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78 いざ、平壌城へ
しおりを挟む隋軍の本営からなんとか逃げ出して、小舟に乗って鴨緑江南岸の高句麗軍本営に戻ってきた乙支文徳は、それを待っていた高句麗兵士たちから熱烈な歓迎を受けた。
「お帰りなさい、乙支文徳!」
乙支文徳が舟から下りると、無事に帰ってきたことによる安堵のため頬を紅潮させた大陽が、飛びつかんばかりの勢いでまろぶように駆け寄りながら声をかけてくる。
「まったく、ひやひやしましたよ。征虜大将軍自ら敵の本営に乗りこんで様子を探ってくるなんて前代未聞ですからね。果たして無事に帰ってこられるだろうか、もしかしたら隋軍に捕えられて最悪の場合は処刑されてしまうんじゃないかって、気が気じゃなかったです」
「危険は承知の上だよ。それに万一そうなった場合は、その後どのような戦略を用いてどのように戦えばいいのかという方策を、小隊長たちにきちんと授けておいたから。もしもおれが帰ってこなかったとしても、なんとか戦うことは出来たはずさ。多分な」
「策とかそういう問題じゃないんです。乙支文徳はいまや高句麗軍最高の英雄であり、象徴であり、勝利への希望なんですよ!?」
大陽は、呑気な乙支文徳に呆れたと言うように鼻息を荒くし、言葉を続けた。
「もはや乙支文徳は高句麗の軍神であると言っても過言ではないかもしれません。その軍神が隋軍に捕えられたり殺されたりなんてことになったら、どうなると思います? 軍の中のみならず国全体が戦う気力を無くして、高句麗はあっという間に滅んでしまいますよ。いまや乙支文徳は兄上すらしのぐかもしれない高句麗最重要人物なんですから」
「殿下のおっしゃる通りです。閣下のお体はすでに、閣下お一人のものではないのですから。今後はその辺りのことをよくわきまえてどうかご自愛なさりますように。今回のように、単独で敵本営を偵察なさるなどというのはもっての外です」
大陽の言葉に追従するかのように、小隊長クラスの指揮官の一人が重々しげに口を開いた。それを受けて他の兵士たちもそうだそうだと口々に声をあげるので、乙支文徳は肩をすくめる。
「高句麗の軍神ねえ……。そういう過剰な修飾語はおれの趣味じゃないんだけどな」
だが乙支文徳がどう思おうと、兵士たちがいまや乙支文徳に強く心酔し、大きな忠誠と信頼を与えてくれていることは認めざるを得なかった。ありがたいなと思う反面、うんざりする気持ちもないではない。そんな偉い人間に祭り上げられたら今後は仕事をさぼって昼寝をすることも、一人で気楽にその辺りを散歩することも出来ないじゃないか……。
それに、兵士たちの忠誠心が国ではなく個人に向かうのは、あまり良い傾向ではない。民衆や兵士の信頼が厚い軍指導者が国から反乱を起こすのではないかと疑われて、後顧の憂いを絶つために粛清されてしまうというのは結構よく聞く話だし。
……まあ、あの嬰陽王がそのような度量の狭いことをするとは思えないが。しかし佞臣とか奸臣という者はどこの国にもいることだし。そういった連中が、武勲華々しい乙支文徳を妬んで、なにか良からぬことを企むという危険性は充分考えられる。
(でも、いまはそんなことを考えている場合じゃない)
乙支文徳は小さく首を振ってから、そう考え直した。いまは目の前の隋軍をなんとか追い返すことを考えるだけで精一杯。後のことは、後でゆっくり考えればいい。
「それで、乙支文徳。この後は一体どうするんですか? やっぱり遼河の時みたいに、鴨緑江の南岸で待ち伏せをして、渡ってくる隋軍を迎撃するんですか?」
そんな乙支文徳の悩みなど知る由もなく、大陽が無邪気に尋ねてきた。乙支文徳は苦笑を浮かべ、それは駄目だと言葉を紡ぐ。
「残念ながら、同じ戦いかたが二度通用するほど于仲文は甘い相手じゃない。幸い、おれ自ら隋軍の本営に潜入したことで、連中の食料事情が想像以上に悪いことを突き止めることが出来たし。だから最初の予定通り隋軍を可能な限り高句麗の奥深くまで引きこみ、連中が疲労と空腹のピークに達したところを、全力で討ち果たす」
「……そう、うまくいきますか?」
「うまくいくよう、神さまにでも祈っててくれ。おれたち人間は、自分に出来るだけのことを出来る範囲でやるだけのことさ」
ちょっとだけ偉そうに、乙支文徳は語ってみる。
もし駄目だったとしたら、その時はその時であきらめるだけだ。どの道、永遠に続く国家なんぞありはしない。隋や高句麗だっていつかは滅亡の運命から逃れることは出来ないのだから……とはさすがに口には出さず、心の中で呟くだけにとどめておいたが。
「いまぼくたちに出来ることって、一体なんでしょう?」
「そうだな……。まずは隋軍が河川を渡って攻めてくる前に本営を片づけて、平壌城に向けて撤退の準備をすることだ」
大陽の問いに、乙支文徳は腕を組んで少しだけ考えるような素振りを見せたが、すぐにニヤリと笑って言葉を続けた。
「当然、隋軍は追いかけて来るだろう。そうなったら」
「一戦してやっつけるんですね?」
興奮したように瞳を輝かせる大陽と高句麗の将兵たち。そんな彼らに向けて、乙支文徳はゆっくりと首を横に振って見せる。
「いや、やっつけられるんだ」
「……はぁ?」
そう間抜けな声をあげた大陽たちに向けて乙支文徳はいたずらっぽい笑みを浮かべながら一つ、軽くウインクをして見せた。
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