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はじめて知った嫉妬
しおりを挟むエルンストの愛人、イリーナに出くわした日からというもの、夫の顔をまともに見れなくなった。話かけられても、彼の首元をみているような何とも気まずい状態だ。
イリーナ・ハイゼルは人気舞台女優。顔と名前はもちろん知っていたが、あの日まで直接言葉を交わしたことはなく、家令からいくらエルンストとイリーナの仲を説明されても、どこか遠い世界のことのように感じられた。
それがだ。生身の彼女を目にしたとたん、急にそれは私のなかで現実のものとなった。
形の良い紅い唇から紡がれる夫の名前。卑猥なものを感じ、ぞっとした。
彼女は私がまだ知らないエルンストを知っている。閨での振る舞いを知ってるのだ。夫があの紅い唇に、白い肌に触れている。そう考えるだけで胃からこみ上げてくるものがあった。
この時初めて負けたくない、と思った。私は処女、色気もない。こちらに分がないことは百も承知だが、だからと言って素直に負けを認めるのは嫌だった。
「……マフローネさん?」
夕食も湯浴みも済み、二人で共有リビングで寛いでいた。私と彼との寝室の間にある空間で、彼は読書、私は仕事の準備をしていた。
眠る前のわずかな時間。このゆったりとした時間が好きだった。エルンストは温めたワインをのみ、私はホットミルクを飲む。おだやかで優しい時間。しかしこの時間は、本来は別のことに当てられるべきだということは、生娘の私でも知っていた。
仕事用の資料をまとめ終えた私は、本を抱えたエルンストの隣に腰を下ろし、そっと身体を寄せた。
「もうそろそろ良い頃合いだと思うのです」
個人的にはもう少しだけ清らかで何もない友人のような関係でいたかったが、時間が差し迫っていることはあきらかだった。イリーナが私の前に現れたのだ。
「だけど……」
「旦那様はお嫌ですか?」
主語はなくとも意味は通じているらしい。やや彼の顔は赤らんでいる。
「嫌じゃない。でも、夫婦二人だけですこやかに過ごす時間も大切なんだ」
これは本音だろうか。それとも……。
上目使いで彼の顔をのぞきみたら、かちりと視線があった。しっかりと、エルンストの視線は私の身体に注がれていた。
身体の線が出るような夜着を着て正解だったかもしれない。私は顔は平凡だと思うが、身体にはそこそこ自信があった。胸の大きさだけならイリーナにも負けていない。
「でも、もう。式を挙げてから二月も経っています」
普通は式の当日の晩に行われているはずの初夜。何故か二ヶ月経った今も何も無かった。キスすら式でしかしていない。むくれる私に、彼はこう言った。
「君には私のことを好きになってほしい」
熱っぽいセリフを口にするエルンスト。別に愛人がいるのに、なんて残酷な事を言うのだろう。私がエルンストのことを本気で好きになれば、今よりもずっと苦しむというのに。
イリーナに会って、はっきり自覚してしまった。私はエルンストに恋焦がれていたと。私は彼の愛人に嫉妬したのだ。私の知らない彼を知っている女性に、はっきりと憎しみを抱いた。
「私はこの間、イリーナさんに声をかけられました」
「イリーナさん?」
「舞台女優の、イリーナ・ハイゼルさんです」
夫の瑠璃色の瞳が丸くなる。少し何かを考えるような顔をしたあと、目を見開いた。
「ああ、女はたくさんいるから忘れていた」
──女は、たくさんいる?
夫の顔をまじまじと見た。清潔感の塊のようなエルンスト。何かの聞き間違いじゃないかと、私は聞きかえした。
「女性はイリーナさん以外にもいらっしゃるんですか?」
「ああ、十人ほど」
「じゅっ、十人⁉︎」
「そんなに驚くことか? 貴族は愛人を大勢持つものだと、死んだ兄も言っていたが」
確かにそうかもしれないが、ちょっと多いような気がする。十人もどうやって相手をしているのだろうか? もしかしたら昼間の連れ込み宿のようなところへ複数人呼んで、口にするのも憚られるような性的な行為に興じているのかもしれない。
さっきまで感じていた熱がすっと覚めた。
何せ正妻を、多額の借金を肩代わりしてまで得ようとする男である。普通の正妻なら聞いて逃げ出すような女性関連の趣味があってもおかしくない。
病気が怖いし、こんな趣味をもつ夫に触られたくないと瞬時に感じてしまったが、実家にはまだ幼い弟や妹がいるし、学校に通っている弟もいる。
──がんばれ、私!
エルンストの隠された趣味──いや、聞いたらはっきり口にしたから隠してもないかもしれないが──に、かなり引いたが、私はやらねばならない。彼の子を産む。それが私の第一の務めだ。
「旦那様。私、今夜は旦那様のところで眠りたいです」
引きつる顔になんとか笑顔を浮かべた。
それに女は受け身でいれば良いはずだ。まぶたを閉じて嵐が静まるのをただ待つ。それなら具合がいまいちだろうが、生理的に無理だと感じようが何とかなるかもしれない。
「……無理をしてないか?」
「無理じゃないです!」
「誰かに嗾けられたのか? 顔色が真っ青じゃないか」
首を大きく横にふる。正直にいえば、嗾けられて焦っている。イリーナに負けたくないと思ってしまった。夫を好きだという気持ちよりも、女として同じ場に立ちたいという気持ちの方が優っている。
下唇をかむ。この夫に本気になれば苦しむのは自分だ。今ならまだ間に合う。その気じゃないのに手出しをされれば、少なくとも生理的に嫌うことが出来るかもしれない。
「……お願いします」
胃が痛くて脂汗が出る。吐き気はしないから、なんとか耐えられるかもしれない。
「医者を呼ぼう」
「えっ……」
「ひどい顔色だ。さっきからずっと腹部を押さえているし、腹痛がするんだろう? 無理をしてはダメだ」
エルンストは私の肩に腕をまわし、膝裏に手を入れるとゆっくり身体を抱き上げた。
「えっ、あの」
「揺れて気分が悪くなるかもしれないが、我慢してくれ」
「自分で歩けますから」
身体を引き寄せられ、彼の体温が伝わってくる。宙にういたかと思えば、ベッドの上にふわりと優しく下ろされて、身体を離された時は寂しく思ってしまった。
「ずっと胃のあたりをさすっていたから、気になっていたんだ。医者を呼ぶから、身体のこちら側を下にして横になるんだ。……吐き気は?」
「無いです……」
頭と首の下あたりまで手触りのよいタオルを敷かれ、横になった顔の前に半月型の銀のカップが置かれた。妙に準備がいいなと思ったが、彼は伯爵家を継ぐまで医療機関で働いていたことをふと思い出した。
勤め先だった具体的な医院名は聞いていないが、彼は人当たりのよいひとなので、人気の先生だったのだろうなぁなんて、のんきな事を考えてしまった。
──人気のせんせい?
そうだ、わざわざ医者を呼ばなくても、エルンストが私が診察すればいいのだ。何故彼は魔道具を取り出してまで、ほかの医者を呼ぼうとしているのか? 意味がわからない。
「待ってください。だ、旦那様が私を診察すれば良いのでは?」
「女性は診察したことがないんだ」
胃腸に男女の違いなんてあるのだろうか? よく分からないが、彼は通信機を手にしたまま部屋の外へと出て行ってしまった。
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