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彼のことはずっと好きだった
しおりを挟む師匠にお使いを頼まれ、私は小さな籠を腕に抱えてとぼとぼと一人で歩いていた。
今日は本当に陽気がよくて、ぽかぽか暖かい。ワンピース一枚で十分過ごせた。
せっかく天気が良いのだから外に出なさいと師匠に言われたが、心がどんよりしたままの自分には、春を象徴する柔らかな花々の香りもさんさんと降り注ぐ日の光も刺激が強い。
まわりは生気に満ちているのに、自分だけが取り残されたように沈んでいる気がして、ますます気が滅入ってしまった。
さっきから深いため息が止まらない。
花粉症でもないのに、ぐすりと鼻を鳴らす。
エクトルに一方的に失恋してからもう一月になるというのに、ちっとも立ち直れない。
もうそろそろ、軍の内示に出るだろうか。
クローデットとエクトルの婚約が。
もしかしたら、二人は婚約をすっとばして結婚するかもしれない。
思えばクローデットの姿は一月前のあの日からずっと見かけていない。同じ魔導師とはいえ、彼女は内勤者で私は魔物の討伐部隊に所属している。役割が違うので顔を合わせないことも別に珍しくないのだが、結婚が決まったからこそクローデットの姿を見ないのではないか。
嫌な考えがぐるぐる頭の中をかけめぐる。
エクトルのことは、多分彼と出会ってからずっと好きだった。長らく自覚はなかったけど、その期間は四年にもなる。
一月やそこらで忘れようとしても無理だ。
また涙があふれそうになり、急いで首を振る。
誰かに泣いてるところを見られてないか不安になり、あたりを見回すと、ふと前方のベンチに大きな黒い塊があるのが見えた。
──あれは?
柔らかな風になびく黒い短髪に、かっちりとした黒い軍服。
見覚えのある後ろ姿に、胸がどくりと跳ねる。
エクトルだった。
向こうは俯いていて、こちらには気がついていないようだ。
それに何だか顔色も悪い。
無視をして通り過ぎようとも思ったが、もしも具合が悪くてベンチに座っているのだとしたら。
放ってはおけない。
私はふんと息をはき、胸をおさえ、心臓の音が聞こえそうなほどドキドキしながら、約一月ぶりにエクトルに声をかけた。
「え、エクトル……? こんなところでどうしたの? 具合でも悪いの?」
がっくりと落ちていた──エクトルのたくましい肩がびくりと動く。彼はハッと形の良い顎をあげ、私の方へすごい勢いでくるりと振り向いた。
いつも健康的だったエクトルの目の下は、墨を塗ったように黒い。
やはり具合が悪かったのか。
回復の術でもかけようと彼の頭の上に手をかざした瞬間、むんずと手首を掴まれた。
「ソフィア‼︎」
「えっっ」
「会いたかった‼︎ やっと会えた~~‼︎」
腕をぐっと引かれて体勢が崩れる。あっと思った時には、私はエクトルに抱きつかれていた。
私の胸の、すぐ下に彼の顔がある状態。
エクトルは私の胃のあたりにすりすりと鼻と頬を寄せている。
その光景に、かかかーっと顔が熱くなる。
「なっ、なっ……⁉︎」
「あ~~、久しぶりのソフィアは柔らかいな! 良い匂いもする……」
「こんなところでやめてよ!」
約四年もの付き合い。エクトルへの恋愛感情を自覚したのはつい最近だが、なんというか大きな声ではけして言えないが……。
誰にも言えないが、今まで私たちの間にはそれなりに色々なことがあった。
少なくとも。
久しぶりに逢って、いきなり抱きつかれる事ぐらい、なんて事のない関係には……あった。
二人だけで軽い遭難にあったり、二人だけで任務の打ち上げをして盛り上がってしまい、お酒の勢いで──なんて事は数回、あったのである。
実は……。私たちの関係は、とっくに清らかなものではなくなっている。
若い未婚の男女、まるでとつぜんの事故に遭ったかのように──私たちは肉体関係をもってしまっていた。
お互いばりばりの軍属者。軍医の処置でがっつり避妊魔法や防病魔法がかけられていたので、子どもが出来る心配が一切なかったことも、性病にかかる心配もなかったことも、性的な衝動に歯止めが掛からなかった原因かもしれない。
身体の関係はばっちりあったくせに、恋心を自覚してなかった自分は一体どれだけ鈍いのか。どれだけ貞操観念がゆるいのか。
その反動からなのか──エクトルへの気持ちを自覚してからは、毎晩のように身体が疼いて仕方がなかった。
ベッドの上で自分にしたような事をクローデットにもするのかと思い、ふと彼からされた行為を思い出しては嫉妬で狂いそうになった。
だから、私はエクトルに逢いたくなかったのだ。
遭遇したら最後。結婚が決まったであろう彼に、感情が昂るまま、最低なことを言ったりしてしまうことを恐れたのだ。
結婚が決まったエクトルはこのまま軍を退役する可能性が高い。
初恋が叶わないのなら、せめて綺麗に終わらせたい。それが私の願いだった。
「ソフィアはずっと俺を避けてただろ? 原因が色々思い当たりすぎて何から謝っていいか分からないけど……」
「べ、べつに避けてないわよ! とりあえず、気安く人の身体に触るのはやめてくれる? ……殴るわよ」
エクトルの手がお尻に伸びそうになり、げんこつを見せたらあっさり引いてくれた。が、彼の口は止まらない。
「最後にした時、あまりにもソフィアが可愛すぎて自分本位にしてしまったから……!」
「違っ……! もうっ! 昼間っから何言ってるのよ!」
軍の任務は命がけのものが多く、常に危険と隣あわせ。人間、命のやりとりをすると致したくなるのは仕方がない。そう思って、恋心をろくに自覚しないまま求められるがまま、エクトルと何度か肉体関係を持ってしまったことに今は少しだけ──いや、だいぶ後悔している。
お互い同意の元で、粘膜を刺激し合っただけ。その時は気持ちよかったし、それで私は満足していたはずなのに。
今はエクトルに『あの行為は何だったの?』と問い詰めたくて仕方がなかった。あの行為はどれも性処理のためで、特に何か特別な感情があったわけではないと百も承知なのに。
恋心を自覚した私は浅ましくなってしまった。
「ごめんごめん。とにかくソフィアに逢えてよかったよ。君に話したいことがたくさんあるんだ」
ベンチの隣に座るよう促されるが、私は首を横に振った。
「私には無いわ」
わざわざクローデットとの結婚の報告なんかされたくなかった。身体の関係を抜きにしても、私たちはそれなりに仲の良い同僚だった。結婚を直接報告されてもおかしくないだろうが、報告されたらおめでとうと言わなきゃいけない。
「レイラーニ閣下から聞いたのか? やはりダメなのか? 俺では……」
私が何も聞きたく無いと言わんばかりに毅然と断ると、エクトルはまたしょんぼり肩を落とす。
師匠の名がいきなり出、首を傾げる。
それにやはりダメとはどういう意味だろうか?
「何の話? 私はお師匠様から何も聞いてないわ」
「お? そうなのか? じゃあ何でソフィアは怒ってるんだ?」
「べつに怒ってないわよ」
あえて言うならば、自分に怒っている。
恋心をろくに自覚しないまま、流れと勢いだけでエクトルと何度も身体を繋げてしまったこと。
クローデットから求婚されたエクトルを見て、体調を崩すぐらいショックを受けたこと。
好きな相手を他の誰かに取られてしまうまで、自分の気持ちに気がつかない鈍さ。
初恋を綺麗に終わらせたくて、エクトルを露骨に避ける弱さ。
いざエクトルと会ってイライラしている自分。
……そのすべてに怒っていた。
「ごめんなさい。お師匠様からお使いを頼まれているの。もう行くわ。……話はお師匠様から聞くから」
「ソフィア、まってくれ! また俺を避けるのか? 駄目なところは直すから、別れるのは勘弁してほしい!」
──別れる?
エクトルの言葉に踵を返そうとした脚がとまる。
何故、彼はそんなことを言うのだろう。
まるで私たちが付き合っていたみたいじゃないか。
「エクトル、私たちは別に付き合っていないわ。ただの軍の同僚でしょう?」
「……は? つ、付き合ってない? あんなことやこんなことをしたのに?」
この後、私たちの間で盛大な認識違いがあったことが発覚したのは言うまでもない。
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