95 / 97
95 それから……
しおりを挟む高句麗国首都、平壌城。
その山城のてっぺんに建てられた見張り用展望室の窓の前に立って、嬰陽王は眼下に広がる街の様子を静かに見下ろしていた。
来護児率いる隋の水軍兵士たちによって思うがままに蹂躙され破壊された街だが、隋軍完全撤退の後には急速に復興が進み、いまではもう侵攻前の八割は回復していた。
人々が笑いざわめき、互いに助け協力しながら力を合わせて街を立て直している様子を目にしていると、嬰陽王はその口元に自然と笑みが浮かんで来るのが分かった。
乙支文徳の策に従い、街の住民たちは兵士たちが攻めてくる前に全員山城の中にと避難させた。そのため街は破壊されたものの、一般住民の中に被害者は出なかったのだ。
街の住民を山城の中に入れることについては重臣たちの中から反対意見も出なかった訳ではない。平壌城の山城は高句麗政府の中でも最も身分の高い高貴な者たちのためのものであり、一般の平民なんぞを入れてやる謂れはない、という理屈である。
だが嬰陽王は反対意見を押し切って、住民全員を山城の中にと入れた。当時は国王の横暴だ独断だと非難する重臣たちも数多くいたが、目の前に広がっているこの光景を見ればその決断の正しさは証明されるだろうと嬰陽王は思う。
市民たちを全員山城に避難させたことで、高句麗の王や政府は市民たちを守るために全力を尽くすのだという姿勢が広くアピールされた。そのため彼らは不自由な避難生活にも文句一つ言うことなく耐え抜き、戦いが終わった後は希望に胸を膨らませながら、復興事業に力を尽くしてくれているのだから。
そんなことを思っていると、誰かがバタバタと階段を駆け上がってくるような音が聞こえてきて、嬰陽王は首をかしげた。重臣たちが姿の見えない国王を探しにやってきたのだろうか? それにしてはなんとも賑やかでせわしない足音だが……。
「あ、兄上? なぜこのような所に?」
「陛下!?」
やがて勢いよく部屋の扉が開かれると、二つの足音は嬰陽王のよく見知った少年と少女の姿を取って、その前に現れた。二人とも、この展望室に嬰陽王がいるとは思わなかったらしい。しばしぽかんとしたような表情を浮かべ、さらに少女のほうは慌てたようにその場に平伏した。
「なんだ。騒がしいと思ったら、大陽に高建武じゃないか」
平伏した少女に立つように促しながら、嬰陽王は苦笑を浮かべて言った。
「なぜここにいるとは、ぼくのセリフだね。ここは非常時以外立入禁止だぞ。……まあ、現に僕だって来ている訳だから他人のことは言えないんだけどね」
「はっ。申し訳ありません陛下。でも、あのその。もしかしたら乙支文徳閣下がこちらに来ているんじゃないかと思ったので……」
ゆっくりと立ち上がり、それでも頭だけは深く下げたまま、高建武が恐る恐るといった口ぶりで言った。それを聞いて嬰陽王はピンと片方の眉を跳ね上げる。
「二人とも乙支文徳を探しているのか?」
「はい、兄上。昨晩からずっと姿が見えないので。一体どこに行ったのかなあって、ずっと探していたんです。兄上はもしかしてご存じじゃないですか?」
「え? ああ、うん。ご存じと言えばご存じのような、ご存じじゃないような……」
大陽の問いに、嬰陽王は視線を宙に泳がせながら、曖昧な応えを返した。そのもの言いになにか不自然なものを感じたのか。大陽と高建武は互いに顔を見合わせた後、そろって詰問するように嬰陽王の顔を正面からじっと見つめてきた。嬰陽王はさらにしばらくそっぽを向いて知らんぷりを続けていたが、どうやらごまかせそうもないと察するとふぅとため息をこぼして、観念して口を開いた。
「……しょうがないな。これは実はしばらくの間黙っててくれって言われてたんだけど。乙支文徳は今朝僕の所を訪ねてきて、外国旅行をしてきたいから、当分ヒマをくれって言ってきたんだよ」
「えーーっ!?」×2
嬰陽王のその言葉に、大陽と高建武は同時にそう驚いたような声をあげた。
「隋軍との戦いで心身共にくたびれ切ってしまったから、休憩とリフレッシュを兼ねてしばらくのんびり旅に出たいんだって、有給休暇の申請書を出しながら言ってきた」
「そ、それで、どうしたんですか兄上。まさか許可を出したんじゃないですよね?」
「出したよ」
「そんな! 隋軍の脅威は去ったとは言っても、高句麗はこれから色々大変な時じゃないですか。街の復興はもちろん、焼いてしまった田畑や埋めてしまった井戸の掘り直しとかもありますし。今回の戦争で傷ついたり病気になった人のための施療院も建設しなくちゃいけないし。他にも、やらなくちゃいけないことは山ほどあるって言うのに、軍の最高責任者である乙支文徳が旅に出るって、それは一体どういうことですか!?」
大陽は唾を大量に飛ばしながら、猛抗議をするようにそう声をあげてくる。その迫力に思わずたじたじとなって、嬰陽王は数歩後ろに下がった。
「それは確かにその通りだし。僕も一応はそう言って断ったんだ。だけど乙支文徳の奴、そうしたらなんて言い返したと思う?」
「? なんて言ったんですか?」
「『今回の戦いでおれは一〇〇年分くらい仕事はしたぞ。この上まだ働かせる気か? 過労死したら毎晩枕元に化けて出てやるぞ。呪い殺して地獄送りにしてやる! お逝きなさい!!』だってさ」
「うわー。乙支文徳らしいセリフ」
「だろう? どこの世界に国王に対してそんな暴言を吐く臣下がいるって言うんだか」
やれやれと吐息をこぼしてから、嬰陽王は言葉を続けた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
タイムワープ艦隊2024
山本 双六
SF
太平洋を横断する日本機動部隊。この日本があるのは、大東亜(太平洋)戦争に勝利したことである。そんな日本が勝った理由は、ある機動部隊が来たことであるらしい。人呼んで「神の機動部隊」である。
この世界では、太平洋戦争で日本が勝った世界戦で書いています。(毎回、太平洋戦争系が日本ばかり勝っ世界線ですいません)逆ファイナルカウントダウンと考えてもらえればいいかと思います。只今、続編も同時並行で書いています!お楽しみに!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる