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第一章 後宮編(前)
ままならぬ事情
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「今日はどうもありがとう、フィンセント。またよろしく頼むわね」
「こちらこそ……。お疲れでしょう。今日はゆっくり休んでくださいね」
心なしか肌艶がよくなっているジネットと、そんな彼女とは裏腹にげっそりしているフィンセント。
フィンセントはあれから四回、精を抜かれた。
身支度を整え、汚れてしまったシーツを取り替えた後、フィンセントはジネットの部屋を出た。彼は首を巡らせ、周囲に誰もいないことを確認すると壁に手をつき、大きく息をはき出した。
──まさかこんなことになるとは……。
フィンセントは今まで、己が性に淡白な人間だと考えていた。皇帝の閨番を約一年間担当していたが、側女の裸や側女と皇帝の行為を見てもなんの感情も覚えなかった。黙々と行為の内容と回数を記録する日々だった。
士官学校の研修で厩舎で働いたことがあるが、その時に馬の交配を目にした。人も馬も、生殖については何も変わらないと思っていたのに──
すっかりジネットに骨抜きにされてしまった。
◆
「まあ、フィンセント。どうしたの? 今日は練習の日じゃないわよね?」
「今日はジネット様に差し入れをお待ちしました」
あれから、フィンセントは閨教育を行う日以外にも、ジネットの部屋を訪れた。三日に一度、股間をしゃぶらせに来るだけの男など、いずれ嫌われてしまうだろう。
まめに顔を出し、話を聞くようにすれば、少しは好感を持ってもらえるかもしれないと考えた。
「まあ! 本? ありがとう。退屈していたのよ」
「他にも何か必要なものがあれば、いつでも仰ってください」
売店の店主に女達の間で流行っている本を聞き、いくつか購入した。本の表紙に書かれたラブロマンスを匂わせるタイトルに、ジネットは瞳を輝かせる。
「どうぞ入って。フィンセントなら大歓迎よ」
ちょうど湯を沸かしたところなのだと、ジネットは慣れた手つきで紅茶を淹れてくれた。
側女の部屋は水まわりが完備されている。
大陸中の国を支配下に置いた帝国は、好景気が続いている。側女達が暮らす後宮も贅が凝らされているだけでなく、設備も充実していた。
「不便はありませんか?」
「いつも気遣ってくれてありがとう。お陰様で、今までの人生で一番良い生活ができているわ」
今日のジネットは髪を下ろしている。白銀の髪が背に広がり、光輝いて見えた。
優雅な所作で紅茶のカップの取っ手を持ち、傾けるジネットは気品がある。
実家の没落、訳ありの結婚──これらがなければきっと今ごろ、それなりの爵位にある家の夫人として何不自由なく暮らしていただろうに。
──ジネット様は、こんなところにいるような方ではない。
そう思っても、フィンセントは口にしない。
言ったところで、すぐにはジネットの現状を変えられないからだ。
「……ねえ、フィンセント」
テーブルの向かいから、花のように柔らかな声がする。
「良かったら、あなたのことを聞かせて?」
「俺のこと、ですか?」
「……私、デビュタントの時期に家が没落してしまって、社交に出たことがほとんどないの。だから、騎士のあなたのこともろくに知らない……」
騎士のほとんどは、貴族の子息だ。社交の場に出ていれば、騎士の情報が入ってくることもある。
だが、成人する年頃に家が没落したジネットはそのような情報に疎いのだろう。
「……俺は騎士でも、侯爵の庶子ですから。聞いても面白い話はありませんよ」
「そんなことないわ。私、フィンセントに興味があるの」
「それはどういう意味ですか?」
「特に深い意味はないわ。ただ、あなたに興味があるだけよ」
瞳に弧を描くジネットは、実に蟲惑的だ。
フィンセントは紅茶を一口啜ると、挑発的な言葉を返した。
「俺を誘惑しているのですか?」
「……誘惑?」
「女性から興味があると言われたら、男はそう捉えます」
ジネットの大きな瞳が、更に見開かれる。
「そんなつもりはなかったのだけど……。ただ、三日に一度、ああいうことをするでしょう? ある程度仲良くなった方が、もっとやりやすいかと思って」
「そうですか」
「フィンセントはどう思う?」
「俺はジネット様に生理的に嫌われなければ、どうでもいいです」
感じの悪い言い方になってしまったと、すぐにフィンセントは自己嫌悪する。彼は二十二年間、女と仲良くなったことが一度もない。好意を寄せられても面倒だと思うばかりで、仲良くなる努力すらしたことがなかった。
「……嫌わないわ」
琥珀色に満たされたカップに視線を落とすフィンセントに、ジネットははっきりとそう告げた。
「ジネット様……」
「あなたは私の恩人だもの」
◆
ジネットと出会い、半月が立つ頃には、フィンセントの頭の中は寝ても覚めても彼女のことばかりになっていた。
当初、側女のことは己の出世の道具としか考えていなかったフィンセント。
だが、今は違う。
──どうにか、ジネット様を下賜してもらうことはできないだろうか。
相変わらず、皇帝はジネットとは真逆のタイプの側女に夢中だ。たまには違うタイプの女を味見しようとは微塵も考えないようで、皇帝の寵愛を受けている側女の閨教育係の騎士は、順調に階級を上げている。
皇帝は、一切手をつけない側女には暇を出すこともある。ジネットもそうならないかとフィンセントが考えていると、廊下の奥から男女が争うような声が聞こえてきた。
「ねえ、私もうやだっ! なんであんなヒヒ爺と毎晩寝なきゃいけないの?」
女の泣き叫ぶような声に、フィンセントは壁に背をつけ、息を殺して様子を窺う。
女の向かいには、最近昇進したばかりの若い騎士がいた。
──あれは……。
二つ結びにした金髪と小麦色の肌が見える。確かエマという名で、草原の国からやってきたまだ十八歳の少女だ。
皇帝が今一番気に入っている側女である。
──まだ十八歳なのに、六十歳の爺さんの相手は辛いだろう……。
同情はするが、助ける術も義理もない。
この帝国にて皇帝の存在は絶対だからだ。
「エマ、我慢しておくれよ」
「アロイス、私はいつあなたに下賜されるの? もう限界……!」
「もうすぐ、もうすぐだ。僕が騎士団長まで昇り詰めれば、きっと陛下は君を僕にくださる」
輝かんばかりの金髪を持つアロイスは、エマに甘やかな口調で囁くと、前屈みになる。
どうやら口づけを交わしているらしい。
──色恋か……。
騎士の中には側女を自分に惚れさせて、意のままに操ろうとする者がいる。
アロイスには担当している側女が三人もいて、そのどれもが皇帝のお気に入りだ。
安寧の世が続き、戦が起こる気配すらない。
出自に難がある騎士が出世するには、皇帝に女を差し出すしかない。アロイスも伯爵の庶子なのだ。
──俺はぜったいにジネット様を犠牲にはしない。
そう心に誓うが、この世の中に「ぜったい」は存在しない。魅力にあふれたジネットが皇帝に気に入られない保証はないし、フィンセントはジネットを皇帝に気に入られるように教育しなければならない。
ままならない事情が、この後宮には渦巻いていた。
「こちらこそ……。お疲れでしょう。今日はゆっくり休んでくださいね」
心なしか肌艶がよくなっているジネットと、そんな彼女とは裏腹にげっそりしているフィンセント。
フィンセントはあれから四回、精を抜かれた。
身支度を整え、汚れてしまったシーツを取り替えた後、フィンセントはジネットの部屋を出た。彼は首を巡らせ、周囲に誰もいないことを確認すると壁に手をつき、大きく息をはき出した。
──まさかこんなことになるとは……。
フィンセントは今まで、己が性に淡白な人間だと考えていた。皇帝の閨番を約一年間担当していたが、側女の裸や側女と皇帝の行為を見てもなんの感情も覚えなかった。黙々と行為の内容と回数を記録する日々だった。
士官学校の研修で厩舎で働いたことがあるが、その時に馬の交配を目にした。人も馬も、生殖については何も変わらないと思っていたのに──
すっかりジネットに骨抜きにされてしまった。
◆
「まあ、フィンセント。どうしたの? 今日は練習の日じゃないわよね?」
「今日はジネット様に差し入れをお待ちしました」
あれから、フィンセントは閨教育を行う日以外にも、ジネットの部屋を訪れた。三日に一度、股間をしゃぶらせに来るだけの男など、いずれ嫌われてしまうだろう。
まめに顔を出し、話を聞くようにすれば、少しは好感を持ってもらえるかもしれないと考えた。
「まあ! 本? ありがとう。退屈していたのよ」
「他にも何か必要なものがあれば、いつでも仰ってください」
売店の店主に女達の間で流行っている本を聞き、いくつか購入した。本の表紙に書かれたラブロマンスを匂わせるタイトルに、ジネットは瞳を輝かせる。
「どうぞ入って。フィンセントなら大歓迎よ」
ちょうど湯を沸かしたところなのだと、ジネットは慣れた手つきで紅茶を淹れてくれた。
側女の部屋は水まわりが完備されている。
大陸中の国を支配下に置いた帝国は、好景気が続いている。側女達が暮らす後宮も贅が凝らされているだけでなく、設備も充実していた。
「不便はありませんか?」
「いつも気遣ってくれてありがとう。お陰様で、今までの人生で一番良い生活ができているわ」
今日のジネットは髪を下ろしている。白銀の髪が背に広がり、光輝いて見えた。
優雅な所作で紅茶のカップの取っ手を持ち、傾けるジネットは気品がある。
実家の没落、訳ありの結婚──これらがなければきっと今ごろ、それなりの爵位にある家の夫人として何不自由なく暮らしていただろうに。
──ジネット様は、こんなところにいるような方ではない。
そう思っても、フィンセントは口にしない。
言ったところで、すぐにはジネットの現状を変えられないからだ。
「……ねえ、フィンセント」
テーブルの向かいから、花のように柔らかな声がする。
「良かったら、あなたのことを聞かせて?」
「俺のこと、ですか?」
「……私、デビュタントの時期に家が没落してしまって、社交に出たことがほとんどないの。だから、騎士のあなたのこともろくに知らない……」
騎士のほとんどは、貴族の子息だ。社交の場に出ていれば、騎士の情報が入ってくることもある。
だが、成人する年頃に家が没落したジネットはそのような情報に疎いのだろう。
「……俺は騎士でも、侯爵の庶子ですから。聞いても面白い話はありませんよ」
「そんなことないわ。私、フィンセントに興味があるの」
「それはどういう意味ですか?」
「特に深い意味はないわ。ただ、あなたに興味があるだけよ」
瞳に弧を描くジネットは、実に蟲惑的だ。
フィンセントは紅茶を一口啜ると、挑発的な言葉を返した。
「俺を誘惑しているのですか?」
「……誘惑?」
「女性から興味があると言われたら、男はそう捉えます」
ジネットの大きな瞳が、更に見開かれる。
「そんなつもりはなかったのだけど……。ただ、三日に一度、ああいうことをするでしょう? ある程度仲良くなった方が、もっとやりやすいかと思って」
「そうですか」
「フィンセントはどう思う?」
「俺はジネット様に生理的に嫌われなければ、どうでもいいです」
感じの悪い言い方になってしまったと、すぐにフィンセントは自己嫌悪する。彼は二十二年間、女と仲良くなったことが一度もない。好意を寄せられても面倒だと思うばかりで、仲良くなる努力すらしたことがなかった。
「……嫌わないわ」
琥珀色に満たされたカップに視線を落とすフィンセントに、ジネットははっきりとそう告げた。
「ジネット様……」
「あなたは私の恩人だもの」
◆
ジネットと出会い、半月が立つ頃には、フィンセントの頭の中は寝ても覚めても彼女のことばかりになっていた。
当初、側女のことは己の出世の道具としか考えていなかったフィンセント。
だが、今は違う。
──どうにか、ジネット様を下賜してもらうことはできないだろうか。
相変わらず、皇帝はジネットとは真逆のタイプの側女に夢中だ。たまには違うタイプの女を味見しようとは微塵も考えないようで、皇帝の寵愛を受けている側女の閨教育係の騎士は、順調に階級を上げている。
皇帝は、一切手をつけない側女には暇を出すこともある。ジネットもそうならないかとフィンセントが考えていると、廊下の奥から男女が争うような声が聞こえてきた。
「ねえ、私もうやだっ! なんであんなヒヒ爺と毎晩寝なきゃいけないの?」
女の泣き叫ぶような声に、フィンセントは壁に背をつけ、息を殺して様子を窺う。
女の向かいには、最近昇進したばかりの若い騎士がいた。
──あれは……。
二つ結びにした金髪と小麦色の肌が見える。確かエマという名で、草原の国からやってきたまだ十八歳の少女だ。
皇帝が今一番気に入っている側女である。
──まだ十八歳なのに、六十歳の爺さんの相手は辛いだろう……。
同情はするが、助ける術も義理もない。
この帝国にて皇帝の存在は絶対だからだ。
「エマ、我慢しておくれよ」
「アロイス、私はいつあなたに下賜されるの? もう限界……!」
「もうすぐ、もうすぐだ。僕が騎士団長まで昇り詰めれば、きっと陛下は君を僕にくださる」
輝かんばかりの金髪を持つアロイスは、エマに甘やかな口調で囁くと、前屈みになる。
どうやら口づけを交わしているらしい。
──色恋か……。
騎士の中には側女を自分に惚れさせて、意のままに操ろうとする者がいる。
アロイスには担当している側女が三人もいて、そのどれもが皇帝のお気に入りだ。
安寧の世が続き、戦が起こる気配すらない。
出自に難がある騎士が出世するには、皇帝に女を差し出すしかない。アロイスも伯爵の庶子なのだ。
──俺はぜったいにジネット様を犠牲にはしない。
そう心に誓うが、この世の中に「ぜったい」は存在しない。魅力にあふれたジネットが皇帝に気に入られない保証はないし、フィンセントはジネットを皇帝に気に入られるように教育しなければならない。
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