひどく懐かしい。
母さんの声も体温も、もう忘れかけていたはずなのに………あれ?母さん?母さんって…死んだはずじゃあ…ていうか俺も死んだはずじゃあ…。

蘇るのは直前までの記憶。
電車のホームから飛び降りて自殺した記憶。

「………………っ!?」

そこまで思い出して慌てて眠りの淵から目覚め、勢いよく顔を上げた。
そして最初に目に映ったのは………。

「あ、やっと起きた。新学期早々寝るとか、勇者だなお前」
「……………………………………………は?」

目の前にいたのは懐かしい学生服を着た朝陽で、よく見ると、いやよく見なくても若返っている。それこそ高校時代の頃に戻っていた。

訳が分からなくて恐る恐る周囲を見回すと、そこは懐かしの高校の教室で、窓から見える空は夕焼けに染まっていた。
更に自分の姿を見下ろすと朝陽と同じ学生服に身を包んでいた。
えっと…これは…夢?それともここが天国?いや地獄とか?人は死ぬと過去に似た世界へ行くのだろうか?訳が分からないまま一応セオリーかと思って頬を抓る。痛い。

「何してんの、お前?」

そんな俺を朝陽が不思議そうに見つめる。その顔は何度見ても幼くて、さっきまで一緒だった朝陽とは少しだけ違っていた。

「朝陽………変な事聞くけど、お前今何歳?」
「は?なにその質問?16歳だけど…」
「16歳………」

もう一度自分の頬を抓ってみる。やはり痛かった。という事はこれは夢ではないらしい。
痛みだけじゃなく他の感覚もリアルに感じられる。何より目の前の朝陽はどこからどう見ても未成年だった。

どういうことだ。俺はまさか過去に戻ったのか?そんなことが現実にあり得るのか。
いやでも実際ここは俺の記憶通りの学生時代を過ごした教室だ。朝陽だって嘘を言っているようには見えない。
死んだと思っていたのに過去へ戻るとか、どんなラノベだとツッコミたい。

もう一度教室を見回して、黒板にチョークで書かれた日付を確認する。
4月10日、さっき朝陽は新学期早々と言っていたから、つまり今の年齢を考えると高校二年に進級したばかりの4月という事か。

高校二年…家族は健在で、俺はまだ勝ち組で、幸せを当たり前だと思って過ごしていた時期。ということは………この世界にはまだいるのか?恋しくて恋しくて堪らなかった家族が、父が、母が、弟と妹が。
その考えに行き着いた瞬間、俺は弾かれた様に立ち上がり、突然の俺の行動に朝陽が驚いて目を見開く。
しかしそんなことに構っていられる暇はなかった。

「朝陽っ!」
「へ、な、なに?」
「今ってもう放課後なんだよな!?」
「は、はい…そうです」
「じゃあ、俺もう帰っていいんだよな!?」
「え、は、はい…帰っていいですよ」
「ありがとうっ…じゃあ帰る!また明日!!」
「は、はい…また明日…?」

俺の勢いに気圧されて、何故か朝陽は敬語で俺の質問に答える。
でもやっぱり俺はそんな些細なことを気にする余裕もなく、机横に下がっていた鞄を手に取ると、駆け足で教室を飛び出した。






多分今までの人生で一番必死に走ったと思う。高校が自宅から徒歩圏内だという事にこれほど感謝したことはなかった。
必死に走って走って、見えてきた我が家に灯りが灯っているのを見て、中から母さんが作るカレーの匂いが漂ってきて、それだけで泣きそうになった。
もう居ても立ってもいられなくて、走ってきた勢いのままドアを開け、靴を脱ぎ散らかしてリビングに駆け込む。
そこには懐かしい記憶のままキッチンで鍋をかき混ぜるエプロン姿の母さんがいて、俺はただいまも言わないまま母さんに抱き付いた。

「きゃっ…な、なに?結生?ど、どうしたの?」

母さんの驚き戸惑った声が耳を擽る。
あぁこれだ。母さんの声は確かにこんな声だった。優しくて温かくて、鈴が鳴るような可愛い声が大好きだった。

「ただいま…母さん…っ」
「おかえりなさい?結生、本当にどうしたの…ってあら?あなた泣いてるの?ど、どうしたの!?学校でいじめられた?それとも好きな子にフラれちゃったのかしら…大丈夫よ、結生はいい子だからね」

訳が分からないままよしよしと俺の頭を撫でる母さんの手が優しく温かくて、更に泣きたくなった。もう母さんが何しても泣きたくなるらしい。

「母さん、騒がしいけどどうした…って兄貴、なんで泣いてんの?」
「なになに~?結生兄ぃどうしたの!?」

リビングでの騒ぎが上にも聞えてきたのだろう。二階にいた弟の健と妹の愛美が降りてきて、母さんに抱き付いて泣いている俺を見て驚いた声を上げる。
でも俺は母さんに続いてもう二度と会えないと思っていた可愛い弟と妹の登場に更に涙腺が緩んだ。というか俺の涙腺はもう壊れていた。

「っ…健…愛美~っ…」
「うわっ…ちょ、なに!?」
「結生兄ぃ?」

母さんからいったん離れて、今度は健と愛美の二人に抱き付いた。
腕の中の二人は突然の事に驚き戸惑い、それでも俺を慰めるように背を撫でてくれた。

「どうしたんだよ…先生に怒られたとか?」
「失恋したんじゃない?」

的外れな二人の推理がおかしくて思わず笑みを零すと、二人と母さんは安心したようにホッと息を吐き出した。
だいぶ心配をかけてしまったようだが仕方がないだろう。
だってもう二度と会えないと思っていたんだ。
二度と話すこともこうして抱きしめることも出来ないと思っていた。恋しくて堪らなかった家族が目の前にいて、泣くなというほうが難しい。

ここにきてようやく俺は実感した。ここにいる母さんたちはまぎれもなく本物だ。そして間違いなく生きている。
これは夢でも、死後の世界でもなんでもなく、俺は本当に過去に戻ってきたのだと。
理由は分からない。どうして過去に戻れたのかなんてわからない。でもそんなことはどうでもよかった。
また家族に会えた幸せに比べれば、過去に戻った原因も理由も些末な事だった。

ちなみにこの後仕事から帰ってきた父さんにも俺は泣いて抱き付いて、無表情がデフォルトな父さんをこれ以上ないほど困惑させてしまった。
正直一家心中を図った父さんに複雑な感情を抱いてもいるけれど、それよりも生きてまた会えたことが嬉しくて堪らなかった。




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