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もう帰ってこないと思っていたのに

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「マフローネさんっ」
「ひゃあっ、なっ、なんっ」

 夜。皆が寝静まった時間帯。エルンストは正門からではなく、なんと裏口を使って屋敷の中に入ってきた。完全に油断していた。

 ──それに今日はもう、帰ってこないと思っていたし。

 心臓がばくばくする。心の準備はまだ出来ていない。しかし即座に謝らなくてはいけないのは確かだ。
 私は額に脇に背中に汗をかきながら、懸命に謝った。力の限り謝罪した。

「あの、ごめんなさい! 家への追加支援の話、モーリスから聞きました!」
「ああ、ご実家がたいへんだなと思って」
「ご、ごめんなさい! 知らなかったこととはいえ、その!あの!」


 ──帰ってくるな、だなんて言ってしまった。

 気分的には死んで詫びたい。私はなんでここにいるのだろう。役立たずどころか夫の気分を害する毒妻だ。しかも実家に追加支援してくれる夫になんてことを。
 申し訳なさすぎてもう呻き声しか出せない。謝ったものの語彙も死にすぎている。恥に恥を重ねて本当につらい。死ぬ。

「ううう……」
「気にしなくてもいいよ、それより気分は? 胃の痛みは?」
「平気ですう」

 今日は薬をのんで一日寝ていた。エルンストが帰ってきたら何と謝ろうか考えながら。いやもしかしたらもう帰って来ないかもなんてぐずぐず考えながら泣いていた。私は本当にうっとおしい胃痛持ちである。

「良かった、マフローネさんが元気になって」

 心底ほっとしたと言わんばかりの、ゆるっとした笑みを見せるエルンスト。ほんとうにもう、何て良いひとなのだろう。女癖の悪いところを除けば、彼は聖人だと思う。

 ──そもそも私が彼に恋心さえ抱いてなければ、尊敬できる人なのよね。

 人間誰しも欠点はあるものだ。彼は欠点が女癖に出てしまったのだろう。その女癖の悪さも、見方を変えれば利点なのかもしれない。私は彼の女癖の悪さに苦しんでいるけど。
 私は彼に恋をしてしまった、他の女の影を許容出来なくなってしまったのだ。

「ごめんなさい。心配をかけさせてしまって」
「いいよ、もう謝らなくても。それよりマフローネさんに聞きたいことがあるんだ」
「は、はい?」

 ──何だろうか? 

 エルンストはソファに座るように促してくれた。
 改まった様子のエルンスト。聞きたいこととは一体何だろうか?




 ◆




「マフローネさんさ、ゆうべイリーナ・ハイゼルに会ったって言ってたよね?」
「は、はい!」

 いきなり愛人の話とは。
 モーリスから愛人の話をするなと言われてたけど、エルンストからするのなら、まぁ問題はないのだろう。

 ──ただどういう話かは気になるけど。
 もしかして。これからは愛人イリーナ宅で暮らすとか言われたらどうしよう。

 また心臓がどくどく高鳴った。薬がよく効いているからか胃が痛むことはないが、お腹を抑えたくなった。
 きっとひどい顔色をしているであろう私とは裏腹に、エルンストは神妙な顔をしていた。

「イリーナ・ハイゼルは、師……ロアンヌ先生の娘なんだ」
「えっ、そうなんですか?」
「そっ。で、ロアンヌ先生は私の元上司なんだ」
「元上司……?」

 エルンストは上着の内側から深緑色のつるっとした薄い布を二枚取り出すと、一つはそれで口を覆い、一つは前髪をかきあげながらそれを頭に被った。 

「あっ!」
「この顔に、見覚えはない?」

 エルンストは目元だけ露出させた顔で、瑠璃色の瞳を細めた。この装いとこの目元には見覚えが確かにあった。

「受付のお兄さん……⁉︎」

 思わず両手指を合わせてぴょんと腰を浮かせてしまった。

「ご名答!覚えていてくれて嬉しいよ」
「ぜんぜん気がつかなかった……!」

 ロアンヌ先生の医院の、目元以外はすべて深緑の布で隠した男の先生。私は彼のことがこっそりいいなと思っていた。

 毎回ていねいに問診票の内容をきいてくれるし、目元に優しい笑みを浮かべられて挨拶されると、それだけで胃の調子が治っちゃうぐらいウキウキした。

 半年前にこの先生が急に辞めたと聞いた時は、ほんとうにショックだった。辞めることを知っていたら、今までのお礼をしたためて手紙にしたのにと残念に思ったものだ。
 まさかその男の先生がエルンストだったとは。

「急に医院をやめちゃってびっくりしました。お礼を伝えたかったのに」
「お礼?」
「はい!毎回受付で会うのを楽しみにしてて、帰る時もあいさつしてもらえて、いつもウキウキしながら帰ってました! 家の雰囲気がずっと暗かったから、私の楽しみは受付にいる男の先生に会うことぐらいだったんです」

 男の先生からは、良いひとなのが滲み出ていた。自分から声をかけようか迷ったけど、私はしょせん貧乏な家の令嬢。しかも長女。いずれは愛のない政略的な結婚をするだろうなと思って躊躇した。受付にいる先生とどうにかなりたいとまでは考えていなかったが、声をかけているところを誰に見られるか分からない。自分の中に湧いたほのかな好意は、そっと胸の奥に仕舞うことにしたのだ。

「そうか」
「はい!」
「私もマフローネさんのことがずっといいなと思っていたよ」
「! もしかして、医院に来ていた私を見初めて下さったんですか?」

 エルンストは恥ずかしそうに頷いた。口覆いを外しながら、彼は赤い顔をして吐露しはじめた。

「ロアンヌ先生の元に来る君のことをずっといいなと思っていたんだ。まあ、患者に私的な声かけをするのはよくないから、あの頃はどうすることも出来なかったんだけど」

 首をぽりぽりかきながらそう言うエルンストは純朴そのもので、彼の演技力の高さに拍手したくなった。女優の恋人がいると、普段からお芝居がうてるようになるのだろうか。

「私に目をつけていたから、身辺をしらべてお金で買うことにしたんですねぇ~~……」

 見事な手口だ。拍手したくなった。

「すごく人聞きが悪いが……そういうことだ」

 普段から包囲網をはっていないと、常時たくさんの女性を囲うのはむずかしいのかもしれない。妙に納得した。

「何でそのことを私に言うことにしたんですか?」
「えっ」
「せっかく良い思い出だったのに」

 ロアンヌ先生のところで女性を物色していただなんて。けっこうどころかだいぶショックだ。初恋を穢されたような気がして、気分が悪かった。

「すまない、君の弱みにつけ込むような真似をして」
「いいんです。おかげでうちは助かりましたし……」

 なんだかまた不穏な雰囲気になったところで、廊下から大きな物音が聞こえてきた。女性同士が言い争うような声も聞こえる。

 ──この声は、ロアンヌ先生?
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